第2章 蟻地獄
拒めない……
人間を落とすのは簡単だ。
過去に負った傷と、それを呼び起こさせるきっかけ。
この二つがあれば、人間はあっという間に自滅する。
傷は、深ければ深いほどいい。
さあ、種は
後は、実が熟すまで見物といこう。
彼は、くすくすと一人で笑った。
◆ ◆ ◆
(はあ……なんでおれは、こんな所にいるんだか。)
拓也は北風を浴びながら、ベンチで息を吐いていた。
目の前には、つい十日ほど前に見た中庭の風景が広がっている。
年が明けて病院も休みが終わり、今日から診察が始まっている。
今日は医者に怪我の様子を見せるために病院を訪れた。
話を聞く限りでは、あと数回はこの病院に来ることになりそうだ。
それを思って、拓也は面倒そうな表情をする。
魔法のない世の中とは、何かと不便だ。
たった一つの怪我を治すのに、ここまで時間がかかろうとは。
しかしそんな不便の代わりに、この世界には向こうにはない平穏がある。
ここは魔法に頼らずとも、十分に生きていける世界だ。
魔力や魔法が存在しないからこそ、ここまで様々なものが発展した世界になったのかもしれない。
規律や環境が整っているおかげで、人がそう簡単に死ぬことはない。
だから、魔法を使ってまで自分の身を守る必要もないのだ。
アズバドルから
郷に入っては郷に従えとはいうが、それ以前に地球では、魔法を使う必要性がないのだ。
アズバドルに嫌気が差して逃げてきた人々にとっては、ここはまさに理想の環境といえるのだろう。
(理想の環境、か……)
拓也は頭上を仰いで、長く深く息を吐いた。
閉じていた目を開くと、そこには抜けるような青空が広がっている。
それをぼんやりと見つめる拓也の表情に、暗いものが浮かんだ。
(おれのいるべき場所は、ここじゃないのにな……)
途端に、どす黒い感情が胸腔を満たしていく。
自分が求めるものは、こんな平穏ではない。
平穏など、自分には一番必要のないものではないか。
だって、自分はずっと―――復讐のために生きてきたのだから。
「………っ」
拓也はぎゅっと唇を噛み締めた。
目を固く閉じ、頭を振る。
黒く渦巻く感情を振り払うように。
そして、脳裏に押し寄せるものから
「よし、帰ろう。」
ここにいても、
ベンチから勢いをつけて立ち上がり、帰るために体の向きを変えた。
「あ…」
そこで体が、石のように固まってしまった。
自分が立ったのとほぼ同時に、今まさに向かおうとしていた自動ドアが開いたのだ。
そこから現れたのは、車椅子に乗ったあの女性。
「―――っ!!」
呼吸がつまって、胸が大きく脈打った。
彼女は通りがかった看護師に声をかけられ、看護師に向かって
看護師が苦笑しながら通り過ぎていくのを見送り、彼女はゆっくりと自動ドアをくぐって中庭に出てきた。
途端に彼女の表情が、穏やかな笑顔から疲弊しきったものに変わった。
何かを思い詰めたように、その瞳はひどく複雑で深い何かに満たされ、そして大きく揺れている。
見てはいけないものを見てしまった。
直感でそう思ったものの、意に反して目は、彼女の表情の一つ一つを捉えようとする。
そして注意深く観察すればするほどに、悩ましげな彼女の姿は、脳裏に閉じ込めていたはずの記憶を強く揺さぶった。
(ああ、やっぱり……)
体の芯が冷えていく感覚がして、拓也は唇を噛み締めた。
(やっぱり……会いに来なければよかった。)
目の前の景色を拒絶したがる脳が、視界に
地面が揺れる錯覚がして、よろけた足がベンチにぶつかってしまった。
ガタンッと大きな音が鳴り、拓也と女性が硬直したように固まる。
冷や汗を浮かべる拓也が見つめる中、女性がゆっくりと顔を上げる。
そしてその瞳が拓也を映すと、女性の表情が嬉しそうに
母親のような、優しくて慈愛に満ちた笑顔。
車椅子を動かして、拓也に近づく女性。
拓也は、その場から一ミリも動かない。
この時の拓也は、動揺する己の心を抑えるので精一杯だった。
ここから今すぐに逃げて、彼女と会ったことをなかったことにしてしまいたい。
そんな衝動が、自分の中を暴れ回っていた。
「どうしたの?」
「あの……えっと、これを……」
自分の前で車椅子を止めた彼女に、拓也は
女性は不思議そうな表情でそれを受け取り、中身を確認する。
と、次の瞬間にその顔がぱっと上がって拓也に向く。
よほど驚いたのか、目がまんまるになっていた。
「まあ…。これ、わざわざ返しに来てくれたの?」
「いや……おれも病院に来たついでなんで、あまり気にしないでください。ここに来たのも、会えたら返そうってくらいの軽い気持ちだったし。」
なんだか急に気恥ずかしくなって、拓也はそれをごまかすように言葉を重ねる。
彼女は紙袋の中から、以前自分に貸してくれた膝かけを取り出した。
柔らかい膝かけの感触を楽しむように手を這わせ、大切そうにそれを抱く。
そして、心底幸せそうに笑った。
「!?」
拓也は大きく目を見開く。
(……違う。)
反射的に、見たものを否定する。
違う。
彼女は関係ない。
分かっているのに、これまで見た彼女の表情が、自分の記憶を問答無用で呼び起こしていく。
そして―――自分の心を、深い闇の中へと落としていく。
「ねえ。これから、時間あるかしら?」
膝かけに顔をうずめて微笑み、女性は拓也にそう訊ねた。
「え? ………あります、けど……」
動揺していた拓也は、頭で考えるよりも先に、馬鹿正直にそう答えてしまう。
拓也の言葉を聞いた女性は顔を上げて、拓也の手を優しく握った。
「少し、お話しましょう?」
わくわくとした、嬉しそうな笑顔で女性はそう言ってくる。
(だめだ……)
拓也は女性にばれないように自分の動揺を必死に抑えて、ありもしない唾を
彼女の誘いに頷いてはいけない。
自分の身を滅ぼすだけだ。
そう思うのに。
こんな風に笑いかけられては、拒むことなど―――
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