※※※

天に在りては比翼の鳥

地に在りては連理の枝


今生に在りて、私は貴方の剣

貴方の盾 貴方の願い 貴方の望み


貴方様のお望みのままに

この身、この魂が尽きるその瞬間まで

貴方様の願う形で

貴方様の御命令のまま

貴方様の御側にのみ在ることを

ここに宣誓致します




  ※  ※  ※




 初手でヘマを踏みすぎた、というのが、正直な感想だった。


「っ!」


 振り下ろされる大剣の剣身に擦り合わせるように左手で握った匕首ひしゅを繰り出す。フワリと勢いを絡め取るように受け流すと、大剣は結界に受け流されたかのように黄季おうきの傍らをすり抜けた。


 その切っ先を地面に叩き込もうと黄季は片足を振り上げる。だがやはり黄季が剣身に足の裏を叩き込むよりも相手が大剣を手元に引き戻す方が早い。空振った足が地面を踏みしめた時には次の一打が繰り出されている。


 ──大剣を握ってるはずなのに機動は匕首こっちと変わらないとか……っ!!


 次の一打を正面から受けた黄季は、今度は衝撃を吸収せず、撃ち込まれた勢いを利用して大きく後ろへ下がった。その動きを予想できていたはずなのに、相手はあえて追ってこない。


 理由は分かっている。


 ──……もって、あと数合ってとこか。


 地面を滑りながら止まった瞬間、パタパタと傍らから雫が零れる音が響いた。意識を相手に置いたままチラリと視線を向ければ、袍の右袖がベッタリと鮮血で染まっている。ブラブラと力なく揺れる右腕は感覚がないくせに、時折思い出したかのように激痛を訴えていた。


 このままでは、遠からず黄季は血を流しすぎて死ぬ。対して黄季は相手に有効打を一撃も入れられていない。


 ──せめて血を止めたいけど……


 何度か間合いを開けて止血を試みたのだが、その度に相手には距離を詰められている。術で止めようにもいまだにこの場所は地脈が復活していない。黄季の技量で退魔術を行使することは不可能だ。


 ──初手で勝負が決まってた。


 相手は最初から黄季の自滅による出血死を狙っている。だからほどよく黄季をつつき、黄季の逃亡と傷の手当てを邪魔する程度の攻撃に留め、自分からは積極的に打ち込んでこない。


 そうでありながら、相手の腕前は明らかに黄季より上だった。相手に余裕が見えると分かるのに、その余裕を黄季が突き崩せないくらいには。


 ──主義を曲げるなら曲げるで、匕首じゃなくてちゃんと剣を持ち歩いておくべきだった。


 正直、万全な状態で正面からかち合っていた所で今以上の勝負になったかどうかも怪しい。握っていたのが紫鸞しらんで、正式な立ち合いで戦ってやっと互角といったところか。


 黄季はもう一度顔の前で匕首を構えると呼吸を整える。脳裏にぎったのは、最後に見た同期二人の泣き出しそうな顔だった。


 ──……民銘みんめい達、ちゃんと氷柳ひりゅうさん達と合流できたかな?


『民銘っ!!』


 民銘が突如現れた影に首をねられそうになったあの瞬間、黄季は護身用に隠し持っていた匕首を抜きながら民銘の首と大剣の隙間に腕を差し入れるように飛び出していた。


 本当は手首の内側に添わせるようにして出した匕首で大剣を受けきり、腕と肘で民銘を外へ弾き出すつもりだったのだが、初撃を流し切れずに攻撃をもろに右腕の内側でもらってしまっている。腱をやられてしまったのか、以降右腕は使い物になっていない。


