※※

 目を開けて初めて、自分が気を失っていたのだと気付いた。


 不明瞭な視界は、かろうじて闇に沈んだ天井らしきものを映している。背中と後頭部に触れた感触で、自分がどこかに寝かされているのだと分かった。


 普段寝覚めはいい方なのに、今はやたらとまぶたが重い。シパ、シパ、と億劫おっくうしばたたかせた瞼をもう一度閉じて数秒待てば、また眠りの世界へ戻っていけそうな気がする。


 だがそんな黄季おうきを、すぐ傍らにあった気配が止めた。息を呑む小さくて鋭い音が響くと同時に、繋がれていた左手にキュッと力が籠もる。


 それが誰であるのか分かった瞬間、黄季は思わず口のに淡く笑みを浮かべていた。


 ──しばらく前は、立場が逆だったのにな。


 おまけに前回、黄季は途中で寝落ちしてしまったのに、今回どうやら向こうはずっと起きたまま黄季を見守っていたらしい。これでは弟子としても相方としても面目が立たないではないか。


「……ひ、りゅ……さん?」


 上げた声は、ひどく細くて掠れていた。それでも相手はきちんと聞き取ってくれたのだろう。傍らにあった気配がガバリと勢い良く跳ね上がり、傍にあるようになっても事あるごとに見惚れてしまう美貌が黄季の視界に割り込んでくる。


 そのかんばせを見た瞬間、黄季は思わず目を見開いていた。


 ──……氷柳ひりゅうさん?


「っ……、……っ…………」


 黄季の左手を握りしめたまま椅子を蹴って立ち上がった氷柳は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。氷の牡丹にたとえられるその美貌にここまで分かりやすい感情が浮かんだ所を、黄季は初めて見る。


 言葉もなく震えていた唇は、結局言葉を発しないままキュッと引き結ばれた。それと同時に氷柳は全身の力が抜け出たかのように黄季が寝かされた寝台へ突っ伏すように崩れ落ちる。


「えっ、ちょっ!? 氷りゅ、……っ!!」

「……良かった」


 何ごとかと思わず跳ね起きようとした瞬間、左胸と右腕に鈍く痛みが走った。


 その痛みに体を起こせないまま寝台へ逆戻りすると、くずおれた氷柳から微かな声がこぼれる。訳が分からないまま氷柳へ視線を投げると、氷柳は今まで聞いたことがない響きの声で独白を落とした。


「お前に、っ……、万が一のことが、あったら……っ!!」


 ──いや、前に一度だけ、氷柳さんのこんな声、聞いたことがあったな。


 浄祐じょうゆうとの翼位よくい簒奪さんだつが成立してしまった、あの現場で。


 氷柳は今と同じ、悲痛な声を上げていた。


 あの時のことにぼんやりと思いを馳せた瞬間、ようやく黄季は己の身に何が起きたのかを思い出す。


 ──俺、生きてる……


 己の体に匕首ひしゅを突き立てられる感触が、いまだに生々しく残っているような気がした。


 あの刃は確実に心臓を狙って振るわれたはずだ。そうでなくてもそこに至るまでの過程で黄季は血を流しすぎている。生き延びることができたのは、もはや奇跡と言ってもいい出来事なのだろう。


 その奇跡をどこか他人事のように受け止めながら、黄季はいまだに黄季の手を握りしめている氷柳を見つめた。


 ──それに、氷柳さんも、無事だった。


 黄季がこうして助かったということは、あの現場に氷柳達三人が駆けつけてくれたということなのだろう。それは同時に、氷柳が永膳えいぜんと再会したことも意味している。


 そのことに気付いた瞬間、傷口以外の場所がギュッと痛んだような気がした。


「氷柳さん」


 そっと、呼びかける。


 もしかしたら反応はないかもしれないと思っていたのだが、氷柳は黄季の手を握りしめたままソロリと顔を上げた。小さな灯火だけが灯された闇の中でも艶やかだと分かる黒髪に縁取られた秀麗な顔が、泣き出しそうに揺れたまま、それでも真っ直ぐに黄季を見つめてくれる。


 そのことに、なぜか少しだけほっとした。


「あの、……大丈夫、ですか?」


 頭が回らないまま紡いだ言葉は、我ながら漠然としていた。自分で口にしていながら『いや、大丈夫も何も、この状況は絶対大丈夫ではない』と分かってはいたのだが、ならば何と問えばいいのかも分からない。


 ──あ。『かく永膳と再会して』ってつけた方が良かった、かも?


