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 ヒトとは思えぬ麗しい顔立ちをしていたから、れいと呼ばれていた。


 そこに『涼やかに』という意味を載せて、涼麗りょうれい


 そう名付けたのがそもそも永膳えいぜんだったと、氷柳ひりゅうはポツリと口にした。


「私は実の親の顔も知らなければ、名も知らない。物心ついた頃には、花街の裏路地の暗がりで独り暮らす、浮浪児だった」


『すみませんついでに、教えてくれませんか。……氷柳さんと、かく永膳のこと』


 黄季おうきがそう切り出してから、しばらく氷柳は無言だった。ただ、その無言が拒絶ではなく言葉を探すための沈黙であったことを、今の黄季は知っている。


「幸か不幸か、私は多少食料にありつけなくても死なない体質だった。……思えば私が食物よりも周囲の霊気を取り込んで生きる糧とするようになったのは、この時分の生き方が影響しているのかもしれない」


 繋がったままの黄季の手に視線を落として、氷柳はポツリ、ポツリと、己の来し方を語り始めた。


「生きるために、何でもやった。誰に教わらずとも、地脈の動かし方は分かったから、身を守るために、その技も使っていた。……私は、見目が良かったからな。ただの子供よりも、多少は楽に生きられたんだろう」


 醜いモノと美しいモノならば、人は美しいモノを選ぶ。


 そういう意味で、氷柳は物乞いでも、一夜をしのぐ軒先を見つけることでも、得をしていたという。その美しさの見返りを求めるモノどもには、暴を以って返していた。


 その分、浮浪児時代の氷柳は周囲に人を置かなかった。力も弱く権力もない浮浪児達は自然と肩を寄せ合うように群れるものだが、氷柳は意図的にそういった集団からは距離を置いていたという。


 異端なモノは、弾かれる。集団に属せば、その集団そのものが生き延びるための贄にされると、本能的に覚っていたからだろう。


「生き延びるためではあったが、様々な人間をひねり潰してきた。人買いも、破落戸ならずものも、私が目障りだった浮浪児の集団も。……生きて返せば報復されると分かっていたから、徹底的に潰した」


 当時の氷柳からしてみれば生き延びるために必要なことだった。だがその鬼のような所業は、やがて『花街に悪鬼が巣食い、人々をおびやかしている』という噂に成長してしまい、呪術大家四鳥しちょうの耳にまで届いてしまう。


 そこで討伐に乗り出してきたのが、家督を息子に譲って隠居した先代郭家の当主と、郭の若君……氷柳の師となる瑞膳ずいぜんと、主となる永膳だった。


「本能的に地脈から力を引き出して使えたと言っても、当時の私にできたことはただ力の塊を相手にぶつけることだけだ。私が郭本家の人間に敵うはずもなく、私はそのまま殺されることを覚悟した」


 瑞膳は、氷柳の予想通りに氷柳を殺そうとしたという。


 当時の氷柳は器こそヒトであったものの、その規格もありようもヒトより妖怪に近かった。技を持たず、世間の道理どころかろくにヒトの言葉さえ解さない幼子でこれだけの災厄を周囲に撒き散らすのだから、これが長じて技と道理と言葉を解すようになればどれだけの化け物になるかも分からない。そうなる前に殺してしまえ、それがいっそこの災児にも慈悲となる、というのが瑞膳の考え方だった。


 だがそれを、同行していた永膳が止めた。


 ──御祖父おじいさま、逆に考えてみてはいかがでしょう?


「『これだけ類稀たぐいまれなる器を持って生まれてくる者はそういません。ヒトの言葉を知らない状態だからこそ、我々に都合の良い言葉だけを教え込める。研げば郭家の最強の剣と成すことができるでしょう』」


 何より、私はこれを気に入りました。これは獣でありながら、こんなにも美しい。手ずから世話をして華とすれば、どれほど美しく咲き誇ることでしょう。


 ですから、殺すくらいならば、私にくれませんか?


