実が見たモノ

 その日の放課後、拓也は一人でバスに揺られていた。



 今日は始業式とホームルームだけだったので、午前中で学校は終わった。



 本当は実と一緒に帰る予定だったのだが、実は学級委員の仕事があるとのことで、先に帰ってくれと言われてしまったのだ。



 まっすぐに帰っても暇を持て余すだけなのは簡単に予想できるので、こうしてバスに乗った。

 行き先は、久美子の病院だ。



 学校から十分ほど歩いて駅に向かって、駅の中を通過して反対口に出てからバスに乗り込み、およそ二十分。



 大きなバス通りに面するようにして、病院は建っている。



 バスを降りた拓也は目の前にそびえ立つ病院を見上げ、どこか寂しげな笑みをたたえた。



「もう会いたくないって思ってたはずのに、やっぱり逃げられないのかな……」



 ぼそりと独り言を零し、病院の自動ドアをくぐる。



 それを、じっと観察している人物がいるとは知らずに。





「ふむ…」





 拓也が降りていったバスの中で、実は思案げに腕を組んだ。



 拓也が学校を出てこの病院に着くまで、こっそりと彼の後をつけてきていた。

 学級委員の仕事は、影に任せてきてある。



 バスが新たな乗客を乗せて、病院を出発する。

 遠ざかっていく病院を見る実の表情は、穏やかとは言いがたかった。



 拓也にはごまかしておいたが、今朝見たものに驚いたのは、紛れもない事実だ。

 拓也自身が気付いていないようなので言及するのはやめておいたが、内心笑っていられる心地ではなかった。



 実は見た。





 拓也に覆いかぶさるように、黒いもやのようなものがまとわりついているのを。





 実はそれを思い出して、また険しい表情をする。



 いくらなんでも、あれは危険だ。

 詳しいことは分からないが、それだけは靄を見た瞬間、本能的に察知することができた。



 もう見えなくなった病院の方角を仰ぐ。



「多分、原因はあそこにあると見て間違いないだろうな。」



 拓也にまとわりついていた黒いもやは、拓也が病院に入った途端にその濃密さを増した。

 病院に原因がなくして、あの現象はありえない。



 実はふう…と溜め息を吐き出す。



 一番の解決方法は、原因を取り除くこと。

 これに限る。



 だが、拓也が病院で何をしているのか。

 それが、全くもって分からない。



 魔法で拓也が何をしているのかを探ることは可能だが、それをするのには少し躊躇ためらいがあった。



 拓也も魔法に精通した人間なので、魔法で見張られていることに気付く可能性は十分にある。

 見張っていることがばれたら、当然説明を求められるだろう。

 そうなれば、ややこしいことになってしまうのは必至だ。



 大体、言えるわけがないではないか。



 拓也に、あんなものがいているだなんて……



 拓也が気付いていない以上、それをわざわざ本人に言って混乱させるよりは、本人も気付かないうちに解決してしまうのが一番穏便だ。





 ―――というのが、表向きの言い訳。





 実際のところ、拓也がいかに魔法に敏感だったとしても、拓也に気付かれることなく彼の動向を探れる自信は十分にある。



 それでも躊躇ためらっているのは、そうすることが拓也のプライベートに立ち入ることになるから。



 いくら自分でも、立ち入っていいところと立ち入ってはいけないところの分別はできる。



 拓也のためという大義名分を掲げても、それが拓也の事情に土足で立ち入っていい理由になるとは限らない。



 それに……



 実は窓の外に視線を滑らす。



 窓の外では、多くの人がそれぞれの時間を謳歌おうかしていた。



 楽しげに話しながら歩く学生たちや、忙しそうに駆けていく社会人。

 道路沿いのファミレスを見れば、面白おかしく談笑している主婦たちの姿が。



 皆それぞれ、自分の世界で生きている。

 時には他人と世界を共有して、時には自分だけの世界に入り込んで。



「………」



 実はそれを、どこか眩しそうに目をすがめて見つめる。





 それに……本当は、怖いのだ。





 誰かに深く関わることが。

 誰かの世界に入り込むことが。

 そして、誰かと世界を共有することが。



 いつ誰が自分を襲ってくるか分からない。