「あの」

「私の心配をする前に己の身の心配をしろ、このたわけっ!!」


 いつになく動きが鈍い頭で補足の言葉を見つけた黄季が口を開く。


 だが黄季が声を発するよりも、氷柳から怒声が上がる方が早かった。


「え、でも、氷柳さ」

「前に簒奪が成立した時もそうだった!! お前は私の心配ばかりで……っ!!」


 無表情が常で、声もいつだって淡々としている氷柳が、今は分かりやすいほどはっきりと怒りを露わにしていた。その矛先が黄季に向くのは初めてだ。


貴陽きようの処置があとわずかにでも遅れていたらっ!! お前を刺し貫いた匕首があとわずかにでも左に逸れていたらっ!! お前は……っ!! お前は……っ!!」


 初めてのことに黄季は息を詰めたまま固まる。対して柳眉を跳ね上げた氷柳は、途中で声が喉に詰まったかのように言葉を途切れさせた。


 本当に何か物が喉に詰まったかのように苦しそうな顔を見せた氷柳は、両手で握りしめた黄季の手にすがるように顔を伏せる。その手がいまだに細かく震えていることに、黄季はこの時ようやく気付いた。


「お前はあの場で、死んでいたと……っ!!」


 血を吐くように紡がれた言葉に、黄季は声もなく目を見開く。


 同時に、繋がった手からゆるく自分へ向かって呪力が流れ込んできていたことにようやく気付いた。氷のように涼やかな霊気は、間違いなく氷柳の呪力だ。その力が、今にも壊れそうな自分の体を今もジワジワと癒やしてくれているのが分かる。


 ──ずっと、こうして?


 似たようなことを、黄季も氷柳が刺された時にやった。だがあれとこれとは成されていることが微妙に違う。


 黄季は単純に氷柳へ地脈から吸い上げた呪力を流し込んだだけだが、今氷柳が行使しているのは治癒術だ。周囲の霊気を直接取り込んで己の活力に変換できる氷柳と違い、黄季はごくごく普通の人間だ。ただ力を流し込まれただけでは傷は癒えない。


 ──もしかして、こうしてくれていなかったら。


 今でも自分の中で、壊れていこうとする肉体と治癒術が拮抗しているのが分かる。傍にいるのが貴陽ではなく氷柳で、黄季の意識が回復したということは、本格的な山場は越えたということだろう。だが氷柳からの呪力の供給が途切れた瞬間、塞がっている傷が浅く開くくらいのことはあるのかもしれない。


 ──俺、思っていた以上に、死にかけてたんだな。


 だがそれが分かっても、黄季は自分のこと以上に氷柳の内心が心配だった。


 それは郭永膳が氷柳に向ける執着に、直に触れたからなのかもしれない。


「……えっ、と」


 問いただしたいことはたくさんある。だがそれを考えなしに口に出してしまうと、余計に氷柳を傷付けそうなことは、何となく今のやり取りで分かった。


 ──というか、郭永膳と直接顔を合わせた後だろうに、俺のこと、こんなに心配してくれるんだ。


 黄季が瀕死の重傷という切羽詰まった状況に置かれていたせいなのかもしれないが、それでも治療を貴陽に任せて氷柳は対永膳に集中するという選択もできたはずだ。永膳のことで頭が一杯になっていたら、そうせざるを得なかったはずだ。


 それでも氷柳は今、黄季の傍にいてくれる。黄季の言葉に真剣に怒り、心の底から黄季の死を恐れてくれている。


 ──もしかして……初めてじゃ、ないか?


 大乱が起きてから、ずっと。


 家族以外は皆、黄季に『ばんの麒麟児』として戦場に立つことを望んできて。大乱が終わって親しい人がいなくなってからは、黄季をかえりみてくれる人なんて、いなくて。


 ずっと、ずっと。こんな風に己の死を恐れてくれる人なんて、いなかった。


「あの、具体的に俺、全治どれくらいなんでしょうか?」


 そのことに、ツンと鼻の奥が痛んだような気がした。


 それを誤魔化しながら、黄季はそっと氷柳へ問いを投げかける。


「……傷は、全て貴陽が治癒術で塞いだ。後遺症も残らないと聞いている。呪詛のたぐいが仕込まれていないことは、私が確認した」


 氷柳はしばらく無言だった。だが黄季が根気強く待つと、モソモソといつもよりも聞き取りづらい声で答えをくれる。


「ただ、治癒術というものは、傷を塞ぐために患部の周囲を無理やり活性化させる技だ。無理をさせた部位は、本来の状態に回復するまではもろい。無理をすれば、傷は簡単に開く。そうでなくてもお前は血を流しすぎた。外へ流れ出てしまった血は、治癒術でも回復させられない」


