狙いはいつしか―――

「何!?」



 その瞬間、死神の表情から余裕が消え失せた。

 彼が手をかざしている水晶玉には、拓也たちの様子が映っている。



 想定外の事態に、死神はたじろぐしかない。



 そんな馬鹿な。

 彼はあのまま、自らが施した術によって死ぬはずだった。



 それは、抗いようのない運命であるはずだ。

 今さら変わるなどありえない。



 動揺を隠し切れない死神の耳に、くつくつと静かな笑い声が入ってきた。

 聞く者の心を戦慄させるような、あまりに静かで暗鬱あんうつとした声だ。



 死神がそちらを見ると、さっきまで刻印の苦痛になすすべもなく倒れ伏していたはずの少年が、小刻みに体を震わせている。



「だから言っただろ? 最後の最後まで何が起こるか分からないのが、勝負ってもんだって。」



 実は力が入りにくい全身に震えるほどの力を入れ、ゆっくりと身を起こして膝をついた。



 そしてその顔に、にやりと不敵な笑みを浮かべる。



「く…っ」



 死神は表情を歪める。



 今まで自分は、狙った魂を狩り損じたことはない。

 自分の定めた死の運命をひっくり返した人間などいなかったからだ。

 その運命に逆らえる人間などいないと信じて、疑ったこともなかった。



 自分が目をつけた人間は、確実に命を落とすのだ。

 自分からのがれるなど、あってはならない。



 しかし、あってはならない現実が今目の前にある。





 ―――拓也の運命が、死から離れた。





 水晶玉には、尚希が運転する車に揺られ、久美子の元へ向かう拓也の姿。

 このままでは……



「これ以上、手を出さない約束だぞ?」



 死神の思考を読んだかのように、実が言った。

 次に、実はぎこちない動きで立ち上がる。



 苦痛はまだ抜けていないが、全身の負担が一気に軽くなった。

 きっと、拓也が生きるための決断をしたのだろう。



 震える膝に力を込めて、気を抜けばくずおれてしまいそうな体を支える。



「あんたは……おごってたんだ。脆弱な人間ごときが、仮にも神である自分に勝てるわけがないってな。自分の運命に気付ける人間なんて、ほとんどいない。だから、人の運命を死にじ曲げるあんたは確かに無敵だ。」



 実はよどみなく語り始める。



「俺みたいに近しい人の運命に気付く人間が現れても、あんたはそれを脅威ともなんとも思わなかった。たかだか人間一人、あんたにとっては道端に転がる小石みたいなもんだったんだろ? 嘲笑あざわらうことはしても、まともに取り合おうなんて思わないよな? どうせ、今回も勝てると思ってたんだろう。その結果がこれさ。嘲笑っていた小石にけつまずいた気分はどうだ?」



 実は冷ややかな笑みで死神を見やる。



 だんだん軽くなっていく苦痛。

 拓也は間違いなく、病院に向かっているだろう。



 自分のやるべきことをやるために。

 ずっと縛られていた過去と決別するために。





 ―――きっと、もう大丈夫。





 実は額から滴る脂汗を拭う。



 死神を見据えるその瞳には、神を前にしてすら揺らがない強い光と余裕がたたえられていた。



「………っ」



 そんな実の姿を見た死神は、思わず息を飲む。



「さてと。俺がここにいる理由はもうないし、帰してもらえる?」



 すでに彼のことなど眼中にもない実は、ぐるりと辺りを見回す。



 一度見て気付いたが、この空間には今いるホールのような場所以外には何もないようだった。



 別の場所に通じているような道もない。



 そもそもここは、死神の特別な空間。

 単純に天井を目指しても、ここからは出られない気がする。



 実が死神に背を向け、一歩踏み出そうとした瞬間―――



 ぶわっ



 なんの前触れもなく、禍々まがまがしい気が爆発した。



「……これは、約束とは随分違うと思うんだけど?」



 実は踏み出しかけた足を戻し、ゆっくりと手を伸ばす。





 その先―――実の首の前には、銀色ににぶく光る巨大な鎌の刃があった。





 緩く弧を描いた刃は実の行く先を完全に食い止め、その鎌の柄は実の後方に立つ死神の手に握られていた。



 実は鎌の刃にそっと触れる。



 刃に触れた瞬間、指を滑らせてもいないのに、刃が一切の抵抗もなく指の中に入り込んだ。



 痛みも感じさせないくらいに鋭い刃だ。



 肉の中に入り込んだ刃は確実に血管を切り裂いていたようで、刃に触れた指からはあっという間に血が流れ落ちていく。



「……約束どおり、彼の魂からは手を引こう。」



 背筋も凍るような冷たい声音で、死神は言う。



 目深く被ったフードの下で、深い翡翠ひすい色の瞳が底冷えするような光を宿していることは、容易に想像できた。



 その視線をひしひしと感じながら、実は静かに手を引く。

 鎌の刃から離れた指から血が滴り落ちるが、その傷は瞬く間に塞がっていく。



 静寂が満たす空間で、死神の視線と禍々まがまがしい気がひどく際立って感じられた。





 彼の視線は、実の後ろ姿に―――その魂に固定されている。





 その様子はまるで、獲物を狙う狩人かりゅうどのよう。



 空間の全てがビリビリとしびれるような剣呑な雰囲気に包まれる中、実はそれを無視するかのように深い溜め息をついた。



「分かってはいたけどなぁ……」



 心底面倒そうに呟く。



 死神との間で始まった、拓也の命をかけた勝負。

 その中で、実はとっくに気付いていた。





 ―――死神の狙いが、拓也から自分に移っていることに。





 実は軽く息を吸うと、仰け反るようにして身を低くした。

 それに一拍遅れて、実の顔の上を何の予告もなく引かれた鎌が通り過ぎる。

 ふわりと浮いた前髪の一部が切れ、淡い栗毛色の筋がパッと虚空に舞った。



 しゃがんだ反動を利用して足に力を入れ、実は一気にそこから飛び退く。

 くるりと反転しながら着地した実は、無言で鎌を構える死神を見据えた。



「欲しいって言われても、そう簡単に渡せる命じゃないんでね。」

「ならば……」



 実の発言を受けた死神の体が、ふわりと浮き上がる。





「―――ならば、奪い取るまで。」




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