必死に隠してきた心の叫び


 ―――また、あの夢を見た。



 拓也は、自室の天井をじっと見つめていた。



 眠れなかった。

 目を閉じれば、闇の中にあの夢が広がる。



 もういない母に、ただ謝り続ける夢―――……



「………っ」



 拓也は目元を歪める。



 謝っても意味がないのに、それでも謝り続ける幼い自分。

 それが脳裏にひらめいては、自分の心を奈落に落とす。



(……情けない。)



 結局のところ、自分はあの日から一歩も進めていないのだ。



 まざまざと突きつけられる事実が胸に痛い。



 その事実から逃げたくても、目を閉じればあの夢が、目を開けばこの命をむしばむ何かが、自分にその事実を訴えてくる。



 どんな状況にいても、この事実からは逃げられない。

 胸がつまりそうだった。



 拓也は目だけを動かして、椅子に座る尚希を盗み見た。



 尚希は、本棚から適当に取ったらしい本を眺めている。

 自分が目を覚ましてから随分と時間が経つが、彼は何も言うことなく、ただ静かに過ごしているだけだ。



「なあ、尚希。」

「ん? なんだ?」



 返ってくる穏やかな応答。

 今この状況では、逆に違和感を覚える。



「なんで……何も訊かないんだよ。」



 思いきって訊いてみた。



「訊いてほしいのか?」



 優しく問い返され、拓也は返答に窮してしまう。



「いや……」



 思わず、目を逸らしてしまった。

 尚希はそれ以上何も言わず、また本に視線を戻す。



 尚希のことだから、目を覚ました自分に対して、当然怒るだろうと思っていた。

 それ相応の覚悟はしていたのだが、予想に反して尚希は優しかった。



 目を覚ました自分に〝気分はどうだ?〟と、気遣わしげに訊ねてきただけだったのだ。



 拍子抜けした気持ちが半分。

 気まずい気持ちが半分。



 いっそのこと、怒ってくれたらどんなに気が楽だっただろう。

 この状況は気まずさばかりを増長させて、もやもやとくすぶる過去ばかりを思い返させた。



「……キース。」

「ん?」

「………ごめん。」



 気まずさから逃れたくて、口にした言葉。

 それを聞いた尚希が、無言で本を閉じた。



「謝るってことは、間違ったことをしている自覚はあるんだな?」

「―――っ!!」



 いきなり核心を突かれて、言葉につまった。



 そう。

 正しいことをしたとは思っていない。

 禁忌を犯してまで久美子が死ぬのを止めたのは、自分の弱さだ。



「……うん。」

「そうか。」



 尚希はあくまでも、穏やかに対処する。



「………っ」



 たまらず、奥歯を噛み締めた。

 がばりと起き上がって、無意識に伸ばした手で尚希に掴みかかる。



「なんで……なんで怒らないんだよ!? お前らしくもない!!」



 もどかしかった。



 尚希に怒りをぶつけるのはお門違いだと知っている。

 八つ当たりなのも、もちろん分かっている。

 けれど、そうせずにはいられなかった。



 このままでは、心を焼くどす黒い感情で頭がおかしくなりそうだったのだ。



「分かってるよ! 全部おれが悪いよ! ……でも、でも…っ」



「拓也。」



「連城さんは、おれの母さんとは別人で……ちゃんとした家族もいて………れっきとした他人なんだ。そんなことは言われなくても、おれが一番分かってる!!」



「拓也、落ち着け。」



「でも、母さんが……どうしても、母さんと重なるんだ。……酷なくらい似すぎてて………おれ……おれ―――」



「ティル!!」



 強く肩を揺さぶられる。

 自分の本名を呼ぶ怒鳴り声が、熱くなった頭に冷や水を被せた。



「落ち着け。オレだって、怒って問題が解決するなら、いくらだって怒ってやるさ。」



 尚希の目元に力がこもる。



「でも……こればかりは……オレには、何もできない。お前が自分でどうにかしないと、どうにもならないんだよ…っ」



 言われて気付く。

 もどかしいのは、尚希も同じなのだと。



 なんかしてやりたいのに、何もできない。

 そんなやりきれない気持ちなのだろう。



 尚希の性格なら、何もできない自分を責めているに違いない。



 ―――自分のせいで。



 胸中に、激しい自己嫌悪が広がっていく。



「ティル。」



 自己嫌悪に沈みかけた拓也の思考を、尚希が現実に引き戻す。



「ティル、オレに何をしてほしい? 責めてほしいのか? それとも、許されたいのか?」

「………っ!!」



 聞きたいことや言いたいことは山ほどあるのに、それを全部押し込めている。

