病院での邂逅

 事故発生から、約三十分。

 急行した救急車の一台によって、拓也は病院に運ばれることになった。



 出血量が割と多かったようで、救急車内で眩暈めまいなどはないかと、救急隊員に慌てたように訊ねられ、困惑したのをよく覚えている。



 大したことはないだろうと思っていたが、地球ではこの程度の怪我で十分重傷と言えるらしい。



 病院から保護者を呼ぶようにと言われ、仕方なく尚希に電話をかけた。



 尚希はすでに、テレビの速報で事故のことを知っていた。



 だが、さすがに自分が被害者の中に入っているとは思っていなかったようで、こちらが事情を話すと「はあっ!?」と素っ頓狂な声をあげた。



 まあ、無理もない反応か。



 さて、尚希が迎えに来るまで、あと三十分ばかりの時間がある。

 特にすることもないので、看護師の許可を取って診察室を出ることに。



 とはいえ、暇潰しのすべを持っていないので、何もすることがないのが難点だ。

 こうなるならさっさと図書館に行って、本の一冊や二冊借りておくべきだった。



 そんな後悔を抱きながら、拓也は病院の中をぶらぶらと当てもなく歩いていた。



 不謹慎なのは承知だが、地球の病院というものがどういう場所なのか、ものすごく興味があったのだ。



 この病院は、市内最大の総合病院。

 施設も充実していて、たいていの病気や怪我はここで対応できるそうだ。



 病院は大きく診察棟、入院棟、検査・手術棟に別れており、その三棟で囲われた空間には中庭が作られている。



「ふーん……」



 自動ドアから見える広い中庭を見つめ、何気なく外に出てみる。



 中庭には、大小様々な木々や多くの花が植えられていた。

 きっと春や夏には、見ごたえのある景色が広がるのだろう。



 今の時期はほとんどの植物が葉を落としてしまっているが、この寒い時期に外に出る人も少ないので、気になることもないといったところか。



「へぇ…」



 拓也は足元に植えられた植物を見ながら、ゆっくりと歩を進める。

 観賞には向かない状態の中庭を進み、ふと立ち止まってしゃがみこむ。



 それぞれの植物の側には立て札が刺さっており、その植物の特徴などが記してあった。

 たまたま目に入ったそれを、拓也は丁寧に読み込んでいく。



 立て札には植物の原産国から用途まで、なかなかに詳細な内容が記されていた。

 知らない単語の羅列に苦労する部分もあったが、それらには読み応えがあった。



 暇潰しのつもりだったがいつの間にか深く集中してしまい、ほんの少しの間、時間を忘れていた。

 それ故に、この場に自分以外の人間が来ていたとしても、それに気付くことができなかったのである。



 くすくすくす……



 ふいに耳朶じだを打った忍び笑いに、拓也の意識は急激に現実へ引き戻される。



 夢から覚めたかのような、少しぼんやりとした心地。

 ハッとして顔を上げた直後、予想外の近さに見えた人影に頭がえた。



 頭でどうこう考えるよりも先に、全身の神経があわ立つ。



「うわっ…!?」



 驚いて飛びのく。

 その後つい反射で、人影と距離を置いて身構えてしまった。



「―――っ!?」



 拓也は言葉を失う。



(嘘、だろ……)



 茫然と、突然現れた人物を見つめる。



 そこにいたのは、車椅子に乗った女性だった。



 ゆるく波打った黒髪は後ろで一つにまとめられ、まとめきれない分の髪が耳を隠すように下りている。

 微笑ましそうに細められた瞳は、藍色と紺色が混ざったような深い色。

 小さく震える体は華奢きゃしゃで、その肌は白く、少し病的な青さを伴っている。



「ごめんなさいね。あなたの百面相が、見てて面白くて……」



 彼女はそう言って、笑い声を引っ込めた。

 そして、広い中庭を見渡す。



「ここ最近、うんと寒くなったでしょう? だから花たちも元気なくして、人も来なくなっちゃってね……」



 そこまで言うと彼女は拓也を見つめ、嬉しそうな表情で手を合わせた。



「でも今日はあなたがいたから、とても嬉しかったのよ。すぐに声をかけようと思ったのだけど、あなたがあまりにも真剣にそれを読んでるから、邪魔しちゃいけないと思って、近くで見るだけにしていたの。そしたら表情がころころ変わっていくから、つい……ね。」



