新学期の朝

 眠気も飛んでいきそうなほどに、寒さがこたえる朝。

 拓也はぼんやりと考え事をしながら、歩みを進めていた。



 昨日で冬休みも終わり、今日から新学期が始まる。

 周りには学校へ向かう多くの生徒たちがいて、楽しそうに冬休みの思い出などを語り合っていた。



 その賑やかな話し声は、思考の海にどっぷりと浸かっている拓也の耳には一切入らない。



 自分にとっては冬休みなど、色んなことが起こりすぎて、休んだのか休んでいないのか分からない期間だった。



 唯一の救いといえば、冬休みの間は実が特に大きな問題を起さなかったことだろうか。

 そのおかげで自分は、自分自身のことに思考のほとんどを使うことができたのだから。



 とはいっても、考えていることはほぼ久美子のことなのだが……





『この前、息子さんを亡くされたと聞きました。』





 先日改めて久美子を訪ねた時、自分は思いきってその話を振った。



 知らないふりをすることは、もちろんできた。

 そうすることが一番穏便だということも分かっていた。



 しかしその話をせずには、今までと同じように久美子と関わることができなかった。



 自分勝手な感情だということは、重々承知している。

 でも、どうしても知りたかったのだ。



 久美子がそのことについて、今どう思っているのか。



 急に降って湧いた話題に、久美子はつかの間目を丸くしていた。



 こんな話、したくないに違いない。

 だから話を切り出しつつも、自分の求める答えが出ることは期待しないでいた。



 しかし久美子は表情をやわらげると、ベッド脇の引き出しに手をかけ、そこから取り出した写真立てをこちらに渡してきた。



 受け取った写真には、今より顔色のいい久美子とそこに寄り添う男性、そして自分と同じような年格好の少年が写っていた。



 柔和な目元に、微かに吊り上がった控えめな唇。

 綺麗な黒髪をやや長髪ぎみに伸ばしていて、それがすらりとした細身の体によく似合っていた。



 久美子と似た穏やかな雰囲気を漂わせた、年齢の割にかなり大人びた印象を受ける少年だ。



『透っていうの。生きていれば、ちょうどあなたと同じ歳になっていたわ。』



 久美子は、悲しみと寂しさをたたえてそう言った。



『二年前、事故に遭って……即死だったそうよ。私と主人が病院に着いた時には……もう、冷たくなっていたわ。朝は元気に笑っていたのに、その笑顔も何もかも、もう二度と見られないの。人が死ぬっていうのは、本当にあっという間ね……』



 久美子の声が揺れ始める。

 それを、自分は何も言わずに見つめることしかできなかった。



『透が死んで、私もそのショックで一気に体調を崩してしまった。主人はそんな私を、今も一生懸命支えてくれているわ。でも二年経った今も、私の体調はよくならないまま…。私は、随分と透に依存していたのね。』



 その時久美子の瞳から、涙が一筋流れ落ちる。

 一度あふれた涙がすぐには止まるはずもなく、彼女の双眸からは次々と透明な雫が零れていく。



『命がけで産んだ子だったの。誰よりも大事な子だったの。透は、私の生きる希望だった。愛していたのよ。大事な子供を急に取り上げられて、耐えられるわけがない……』



 涙を流し続ける久美子。

 それが、自分の記憶にある光景とリンクする。



 どうしようもなく込み上げてくる感情に、思わず久美子から視線を逸らしてしまった。

 うつむくと、写真立てを持つ自分の手が目に入る。



 現実とは対照的に、写真の中の人々は幸せそうな笑顔を浮かべている。



『………』



 写真の彼は、何も語らない。





『―――知ってます。』





 ぽつり、と。

 気付いた時にはもう、その言葉が口をついて出た後だった。



 久美子が顔を上げ、不思議そうな眼差しをこちらに向けてくる。

 そんな久美子に手を伸ばし、ポケットから取り出したハンカチでそっと涙を拭いてやる。



『知ってます。どんな理由にしろ、どんな状況にしろ、子供を奪われた母親がどうなってしまうか。……おれは知ってます。こうなってしまうのは、あなただけに限ったことではありませんよ。』



 久美子の涙を拭いながら―――脳裏に浮かぶのは、ある日の出来事だった。





「あ…」





 つい何日か前のことを思い返していた拓也は、ふと現実に返って立ち止まった。

 立ち止まった自分の前方を行く生徒たちの中に、見慣れた後ろ姿があったのだ。



 彼は相変わらず、マイペースな歩みでゆっくりと学校に向かっている。



 彼に追いついた何人かが声をかけるが、彼は友人たちを軽く受け流すだけで、決して自分のスピードを崩さない。



 それをじっと見つめていた拓也は、開いていく彼との距離に気付いて慌てて歩き出す。

 前を行く生徒たちを追い越し、その後ろ姿に追いつく。



「実。」



 ぽんとその肩を叩くと、気だるげな表情で実が振り向いてきた。



〝今度は誰だ。〟



 顔に、思い切りそう書いてある。



「!?」



 その気だるげな表情が、一瞬で霧散する。

 実は何故か、ひどく驚いた表情でこちらを凝視してきた。





「拓也……それ、何?」





 緊張をまとった固い声で、実はそう言った。


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