 永膳はそううそぶいて、綺麗に笑ってみせたという。


「瑞膳師父は、それでも乗り気ではなかった。だが永膳がその場で私に絡まっていた陰の気と、土地に巣食っていた陰の気、全てを纏めて修祓してしまってな。こいつの行動の責任は全て己が負う、連れ帰ることにも支障はないと言い張る永膳に、瑞膳師父は反論材料を与えられなかったんだ」


 当時から永膳は、郭本家の血を引く人間の中でも頭ひとつ抜けた実力の持ち主だったという。


 当主の子は本腹も妾腹もいて、永膳には本邸で暮らすことを認められた妾腹の兄が数人いたはずだが、氷柳が郭家に引き取られた時にはすでに兄達を差し置いて永膳が次期当主として扱われていた。永膳の行動に周囲は文句を言えないという空気が、齢八歳にしてすでに郭家の中にできていた。


「私は郭本家に最初、『若君の新しい玩具おもちゃ』という立ち位置で迎え入れられた」


 永膳は朗らかに見せかけていて、酷く気難しい性格をしていた。長じてからもそうだったが、幼い頃はそれが顕著だったという。


 郭家当主の子、さらに次期当主候補ともなれば従者なり御学友なりが配されるものだが、永膳はその全てを『気に入らない』という理由で片っ端から突き放していたらしい。中には家のしがらみから突き放しただけでは折れない剛の者もいたらしいが、そういう者には裏から手を回して向こう側から断りが入るようにしていたという噂もあった。


 それだけ『人嫌い』であった永膳が、自ら望んで手元に置いた『お人形』。


 それが永膳によって『てい涼麗』と名付けられた花街の麗鬼……後の氷柳であるという。


「歯向かえば簡単にくびり殺されることは分かっていたから、抵抗はしなかった。永膳や瑞膳師父はもちろん、当時の私では郭家に詰める誰にも敵わないことは、本能で分かったからな」


 ヒトの道理を知らない氷柳には、生存本能しかない。獣というものは、生き延びるために強い獣には服従するものだ。


 獣の道理で屈服させた氷柳を、永膳はそれはそれは構い倒したという。手ずから衣食住の世話をし、言葉を教え、礼儀作法から退魔術まで仕込み、気付いた時には氷柳は永膳の弟弟子として瑞膳を師父と仰ぐことを許される立場になっていた。


 永膳に世話をされていたせいで氷柳の立ち居振る舞いは何気ない仕草に至るまで永膳の癖が移っていて、数年が経った頃には氷柳は永膳の傍らにあっても違和感がない品のある少年に成長していた。


「飢えることなく、寒さを感じることもない生活は、私には快適なものだった。快適であれば、出ていく道理もない。学を覚えなければならないことは苦痛だったが、漠然としか扱えなかった霊気を退魔術という形で行使できるようになるのは、それまで自由に動かせなかった手足を上手く扱えるようになる心地に似ていて、酷く楽しかった」


 氷柳が退魔師としての頭角を現すようになると、氷柳の郭家の中での立場はグッと強くなった。氷柳の立場は『永膳の玩具』から『永膳の小姓』に上がり、物から人へ……召使いの一人として認識されていくようになった。


「その頃から、なのかもしれない。永膳の執着が深くなったのは」


 あるいはその執着は最初からで、永膳が周囲を警戒するようになったのがその頃からだったというだけか。


「小姓、というのは、主の身の回りの雑用をこなすためにある存在だろう? 周囲が私をそう見なして用事を振ってくるから私もそれに応えていたのだが。……ある日から、その用向きを、一切振られなくなった」