 そんな彼の心情が、その表情からありありと見て取れた。



 記憶している限り、尚希がこんな表情をしたことは過去に一度だけ。

 母が死んで、自分が落ち込んでいた時だ。



 あの時も、尚希はこんな表情をしながら、ただ自分を見つめているだけだった。



 何か問題が起きれば口を出さずにはいられない尚希が、それを我慢して、じっと見守ることを徹底していた。



 あの時もきっと、尚希はこう訊きたかったのだろう。



「……キース。」



 ぽつりと、情けない声が零れた。

 尚希を真正面から見つめる。



 怖かった。

 幼い頃に隠した心を知られるのが怖い。



 でも……



「ちょっと、聞いて。」



 声が震える。



 果たして、尚希はどんな反応を見せるのだろう。

 それを考えると、恐ろしくて口が強張りそうになる。



 それでも―――……



「おれ、母さんにずっと謝りたかったんだよ。だって、母さんは……おれが追い詰めたんだ。」



「うん。」



「おれがいなくならなければ、母さんは病気にならなかったんだ。近所の人が、子供を取られたショックで寝込んだんだって……そう話してるのを聞いた。それって……おれがいなくならなければ、母さんは倒れなかったってことだろ?」



 尚希は何も言わずに、こちらを見つめるだけ。



 言えとも、言うなとも言わない。

 それが逆に、話すことを促した。



「おれは、みんなが殺されるのが嫌だったから〝知恵の園〟に行くことを選んだけど……間違ってたのかなぁ…? でも、あの時おれが〝知恵の園〟に行くことを拒んだら、やっぱりみんな殺されてた。母さんどころか、父さんとベスだって死んでたんだ。あの時のおれには、対抗する手段がなかった。……行くしか、みんなを助ける方法がなかったんだ…っ」



 だんだん、声の震えが大きくなっていく。



「母さんを殺したのは、国だって思わなかったでもないさ。でも、やっぱりおれのせいで母さんが死んだっていう気持ちは消えなかった。ずっとずっと考えてるうちに、母さんが死んだのが誰のせいなのか……もう、よく分からなくなった。」



「そうか……」



 尚希は静かに頷いてくれる。



「誰かに訊こうにも……怖かった。訊いて、お前のせいだって責められるのも、お前のせいじゃないってなぐさめられるのも、嫌だったんだよ。言いたくても、言えなかった。怖くて怖くて……仕方なかったんだ…っ」



 こらえきれない思いが体中から滲み出て、尚希のシャツの生地を握る手に力がこもる。



「うん。そうだったんだな……」



 尚希は、拓也の頭をぽんぽんと叩いた。



 自分が頼んだとおり、彼はただ話を聞くだけだった。

 責めもせず、慰めもせず、ただ聞くだけだ。



 ずっと持て余してきたどす黒い感情を吐き出して、それに飲まれても、何も言わずに見守ってくれていた。



「今考えれば、これは悩んだって答えは出ないんだ。過去のことをいくら悔やんでも、過去は過去でしかない。でも、一言でいいから……あの時母さんに言えなかったこと、言いたかった。ただ………ごめんって、言いたかった……」



 怖かった。

 ずっと怖かった。





 でも―――本当は、この気持ちを吐き出したくてたまらなくて、崩れそうなこの心を誰かに受け止めてほしかった。





「馬鹿だなぁ……」



 尚希は微笑わらう。



「あの時も、こうやって吐き出せばよかったんだよ。オレもエリオス様も、きっと何も言わなかったよ。今みたいに。」



 ただでさえ心に傷を負っていた状態では、唐突な母親の死は受け止めきれないことだったはずだ。



 それを責める人間などいない。



 あの時に、素直に思う存分泣いて騒いで、心の限りに叫べばよかったのだ。

 しかし、あの時の拓也には、その感情をぶつけられる相手がいなかったのだろう。



 悔しいことだが、あの時点ではまだ、自分もエリオスも拓也にとって頼るべき人間ではなかったのだ。



 だから、拓也は自分の心を守るために、疑問も絶望も押さえ込むことしかできなかった。



 きっと、そういうことだ。



 だから、自分は何もしない。

 あの時にやっただろうことを、今そのままやった。



 拓也の剥き出しの心を受け止めて、拓也がその思いの全てを吐き出せるのを静かに見守る。



「キース……」

「なんだ?」



「―――ありがとう。」



 うつむく拓也の前髪の隙間から、光るものが落ちた。

 それを見ないように目線をずらしながら、尚希は目を閉じる。



「いいんだよ、このくらい。」


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