静かな怒り

「あ…」



 その光景を見た実は、思わず固まった。

 尚希はというと、驚いた様子も見せずにその状況を溜め息混じりに見ている。



〝オレでもやる。〟



 そんな尚希の心の声が聞こえてくるようだ。



「いい加減にしろ、紫苑しおん。僕ならこのとおり、怪我一つないから。」



 彼の頬を叩いた蓮は、静かに、だが明らかな怒りを声に滲ませて言った。

 その後、実はほっとひと安心する。



 焦点が定まってなかった彼―――紫苑の瞳に、光が戻り始めたのだ。



「れ……蓮。でも……」



「落ち着くんだ。彼は、僕を君の攻撃から守ってくれたよ。最初から、彼たちに害意はなかった。それに―――」



 蓮はぐるりと辺りを見回す。



「これだけの騒動があったのに、誰一人としてここに来ない。何故だと思う?」



 蓮に言われて紫苑は気付く。



 そういえば、こんなに騒げば何事かと人が集まってきてもおかしくないのに、蓮の言うとおり人が集まってきていなかった。



「騒ぎが露呈しないように、彼が結界を巡らせてくれたからだ。そして君に怪我をさせることなく、この事態を収めてくれた。感謝と謝罪はすれど、攻撃する理由はない。」



「………」



 蓮に厳しく言われ、紫苑はうつむく。

 そんな紫苑が少し可哀想に思えてきて、実は蓮の肩を叩いた。



「もう、それくらいにしてやってくれませんか? ちょっとこの人、本能的にやってた節があるんで。別に、俺たちに怪我はないですし……」



「そういうわけにはいきません。己を律することができなかったのは、紫苑の非です。」



 スパッと切り捨てる蓮。

 そんな蓮の態度に、実の方がたじろいでしまった。



「いや、多分そういう問題じゃ……」

「だ、だってさ!!」



 急に声を張り上げて実を指差す紫苑。

 その指は、微かに震えていた。



「だって……こいつ、おかしいよ!! 何をどう言ったらいいのか分かんないけど、なんか違うんだよ! だから追い払おうと思って…っ。蓮には分からないのか!?」



 必死に紫苑が訴えるも、蓮は怪訝けげん深そうに眉を寄せるだけ。

 顔色を変えたのは、実の方だった。



「やっぱり、そういうことか…。残念だけど、この人には分からないと思いますよ。」



 実の口からとんでもない言葉が零れて、蓮と紫苑は実を見やる。

 紫苑の表情が蒼白になっているのを見て、実は眉を下げた。



「そういうもんなんです。ようは、俺に敵意や害意がないことを示せばいいんですよね?」



 言うや否や、実は紫苑の右手を取る。

 驚いた紫苑は反射的に手を引こうとしたが、それは実が許さなかった。



 力強く紫苑の手を掴んだ実は、もう片方の手をその手首にはまった腕輪へ。

 羽のように軽いタッチで、実の細い指が腕輪の至る所に触れる。



 そして、実の指が腕輪のある点を触れた時―――カチッという音がして、つなぎ目の見えなかった腕輪が急に紫苑の腕から外れた。



 その瞬間に引っ込んでいた自分の力が戻ってきて、紫苑は目を見開く。



 紫苑から腕輪を回収した実は、それを自分の左手首に取りつけた。

 その後に起こった変化に、紫苑はまた驚愕する。



 実の体から、自分が指摘する異質な何かが嘘のように消えたのだ。

 それと一緒に自分の中に渦巻いていた負の感触も消えて、意識しないうちに肩の力が一気に抜けていた。



「そういえば、さっきまでこれをつけてなかったんですよね。これで大丈夫でしょ?」



 わざと茶化すように肩をすくめて訊いてきた実に、紫苑はぐっと言葉につまり、結局そっぽを向いてしまった。



 実は紫苑の様子に苦笑を呈したが、その表情は次の瞬間に驚きに変わる。



 紫苑とは対照的に、蓮が実に頭を下げたのだ。



「この度は、うちの紫苑がご迷惑をおかけしました。お詫びします。」

「え? えーっと……」

「紫苑。君も謝りなさい。」



 蓮に言われ、紫苑は唇を噛み締める。

 それを見た実が、慌てたように蓮を制した。



「いや、だから…っ。これは仕方ないことなんですって。あなたも謝らないで、顔を上げてください。」



 これは嘘でも建前でもない。

 本当に仕方ないことなのだ。



 紫苑は十中八九、向こうの世界の血を引いている。

 だからこそのあの攻撃。



 向こうの人間が〝鍵〟である自分に過剰反応するのは必然だし、力の感受性が高いなら、〝鍵〟である人間が持つ魔力に本能的な恐怖を抱くのも当然なのだ。



 しかし、蓮は首を横に振るだけ。



「いいえ。もしかしたら、君たちにしか通じない何かがあるのかもしれない。それは認めます。ですが、これはそういう問題ではありません。どんな背景があろうとも、迷惑をかけたなら謝るべきです。これは事情云々うんぬんではなく、人としての道理でしょう。」



「う…っ」



 ことわり詰めの蓮の言葉に、実はそれ以上何も言えなくなる。



「紫苑、謝りなさい。」



 実を黙らせた蓮は紫苑を振り返り、静かだが険しい口調でそう言う。



 紫苑がはかまを握り締めた。

 何度も迷う素振りを見せながらも実を睨み、息を吸う。



「……悪かった。」



 到底謝る態度ではなかったが、実は嫌な顔一つ見せなかった。



 紫苑の態度を不服と感じたらしい蓮が何かを言う前に、蓮の肩に手を置く。

 こちらを見た蓮に向かって、実は〝これ以上はだめだ〟という意を込めて首を振った。



「でも…」

「いいから。」



 強い口調でそこまで言って、ようやく蓮は引いてくれた。

 彼は仕方ないというように、大きく溜め息をつく。



「分かりました。そこまで言うのなら、この話はここまでにしましょう。では、奥へどうぞ。」

「え?」



 蓮以外の全員が、異口同音に呟く。

 蓮は特に取り合うこともなく、落ちていた竹箒たけぼうきを拾って、すたすたと神社の方に歩いていってしまう。



「どういうことだよ、蓮!」



 紫苑が思わず叫ぶと、蓮はくるりと振り向いて息を吐き出した。



「死神について、話を聞きたいのでしょう?」

「!!」



 実と尚希は互いの顔を見合わせる。



 そうだった。

 紫苑との騒ぎで、当初の目的が抜けていた。



 紫苑が驚きと疑問が混ざったような表情で、実と尚希を凝視する。

 その視線は〝本当か?〟と訊ねてくるようで、実はそれに頷いて答えた。



「ここは寒いから、奥で話をしましょう。」



 また神社の方を向いて歩き出す蓮。

 その振り向きざま。





「僕も、確認したいことがあります。」





 そう口にして。


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