『涼麗は、俺の傍にいるだけでいい』


 そう言って、永膳はいつも通りに綺麗に笑っていた。


 涼麗にとって、永膳は主であり親だ。永膳によって物を教えられ、永膳にとって都合のいい言葉だけを注ぎ込まれた涼麗にとって、永膳の言葉は世の真理だった。


 だから涼麗は、永膳の言葉を疑う余地もない真実として受け入れた。なぜパタリと周囲の人間が自分に関わらなくなったのか、なぜ永膳がより厳重に自分を閉じ込めるようになったのか、その理由を考えることさえなかった。


 思い返せば当時の氷柳は『疑う』ということも『考える』ということも知らなかったような気がする。


 己が永膳によって小さな鳥籠の中に囲われているということに気付くまで、随分と時間がかかった。あの頃、屋敷の人間が次期当主候補気に入りの見目麗しい少年に興味を抱き、距離を縮めようとし始めたから永膳が手を打ったのだと気付いたのは、永膳が隣にいなくなってからだったと思う。


「私が『外の世界』と呼べるもの……永膳以外の存在と交流を持つようになったのは、永膳の相方として泉仙省せんせんしょうに出仕するようになってからだ」


 思い返せば、永膳はよく氷柳を外に連れ出す決断をしたものだと思う。出仕直前の永膳は、それこそ瑞膳との鍛錬の時くらいしか氷柳に部屋の外へ出ることを許していなかったのだから。


 逆を返せば、永膳はそこに郭家に対する突破口を見出したのだろう。


 当時、既に当主を始めとした郭家は、永膳による氷柳への異常な執着に懸念を抱いていた。郭一族の安寧のために永膳を気に入りの玩具から引き離すための策を既に講じていたのだろうし、永膳はそれをことごとくくじいていたはずだ。そうでなければそれまで壮健であった瑞膳が永膳と氷柳の出仕開始直後に怪死するなんてことが起きるはずがない。


 永膳は郭家から距離を置く手段として、氷柳を相方として泉仙省への出仕を始めた。永膳が氷柳を『氷柳』と呼ぶようになったのも、その頃からだ。


「ただ、永膳自身にも予想できていなかったんだろう。自分自身もなついてしまうような同期が、そこにいるなんて」


 そう語った瞬間だけ、氷柳の口元にふんわりと笑みが浮いた。滅多に見られない柔らかな笑みに、それまで相槌も打たずに静かに耳を傾けていた黄季は目を丸くする。


「それって……おん長官、ですよね?」

「あぁ。なぜ永膳がそこまで懐き、私と慈雲じうんが交流を持つことを許したのか、真意は分からない。……だが、永膳が教えてくれない『不都合』は、大体慈雲と、その後に飛び込んできた貴陽きようが教えてくれたな」


 あの頃は本当に楽しかったと、氷柳は小さく呟いた。


「あいつらがいなかったら私は、今でも感情がない『お人形』だったんだろう」


 泉仙省の任務は、氷柳にとってはどれも簡単にこなせるものばかりだった。


 永膳の盾となり、矛となる。元より氷柳は瑞膳にそうあれと仕込まれ、永膳もそれを否定はしなかった。当時の氷柳に『戦わない』という選択肢はなかったし、己は戦場いくさばにあることこそが自然だとも思っていた。絶対の主である永膳が命じるがまま、氷柳は永膳に引き連れられ、妖怪を退治て回った。


 生活の本位が妖怪との戦いにあっても、氷柳にとっての日々は穏やかだった。それまでただ淡々と重ねるだけだった日々が、泉仙省に出仕をするようになって、ほんの少し、淡く色がついたような心地がした。そんな氷柳の内面の変化を永膳は察していただろうし、面白く思っていたのではないかと氷柳は今になって思う。


 あるいはもう、その頃から永膳は、今に至る事件の筋書きを描きつつあったのか。


 きな臭さが混ざり始めた空気に、『お人形』として仕立て上げられた氷柳だけが気付けていなかったのか。


「永膳と二人、あの屋敷に移って、二年が過ぎた頃だった。……大乱の狼煙のろしとなる、『春華しゅんかの変』が起きたのは」

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