禁忌
マンションの一室。
重たい鉄製のドアを開けた時、尚希はふと違和感を持った。
室内の明かりが、一切灯っていなかったのだ。
玄関の電気を点けると、二回ほど電気が点滅して、オレンジ色の柔らかい光が玄関を照らす。
照明に照らされた玄関には、見慣れた靴が隅の方に置いてある。
拓也の靴だ。
帰ってきていないわけではないらしい。
「拓也?」
呼びかけるが、応答はなかった。
(寝てるのか…?)
まさか。
即座に否定する。
普段は十二時すぎに床に着く拓也が、まだ九時前だというのに眠っているなんて。
(でも今日はテストだったから、疲れて眠ってるのかもな。)
それならまだ、納得ができる。
尚希は今押したスイッチの下にある、もう一つのスイッチを押した。
すると今度は、廊下の蛍光灯が明るく光る。
靴を脱いで、冷えきったフローリングの床に足を下ろした。
靴下越しに、ひんやりとした感触。
廊下の突き当たりは、リビングと台所へ続く扉。
廊下の右側には、洗面台や脱衣所などがある。
そして左側には、今は閉じられた扉が二つ。
奥が自分の部屋。
手前が拓也の部屋になっている。
尚希は拓也の部屋の前で止まる。
じっと見据えて、ノック。
「拓也? 寝てるのか?」
「………」
返事は、ない。
いやもちろん、眠っているなら返事がなくて当然なのだ。
でも、何故だろう。
―――ひどく、胸がざわつく。
昨日の出来事。
今日の出来事。
それらが脳裏によみがえって、嫌な想像ばかりが膨らんでいく。
「拓也?」
呼びかける。
「………」
返ってくるのは、ただ空虚な沈黙ばかり。
もやもやとした不安が、思考と心を満たしていく。
普段ならあまり気にしないこの沈黙が、今はとても苦しかった。
そっと、手を動かす。
スロー再生のようにゆっくりと動く手は、時々
ぐるり、と。
それを回す。
手応えはなかった。
鍵はかかっていない。
「………」
「………」
緊張に支配された沈黙と、夜の空気に溶けるかのような、ドア一枚向こうの沈黙。
異なる二つの沈黙が、尚希の不安をさらに掻き立てる。
心臓が早鐘を打っていた。
確認するだけだ。
このドアを開いて、ベッドの拓也が穏やかな寝息を立てているのを、この目で見ればいい。
そうすれば安心する。
必死にそう言い聞かせるのに、気持ちは緊張と不安に
「………」
沈黙は、尚希をどんどん追い詰める。
ドアを、押した。
わずかに開いたドアの隙間からは、やはり闇しか見えない。
もう少し。
もどかしく感じるほどゆっくり、ドアを開けていく。
もう少し。
もう少し……
早くなる鼓動と呼吸の音を耳いっぱいに聞きながら、さらにドアを開いて―――
暗闇の中に放り出された拓也の腕が、見えた。
「―――っ!?」
勢いよくドアを開く。
ドアのすぐ側にある電気のスイッチに手を伸ばした。
白い光に照らされる室内。
その中を確認した瞬間、体中の細胞という細胞が音を立てて凍りついた。
拓也が部屋の中で倒れている。
ぐったりと、両の手を力なく投げ出して。
そして―――
その手と口元、そして床を真っ赤に濡らして。
「拓也!!」
弾かれたように拓也に駆け寄って、その体を抱き上げる。
拓也の顔は明らかに生気を失っていて、後ろに落ちた髪の先から、真紅の血がぽたぽたと雫を落としていた。
「―――っ」
混乱する思考。
今すぐにでも叫び出したい気分だった。
それでもなんとか理性を繋ぎ止め、尚希は震える手で携帯電話を取った。
実の番号を呼び出し、通話ボタンを押す。
これまでに、電話の呼び出し音がここまで長く感じたことはない。
気が遠くなりそうな長い呼び出し音が途切れた瞬間、尚希は抑えていた激情が決壊したかのように叫んでいた。
「実!! すぐ来てくれ! 緊急事態だ! ティルが……ティルが!!」
