初めてを始める

 左肩が濡れて、靴も濡れた。さて、次に濡れるのは何でしょうか。

 何でしょうね。私には分かりません。


 なんてことを、風呂場で考えていた。

 と言っても。服はそのままで足のみを洗い流してるだけだ。

 現在琴音には、私の部屋で待機をして貰っている。

 私の部屋で待機をして貰っている。大事なことなので以下略。


「はぁ……」


 しかしまぁ。何故か溜息が漏れる。

 あんなに待ち侘びていた時間の筈なのに。あれ。と、違和感があった。

 もう足は十分に洗い流された筈なのに。あれ。と、身体が動かない。

 ぼーっと見つめる目線の先は、ただ思考のみ。それも、極めてどうでもよい思考だ。

 あぁ。緊張しているんだなと少し遅れて察した。


「いこっか……」


 口に出してしまった手前、もう逃げられない。

 前を見るしか無くなった私は、シャワーを止め脱衣所へ戻る。

 適当に取り出したタオルでさっと拭き取り、ついでに濡れていた衣服を洗濯カゴに投げ入れた。

 履いていた長めのスカートはそのままに、上半身だけを下着にして私は部屋のドアの前に立つ。

 喉を軽く鳴らして。流れ込む唾が口の中から完全に消えた時、私はノブをゆっくりと回した。

 対比するように心臓の鼓動は早かった。これもまぁ、恐ろしいほどに。


「……戻ったよー」


 琴音はベッドに腰を掛けていた。

 電気を付けていない室内は、暗く。琴音の顔も少し影がある。

 こちらに焦点を合わせたかと思えば、身体をまじまじと見つめてきた。


「もう脱いでるの?」


 言われ、私は気付いた。

 下着のみにして部屋に入ったのには、着替えるという意図があったから。だったのだけど。

 あぁそうだ。と。何故、こんな簡単なことを見落としていたのか。と。

 今からすることを考えれば、下着のみにして部屋に入るというのには意味が出るじゃないか。と。

 前を見ようとし過ぎて、足元が全くと言っていいほどに見えていなかった。

 少量の後悔が、私を悩ませる。


「……上だけ着替えようと思いまして」


 どうしようもなく、私はただ。正直に告げた。

 迷ったけれど、これが一番の返答だったのだろうと思う。

 すると琴音は「ふーん」と、興味無さげに、後ろに回した両手をベッドに置き天を仰いだ。


「ちょい着替えてくるね……」


 私は逃げる様に、大きな一歩を踏み出して。

 しかし「待って」と、琴音が私の足を縛り付ける。

 天井を見上げていた琴音は、同様の体勢のまま。顔だけを私に向けて──。


「ねぇ。折角だから、何も着ないで」


 からかう様に。子供の様に、琴音は微笑み。言った。

 「……えっと」言葉が詰まる。詰まる、というか。何も出てこない。

 出てこない。出てこない。だって、その言葉は急すぎる。

 心の準備が出来ていないから。少しも。

 私の口が震え出す。

 景色が遠くなる。

 だが。

 足は動いていた。

 琴音の方へと。一歩一歩。

 琴音の顔が近付いていると思えば、すぐそこだった。

 私は。ただ。分からなくて。琴音の横に腰を下ろした。


「どうしたい?」


 琴音が問うた。優しい声だった。

 あぁ。年上だなぁと、何となしに。


「と。とりあえずは、キスをしましょう……か。と、いう感じです」


 口を開いて、声を出して。思った。

 今日の私はダメだ。色々とダメだ。

 もっと積極的に。琴音と接しようと思っていたのに。

 ダメだ。やっぱり最初は、こういうものなのだろうか。

 やばい。心臓のドキドキがやばい。圧迫されてる様に呼吸が辛い。


「うん」


 視界の左端で、琴音の首が縦に振られる。

 対する私は金縛りされた様に、動かない。動けない。

 でも。動いた。琴音に両頬を支えられて、動かされた。

 視界に映る景色が急変する。ぐーっと背を伸ばした琴音が目の前に。

 反射的に私は少し上半身の力を緩め、琴音の口の位置に合わせた。


「──ん」


 柔らかい感触が、私に触れた。

 私の目は。そのまま開いたままだった。

 家でするキスというのは。どこか背徳的に感じた。

 部屋が暗いせいか、よりその想いが増す。

 実際どうなんだろうと。家でするキスだなんて、道徳的だよね、と。

 練習室でキスをしたりする方が、よっぽど背徳的だろうか。

 それでも。私にとったら、今のこの状況が背徳的だった。


「──っはぁ」


 離れた唇から漏れた当たった息は、とても熱かった。

 私の荒い息を、琴音が正面で受ける。少し申し訳無かった。

 琴音は笑っていた。私の息は邪魔じゃ無いのだろうか。


 それと同時に。私の身体に、違和感が襲う。

 遠回しに言うと、一行目の答えが出ていた。

 その答えは『私の身体』だった。

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