癒せない傷を負った日

 久しぶりに、この地を踏んだ。

 拓也は、靴底に感じる芝生の感触を噛み締めた。



 目の前に広がる草原の向こうには、自分の家が見える。

 拓也は近くの木の幹に手を添えて、その小さな家をじっと見つめた。



 帰ってきたのだ。



 しかし拓也は、この状況を手放しでは喜べなかった。

 原因は、自分のすぐ後ろにある。



 そこには、一人の男性が。

 ここまで自分を送ってきた人間。

 そして帰るまで行動を共にする、いわば見張りだ。



 帰りまで彼が一緒にいることに不満はない。

 事前に、エリオスから事情を聞いていたからだ。



 最初のあからさまに反抗的な態度のせいで、やはり少なからず、自分は大人たちに警戒されている。

 逃げ出す可能性も否めず、魔法で送るついでの見張りをつけることを条件に、今回の帰省が許されたのだそうだ。



 一人で移動魔法が使えるようになった後ではさらに警戒され、今よりもっと行動に制限をかけられてしまう。

 それこそ、帰省もできないかもしれない。



『本当は一人で行かせてあげたかったけれど…。ごめんね。』



 ここに戻ってくる寸前、エリオスにそう謝られた。



 仕方ないと思う。

 自分の行動が招いた結果なのだから、文句は言えない。

 帰れただけでもまだマシだろう。



 拓也は広い草原を、一歩一歩踏み締めるように歩く。

 家まであと十数メートルくらいのところで、家の前で白いものが動いた。



 ピクリと耳を震わせ、拓也を見つけたそれは、弾かれたように立ち上がって駆け出した。



「ベス!!」



 飛び込んできたベスを強く抱き締める。



 〝知恵の園〟の人間がいる手前、できるだけ平静を装おうと思っていたが、ベスの姿を見た瞬間にその意地は瓦解してしまった。



 ベスは吠えながら、拓也の顔を舐めまくる。

 そんなべスとじゃれつきながら、拓也は笑った。



「ベス、久しぶり。お前、ちょっと小さくなった? ……違うか。おれが大きくなったんだな、きっと。」



 嬉しそうに頬を寄せるベスの背をなでていると、ベスの吠える声を聞いたのか、家のドアが開いた。



「ベス? 何騒いで……―――!?」



 出てきたのは父だった。

 こちらを見た父は、驚愕に目を見開く。



「父さん!!」

「ティル!!」



 たまらず駆け出した。



 涙が出た。

 たかだか十数メートルなのに、それが果てしなく長い距離に感じる。



 走って走って、両手を広げた父の胸に勢いよく飛び込んだ。

 すると、痛いほどに抱き締められる。



「この……馬鹿息子…っ」

「ごめんなさい…っ」



 涙の滲む父の声が嬉しくてたまらなくて、拓也はその胸にすがりついて泣いた。



 よかった。

 ちゃんと生きていた。

 その事実を自分の目で見られたことが、何よりも嬉しかった。



「父さんたちを助けるために……ごめんね。つらかっただろう?」

「うん…」



 何度も確かめるように抱き締めてくる父に、拓也もまた何度もその胸に顔をうずめる。



「あ! ねえみんな、ティルだよ!」



 たまたま通りがかった近所の子供が声をあげる。

 それで、周辺の家からどんどん人が出てきた。



「なんだって!?」

「ああ、ほんとだ!」

「ティルが帰ってきた!」



 小さな村だ。

 村人の全員が知り合いといっても過言ではない。

 瞬く間に人々に囲まれて、拓也は揉みくちゃにされた。



 同年代の友達に、近所のおばさんやおじさん。

 みんなが笑顔で、自分の帰りを喜んでくれた。



 それも一通り落ち着いた頃、拓也は父を見上げる。



「父さん。母さんは?」



 何気なく訊いただけだった。

 しかしその瞬間、父の表情が凍った。



 父だけではない。

 自分を取り巻いていた全員の表情が、どこか気まずそうに曇ってしまう。



「……会わせてあげなさいよ。」

「そうだよ。奥さんも喜ぶよ。」



 父に言ったのは、隣とお向かいの家のおばさんたちだ。



「え、ええ……そうですね。ティル、おいで。」



 父は自分の手を引いて歩き出す。



 胸の中に、どろりと不安が渦巻いた。



 この先に行ってはいけない。

 そんな気がして、足が進もうとしなかった。



「父さん……母さん、どうしたの?」



