二人の秘密の演目

 何かが私の目に入り込もうとしている。

 瞼が若干痛くて、私は目を開けようと頭を回す。

 私の背中に何か柔らかい感覚があるのに気付いて目を開く。

 天井から私の目を刺激していたのは白い蛍光灯の光。

 私はどうやらベッドに横になっているらしい。

 覚醒しきらない頭を更に回して、どうしてこんな状況になっているのかを思い返す。


 ──そっか。私の演奏を聞いて。


 琴音のスマホから出された音源は、間違いなく私のコンクールの演奏だった。

 なぜ琴音がそれを持っているのかは不明だけど、事実が確かなのは間違いない。

 トラウマが脳を攻撃して、その場に倒れてしまったんだ。

 じゃあここは敎育棟にある保健室……だと思う。

 上の蛍光灯が如何にも保健室という感じだ。

 それなら、琴音は?


「……お、おはようございます」


 そう思った瞬間に、私の左側から声が聞こえてくる。

 頭は段々と覚醒に近付き、やがて完全に今の状況を理解した。

 私はかかっている毛布を除けて、ゆっくりとベッドから上半身を起こす。

 声の聞こえた方を見れば、琴音が椅子に座って私のことを悲しそうに見ていた。


「その。おはよう、琴音」


 どうしてか気まずさがある。

 いや、当然だろうか。

 だって。私は琴音に聞かされた音楽によって倒れたのだから。

 けれどそれは琴音のせいではなく、間違いなく私のせいな訳だけど。

 琴音が私に気まずさを抱いているというのを潜在的に察して、どこか私も気まずくなってしまっているのかもしれない。

 なら声かけをするべきは私だと思う。ので、私は口を開く。


「ここは、保健室だよね?」

「……はい。今は、先生は席を外しているそうで」


「運んでくれたの? ありがと」

「……先生方の力を借りて、ですが」


「……あの。別に気にしなくていいよ。私が倒れたこと」


 これ以上にかけられる言葉といえば、これしか無かった。

 けれど私にとったら、精一杯の慰めのつもりだった。

 でも。弱っていく琴音の顔を見れば、それは間違いだったのかと思わされてしまう。

 

「ごめんなさい……。私、分かっていたのに。こんなことをしてしまって」


 琴音は風船が萎むかの如く、次第に弱る。

 

「……えっと。分かっていたって何を?」

「日菜子さんが。母の事故をきっかけに、ピアノを弾けなくなってしまったこと。……だからそのコンクール音源を聴かせるだなんて、絶対こんなことになってしまうだろうって、分かっていたんです……」


 心臓がドキリと跳ねた。

 しかしこれは、今日何度も発生した高鳴りの様な心臓の跳ね音ではない。

 耳に入った言葉が心臓を刺激し、じわじわと脳髄に広がり私を蝕む。

 分かりやすく言うなら、トラウマの再燃。

 人に言葉にされる事で、こんなにも効果があるのか。と、驚く暇もなく。

 それでも私の心のどこかではそう感じている。


「……それなら、なんで」


 口からポロリと声が漏れ出る。

 気づいた時には、私はそう漏らしていたのだ。

 

「……そう、思いますよね」


 琴音が悲しげに言うと、そこから暫く沈黙が訪れた。


「……」

 

 だがそれも長くは続かない。

 徐々に下がっていた琴音の顔を、無心で見つめていた時に。

 琴音は分かりやすく喉を鳴らし、私を見遣った。

 

「私の、10個目の『したいこと』を、見て欲しいです」


 言葉と声の隅々から、強い決意の様なものを感じる。

 琴音はどこからか、あらかじめ用意していたらしい「したいことノート」を取り出した。かと思えば、後方のページを見開きで見せてくる。

 書かれていた、弾むような文字。

 視線は自然とそれを追う。


『したいこと10個目! あなたにピアノを弾かせたい』


 どうやらそれが、10個目の「したいこと」らしかった。

 「したいこと」と言うより「させたいこと」な気もするけれど。

 いや。今は疑問の方が強い。なぜ私にピアノを?

 分からない。なぜ?