向こうから息を飲む気配が伝わったと思ったら、ぶつりと電話が切れた。
そのすぐ後。
「尚希さん!!」
部屋のドアを乱暴に開ける音が響く。
異常なほど早い到着。
魔法ですぐに飛んできてくれたのだ。
部屋に飛び込んできた実が、部屋の状況を見て息をつまらせる。
「これは…っ」
実は尚希の向かいに膝をついた。
気を失っている拓也は、浅い微かな呼吸を繰り返すだけだ。
「拓也……おい、拓也! しっかりしろ!!」
呼びかける勢いで拓也の肩に触れて、実はそこから感じ取れた異変に瞠目した。
急に顔色を変えた実に、尚希は半狂乱で訊ねる。
「実? ……どうしたんだよ!?」
「落ち着いてください!!」
実は一喝する。
「これは、かなりまずいですよ。体の中で、術の反動が荒れ狂ってます。このままだと、命を落とすのは時間の問題です。」
低いトーンで、実は恐ろしいことを口にする。
半狂乱だった尚希の表情が、その言葉をきっかけに感情を失う。
蒼白な顔。
彼にも、こちらの言いたいことが分かったのだ。
「まさか……ティルは……」
茫然と呟く尚希。
言いたくない。
冗談だと笑ってやりたい。
でも、言わなければならない。
実は深く頷いた。
「拓也は―――禁忌を犯した可能性が高いです。」
拓也に触れて悟った事実を、重々しく告げる。
「そんな……」
尚希が苦しげに
「う…」
「!?」
下から微かな声がして、実と尚希は慌てて拓也を見下ろす。
「拓也!」
呼びかけると、拓也の目がうっすらと開いた。
「ティル……なんでこんなことを…っ」
尚希が震える声で言う。
言葉は理解できているのか、拓也の口が微かに動いた。
「…………だめ、だったんだ……」
覇気のない、今にも途切れてしまいそうな声。
実と尚希は、必死に耳を澄ます。
「あの人が……死ぬところを、見ていられなかった。……二度も、同じ死に顔を見たくなかった。耐えられない……」
拓也の表情が歪む。
それは今にも泣きそうな、心底つらそうな表情。
思い詰めて、思い詰めて、心が限界まで追い詰められてしまった。
そんな経緯を切実に訴えるような表情だった。
(二度も?)
実は眉を寄せる。
そんな実の前で、拓也は両手で顔を覆った。
「あの死に顔を……―――母さんと同じ顔の死に顔なんて、耐えられなかったんだよ!! ぐ…っ」
叫んだ拍子に咳き込む拓也。
口を押さえた手の指の隙間から、新たに吐き出された鮮血が筋を作る。
それに尚希が焦って、拓也の背をさすった。
「―――っ」
拓也の言葉を受けて、息を飲む実。
(そういうことか…っ)
実は尚希の背後をキッと睨む。
そこには、あの影がより明瞭な姿で浮かんでいた。
拓也の最近の行動。
そして今の言葉。
これらを総合的に考えれば、自ずと答えは出る。
あの死神が拓也に
それは、あのクリスマスの事故だ。
より正確に言うのなら、事故に巻き込まれた拓也が病院で例の患者に会うことが、彼にとっての死のきっかけだったのだ。
きっと、あの死神には分かっていた。
拓也が何度も会いに行っていた患者に、死が近いことを。
もう、時間がほとんど残されていないことを。
甘かった。
あの死神は全て分かっていて、あえてこちらにゲームを持ちかけたのだ。
(くそ…っ。何もかも、あいつの思いどおりかよ!)
実は舌打ちをする。
このままでは、何もできずに終わる。
ゆらゆらと揺れる影がこちらをせせら笑っているように感じて、怒りとも悔しさともつかない感情がカッと広がって、頭に血が
タイムリミットは、拓也が死んで死神がその魂を狩るまで。
(くそ、どうすれば…っ!)
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