 だが裏を返せば、黄季が右腕を犠牲にしていなければ、同じだけの傷が民銘の首にできていて、その瞬間に民銘の命は断たれていた。


『黄季っ!?』

『行ってっ!!』


 そのことを理解した瞬間、黄季は自分がこの場に残る道を選んだ。


『今なら氷柳ひりゅうさんも長官もこう先生も老師の所だっ!!』


 鮮血をしぶかせながらも、左腕で匕首を構えた黄季は同期二人を背に庇うように影の前に立ちはだかった。背中で聞いた民銘の悲鳴は明らかに泣いていたと思う。


『呼んできてっ!!』

『黄季っ!!』

『いいからっ!!』


 足元に血溜まりを作り出していた黄季の姿に、民銘のみならず明顕めいけんまでもが動揺していたのは分かっていた。


 それでも黄季が鋭い一瞥いちべつとともに殺気を載せて声を上げたのは、このままでは全滅すると分かっていたからだ。


『二人が残っても死ぬっ!!』

『黄季っ!!』

『行けっ!!』


 叫びながら黄季が前に出た瞬間、歯を食いしばった明顕が民銘を引っ張って走り出していた。


 黄季に分かったのはそこまでだ。以降は全ての意識を目の前の敵に向けていて、周囲がどうなっているのかは把握できていない。


 いや、把握できるだけの余裕を与えられていない。


 ──煌先生が間に合えば、最悪無駄死には回避できるはず。


 目の前の人物が黄季の予想通りの人物であるならば、自分は何としてでも三人がここに到着するまでこの人物をここに引き留めておかなければならない。そして引き留めに失敗するということは、三人の到着までに黄季の命がついえるということを意味している。


 ──俺の想像が的外れじゃないなら。


 恐らくこの人物は、ここで黄季を生きたまま取り逃がすような真似はしない。


 相手にとって『ばん黄季』という存在は、この上なく目障りなモノなのだろうから。


「……初手で狙いが民銘だったのは、なぜですか?」


 片膝をつき、左手で匕首を構えたまま、黄季は低く声を上げた。


「あなたにとって一番目障りな存在は、俺なんじゃないですか?」


 黄季の問いかけに、相手は外套の下で片眉をね上げたようだった。不快感からではなく、純粋に黄季の問いに驚いているようだ。


おん長官だけ殺せば事足りるかと思ってたみたいなことも言ってましたよね? どうしてそんなことになるんですか? 恩長官は、あなたの近しい同期だったんじゃないですか?」


 その反応に確信を得た黄季は、相手を見据えた目をすがめながらその名を口にした。


かく永膳えいぜん。あなたは何を考えて、こんなことを?」


 名を呼ばれても、相手に動揺の色は見えなかった。ただずっと口元に浮かんでいた笑みが深くなる。 


「そうか、気付いてたか」


 その笑みを声音にまで含ませて、人影は初めて黄季に向かって口をきいた。


「そんな発言が出るってことは、お前、本当にあいつらに可愛がられてるんだな」


 同時に、頭の上まで引き上げられていた外套がフワリと肩へ払い落とされる。


「伝説の中の俺だけ知ってても、そんな言葉は出て来ないだろうからな」


 外套が起こした微かな風に、長い黒髪がわずかに揺れた。光に当たると熾火おきびを思わせる暗い紅の艶を見せる黒髪の下では、同じ色の瞳が冷たく笑っている。


 上品な顔立ちをした男だった。それでいて浮かんだ笑みには獣のような荒々しさが垣間見える。氷柳と同い年で大乱時に一度亡くなっているならば肉体は二十歳のままであるはずだが、その年齢以上に大人びた印象があった。氷柳も氷柳で大概年齢不詳だが、そんな氷柳の隣に並んでも外見年齢的に特に違和感はないだろう。


 氷柳の美貌を氷の牡丹にたとえるならば、目の前の男はまさに炎の虎。受ける印象は真逆なのに、真逆であるからこそ隣に並べばこの上なく似合いの一対となるのだろう。そう思わせるくらいに、この男は見目も風格も氷柳に引けを取っていない。


「……その伝説の退魔師が、わざわざぺーぺーの新人達に、何の用ですか?」

「新人だろうが、玄人くろうとだろうが、俺は己の邪魔をする人間には容赦をしない主義なんだ」


 警戒を強める黄季の前でうっすらと笑みを深めた永膳は、大剣の横っ面で肩を叩くかのように片腕で大剣を持ち上げた。反対の手を腰に置いて上から黄季を見下ろす仕草は慈雲じうんも時折見せるものなのに、目の前の男の仕草には慈雲にはない気品がある。