 決して万能な技でもなければ、代償がない技でもない、と氷柳は言葉を続けた。それに黄季は顎を浅く引くことで応える。


「三日はここで絶対安静。ひと月は現場に出るのを控えるように。……それが処置を終えた貴陽の診断だ」

「……そう、ですか」


 瀕死の重傷を負ったのだ。後遺症もなくその程度で済んだならば御の字と思わなければならないだろう。命を救ってくれた貴陽には感謝してもしきれない。


「その間、氷柳さんは……?」

「私も現場には出ない。当たり前だろう」


 もしかして単騎で暗躍するのだろうか、と考えた瞬間、キュッと手にこもる力が強くなる。答えた声は先程よりもずっと硬い。


「私の翼はお前だけ。そう言ったはずだ」


 その言葉に、黄季は我知らず息を詰めていた。


 そうであるはずなのに、意図せぬ内に言葉はこぼれ落ちていく。


「郭永膳と、会ったんですよね?」


 黄季の問いに、氷柳は答えなかった。


 ただ、繋がった手が一度、大きく震える。


「それでも……その言葉は、有効、なんですか?」


 氷柳のことを、黄季は何も知らない。そのことを自覚していたし、郭永膳とやりあってさらにまざまざと突き付けられた。


 そんな黄季でも、氷柳の中でどれだけ永膳が重い存在であるのかだけは、漠然と知っている。


 八年の時を経ても、氷柳の心の一番大切な場所に居座っているのは永膳であるのだということも。姿を消して八年が経った今でも、氷柳を始めとして慈雲じうんや貴陽達の間に永膳の存在がいかに鮮やかに刻まれているのかということも。


 ごくごく普通に接しているだけで、理解が及んでしまう。自分は部外者であるのだと、その度に突き付けられる。


 ──正直に、言ってしまうならば。


 自分はきっと、郭永膳に比べれば、酷くちっぽけな存在で。そのことに傷付いたり、面白くないと思ってしまう以前に、比べること自体が烏滸おこがましいほどで。


 ──俺を相方に選んでくれたのは、郭永膳がこの世にいないっていう前提が、あったからで……


 永膳相手には、あれだけのことが叫べた。認めないと、さっさと灰に還れと、敵意を叩き付けることができた。


 だがその思いを、黄季は氷柳を相手には口に出せない。


 どれだけ黄季にとって郭永膳という存在が気に喰わなくても。氷柳の中での郭永膳は、そんな言葉を向けていい存在ではないのだろうから。


 ──俺と郭永膳が並んだら、氷柳さんは郭永膳の手を、取るのかと……


「……お前に出会う、前ならば」


 不意に、密やかな声で、言葉が紡がれた。


 その言葉に黄季の意識はスッと引き付けられる。


「私は、永膳が目の前で誰を殺そうとも、何とも思わなかった。……今でも正直に言ってしまえば、顔見知り程度ならば、何とも思わないかもしれない」


 すがるように伏せられていた顔が、いつの間にか上げられていた。いつだって涼やかな瞳は、ユラユラと揺れながら繋がった手に視線を向けている。


 その瞳が、痛みをこらえるかのようにキュッと引き絞られた。


「でも、お前だけは」


 同時に、繋がった手に力が込められる。手の震えさえ握り潰すほどに込められた力が、今の黄季には少し痛い。


「お前だけは殺されたくないと、あの時、思った。たとえその結果、もう一度永膳を灰に還すことになったとしても」


 初めて触れた時は冷たさばかりを感じた手が、今は黄季以上の熱を持っていた。


 その温もりとともに告げられた言葉に、今度こそ黄季は言葉もなく目を見開く。


「永膳に反旗を翻すことになっても。……私を形造った根本に、私の存在理由に逆らうことになっても、私は……っ、それでも、私は……っ!!」


 キッと、氷柳の視線が黄季に据えられる。先程まで確かに揺れていたはずの瞳が、今は揺れることなく黄季だけを見ていた。


 出会った頃は薄氷うすらいのようだとばかり思っていた瞳が、今は並の人以上にその心を語る。


「私はっ! あいつに刃を突き立ててでも、お前を殺されたくないと思ったんだっ!!」


 その叫びに、一瞬、何と答えればいいのか、分からなかった。自分の胸につかえたその感情が、嬉しさなのかも、驚きなのかも分からない。


 ただ。


「だからっ、私の翼はお前だけだと言っているっ!! 分かったかっ!? 分かったならば私のためにももう少し己を大切にしろこの戯けっ!!」

「氷柳さん」


 氷柳に取られた左手をそのままに、黄季は苦労して上半身を起こすと右手を氷柳に向かって伸ばした。剣術鍛錬と家事炊事のせいで荒れている指先で申し訳ないなと思いながらも、黄季は伸ばした指先をそっと氷柳の目元に添える。


「その……色々と、すみませんでした」


 その指先に、深い漆黒の瞳からこぼれ落ちた雫がコロコロと伝っていく。添えられた指の感触に驚いたのか、あるいは自身が泣いていることに驚いたのか、一瞬だけ目を丸く見開いた氷柳は次いでキッと黄季を睨み付ける。


 そんな氷柳に、黄季は思わず笑ってしまった。


 ──ここまで言われちゃったなら、俺も腹くくらなきゃな。


 すでに括ったつもりではいたけれども。


『遠慮』とか『配慮』とかいう言葉に逃げていたことをきちんと自覚しなければならないくらいには、腹を括り直す必要性があったのかもしれない。


「すみませんついでに、教えてくれませんか」


 その事実を噛み締めて、黄季は真っ直ぐに氷柳を見つめた。


「氷柳さんと、郭永膳のこと」


 今まで踏み込みきれずにいた領域に、踏み込む言葉とともに。




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