もう、大丈夫。

 後に残ったのは拓也と尚希。

 そして、呼吸をしていない久美子の亡骸だった。



 拓也は久美子の手を胸の前で組ませ、毛布とかけ布団をその体の上に被せる。

 そして、そのまま布団に突っ伏した。



「……ティル?」



 尚希が心配そうに肩を叩いてきたが、拓也は答えない。





 ―――― 逝ってしまった。





 自分の前で、また死んでしまった。



 今さらながらに涙が出た。

 久美子を見送りきるまではと、なんとかこらえていた感情がぐるぐると巡る。



「やっぱり……結構きついよ、キース……」



 涙声で、そうとだけ。



 尚希はそれに答えあぐね、何か言おうにも言葉が見つからないようだった。

 結局何も言わずに、彼は拓也の頭を少し乱暴になでた。

 拓也はその優しさを感じながら、静かに目を閉じる。



 人の死とは、こうもあっけない。

 拒んでも拒んでも、その時は唐突にやってきて、一瞬の内に何もかもを奪い去っていく。



 あの時も、そして今も。



 覚悟はしてきた。

 透が部屋に現れた時、久美子を見送ろうと決心した。

 それでも久美子を前にした時は怖かったし、久美子が透と共に逝くところを見るのはつらかった。



 似ているというのは厄介だ。

 まるで、母を送っている気分だった。



 悲しかった。

 嫌だった。

 引き止めたかった。



 それらを全部我慢して、久美子を見送った。

 つらくないわけがない。



 拓也は顔を上げる。



 そこには、久美子の幸せそうな顔があった。



 まるで眠るように、目を閉じている久美子。

 しかしその目が二度と開くことがないと、たった今彼女を見送った自分は知っている。



 悲しいし、つらい。

 けれど……



(これでいいんだよな、母さん。)



 こんな幸せそうに笑うなら、この死は久美子にとっての不幸ではないはずだ。

 ならば、後悔はしない。



 思い出してはつらくなるだろう。

 でも、この決断を後悔だけはしない。



 この笑顔があるということは、自分の決断はきっと間違っていないのだから。



 拓也は目を閉じ、目尻に残る涙を一気に拭い取った。

 そして勢いをつけて、椅子から立ち上がる。



 尚希の方を向くと、彼は面白いほどに弱りきった顔をしていた。



 よほど心配をかけただろう。

 あの日から、ずっと。



 拓也は尚希に、なんの無理もない笑顔を向けた。

 これまでかけた迷惑に対する謝罪と、感謝を込めて。



「ありがとう。キースのおかげで、ここまで来れたよ。」



 すっきりしていた。

 もしかしたら自分が別れを告げたのは、久美子や母だけではないのかもしれない。

 肩がすっかり軽くなった気分だ。



 拓也は深く息を吸って、吐く。



「もう、大丈夫だよ。」



 未だに心にくすぶる悲しみを振り払うように、そう告げた。

 その瞬間。





 ――― ぞわり





 自分の背後で、何かがうごめいた。



「―――っ!?」



 背筋が瞬く間にあわ立つ。



 ずるっ……ずる……



 何かが背中から剥がれる感触。



 背後の不快感に、考えるよりも先に振り返っていた。

 視界いっぱいに広がる、黒。



 背後には、不吉な闇をたたえた影があった。



「――― え?」



 目を丸くし、茫然とそれを見上げる拓也。

 それは間違いなく自分の背後から、今まさに離れようとしているところだった。



「させるか!」



 呆ける拓也を無視して、尚希が魔力を爆発させる。

 病室の空気が、不可視の力に満たされた。



「キース!?」



 尚希が病室中に結界を張り巡らせたので、拓也は慌てて尚希を見やる。

 尚希の表情は、緊迫したものになっていた。



 うようよとさまよう影の行く手を次々に阻む尚希。

 やがて行く道を失った影が、その影の濃さを落とし始めた。

 尚希はそこに、躊躇ためらいなく飛び込む。



「この野郎! 実を返しやがれ!!」

「!?」



 尚希の言葉に、拓也は瞠目する。

 そんな尚希に、影は逆に彼に襲いかかるような素振りを見せた。



「キース!!」



 拓也は尚希に向かって手を伸ばす。

 尚希の服の裾を掴んだ瞬間、影が自分にも襲いかかってきて―――





 視界が、真っ暗な闇に染まった。




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