「あの新人は、俺の仕込みを直に見て、その意味と意図が理解できていた。そしてあいつから話を聞いた慈雲も、何が仕掛けられていたか理解できたはずだ。俺達の影に隠れていても、あいつだって十分『天才』と呼ばれるに値する人間なんだから」


 ニコリとさらに笑みを深めた永膳の手元では、漆黒の外套とは対象的な純白の衣が姿をのぞかせていた。外套の前合わせの隙間から姿を見せている佩玉は、白が強く出た翡翠と鮮やかな赤輝石の組み合わせ。『虎に柳』の意匠は、『海』が暴走した時に現場に駆けつけてくれた氷柳が腰に下げていた佩玉と対になる物だ。氷柳が屋敷でいつも手にしていた煙管きせるにも、同じ意匠が刻まれていた。


「あの二人は、いずれ必ず俺の邪魔になる。だから消す。慈雲を消すと貴陽きよううるさそうだから、貴陽もついでに消す」


 どこからどう見ても、永膳の姿は氷柳の対に相応しいものだった。そうでありながら永膳は、平然と対である氷柳の周りにいる人間を……氷柳が大切に思っているはずである人々を消す予定であると口にする。


 その常軌を逸した思考の意図が、黄季には薄っすらと理解できてしまった。


「今度こそ全部しっかり焼き払って消しちまえば、もう誰も俺と氷柳の邪魔はできない。八年前は、こうすれば良かったことに気付くのが遅れたせいで好機を逃した。だから今度こそ、俺は禍根を残さない」


 ──やっぱり、この人は……


「……あなたの目的は」


 そこまで口にして、黄季は一度唇を躊躇ためらわせた。


氷煉ひれん比翼』を知る人間は、誰もが口にしていた。


『氷柳』という呼び名は、特別だと。その呼び名を郭永膳以外が口にすれば、永膳と氷柳の双方が怒りを露わにしたと。


 きっと今でもそれは、永膳の中では絶対だ。


 だけど。


「あなたの目的は、ですか」


 その『絶対』が、もう氷柳の中では『絶対』ではなくなったと、黄季は知っている。黄季のみならず、今を生きる氷柳の周りに集った人間も、そのことを知っている。


「あなたは、八年前も、今も、氷柳さんを完璧に己の手中に囲い込むために、動いているということですか?」


 だからこそ黄季は、あえて己からその逆鱗に触れた。分かりやすい挑発に、永膳の瞳がスッとすがめられる。


「……そうか。お前かよ」


 ユラリと、永膳の腕が上がった。底冷えする怒気を示すかのように、その腕に握られた大剣の周囲を紅の燐光が舞う。


「俺が丹精込めて囲ってた、とっておきの氷牡丹に色をつけやがったのは」

「知らないフリしなくてもいいですよ。どうせ全部知ってるんでしょ?」


 まるでいきなり目の前の人物が大妖に化けでもしたかのような圧が黄季に伸し掛かる。


 だが黄季はあえて正面からその圧を受け止めた。


「そして、このことも知ってるはずだ」


 チャリッと、左手の中で匕首が微かに音を立てる。不思議と、恐怖は感じなかった。


「あの人は、もうあんたが知ってるあの人じゃない」


 その言葉が音になった瞬間、永膳の瞳に紅の燐光が舞った。キュッと瞳孔が収縮した瞳は、黄季のことを完全に叩き潰すべき羽虫と認識して殺意を滾らせる。今までどこかに残っていた笑みが、永膳の顔から完全に剥がれ落ちた。


「……何も知らない雛鳥ガキが」


 それでも永膳が怒りに我を忘れることはなかった。狂気と理性と怒気で均衡を保ったまま、永膳は大剣の切っ先を真っ直ぐに黄季へ向ける。


「あれの成り立ちも、あれの来し方も、あれの内と外が何でできているかも知らないくせに、さかしらな口を叩くんじゃねぇよ」

「過去にしがみついてる亡霊が、未来を縛る言葉を紡ぐんじゃねぇよ」


 自分がこんなことを口にする資格がないことくらい、本当は黄季自身が誰よりも分かっている。


 黄季は、本当に何も知らない。氷柳の出自も知らなければ、過去にどんな風に周囲と関わってきたのかも、あの優れた退魔の腕をどうやって磨いてきたのかも。独り屋敷に引き籠もって過ごした八年間、胸の内に何を抱いてきたのかも。


