その変化は、気づかぬ内に――

 尚希が笑ったその瞬間、自分でも驚くほどに安堵したのを覚えている。

 自分を暴走させようとしていた激情が瞬く間に静まっていくのを感じて、認めたくはなかったが、来てよかったと思ってしまった。



 本当は、気持ちが落ち着いたらすぐにでも国に帰るつもりだった。

 しかし尚希はそれを引き止め、どういう細工をしたのか、自分を学校という異空間に放り込んだ。



 尚希いわく、ちょっとしたリフレッシュということらしい。

 いつになく強く主張した尚希に押されて不承不承従ったのが、全てが変わる原因だったのだろう。



 実との出会いを初め、大変なことは色々とあった。

 結局国には逃亡者と見なされ、実を助けようとしたおかげで反逆者とも思われてしまったはずだ。



 もう、自分が思い描いていたような復讐はできない。



 実と出会った当初は、尚希に従って地球にとどまったことを少し後悔したものだ。

 しかし歪んだ感情はすぐに方向性を変え、実を助けて国の邪魔をしてやることも、ある種の復讐になるんじゃないかと考えた。



 もちろん、実のことを心配した気持ちも本当だ。

 けれどあの時は、実を助けようと思うのと同じくらい、自分の復讐心が行き場を失くすのが怖かった。

 こんなこと、今さら実には言えないけれど。



 しかし地球で過ごしてきた日々の中で、自分は自分でも意識しない内に変わっていたようだ。



 ここでの生活は、後悔や憎悪を薄れさせてくれるくらい、充実していて楽しかったのだ。

 その楽しさは、いつの間にか黒い感情を完全に忘れさせていた。



 今思い出しても、復讐心が勢力を取り戻さないのだから笑える。

 もしかしたら、もうどうでもいいと思っているのかもしれない。

 国を許せないという気持ちはあるが、ここで生活している限り、それは常に思うことではない。



 きっと自分は、憎悪や殺意、アズバドルにいる時のしがらみから解放されて自由に過ごせるこの世界が、思いのほか気に入っているのだろう。



 なんだか複雑だ。

 自分を支えるのはこの憎悪だけだと思っていたのに、随分とあっけなく落ち着いてしまった。

 そんな自分の単純さに、なんとも表現しがたい気持ちになった。



 だが、その複雑な気持ちはすぐに霧散する。



 ごく自然に息を吸った瞬間、気道に何かが引っかかった。

 肺と喉はその違和感を払拭しようとし、発作的な咳に見舞われる。



 ごぼ、と喉の奥から何かがせり上がり、次いで口の中に鉄くさい味が広がった。

 それの香りが鼻から抜ける。



 口元を押さえた手のひらに濡れた感触がして、拓也はその手をゆっくりと離した。



 視界に飛び込んできたのは、燃えるように鮮やかな赤。

 それを見る拓也の顔からは、とうに笑顔は消え去っている。



 こうしてベッドから起き上がって窓の外を見ているが、本当ならあまり動かない方が賢明といえた。



 動けばその分、魔法の反動がこの身を侵す。

 こうしている間にも、魔法の反動はこの命を食らっているのだ。



 禁忌の魔法とされる術の対価には、その術者の命が必要となるものが多い。

 ましてや人の命を天命に逆らって繋ぎ止めるのであれば、それ以上の対価を求められるかもしれない。



 自分が助かるには、久美子にかけた禁忌の魔法を解除しなければならない。



 拓也は、己の血で汚れた手をぐっと握った。

 頭の中に思い出されるのは、久美子の言葉。





 魔法を解除することはできない――― 今は、まだ。





 拓也は快晴の青空を見上げる。



 拓也は待っていた。

 この状況を打破できる、唯一の人物を。



 現れる保証は一切ない。

 自分が勝手に期待して待っているだけだ。

 それでも引けない想いがあった。



 そして、気がかりはもう一つ……



「尚希。」



 拓也は窓から振り返り、椅子に腰かけている尚希に声をかけた。



「なんだ?」



 普段と変わらない調子で答える尚希だったが、その声とは対照的に、彼は明らかな憔悴しょうすいを見せていた。

 顔色もあまりよくないし、こちらが話しかけない限りは一切しゃべらない。

 いつもなら出てきそうな説教の一つや二つもない。

 かなり疲れていることは一目瞭然だ。



 その原因が自分にあることは自覚している。

 しかし分かってはいても、もう少し意地を張らせてもらうつもりだ。

 本当に申し訳ないとは思うが。



 尚希は拓也をまっすぐに見つめて、言葉の続きを待っている。

 拓也は自分の胸に手を当てて、尚希に問うた。



「実のことだけど……」



 それを聞いた尚希の表情が、かげりを帯びた。


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