「私に、ピアノを……?」


 疑問をあらわにすると、琴音はこくりと頷いたのちに言葉を続けた。

 

「はい。……私は。日菜子さんのコンクール演奏を見て聴いて、あなたとあなたの音楽に一目惚れをしました。そして、ピアノを始めたんです」


 不意討ちの様な言葉は、とても嬉しいものだった。

 音楽家にとって、自分の演奏に誰かが影響されると言うのは。とても素晴らしくて。

 音楽をしていて良かったと、そう思える瞬間なのだ。

 だって私が今、少しだけそう思わされてしまったのだから。

 

 だがしかし。どうも腑に落ちない。

 腑に落ちていない点と言えば、そう。だって。楓花はそんな話をしていなかった。

 楓花にとって琴音が有名人なら、それくらい知っていてもおかしくない筈だ。

 私たちは同い年なわけで、その情報も今までの何処かで入ってくると思う。

 けど、引っかかりを覚えるべき場所はきっとここじゃない。

 私は頭を振って、続く言葉に耳を傾ける。


「だけど直後ですよ。直後にあんな事件が起こって……。もう日菜子さんの演奏は聴くことが出来ないんだ、と思って。けど、そんな時に試験の際。チューバを背負ったあなたを見ました。……奇跡だって思いました。しかもチューバをしていた、だなんて……」


 刹那の沈黙。

 半拍間を置き、一つの弱々しい呼吸音が響く。


「──だから。欲張ってしまったんです」


 そんな奇跡が起きてしまったのだ。

 確かに。もうそれは、理に適いすぎていると言えるのかもしれない。


「日菜子さんの演奏が聴きたい。どうしても聴きたい。もう弾けない筈なのに、どうしてもどうしても、もう一度、聴きたくて。──そのために。仲良くなろうって思ったんです」


 その仲良くなるための手段が「したいことノート」だった。と。

 つまりはそう言うことなのだと思う。

 私と仲良くなれば、聴かせて貰えるのではないか。と。


「……ほら。私はやっぱり、酷い人なんですよ」


 琴音の顔はゆっくりと本来の形から歪み出す。

 それは正しく悲哀の表情そのものだった。


「今日は。私に、ぎゅーさせてくれてありがとうございました。……けど、どうやら私は。傲慢でした」


 この『ありがとう』は今まで聞いた中で一番最悪なものだった。

 だって。琴音はもう、終わらせようとしている。

 そのためのお礼だった。

 

 私は何を言えばいい?

 ここでどんな声かけをすれば引き止められる?


「あなたに嘘を吐いて。……それでも、強制的に。したいこと10個目をやらせようとしていたのですから」


 分からない。それ以上に怖い。

 せっかく見つけた初恋が、こんな形で離れようとしている。

 その事実が恐ろしい程に怖くて。何かに似ていて。

 ここで離してしまったら。きっと、もう二度と戻ってこないと。私の本能が言っている。

 それを分かっているはずなのに、私の口は恐怖からか震えて。何も出て来やしなかった。


「…………」


 琴音は私からの返事が無いのを確認すると、私に顔を背けて立ち上がった。

 目から飛び出した小さな涙は、床に染み込む。

 無意識に床に視線を移せば、そこには沢山の水滴が落ちていた。


「……日菜子さん。ありがとうございました。私は今日、凄く幸せでした」


 いかにもお別れの言葉らしかった。


 琴音は、自身が傲慢だと言った。

 あぁ。そうだ。琴音は本当に傲慢だ。

 ここまでずっと。私の意見も聞かないで。

 ただ自分で。故意に悪い選択肢ばっかり選び続けて。

 ちょっとだけ。私は怒りを覚えてしまう。


 だっておかしいじゃん。

 琴音はずっと、私の心も自分で勝手に読み取って。

 超能力者でもなんでも無いんだから、それが当たるはずは全く無くて。

 そこまで来ると、私の中に悲しみや恐怖は全く残らず。怒りだけが残る。


 私は琴音の背中を見遣る。

 本当にゆっくり。ゆっくりと歩いている。

 私とお別れしたいなら。なんでここでゆっくり歩いているの?