 本当に、何も知らない。知らないのだと、大乱に端を発する事柄に接するたびに突きつけられる。


 その事実に触れるたびに、……自分が知らない場所で氷柳が自分以外の誰かと時を過ごしていることを意識するたびに、胸の奥には黒い靄が溜まっていくばかりで。


 ──そうか、この靄は。


 それを痛いほどに分かっていながらも、一番『氷柳』を知っている人物を相手に、引きたくないと今、こんなにも強く思っているのは。


 ──嫉妬、だ。


 曲がりなりにも自分が、氷柳の隣にいるから。隣に黄季を置きたいと、他でもない氷柳自身に選んでもらったから。


 目の前の人物が語る『氷柳』の中に黄季は確かにいない。


 だがそれが全てではないと、黄季は叫びたい。


「片翼のフリしてあの人を縛って落とす鎖は、とっとと灰に還れ」


 黄季の言葉に、今度こそ永膳の瞳から感情が抜け落ちる。その分の感情が溢れ出して姿を得たかのように、永膳の周囲には激しく紅の燐光が舞った。燃え上がるような燐光は次の瞬間、煉獄の炎へ姿を変える。


 キリッと、永膳の手の中で大剣が軋む。


 その音を聞いた瞬間、黄季は全力で地面を蹴って前へ飛び出していた。同時に、問答をしている間に密かに手の中に忍び込ませていた針を撃ち出す。


 黄季の血に濡れた針は、真っ直ぐに永膳へ襲いかかった。そのささやかな攻撃を永膳は軽く大剣で跳ね除け、改めて切っ先を黄季に据え直す。


「『我が血 我が身 かてし贄と為し 諸々もろもろ禍々まがまがを呪い落とせ』っ!!」


 その動きを予想できていながらも、黄季は永膳の間合いに飛び込む。同時に腹の底から呪歌を叫んだ瞬間、払い除けられた針が永膳からこぼれ落ちる燐光を吸い上げて琥珀色に煌めいた。その変化を視界の隅で捉えていたのか、永膳の瞳が丸く見開かれる。


 ──地脈は潰されてる。でも目の前にこれだけ大きな力の塊があれば……っ!!


 飛針が効かないことは分かり切っていた。


 真の狙いは、呪具である針を永膳の周囲ヘ打ち込み、地脈の代わりに永膳から呪力を吸い上げる機構を作り上げること。


「『血華けっか爆呪ばくじゅ』っ!!」


 黄季が流し続けた血と永膳から吸い上げた呪力を対価に、白銀の閃光が全てを吹き飛ばそうと収縮する。その気配を感じながら、黄季は大剣と永膳の体の隙間へ体を滑り込ませた。下から掬い上げるように永膳の首筋へ匕首を叩き込む。


 だがその全てが、届かないまま中途半端な位置で止まった。


「……っ!!」

「油断したなぁ、ひよっ子」


 カハッと開いた口から、押さえきれない鮮血がしぶいた。痛い、熱い、つらい、ということを考えるよりも『マズい』『やられた』という言葉と焦燥が胸中を駆け巡る。


氷柳あいつに匕首の使い方を教えてやったのも俺だって、お前は知らなかったわけだ?」


 黄季の体は、永膳の左手に握られていた匕首に貫かれて止まっていた。右腕一本で大剣を支え、左腕の匕首で黄季の体を刺し貫いた永膳は、黄季が突き出した匕首の向こうでわらっている。


「何も分かっていない、何も知らない雛鳥は、独りで落ちて、独りで死ね」


 笑みを含んだ呪詛の言葉とともに、黄季の意識はゆっくりと霞んでいく。


 その瞬間、消えゆく聴覚の端に、誰かの絶叫が引っ掛かった。




  ※  ※  ※




 恐怖に血の気が下がるとか。衝撃に息が詰まって言葉を忘れるとか。


 自分にそんな人間らしい反応ができるなんて、今の今まで知らなかった。


「っ……!!」


 地面に染み込みきれずに溜まった鮮血。いつの間にか傍らにあることが当たり前になっていた蘇芳すおうと、いつの間にか思うことを忘れていた白。その景色を漆黒と、剣の冷たい銀と、乱れ舞う紅の燐光が切り裂いていく。


