胸騒ぎ

「は? それって……なんのことだ?」



 拓也が首をひねると、実の表情から徐々に驚愕の色が引いていく。



 黙したまま拓也を―――拓也の背後をじっと睨む実。



「実?」

「……いや、なんでもない。気のせいだったみたい。」



 実は目を閉じて、静かに首を振った。



「本当か?」



 なんだか、微妙に嘘臭い香りが漂ってくるのだけど……



 そんな拓也の疑いに満ちた眼差しを、実は軽くスルー。



「本当だって。少し疲れてたから、何かを見間違えただけかもしれない。そういえば、怪我の方はもういいの?」



「……ああ、これ?」



 まあ……多少の嘘臭さはあれど、そこまで深刻そうな香りはしないからいいか。



 体質故の対処法も身に染みている拓也は、違和感を飲み込んで実に流されてやることにする。



「このとおり。まだちょっと動かしづらいけど、生活に支障はないかな。」

「ふーん。とっとと治した方がよかったんじゃないの?」



 実はぐるぐると回される拓也の左腕をしげしげと観察しながら眉をひそめた。

 それに、拓也は苦笑を漏らす。



「まあな。でも、こういうのもなんか新鮮だし、経験するのもいいかなぁって思って。」



「えぇー…。めんどくさい病院での治療を経験したいだなんて、物好きな…。ま、別に止めないけどさ。都合が悪くなったら、いつでも治せるわけだし。」



「確かに。そういう実は、冬休み何してたんだよ。」



「塾!」



 拓也の問いかけに、心底うんざりしたような口調で、実は投げやりに答えた。



「俺の知らないうちに、母さんが勝手に冬期講習の申し込みをしててさ。年末年始は一応休みがあったけど、それ以外は全部塾でしごかれてたよ。面倒だから、あえて冬季講習のこと言わなかったのに…。おかげでへとへと。それに加えて、夜はあいつの遊び相手をしなきゃなんないでしょ? もう、休む暇なんかなかったよ。」



 あいつの遊び相手。

 そう聞いて、拓也は苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべる。



 あいつとは言うまでもなく、実をえらく気に入っているらしいアズバドルの神、レティルのことだ。



 実は数日に一回、夜な夜な出かけてはアズバドルに向かい、レティルの放つ刺客と闘争を繰り広げている。



 地球にいる分には数日に一回で済むが、アズバドルにいればその頻度は毎日と言っても過言ではない。



 その戦いの中で大怪我をして、騒ぎになったのが夏休みの話。

 あれ以来、命に関わりかねないほどの大怪我をしたとの報告は受けていない。



 だが、実のことだ。

 どうせ怪我をしたとしても、わざわざ知らせになどこないだろう。



「実。おれの怪我を気にする前に、お前自身はどうなんだ? また怪我しては、エーリリテさんを困らせてるんじゃないのか?」



「ん? そんなことはないと思うけど?」



 やけに切り返しの早い返答だった。

 横目に実を見ると、実は爽やかな笑顔で進行方向を見ながら歩みを進めている。



(ああ、これは……)



 拓也は己の中に浮かんだ可能性に、頭が痛くなるような思いだった。



 ものは試しだ。

 拓也は前を行く実の右腕を両手で掴んで、ほんの少しの力を入れて握ってみた。



「あだっ!」



 叫んだ実が腕を引っ込める。

 手に入れた力の強さの割には、その反応は過敏すぎると言えた。



 実が〝しまった〟という心の声を全面に出した顔で固まる。



「みーのーるー?」



 実を半目で睨む拓也の口から、低い声が零れる。

 実はそんな拓也から視線を横に逸らし、ぺろりと小さく舌を出した。



「あーあ、ばれた。……つーことで、じゃ!」



 瞬間、実は脱兎のごとくその場から走り出した。



「あ、こら! 待て、実!」

「待てって言われて待つ馬鹿はいないーよーっだ♪」



 笑いながら校門の先へ消えていく実を追いかけようとして、結局諦めた。

 どうせ教室で会うのだ。



「まったく、あの馬鹿は……」



 追いかける代わりに、そうぼやく。



 実際問題として、何度か実の戦闘を見ている自分には、頭ごなしに実を怒れない節があった。



 何せ、相手が多すぎる。

 あの数の刺客を相手にあの程度の傷で済んでいるのだから、実は十分に善処していると言えるだろう。



 触った感触ではそこまでひどい傷ではないようだし、血の香りは漂ってこなかった。

 ちゃんと治癒を施してある証拠だ。



 その面を踏まえて、今日のところは怒らないでやろう。



 拓也は小さく息を吐きながら肩をすくめた。



「そういえば……さっきの実、なんだったんだ?」



 自分が声をかけた時の、実のあの驚きよう。

 深刻さの香りは薄かったとはいえ、ただ事ではない気がする。



 拓也は自分の背後を振り返ってみる。

 だが、そこには何もありはしない。



(本当に、なんだったんだろう……)



 妙な胸騒ぎがする。



(何も、起こらないといいんだけどな。)



 そう頭の片隅で思いながら、拓也は空を見上げた。



 雲一つない冬の空は、抜けるように青かった。


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