安らぎは、一時として与えられず―――

 尚希と別れて、実はようやく自分の家に辿り着いていた。



 時刻はもう、夜の九時が近い。

 予想どおりとはいえ、ひどく疲れる一日だった。



 夜遅い住宅街からは喧騒も遠のき、時おり吹く風が道路を通り抜けていく音がよく耳に響く。

 家々からは柔らかい光が漏れ出していて、時々そこから談笑の声が聞こえてきた。



 家は住宅地の角に位置している。

 十字路にぽつんと立った街灯の光の中で、家は窓に闇をたたえて、その光に隠れるようにひっそりとたたずんでいた。



 まだ、詩織は帰ってきていないらしい。

 実は鍵を開けて、真っ暗な家の中へ入った。



 もうずっと住んでいる家だ。

 夜目もくし、明かりをつけなくとも部屋と物の位置は分かる。



 実は暗闇の中を進む。

 階段をのぼり、二階の突き当たりにある自分の部屋のドアを開けた。



「………」



 自室の扉を閉め、その扉に寄りかかる実。



 疲れた。

 全身が疲弊しきっていて、気だるい痺れに思考がぼんやりしていた。



 うつろな感覚の中、心臓が鼓動を刻む音がどくん、どくん、と響く。

 それに合わせて、普段なら気にもならないほど微かな熱が、胸から全身に広がっていく。



 暗い部屋と視界の中で、胸の刻印がその存在を顕著に訴えている。



 自分の命を奪うために刻まれた印。

 その刻印が自分の気力や体力をさらに奪っていくような気がして、思わず溜め息を吐き出した。



 その時。



「―――っ!?」



 突然鳴り響く音楽。

 意識が急激にえて、実は慌ててコートのポケットをまさぐった。



 取り出した携帯電話からは、着信を告げる音楽。

 携帯電話の液晶には、〈植松尚希〉の文字。



 瞬く間に、どす黒い不安と緊張が広がった。

 鳴り響く軽いテンポの音楽が、まるで不吉を告げる不協和音のように聞こえてくる。



 実は血の気の引いた表情で液晶画面を見つめ、唇を噛み締めると意を決して通話ボタンを押した。



 携帯電話を、耳に当てる。





「実!! すぐ来てくれ! 緊急事態だ! ティルが……ティルが!!」





 事態は、想像以上に早く動いた。


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