 すぐにここから駆け出せばいいだけなのに。

 これじゃあまるで。意地っ張りで自己中な子供だ。

 自分が起こした事なのに、誰かが助けてくれるのを待っているような。

 ようなと言うよりも。それなのだ。


 今起きていることの全て、琴音のせいではない。

 むしろ私のせいでこうなっているのだと思う。

 私が抱いている怒りは、私に対する怒りなのかもしれない。

 ここで何も言えずにいる自分が悔しくて。でも、もっと悔しいことがある。

 私が。妙にトラウマを引きずりすぎたことだ。

 それが無ければ。琴音と私は、もっとすんなりと結ばれていたはずだ。

 ……いや。考え直してみれば、結局はそれも分からない。

 バタフライエフェクトで、何かが色々と変わっていたのかもしれない。

 でも。タイムマシーンがあるわけでもなくて、私には今と未来しかない。

 なら。訪れた今を、より良い未来にすることしか。私が今できることは無いのだった。

 

 私の開かずの口の鍵はすんなりと見つかり。そして勢いよく開かれた。


「……私。琴音のこと嫌とか言ってない。……一言も、言ってない!」


 琴音の背中はピクリと反応し、その場に留まった。

 だが。振り向くことはしなかった。

 しかし声は、私に飛んできた。


「……でも。日菜子さんは、倒れました。……私はもう、こうすることでしか、償えない」

「そんなの、償いじゃない……。だって、私は嫌だから」

 

「それでも。私は、あなたに、日菜子さんに沢山のことを、させようとしてて……」

「……それはさ。私、嬉しいから。別にいいじゃん」


 返答はすぐには来なかった。

 沈黙の中で、若干の歯軋りの音が聞こえる。

 両手を見れば、強く締め付けられた握り拳があった。

 

「……それでも。それでも!」


 琴音は私を見た。

 涙をボロボロに零して。

 宙にその透明な液体を踊らせる。


「私は! 私は──!」


 琴音は『こうする以外に無い』と言いたげな顔で、私の目を刺す様に見た。

 真剣な表情に縛り付けられた私の身体は膠着してしまう。

 琴音はもう、私の様子なんて気にすることもなくて。

 振り返ると同時に、その場から駆け出した。


「あ、ちょ──」

 

 ──ピシャン!


 保健室のドアが乱暴な音を立て締められる。

 その音に私は現実に引き戻され、膠着状態が解除される。

 すかさず近くにあったリュックを拾い上げた私は──。


「琴音!」


 無意味に名前を叫び、その場を駆け出した。

 保健室を抜け、琴音が走った方向を追う。

 元々小さい琴音の背中が、もっと小さくなって前に見える。

 教育棟の出口に走る彼女の足は、思った以上に高速に動いていた。


「琴音! 待ってよ!」


 私も負けじと速度を上げる。

 休み時間中であろう学生が、面白がるように私を見ていた。

 だけどもう。今更そんなことを気にする場合でもないし。

 琴音の方がずっと、今の私にとったら重要で。

 やっぱり離れて欲しくないし、離したくなんてない。

 琴音がどう言い訳をしようが、私は、琴音を私の元に引き戻すつもりだ。

 

 そしてもうトラウマは、払拭しよう。

 いつかはこうしないといけないと思っていた。それが今やってきた。

 私がピアノをやめたという行動こそが、何よりも傲慢だったのかもしれない。

 死んだ母さんのことを、軽く見る行為だったのかもしれない。

 いや。きっとそうだ。だってピアノは、母さんがいなければ始めること無かった。

 もう私は大人だ。十八歳になったから、もう成人だ。

 少しだけでも。一歩だけでも前に進もう。

 自分から変えようとしなきゃ自分は変わらない。

 大人になるってきっとこういうことなのだと思う。


 ピアノをまた好きになるのは時間がかかるかもしれない。

 けど。琴音が好きって言ってくれたものを、私も好きになりたい。

 好きな人が好きなものを好きになりたい、って普通のことだと思う。

 そう考えれれば、すぐに好きになれるような気がするものだった。


 「──はぁ。はぁ」

 

 呼吸が荒い。

 中庭を走りながら、沢山の学生とすれ違う。

 後ろに視線が当たるのを感じる。


 琴音は後ろを時たまチラと見ながら、距離が近付いた事を確認するとまた速度を上げた。

 あの小さな身体のどこにあんな体力が……と不思議に思う。

 あ……チューバで鍛えた肺活量のおかげか。

 ──けど。──けど!

 私もチューバなんですよぉ!


