あなたまで……

 時は、少しさかのぼる。



 拓也は昨日と同じように、病院に向かうバスに揺られていた。

 実はどうやら、先に帰っていってしまったらしい。



「先に帰るなら、そう言っとけっての……」



 実への文句をぐちぐちぼやきながら、昨日と同じように入院棟の五階へ向かい、久美子の病室に差しかかった時。



「連城さん!! しっかりしてください!!」



 響いてきたのは、甲高い声。



「!?」



 頭が一瞬で真っ白になった。



 大慌てで病室に駆けつけると、ベッドに横たわった久美子の体を看護師が揺さぶっているところだった。



「―――っ!!」



 急いで駆け寄る拓也。



 看護師を押しのけて久美子に駆け寄ると、久美子は真っ白な顔をしていて、その目をぴったりと閉じていた。



 その様子に、生命の色は感じられない。



「嘘だろ……連城さん! 連城さん!!」



 叫ぶ。

 すると、久美子のまぶたが微かに震えた。



 息を飲む拓也と看護師が見守る中、久美子の目がゆっくり開いた。

 視線がふよふよと病室中をさまよい、拓也の姿を認めたその目が、ほんの少し見開かれる。



「今日も来てくれたのね……ありがとう。」



 弱々しい声。



「―――っ! 先生を呼んでください!! 早く!!」

「は、はい!」



 拓也の叫びに、看護師がようやくそれに思い至って病室を出ていく。

 その時、焦る拓也の手を、久美子の冷えた手がそっと握った。



「!?」



「ごめんなさい。私……あなたに、迷惑をかけたわ。本当は、仲良くしようと思った子たちが……迷惑していたのは知っていたけれど、やめられなかったの。でも、拓也君だけは……嫌な顔をせずに、私に付き合ってくれた。あの時だけ、死んだ息子が帰ってきた気がして……私、とても幸せだった。」



 微笑む久美子。



 だめだ。

 久美子は悟っている。

 自分がもうすぐ死ぬのだということを。



「でも…」



 拓也の手を掴む久美子の手に力がこもる。

 その瞳から、涙があふれ出した。



「本当は……まだ、死にたくないのよ。ふふ……おかしいでしょう? 透がいるのに、拓也君とまだたくさん、お話したいことがあるの。透は、まだ私を迎えに来てくれない。まだ見えない。こんな寂しい気持ちのまま、死にたくないわ…。私は……」



 ふっと、久美子の手から力が抜けた。

 驚く拓也の前で、久美子はまた目を閉じる。



 目の前が、闇に満たされていく。

 地面の感覚が遠のき、果てない絶望の中に放り出された気分だった。



「あなたまで……ですか?」



 真っ暗な世界の中、ベッドに横たわる久美子の姿だけが鮮明に目に映る。





「ようやく吹っ切れそうだったのに…っ。あなたまで、おれの前で死んでいくんですか!?」





 叫んだ。

 深い絶望が、胸腔を急速にむしばんでいく。



 久美子はこちらの悲痛な叫びに答えない。

 その姿が、今まで見ないように封じてきた過去の風景と重なった。



 なすすべもないままに、その過去に飲まれていく。



 悲痛、怒り、後悔……絶望。





 それらが心を嵐のように掻き乱していって―――全てを奪い去っていった。





 拓也はゆっくりと、久美子の胸に手を乗せる。

 その表情に、感情と呼べるものは一切なかった。



「―――させません。」



 抑揚の欠けた、うつろで、それ故にひどく暗鬱として、背筋をぞっとさせる声。

 理性なんて、とうに壊れていた。



「死ぬなんて、許さない。」



 無感動に。

 犯してはならない領域へ。



 拓也は、躊躇ためらいなく踏み込んだのだった。


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