 そんなに面白い顔をしていただろうか。

 集中している時の表情など分からないが、そこまで笑われるようなものではないと思うが。



 拓也は不可解そうに首をひねる。

 彼女は拓也のそんな反応に気付かないまま、拓也が先ほどまで見つめていた立て札を見下ろして……



「こういうの、好きなの?」



 そう訊ねてきた。



「………っ」



 下から優しい笑顔で覗き込まれて、心臓がどきりと跳ねてしまう。



「あ……いえ……単なる暇潰しで読んでただけで…。保護者が来ないと家に帰っちゃだめだって医者が言うから、たまたまここに来ただけなんですよね。」



 頬を掻きながら、気まずげに拓也は言う。

 すると。



「まあ、大変! こんな所にいて大丈夫なの?」



 途端に、女性が顔を真っ青にしてしまった。



 しまった。

 もう少し当たりさわりのない言い回しがあったはずなのに。



「ええっと……ちょっと怪我しただけなんですよ。別に、大したことはないんで。」



 果てにはおろおろし始めてしまった女性に、拓也は慌てて言い繕う。



「そう…?」

「そうですって。ほら、おれ自身は元気でしょ?」



 心配そうに眉を下げる女性に、拓也は笑みを浮かべてみせる。

 ふとその時、中庭に強い北風が吹き抜けていった。



「……さむ。」



 思わず身を縮みこまらせて、拓也は二の腕をさする。



 今は病院から貸し出された薄手の上着を身に着けているのだが、さすがにこの格好で外に出るのは馬鹿だったかもしれない。



 今さらながらに、寒さが全身にみ渡っていく。



「あらあら…。すっかり冷えちゃってるじゃない。」



 こちらの手を取った彼女は目を丸くする。



 触れられた彼女の手がやたらと熱く感じるのは、きっとそれだけ自分の体が冷えてしまっているということなのだろう。



「あなた、ちょっといらっしゃい。」



 彼女は拓也の手を優しく引っ張りながら、片方の手でちょいちょいと手招きをした。



「え…? なんで……」

「いいから、いらっしゃい。」



 戸惑う拓也に、母親のような口調で言う女性。

 なんとなく逆らえなくなって、拓也はおずおずと身を屈めて女性に視線を合わせる。



 彼女は満足そうににっこりと微笑むと、自分の膝にかかっている膝かけを拓也の肩にそっとかけた。



「え…?」



 彼女は丁寧な手つきで、膝かけを拓也の胸の前で合わせる。



「かけていなさい。風邪を引いてしまうわ。」



 優しい表情で笑みを深め、彼女はいたって自然な動作で、拓也の頭を優しくなでた。



「――――っ!!」



 ドクンと、心臓が大きく鳴る。

 拓也は零れんばかりに目を見開いて、女性を見つめた。



 母親のような、慈愛に満ちた彼女の表情。

 大切なものに触れるような、慎重で優しい手つき。



 あまりに唐突すぎて、頭が状況についていけなかった。

 今目の前にある現実が、急激に色を失った幻のように見えてくる。



 刹那の幻。



 それは、彼女と目が合った瞬間にあっという間に崩れてしまった。



「あっ……ご、ごめんなさいね。私ったら、何をしているのかしら。びっくりさせちゃったわね。」

「いっ、いいえ! 大丈夫です。本当に、気にしないでください!」



 慌てて謝る彼女に、拓也も慌てて手を振りながら言う。

 そんな二人の間に、館内放送を知らせるチャイムが響き渡った。



 ノイズ交じりの放送で呼び出されたのは、自分の名前。

 ある意味、救いの呼び出しだった。



「あ……尚希が来たのかな。」



 拓也は呟いて、膝かけに手を伸ばす。



「これ、ありがとうございました。もう大丈夫なので―――」



 膝かけを返そうと思って手をかけたのだが、何故か彼女は優しい手つきでこちらの手を押さえてそれを止めた。



 拓也は、きょとんとして首を傾げる。

 彼女は微笑んで首を振った。



「いいの。持っていきなさい。」

「でも…」

「いいの。私なら、いくつも持っているから。さ、早く行ってあげなさい。心配してるわよ、きっと。」



 ぽんと体を押され、拓也は渋々といった様子で女性から離れて、院内へと繋がる自動ドアに向かう。

 そんな拓也の後ろ姿に。



「じゃあね、拓也君。」



 優しげな彼女の声。



「………っ」



 寂しそうな響きを伴った女性の声に、後ろ髪を引かれるようだった。

 その思いをぐっとこらえ、拓也は女性に向かって一礼してからその場を去った。



 足早に、尚希が待っているだろう受付に向かう。



 できるだけ、今の出来事を思い返さないようにして。

 尚希が待っているということだけを考えるようにして。



 そして拓也は、この場で感じた動揺と感情を、意識的に胸の奥に封じ込めた。


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