天才少女・七瀬琴音 バッハ インヴェンションより第1番

 私は、未だドキドキと心臓を鳴らしながら琴音と歩く。

 一階に降りるかと思ったけれど、辿り着いたのは三階にある練習室の一つ。

 この学校の音楽棟はどうやら一階・三階が練習室の部屋になっているらしく。二階は教授の部屋があるらしい。

 もう三限の時間ではあるが、この三階には様々な楽器の音が混ざり合っていた。

 防音と言っても、意外と防音できていないんだな……と思いつつ。


「えっと……どうしたの?」


 グランドピアノの前に座った琴音に、私は首を傾げた。

 どうでもいいけど、性格からか今日は『えっと』の多様が多い。

 えっと星人にならないように、気を付けないと。


「……えっと。聴いてください」


 琴音もえっと星人だった。という冗談はさて置いて。

 私の問いの答えとしては、微妙に噛み合わない気がした。

 というよりも、私の言葉が聞こえていないようだった。

 どこか違和感を抱き琴音を観察すると、手が震えているのが確認できた。


「こ、琴音、大丈夫?」

「……じゃあ、弾き始めますね」


 またまた聞こえていない様だった。

 まぁいいかと思い、琴音がピアノの蓋を開けるのを私は黙って眺める。

 YAMAHAのそこそこ大きいグランドピアノ。琴音がすっごく小さく見える。

 琴音はいざ弾かん、みたいな体勢を取った時、椅子が高かったらしく椅子を低く調整していた。

 なんだか、娘の発表会を見守る気分である。(娘いない)


 それは置いておく事柄として──そうか。琴音、ピアノ弾けたのか。

 天才少女と言われるくらいだ。ピアノも弾けるのも当然と言える。

 私は基本、ピアノの音はあまり好きじゃない。むしろ嫌い寄りだ。

 だけれど。琴音が弾くピアノなら、聴いても良いかなという気持ちにはなれる。

 にしても何を弾く気なのだろうか。

 もしや、私への愛の曲とか……って妄想しちゃう。

 だとしたら弾いてくれる曲は『I LOVE YOU(尾崎豊)』とかなのでは!?

 いや待て。

 もしそうだとしたら歌詞的に『軋むベッドの上で優しさを持ち寄り、キツく躰を抱きしめ合う』わけが今の私たちにはまず無かったので、それは可能性から払拭した。 

 だがそれでも、私の期待は変わらない。

 疑問の眼差しはいつの間にか期待の眼差しへと変貌し、私は琴音が弾くのを待つ。

 椅子の高さを調整し終えたらしい彼女は、自身の位置をお尻を持ち上げて調整する。

 綺麗でしなやかな──それでいて震えた指を鍵盤の上に配置し、


「すぅ──」

 

 軽い深呼吸を合図として、曲を奏で始めた。

 その曲は、私の期待していたものとはほぼ真逆と言っていいものだった。


 私はこの曲を知っていた。

 大きな分類分けをすると、これはクラシック曲ということになる。

 バッハ、インヴェンション一番。BWV.772。

 ハ長調で始まり、ハ長調で終わる。二つの意味で単調な初心者向けの練習曲だ。

 ピアノを弾き始めた者なら、ほとんどの人が通る道だと思う。

 なぜなら、バッハのインヴェンションはだからだ。

 単調な曲とは言ってみたが、突き詰めると意外にも奥が深いところがあるのかもしれない。

 拍の重要性を認識できる練習曲。だが同時に、それを認識できない人が多い曲でもある。

 弾ける人と弾けない人の差は、そこでつく。

 そして、琴音はと言うと。


「…………」


 お世辞にも、上手いと言える演奏では無かったのは確かだった。

 16分休符の数え方が曖昧であり、コンマでバラバラになっている。

 スラーに関して言っても、同じことが言えるだろう。

 この曲は右手が弾いた後に、少し遅れて左手が同じを動きをすると言う、いわゆる追っかける曲──言わば『かえるのうた・二部合唱バージョン』みたいなものなのだけど、いやしかし。ズレている。色々と。

 と、なんかすっごく偉そうにその演奏を聴いていると、いつの間にか最後に辿り着いていた。

 だけど。ピアノ嫌いな私が聴けたのだから、少し特別な演奏だったのだと思わせる。


 琴音は私の感想を待つ、と言う訳でもなく、むしろ感想を言わせない為なのか。

 すぐに、椅子から立ち上がり私のことを、恥ずかしそうに見遣った。

 

「……私、こんなにピアノが下手なんです」


 下手じゃないよ、とは言えない。言える訳がない。

 あんなにもチューバが上手い琴音だ。

 ピアノに関しても、自分の実力を理解しているに決まっている。

 ここで下手に慰めても、良い気分には到底なれない。

 それは私が知っていることだ。もう、嫌というほどに。


 ──そんなことは今は気にすることではない。

 考えるべきは、琴音が私にそのピアノ演奏を聴かせた理由だ。

 考えられる理由としては、琴音は副科でピアノを取っているのかもしれない。

 だからと言って、なぜそれを私に聴かせるのだろうか。


 何か発言しようと私は口を開くが、けれど何も思い浮かばずに。

 琴音はどこか覚悟を決めたかのように、ごくりと喉を鳴らした。

 俯きがちだった彼女の顔は私を捉え、小さく息を吸うと──。


「──でも」


 琴音はここでまた、言葉を止める。

 そしてまた、言葉を前に進めた。


「この大学には、ピアノで入学したんです」


 言われた刹那、私の周りの時間と音が静止した気がした。


 七瀬琴音──音楽の天才少女。

 2018年度ソロコンクール、管弦打部門第一位。

 大学の試験を、実技以外トップで入学。

 そうだ。なのだ。

 

 『なぜ、高い技術力を誇る琴音が首席じゃなかったのか?』

 

 これのアンサーとしては、充分に納得できるものだった。

 どうやら、信じられないことに。琴音はチューバ専攻ではなく、ピアノ専攻らしかった。

 

 そしてもう一つ、信じられないことに。

 音楽の天才少女と呼ばれる彼女は、ピアノが大の苦手のようだった。


「私は。日菜子さんが思っている程に、凄い人じゃ無いんですよ」


 琴音は悲しく微笑んだ。

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