「こ。と。ねーー!」


 謎の対抗心が私の足を早めた。

 呼吸を途切れ途切れに名前を呼ぶ。

 遠目からでも、彼女の耳が赤くなるのが見えた。

 ははは。やっぱり私のことが好きなんじゃないか。(自意識◎)

 

 走って走って、辿り着いたのは音楽ホール棟。

 少し離れた距離の琴音は、その中に逃げ込む。

 音楽ホール棟とは、その名の通り音楽ホールがある場所だ。

 演奏会を開いたり、吹奏楽やオケの練習の時に使用するらしい。

 そこそこ大きい練習室があるため、ここを使用する生徒は多い。らしい。

 って。今こんなこと考えている場合なのかって、全くそんなことない。


「……あれ? どこ行った?」


 入口を抜けたところで、私は頭をキョロキョロと回す。

 しかしどこにも琴音の姿は見当たらない。

 影も気配も消えていた。

 どうやら、見失ってしまったらしい。

 ここで逃してしまったら後がないかもしれないのに……。


「あれ? おとみん?」


 そう悩んでいた時。

 どこからか、まだ耳に馴染まない友人の声。

 聞こえてきた方向を辿ると、楓花と藤崎さんがこちらに歩いてきているのが見えた。

 前方の楓花が私に片手で手を振り、後方の藤崎さんは相も変わらず不服そうな目で私を見ている。

 私は縋る様な思いでそこに駆けつけ、唾を飛ばす勢いでこう問うた。


「あのさっ! 琴音のこと見なかった⁉︎」


 楓花は気圧された表情で「琴音?」と首を傾げる。

 その後に「あぁ」と何かを理解したかのような声を上げた。

 

「七瀬さんのこと?」

「そう。探してるの」


「んー。私、見てないなぁ……。桃杏もあと話してたし……」


 楓花は言うと藤崎さんを見ながら「見たー?」と聞く。

 だが。藤崎さんは楓花の問いには答えず、どこか神妙な面持ちで一つ頷いた。

 

「……なるほど」


 先までの睨む様子と打って変わり、何か私を探るような目つきで見てくる。

 何が「なるほど」なのだろうか。

 この人、考えてること読めないからな……。

 今日のお昼とか、あかんべーしてきたし……。

 そもそも分かっていても教えてくれるのだろうか。この人。


「……どうしたの?」


 私の疑問を楓花が代弁してくれる。


「いや。なんでもないよ」


 楓花にそう答えた藤崎さんは、私に視線を移して口を開く。


「その人なら、さっき私たちの横を通り過ぎてホール内に入っていきましたよ」


 と、案外にもすんなりと教えてくださった。

 藤崎さんは言うと、後方のホールの中へと続く一つの扉を指す。

 見た目が多少なりとも豪華なヨーロッパな感じを漂わせる扉。

 まぁどこのホールも。客席へと続く扉はこんなものだと思う。

 

「え! 本当⁉︎ 私、見なかったけどなー」


 驚きの声を上げる楓花。

 「するりと抜けてったからね」と藤崎さんは笑顔で返す。

 私に向けた表情は真顔なので、やはり対応の差はそれなりにあるらしかった。


「えと……。ありがと、教えてくれて」


 それでも教えてくれた事実は変わらない。

 私は素直にお礼の気持ちを伝える。

 こうしてお礼を告げるのは少しだけ照れくさい。

 照れ隠しか思わず頬をポリポリと掻いてしまっていた。

 

「……なんとなく、おとみんさんからは同志の香りがしましたから」 

「同志とは」

 

「さ! 楓花、練習いこ!」

「あれ、無視された」

 

「トランペット二重奏曲の練習しよー!」

「本当に無視されてるんですけど」


 そう言っても無視されっぱなしだった。

 言葉の真意は不明だったが、まぁ今は琴音だ。


「ありがとう! 助かった!」


 私は藤崎さんが指したドアに向かい、駆け出した。

 

「あ。おとみんまたねー」

 