 フワリとそよいだ風は、嫌でも八年前を思い出させる血なまぐさい臭いにまみれていた。


 それでもこの風が今という時間の中をそよいでいるのだと理解できたのは、その中心に立つ人物が今を生きる自分の相方だったからだ。


「黄季っ!!」


 そのことを理解させられた瞬間、己の喉から絶叫がほとばしっていた。


 だがその声に顔を上げたのは、求めた人物ではなく、その対面にした人物で。


「ああ、


 その人が、凍り付いたように立ち尽くす涼麗りょうれいを振り返って、ニコリと綺麗に笑う。


「お前が勝手に屋敷に上げた雛鳥クソガキ、片付けたから」


 記憶にあるままの顔で。記憶にあるままの表情で。記憶にあるままの声で。


 あの八年間、ずっとずっと記憶の中でなぞり続けた輪郭そのままに、郭永膳は笑っていた。


 その左手に握った匕首で、黄季の体を刺し貫いたまま。


「駄目だろう? 氷柳。俺が許可してない人間を勝手に屋敷に上げたりしたら」


 この声を再び耳にできる日を、ずっと夢想し続けてきた。請い願っては、そんな日は永久に来ることはないのだと、己の願いを否定し続けた。


 それだけ焦がれた声が今、ゾクリと背筋に氷塊を滑り落とす笑みとともに、涼麗に絶望を突きつける。


「浮気だなぁ、氷柳?」


 その一言とともに、匕首は振り抜かれた。ズルリと抜け落ちた黄季の体は、べシャリと地面に叩き付けられる。ピクリとも動かない体の周囲に、ジワリジワリと鮮血がにじんでいく。


「……っ!!」


 その光景が、目に飛び込んできた瞬間。


 涼麗は何かを思うよりも早く、両手に滑り込ませた飛刀を永膳に向かって投げつけていた。


 同時に、どこからともなく現れた慈雲と貴陽が両側から挟み込むように永膳に躍りかかる。手に偃月刀と呪扇を握りしめた二人の攻撃は、この中庭で漆黒の虎を相手にしていた時よりも鋭い。


 だがその全てが、ソヨリと動かされた大剣の一薙ぎで弾かれる。涼麗が打った飛刀はおろか、躍りかかった慈雲と貴陽の体までもが毬か何かのように弾け飛んだ。


「っ!?」

「慈雲も貴陽も邪魔すんじゃねぇよ。殺すぞ?」


 二、三回地面に叩き付けられた二人は、途中で体勢を整えると地面を滑るようにして止まった。そんな二人の内、貴陽の腕に黄季が収まっているのを確認した涼麗は、駆け寄りたい衝動を堪えて悠然とその場に立つ永膳を睨み付ける。


 ──今、下手に永膳の意識を他に向けるのは下策。


 涼麗の目でも、先程の永膳の動きを見切ることはできなかった。


 今の動きだけで、理解できた。いや、させられた。


 永膳は八年前よりも、その技量を格段に上げている。でなければ三人がかりの攻撃をこんなにあっさりといなされるわけがない。


 ──黄季の命を永らえるためには、下手に永膳の意識をあちらに向けるわけにはいかない。


 呪術医官であり、優れた後翼退魔師である貴陽ならば、この状況でも活路を切り開いてくれるはずだ。そう信じて、自分は自分でなければ対処できない相手の対処をするべきだろう。