 誰かと世界を共有すれば、誰かと深く関われば、その中にいずれ油断が出てくるだろう。



 ちょっとでも油断すれば……

 ちょっとでも心を許してしまえば……



 その瞬間に―――自分は殺されてしまう。



 そんな本能的な恐怖が、他人と必要以上に関わることを拒んでいた。



 記憶と魔力を取り戻してからは、その恐怖が昔よりもかなり増大していることにも気付いている。

 また、その理由にも。



 ―――他人と関わることを、覚えてしまったからだ。



 記憶を封印した後、自分は他人を疑わずに生きてきた。

 他人との関わりが死に直結するかもしれないという恐怖を、一時的に忘れて過ごしてきた。



 その中で誰かがもし自分の正体に気付いていたらと思うと、今でも背筋が凍りそうになる。

 そして、記憶を封じてしまった己の浅はかな選択を、時々悔いてしまうのだ。



 桜理と傷つけたからという理由だけではない。



 記憶を封じて穏やかに暮らしてきた日々があるせいで、自分は新たな恐怖と向き合うはめになってしまったから。





 それは―――自分が信じた人に殺されるかもしれないという恐怖。





 自分の中に死を望む暗い感情があることに気付いてからは、殺されることは大した恐怖ではなくなった。



 怖いのは、今まで関わってきた誰かに殺意を向けられること。

 記憶を封じていた自分が純粋に信じていた誰かに殺されることだ。



 どうせ殺される運命なら、どこの誰かも知らない赤の他人に殺されたい。

 でも、少しでも自分に近い人には殺されたくない。



 信じた人には、やはり裏切られたくないから……



「………っ」



 そこまで思い至った瞬間、つきりと胸が痛んだ。

 歪みそうになる表情を、奥歯を噛み締めることで抑え込む。



 外の景色をぼんやりと見ながらも、脳裏にひらめくのは昔のこと。



 誰も信じまいと、自分の正体や感情を隠して他人と距離を置くこと。



 これは、幼い自分が生きるために必死で覚えたことだったのだと思う。

 昔の自分が、自分の身と心を守るために取った、精一杯の行為だったのだろう。



 関わらなければ傷つかない。



 相手のことを知らなければ、誰かが自分を殺しに来たとしても、躊躇ちゅうちょなく相手を返り討ちにできる。



 正当防衛だと、自分に言い聞かせることもできるのだから。



 でも今となっては、それをがむしゃらに信じることができない。



 他人と距離を置けば置くほど、寂しさが胸腔を満たしてしまう。

 自分を偽れば偽るほど、罪悪感が鋭利な刃物となって、自分の心をめちゃくちゃに切り刻んでいく。



 それでも……

 それでも、自分はひとりでいるべきだと思うから。



 実は苦しげに目を閉じる。



 相反する感情がせめぎあっているのを感じる。

 桜理との一件で彼との境界が曖昧あいまいになってから、ずっとこうだ。



 憎むべき対象として作り上げた彼の声は、もう聞こえない。

 彼と対峙したあの空間に行くこともできない。



 矛盾した感情どうしのせめぎあいはもう、自分と彼という確立した存在の対立ではなくて、自分一人だけの心の葛藤かっとうでしかなくなってしまった。



 だから、この葛藤が今まで以上に苦しくてたまらない。



 自分は自分なのか、それとも本当は彼なのか。

 それが分からなくて、自分の存在がどんどん信じられなくなっていく。



 いっそのこと、あの時にどちらかが明らかに勝ってくれたらよかったのに。

 そうすれば、こんな風に悩まずに済んだのに。



「………」



 実は無言のまま、静かに首を振った。



 今は、自分が一番信じられない。

 これだけが、今の自分が確信できる揺らがない気持ち。





 この気持ちにすがるなら、自分が取るべき行動など―――





「……はぁ…」



 物げに息を吐く実の耳に、終点を告げるアナウンスが聞こえてきた。



 ふと顔を窓の外に向けると、バスは駅前の大通りを走っていた。

 このバスの終点は学校の最寄り駅から一つ離れた駅で、隣町に入る場所にある。



 考え事をしている間に、終点までバスに乗っていたらしい。



 実は料金を示す電光掲示板を見ながら、隣の席に置いてあった自分のかばんを引き寄せた。


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