 聞きたくないと思いながらも聞かないわけにもいかず、おそるおそる父に訊ねる。

 父は一度口ごもったが、一つ息を吐くとその重い口を開いた。



「お母さんは……病気で寝たきりだ。」

「え…?」

「ティルがいなくなった後に倒れて……それ以来、ずっとよくならない。」



 父が家のドアを開けた。



 入ってすぐの台所とリビング。

 その向こうの寝室に繋がるドア。



 そのドアを、父は控えめに開ける。



「―――っ」



 呼吸を忘れた。



 三つ並んで据えられたベッドの一番奥。

 そこに、横になって動かない母の姿があった。



 昔よりずっとやつれて、青白くなった顔。

 瞳はぴったりと閉じられていて、一瞬、母が生きているのかすら疑った。



 父に連れられ、ベッド際に近寄る。



「……母さん?」



 呼びかけてみるが、それに母は全く答えない。

 父が母の肩に手を置いた。



「お母さん。ティルが帰ってきてくれたよ。少し起きよう?」



 優しく肩を揺さぶって、父は静かに語りかけた。

 不安げに見つめる拓也の傍で、長い時間をかけた末に、彼女の目がわずかに開く。



「母さん? 母さん?」



 毛布の上に出されていた母の手に自分の手を重ねて、何度も呼びかけた。

 その声は、情けないほどに震えている。



 母の目はしばらく天井を見上げていたが、根気よく声をかけていると、ようやくその目がこちらを向いた。

 見開かれる、生気のない瞳。



「……ティル?」



 か細い声に、拓也は何度も頷いた。



 自分はちゃんとここにいる。

 そう訴えるようにぎゅっと手を握ると、母は寝たきりだったと思えないほどの素早い動きで身を起こした。



 そして痩せこけて骨ばった手で、こちらの顔や体を触ってくる。



「本当に……ティル?」



 涙を浮かべて問う彼女に、拓也は再び頷く。



「ティル…っ」



 華奢きゃしゃというにはあまりにも痩せすぎた体で、彼女は拓也を抱き締めた。



 力はあまり入っていない。

 それでも、確かに感じられる温もりが拓也を安心させた。



「ティル……ああ、ティル…っ」



 彼女の涙が拓也の頬に落ちる。

 父が母ごと自分を抱き締めて、感極まった様子で目を閉じる。



 ようやくまた、家族が全員揃ったのだ。

 それはあまりに幸せなことで、嬉しさに胸が潰れそうだった。

 皆で、この幸せを噛み締めていた。



 彼女がふう、と大きく息を吐く。

 次の瞬間。





 ――――― ぱたり、と。





 その体から、力の全てが抜けた。



「………え?」



 父と自分の声が見事に重なる。

 そんな自分たちの前で、母の体は糸が切れた操り人形のごとくベッドに落ちる。



 寝室に凍った沈黙が落ちた。

 倒れた母は、一切の動きを止めていた。



 本来なら呼吸で上下するはずの胸も――― 動いていない。



「母さん!!」



 慌ててその体に触れる。

 しかし。





 ――― 母はその後、二度と目を開くことはなかった。





 その後、村で唯一の医者が家に来て、母の死亡を確認した。

 本当は、いつ死んでもおかしくなかったらしい。



 きっと最期に一目だけでも我が子に会いたくて、ぎりぎりで生き長らえて、拓也が来るのを待っていたんだろうと、その医者は悲しそうに目を伏せた。



 突然の母の死に、村の人間は皆涙を流した。

 しかし覚悟はできていたようで、その後の行動は驚くほど早かった。



 ただ一人、何も知らなかった拓也を置いて。



 拓也が今日限りしかいられないということで、葬儀は異例の早さで行われた。

 棺に納められた母の遺体に、みんなが色んなものを供えて別れの言葉を告げた。



 最後に拓也が母親の棺に手を置くと、長い葬儀の中で体温をほとんど失った、冷たい体の感触があった。

 それが否応なしに、母の死を拓也に思い知らせた。



 村の皆に見送られて母が土の中に埋められていくのを、拓也は感情の抜け落ちた目で見送るしかなかった。



 嵐のように唐突に襲ってきて、過ぎ去っていった母親の死。

 それは、拓也に泣くことをも許さなかった……


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