そんなの、なおさらに―――

 にわかに凍りついた一部の空気。

 突っ込むこともはばかられる雰囲気だったが、かといって放置することも気まずいだけで。



 仕方なく、拓也は空気を読まずに口を開いた。



「あの…」



 声をかけると、看護師の彼女はびくりと肩を震わせた。

 まずいと思ったのか態度を取り繕おうとするが、逆に気まずさばかりが目立ってしまう。



「あ……えっと、私……体温計を忘れてしまったみたいです。ちょっと、取りに行ってきますね。」



 見え透いた嘘を口にして、彼女は逃げるように病室を去っていった。

 残された拓也は、久美子をちらりと横目で見る。



 彼女は不思議そうにしながらも、穏やかな笑みを崩していなかった。



「………?」



 一体、どういうことなのだろうか。

 気になりはしたものの、会って間もない自分が、いきなりあれこれと踏み込むのもいかがなものか。



「じゃあ、おれもそろそろ帰りますね?」



 少し悩んだ末に、拓也は上着を羽織りながら久美子の顔を覗き込んだ。



 とりあえず、今日はもう遅い。

 あの看護師が戻ってくるかもしれないと考えると、自分は今のうちに退散しておいた方がよさそうだ。



「え? ……あ、ええ。ごめんなさい。ここまで長話をするつもりはなかったのだけれど。」



 久美子が苦笑を交えて笑った。



「失礼します。今日は楽しかったです。」



 表面上の社交辞令。



 自分としてもこんなに長話をするつもりなんてなかったし、それ以前に、ここまで彼女に近づいてしまうつもりもなかった。



 でもこうなってしまったのは、はっきりと断れなかった自分の責任だ。

 それに関して、久美子を責めるつもりはない。



 拓也は微笑みを返し、病室の扉へと向かう。

 引き戸の取っ手を掴んだところで、ふと久美子に呼び止められた。



「また、お話しましょうね。」



 振り向いた視界に入ってきた久美子は、母親のように優しい微笑みを浮かべている。



「………っ」



 すぐに返事をすることができなかった。

 一瞬沈黙し、そして―――



「はい。また。」



 そう言って笑う。



 どうしてそう言ってしまったのか、それはよく分からない。

 ただ、衝動のままつい口にしてしまった。



 久美子の病室を後にして、拓也はエレベーターに乗ろうと廊下を歩いた。



 もう面会時間も終わる頃だ。

 廊下を行き来する人は少ない。



 等間隔に並ぶ病室の扉を視界の両端に捉えながら、無機質な廊下を進む。

 そしてエレベーター前で立ち止まって、視線を上方に向ける。



 二つ並ぶエレベーターは、両方とも一階で止まっている。

 五階に来るのには、まだ時間がかかりそうだ。



「ねえ、君。」



 ちょうどエレベーターの下行きのボタンを押した時、後ろから声をかけられた。

 振り向くと背後にはナースステーションがあり、そこから一人の看護師がこちらに手招きしている。



「あ…」



 さっきの看護師だ。

 拓也が手招きに応えて看護師に近寄ると、彼女はぐっと顔を寄せてきた。



「あのね、連城さんのこと、気にしなくてもいいからね。嫌だと思ったら、ここに来ないようにした方がいいわよ。」



 声をひそめて、彼女はそう言ってくる。



「……どういうことですか?」



 拓也が聞き返すと、彼女は少し迷った後におずおずと口を開いた。



「こう言うと、反感を買いかねないんだけど…。連城さんって、二年前に息子さんを亡くしてから、精神的にちょっと病んでてね。」



「息子さんを……」



「ええ…。元々病弱な体で、大手術の中ようやく生んだお子さんだったらしくて、愛情もひとしおだったみたい。そんな息子さんを亡くしたのは気の毒だけど、息子さんと同じくらいの子を見つけると、すぐにああやって自分の病室に連れてきちゃって…。同じ入院患者さんの親御さんとかと、何度も揉め事を起してるのよ。」



「………」



「……あ、今言ったことは秘密よ? 本当はこういう個人的なこと、しゃべっちゃいけないんだから。」



「ああ……はい……」



 なんと答えていいか分からず、そんな曖昧あいまいな反応を示した拓也の後ろで、エレベーターが到着する音がした。



「あ…。じゃあ、おれはこれで。」



 彼女に軽く頭を下げて、拓也は急いでエレベーターに乗り込んだ。

 偶然か、エレベーターの中には自分以外の人はいない。



 それに気が抜けて、思わず深く息を吐き出す。



(息子さんを亡くしている……か。)



 エレベーターの壁に体を預けて、拓也はあらぬ方向を見る。



 看護師の言葉と、久美子の顔。

 それが脳裏でぐるぐると巡る。



「そんなの……なおさらに見過ごせねぇよ……」



 胸を、ちょっとした苦しさが締めつける。

 それを感じながら、拓也は静かに目を伏せた。


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