「……永膳」


 何と声をかけるべきか迷い、結局名前を呼んだだけで声は途切れた。だがそれでも永膳は満たされたかのようにゆったりと笑みを深める。


 永膳は、無言のままだった。記憶にあるままの傲岸不遜な笑みで涼麗を見据えた永膳は、涼麗が次の言葉を紡ぐのを待っている。


 結局、わななく唇を一度噛み締めてから紡いだ言葉は、我ながらつまらない一言だった。


「何を、目論もくろむ」

「誰にも邪魔されずにお前といられる世界の構築」


 その言葉に、袂の中にある両手にグッと力がこもる。


 ──知っていた。


 もはや一周回って分かりたくもないくらい、心底本当に分かりきったことだ。問うた涼麗に否があるくらいに、郭永膳を知る人物ならば分かりきった事柄だ。


 それでも、切り口をここにしたのは、どうしても問わずにはいられない問いが、この後ろに続くからだった。


「八年前の大乱も、お前が仕組んだことだったのか?」


 八年前の大乱末期の時点で、永膳は己の目的のために大乱を利用することを心に決めていた。そうでなければこんな大それた仕込みができるはずがない。あの大乱の終結の仕方には、少なからず永膳の思惑が絡んでいる。


 涼麗に分からないのは、どこまでが永膳が描いた筋書きなのかという部分だった。


 当時の状況から考えれば、根本的な部分から永膳が全てをくわだてていたとは考えにくい。あの大乱の芽は、永膳の当時の立ち位置ではどう考えても手が出せない部分にあったのだから。


 ──だが、永膳ならば。


 あの当時、すでに涼麗の思惑を越えた策略を思い描いていた永膳ならば。あるいはその知略を駆使して、大乱を根本から勃発させることもできたのかもしれないと、今の涼麗は思う。


「お前は、八年前も……!」

「安心しろよ。は俺が撒いた種じゃない」


 涼麗が何を言わんとしているのか、永膳には分かったのだろう。あるいは涼麗がこの問いを口にすることさえ、永膳には予想できていたのかもしれない。


「だって、そうだろう? 俺がイチから仕込んでいたことならば、今こんなことにはなっていない」


 その言葉を、涼麗は肯定もしなければ否定もしなかった。だがそんな涼麗の内心さえ見透かしているかのように永膳は言葉を続ける。


を使えば厄介事が全部綺麗に片付くと気付くのがかなり遅くてな。おかげで八年も無駄にした」


 何千、何万という無辜むこの民を巻き込んだあの争いを便利道具のように軽く言い放った永膳は、やれやれと言わんばかりに息をついた。


「その八年の間にお前は浮気に走ってるし、本当に己の愚策を呪いたい所だ。八年間の留守番くらい、お前は問題なく務められると思ったのに」


 永膳が紡ぐ言葉は、いつだって、どんな内容だって、涼麗の反論は受け付けていない。出会った時から離別の時までずっとそうで、絶対だった。そのことに涼麗は今この瞬間まで疑問を抱くことさえなかった。


 だが。


「……留守番?」


 その言葉に、サリッと、心の奥底が不愉快に揺れた。


 いや、気付いてしまえば、本当は最初の一言目から。


 ずっと渇望してきたはずである声が、今の自分には耳障りなものにしか聞こえない。そのことに戸惑う余地さえなく、今の永膳の声は涼麗の心を不快に波打たせる。


「あの八年が、留守番だと?」

「俺はあの屋敷に帰る予定だったし、現に帰ってきた。お前はあの屋敷で俺の帰りを忠実に待っているはずだった。『留守番』だろ?」


 一瞬キョトンと『何を問われているのか分からない』といった顔をさらしてから、永膳は再び笑みを深めた。


 嗜虐心が滴るような、絶対君主の笑みを。


「ああ、そうだ。そんな簡単なことさえできなかったお前には、罰を与えないとな」


 思い出したように口にした永膳は、左手に握っていた匕首を山なりに放った。涼麗の三歩先の地面に転がった匕首は、黄季の血にまみれたままガシャンッと寒々しい音を立てる。


「お前の手で処分しろ。俺への最低限のケジメだ」


 何を差して、どうしろと言われているかなど、この状況ならば幼子でさえ分かることだった。


 それでも涼麗の頭は、その言葉を理解することを拒む。己の根幹を、『てい涼麗』という存在の全てを創り上げた絶対君主の声に、生まれて始めて明確な反抗が芽生える。


 だというのに、冷然と笑みかけられた瞬間、怒りの声は喉の奥で絡まったまま凍て付いた。


「なぁ? ? お前は今でも、俺のモノだよなぁ?」

「……っ!!」


 八年前ならば。


 あるいは、黄季に出会う前ならば。


 自分はこの問いに、頷くことができた。迷うことなく、迷うという選択肢すらなく、ただただ絶対君主の気に入りの人形のままでいられた。そんな自分に疑問などなく、疑問を抱くということさえ知らず、八年の隔たりなど一切感じないまま、ただただ主の帰還を受け入れられただろうに。