 後ろから聞こえる楓花の声に片手を上げて応答する。

 辿り着いたホールの客席へと続くドアを、私は開く。

 ホール内部の音を外に出させないための作りのドア。

 無論それなりに重い。が、今は軽く感じる。

 ドアを完全に開けた先に広がるのは、闇と光。

 厨二なことを言うけれど、客席側が暗く、舞台上が明るいだけだ。


「──いた」


 舞台の上で、一人の女性──琴音を発見する。

 行き場を無くしたらしく、舞台の上をあたふたと踊っている。

 八方塞がりな仔犬の様で、少し可愛かった。

 どうやら上手かみて下手しもてのドアは閉ざされているようだ。

 しかしこうして舞台上が照らされていると言うことは、今から使用されるのだろうと思う。

 今はそんなことを気にしている暇があるだろうか? 否だ。


 そこからは迷わなかった。

 私はすぐに舞台に上る。

 舞台をコツコツと歩く靴音は、ホール内によく響く。

 琴音はようやく気付いたらしく、肩をビクつかせて私に焦点を合わせてきた。

 どうも焦っている様だった。息もかなり上がっている。

 私から目を離さずに、ジリジリと背後へと踵を向けている。

 今の状況を客観視すれば、これは鬼ごっこで子供を追い込む容赦なき大人の図だろう。

 そうだ。今の私は、容赦する気なんて全くない。

 絶対に琴音を捕まえる。そのつもりだ。


 客席に人はいない。

 舞台上には私たち二人だけ。

 私たち二人の秘密の演目が始まる。


「……琴音」

 

 さっきみたいに説得してもダメだ。

 琴音は逃げ道を探して、そこへと逃げ込む。

 なら全く別の方法を考えなければならない。

 と言っても。やることは、うっすらとだが頭に描いていた。

 

「琴音はさ。自分の傲慢さが嫌なんだよね」


 声量大きな声で琴音のことを縛り付ける。

 動いていた琴音の身体はピタリとその場で動きを止める。

 

「私の事情を知りながら、それをやらせようとしていたこと」

「……そうですよ。……だから、こうするしかないって、言ってるじゃないですか」


「しかも10個もだもんね」

「だから。だから、こうしているんですよ……!」

 

 比較的大きな声が、ホールに木霊する。

 余韻が残り。私は呆気に取られるでもなく、頷く。

 琴音を怯えさせないような、優しい表情で。


「じゃあさ、琴音」

 

 私は背負っていたリュックを、床に下ろした。

 すかさず中から、未使用のノートとペンを取り出す。

 そして。ノートの表紙にペンで書き入れをした。


「これでおあいこってことにしませんか!」


 何をすればいいのか。

 何をどうすれば、琴音は自分に責任を感じないのか。

 私に思いつく方法は、これだけしか無かった。

 でも。きっとこれで良かった。


 言い放った私はノートの表紙をこれみよがしに見せつける。

 『シたいことノート』という、その文字を。

 私は脳内で考えていた、一緒にしたいことの内容を告げる。

 それはもう、この上ないくらい快活に。


「私と一緒に前期の実技試験、一緒に受けてよ! 私がチューバで、琴音がピアノ!」


 これが良くて。これがしたい。

 私たち二人が奏でる音楽は、どれほど素晴らしいものなのだろうかと妄想をする。

 きっと不器用で、ちぐはぐで。それでも、とても楽しい音だと思う。

 月並みだけど、音楽は『音を楽しむ』ものだから。

 一番だと思った。これが。


「……なんで。そう乗せるのが上手いんですか……」


 琴音は悔しそうに涙を零して一つ呟く。

 やがて観念した様に一つ溜息を吐いて、次にはニコッとはにかんだ。

 

「……おあいこにしたいなら。あと9個。考えてください」


 私がその言葉に頷いた時、誰かの怒鳴り声が舞台裏から聞こえた。

 と思えばどこからか、声楽コースの教授らしき人物が出現した。 

 このまま教授陣をも撒いて逃げ出したかったけれど。

 もう私たちの体力は限界だったので、その場で二人仲良く怒られた。

 けど。隣に琴音がいるお陰か、なぜか気分は悪くない。

 むしろよかった。


 私たちは舞台から下りる。

 今から授業でここを使うらしい。

 二人の秘密の演目は、ここで幕を閉じた。

 聞こえないはずの拍手を、なぜか耳で聞いていた。


 やはり。というべきか、私は思う。

 自分の才能に従いすぎて、やりたいことを見失うのはつまらない。

 才能っていうのは、美しくて何も不足がない、整えられた完璧な箱庭だ。

 箱庭の外には何があるのか、それを見るのは全てが新鮮で楽しくて。

 そしていつしか、私でいうところのチューバの様に。何か素晴らしいものが見つかる。

 だから。箱庭の外に出るというのは、怖いけれど。怖いのは一瞬なのだと思う。

 だって箱庭の外は広くて、意外にも綺麗な景色が広がっているのだから。


 と、ここで締めるのはとても気持ちいいが、一つ言い忘れていたことがある。

 私は、チューバ以外にもう一つ──否、もう一人、見つけた。

 琴音という名の、私の初恋を。

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