フレデリック・ショパン作曲『英雄ポロネーズ』

「えーっと……どうして?」


 なぜチューバ専攻ではなくピアノ専攻なのか。

 いや、けれど。なぜそんなことを気にしているのか。

 それらを纏めた上での『どうして?』だった。

 縮こまった琴音に、私は優しく問いかける。


「……私、本当に。なんでか分からなくて」

「なにが?」


 言われた通り、琴音の声には困惑が込められている。

 それも、かなり大きい困惑だ。


「日菜子さんが、私を好きになってくれた理由、です」

「一目惚れだよ」


 即答する。

 が、琴音は悲しそうに唇を噛んだ。

 

「で、でも──」


 かと思えば今にも泣きそうな顔で、琴音は目を逸らす。

 琴音が何を言おうとしているのか、なんとなくだが察した。

 昼休みに私は、琴音の好きなところの一つとして『楽器が上手いところ』と答えた。

 だから。楽器が弾けないところを見せてしまって、幻滅されてないかが心配なのかも。と思う。


「その、私は。好きだよ。七瀬さんがピアノであっても、チューバであっても」


 これが私の精一杯の声掛けだった。

 好きな人が苦しそうにしている、というのはどこか心が苦しくなるものだった。

 

「でも、でもでも……。私は……」


 なにか言いたげだ。

 しかし、喉で待機した言葉は唾と共に飲み込まれていた。


「琴音。あの──」

「私は、酷い人なんです」


 心配の声掛けをしようと試みたが、琴音はそれを不要だという風に私の言葉を跳ね除け言った。

 次が出るまで、間髪も入れなかった。

 私は、傾聴する体勢に入る。


「『したいことノート』。見られてしまったとは言え、半強制的にやらせたんです」


「……私はこのノートを『10個目のしたいこと』をする──日菜子さんにさせるために、書き始めました」


「でも。その内容を考えてみれば、私のやっていることは傲慢なんです」


 ここまで言うと、遂に琴音は発言を止めた。

 そして「許してください……」と小さくポツリ。

 何を?と聞こうとするその前に。

 琴音はポケットからスマホを取り出した。

 私はそれを不思議を見つめる目で眺める。

 琴音はスマホを軽く弄った後に、


 ──ダーーーン!!


 音を──ピアノを再生した。

 荒々しい、ミフラットの3オクターヴ。

 すかさず駆け上る半音階は、カサカサと近付く虫の様に気色が悪い。

 しばらく続いたそれが明るくなったかと思うが、いいや違う。

 私にとって言わせて貰えば、これは地獄の踊り。

 『幻想交響曲第五楽章・ワルプルギスの夜の夢』を思わせる、地獄の様な音楽。


 ──フレデリック・ショパン作曲。ポロネーズ第六番変イ長調『英雄』

 通称──『英雄ポロネーズ』


 ポロネーズとはポーランド特有の歌曲・舞曲の一つ。

 四分の三拍子の音楽であり、多くの人がそれを楽しい音楽というのは間違いない。

 それでも。私にとったら、全くそんなわけがなくて。

 左手で刻まれるポロネーズの打音が、心臓を打ち付ける様に響く。


「──な、んで」

 

 震える全身から、私は漸く言葉を出した。

 琴音はその演奏を、スマホの画面を見せずに。

 祈るような、それでいて苦しそうな目付きで私を見ていた。


 私は、この演奏を知っている。

 2018年度のソロコンクール・ピアノ部門で第一位を獲った演奏。

 故に、演奏者さえも知っている。

 私の嫌いな──この世で一番大嫌いな演奏。

 私をピアノ嫌いにさせた、その原因となる演奏。

 

 嫌だ。聞きたくない。

 本当に、なんでこれを琴音が。

 ──いや。琴音も同じくコンクールの管弦打部門に出ていたのだ。知っているのも、おかしくないのかもしれない。

 けれどこの演奏を聴くのは無理だ。本当に、耳を塞ぎたいくらい。

 でも震えた私の体は、命令をしても聞いてくれない。

 私の身体は蝕まれ、心臓の音が耳に届くくらいに大きくなる。

 

 だってこれは──私の──。

 だからだ。


「ごめんなさい──」


 琴音は私に謝っていた。

 しゃっくり混じりの泣き声だった。

 瞬間、不意に身体の力がフッと抜ける。

 傾く景色をぼんやりと眺めながら、私の意識は薄くなり、やがて消えた。

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