「『天に在りては比翼の鳥 地に在りては連理の枝』」


 無言のまま青ざめた涼麗に何を思ったのか、不意に永膳は笑みを浮かべたまま、歌うように呟いた。


「『今生に在りて、私は貴方の剣 貴方の盾 貴方の願い 貴方の望み』」


 その言葉が何であるか思い至った瞬間、涼麗は己の指先が震えていることに気付く。永膳によって口ずさまれる言葉に、己が縛り上げられていくのが分かる。


 分かっていながら、今の涼麗にはそれに抵抗するすべがない。


「『貴方様のお望みのままに この身、この魂が尽きるその瞬間まで 貴方様の願う形で 貴方様の御命令のまま 貴方様の御側にのみ在ることをここに宣誓致します』」


 誰も、……涼麗であっても、過去に己が口にした言葉をなかったことにはできないのだから。


「呪術師にとって、言霊を以て交わした宣誓は絶対。……だよなぁ? 氷柳?」


 氷煉ひれん比翼の、宣誓文言。


 かつての涼麗は、泉仙省せんせんしょう入省よりも先に永膳と比翼宣誓を交わした。その宣誓文言を口にしたのは涼麗だが、文面を考えたのは永膳だ。涼麗は永膳に命じられるがまま、何も感じることなくその宣誓を口にし、永膳は当然その宣誓を受けた。


 その宣誓に、自分が何かを思う日が来るなど、想像することさえないままに。


「さぁ、お前が全てを捧げると誓った相手が帰ってきたんだ。全部清算して、俺の手を取るのは当たり前のことだよなぁ?」


 指先の震えが止まらない。投げかけられる言葉に耳を塞ぎたいのに、そんな些細な仕草さえ、永膳を前にすれば己には許されない。


 呪歌を以て妖怪と戦う呪術師達の宣誓は、場合によっては命よりも重い。


 その重みに雁字搦めにされたまま動けない涼麗に向かって、フワリと永膳の手が差し伸べられる。


「さぁ、氷りゅ」


 ……その手が、不意に視界の端で閃いた銀によって弾かれた。


「っ!?」


 かろうじて手を退けた永膳の袂を切り裂くように飛んだ匕首は、二人の間を通り過ぎるとそのまま建物の壁に深々と突き刺さる。鈍い衝突音に弾かれたように振り返れば、視線の先には貴陽がいた。黄季の手当てをしていたはずである貴陽は、顔中に焦りを広げたまま腕の中に視線を落としている。


 その視線の先で、ズルリと、どす黒く染まった蘇芳の袍の袖が動いた。


「……から……………って、……だろ」


 息を詰める涼麗の視線の先で、明るい茶色の瞳が、真っ直ぐに永膳を睨み付けていた。息をするのもやっとという状態だろうに、それでも霞んだ目で、黄季は永膳をめ付ける。


「だから、片翼のフリして、縛って落とす鎖は、とっとと灰に還れって、言ってんだろ……っ!!」


 掠れた声は、細く、弱い。


 それでも、いつだってその声は、涼麗の心に強く響く。


 空を行くための翼を与えられず、鳥籠に囲われていた自分を、大空に押し上げてくれた声。


「……お前」


 永膳の殺意が乗った視線が黄季に据えられる。


「っ!!」


 その瞬間、涼麗の両腕は飛刀を繰り出していた。震えが止まった両腕によって打ち出された飛刀はそれぞれが異なる機動を描きながら永膳に襲いかかる。即座にその攻撃に気付いた永膳は軽やかに大剣を操ると全ての飛刀を叩き落とした。


 だが永膳ならばそれくらいのことはやってのけると、涼麗だって予想はできている。


「『その泉に水を注げ 汝は神のとい 雨神のかいな』っ!!」


 涼麗は印を結ぶと腹の底から叫んだ。永膳に払い落とされたことで永膳の足元に突き刺さった飛刀が永膳の力を吸い上げ、霊力を爆発させる。その力を呼び水にして、地脈が枯れた中庭に周囲から気脈が津波のように流れ込む。


 その瞬間を、涼麗の同朋は見逃さない。


「『万魔ばんま調伏ちょうぶく』」

「『絶鬼ぜっき祓魔ふつま』」


 永膳を挟む形で散開していた慈雲と貴陽が次々と複雑に印を切る。呪歌を割ってうたった二人は、最後にパンッと揃えて柏手を打つとピタリと声を揃えて叫んだ。


「『顕現せよ 業羅ごうら炎簫えんしょう火界かかい結界呪けっかいじゅ』っ!!」


 その呼び声に応えた業火が、一瞬で永膳を飲み込む。突如燃え上がった火柱に煽られ、暴風が辺り一帯を薙ぎ払う。


 ──やったか……!?


 炎術使いである永膳に炎術を向けるのは本来下策だ。だが永膳の呪力を元に地脈を無理やり呼び込んだ今、この場所に流れ込む力は強い炎気を帯びている。ならばその力で展開させる術は炎術系統の方が使い勝手がいい。


 今、慈雲と貴陽によって展開された結界呪は、恐らく人間が命を削らずに行使できる最高等級の炎術結界だ。これ以上の威力を欲するならば、術者の命を対価に乗せるしかない。


 それこそ、あの大乱を終結させた大術を行使する時のように。


 ──それに、王城の中でこれ以上のことをするのは……!!


「……はぁーあ」


 状況の悪さに涼麗はギリッと奥歯を噛みしめる。


 だが再び国を焼くことを望む男は、これしきの炎では止まらなかった。


「温くてアクビが出るわ」


 ザンッと、風が鳴った。炎を纏った大剣による一薙ぎで、地獄の業火は呆気ないほど簡単に蹴散らされる。


「俺の体を灰にしやがった炎は、もっと熱かったぜ?」


 纏わりついた霧雨の雫を払い落とすかのように、永膳は身に纏っていた漆黒の外套を片手で剥ぎ取りながらつまらなさそうに呟いた。最後まで永膳に纏わりつくように残っていた炎も、そのひとはたきで姿を消す。外套の下から現れた白衣びゃくえには焦げ目のひとつもなく、腰元で揺れる白翡翠と赤輝石の佩玉は火明かりを受けて一層強く煌めいていた。


「おいおいおい……」

「……うそ」


 その光景を目の当たりにした慈雲と貴陽が言葉を失う。


 そんな中、涼麗だけは懐から匕首を抜くと逆手に構えた。


 永膳の視線が、初めて己に叛意を見せた涼麗に据えられる。絶対君主であった永膳に底冷えする視線を向けられても、なぜか今は先程まで感じていた息苦しさを感じなかった。


「……思っていた以上に、シミ抜きは大変そうだな」


 その覚悟が、永膳には分かったのだろう。あるいは単純に、思い通りにならない現実に苛立っていただけなのか。


「まぁいい。どうせ今日は宣戦布告に来ただけだ」


 ザンッと空気を断ち切るように煉帝剣れんていけんを振り降ろした永膳は、表情がかき消えた顔を涼麗に向け、ハッキリと口にした。


「俺はもう一度この国を焼く。全て焼き払って、今度こそ俺の桃源郷を創り上げる」

「焦土に屍でか」

「どうせ屍なんか残らねぇよ」


 煉帝剣が通った軌跡に炎が燃え上がる。その裂け目が割れた向こう側には、この中庭とは違う景色が映っていた。


「お前以外の存在なんか、残すつもりはねぇからな」


 言い放った永膳は、そのまま裂け目の向こう側へ身を投げる。反射的に慈雲の体が後を追うように動きかけたが、裂け目を塞ぐように燃え上がった炎が消えた後には何の変哲もない中庭の光景だけが目の前に広がっていた。


「…………」


 その景色に、涼麗は奥歯を噛みしめる。


 悪夢の名残を示すかのように氷柳の足先に転がされたまま放置された血まみれの匕首は、何の厭味なのか氷柳の手の中で軋みを上げる匕首と同じ装飾が成されていた。

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