※※※※

 八年前、沙那さなの都を灰燼かいじんに帰した大乱、『天業てんごうの乱』。


 九年前の『血華けっかの春』から始まり八年前の『無華むかの春』で集結した大乱は、約一年に渡って沙那の都とそこに住まう人々を蹂躙じゅうりんし続けた。


 皇帝軍だけではなく、民の方も。


 生き延びるために、敵陣営を滅ぼすために、対極に立つモノをひたすらほふり、踏みにじり続けた。


「大乱の引き金となったのは、九年前、とある高官が起こした事故だと言われている。そのことは知っているか?」


 己の来し方について口にしていた氷柳ひりゅうが、不意に黄季おうきへ問いを投げた。その言葉に黄季はコクリと控えめに頷く。


「はい。小さな女の子がれん家の行列の前に飛び出してしまって、馬にねられて亡くなったって」

「ああ。その一件に端を発した最初の暴動が『春華しゅんかの変』だ」


 蓮家はかつてこの国を牛耳っていた『三華さんか』と呼ばれる大貴族の一角だ。大乱の引き金を引き、最後まで皇帝と運命を共にした蓮家は、一族に名を連ねていた全員が民によって首を落とされたと言われている。


「元々、大乱前から、民の間では腐敗政治に対する不満が高まっていた。……そんな空気の中、蓮家の馬に撥ねられて死んだ女児というのが、都の中でもそこそこに力があった自警団の頭目の娘でな」


 蓮家の行列は、郊外にあった牡丹園へ遊興に向かう途中だったという。


 まだ幼かった女児は、腕からこぼれ落ちた鞠を追って、先導の馬の前に飛び出してしまった。馬のすぐ目の前に飛び出してしまった女児を親は助け出すことができず、女児はすべもなく馬に撥ねられて絶命した。


 ここまでは不幸な事故だ。事故を起こした側と巻き込まれた側の立場から考えて揉めることは必至だっただろう。だが蓮家が行列を止め、女児を丁重に弔っていれば、国を巻き込む大乱にまでは発展しなかったのかもしれない。


 蓮家は、行列を止めなかった。先導の騎馬から、侍女達が乗った馬車が通り過ぎるまで。それどころか、自分達が牡丹園に到着するまで、一切歩みを止めなかったのだ。


 撥ねられた女児の亡骸の上を後続の馬が進み、馬車の車輪が進み、何度も何度も踏みつけられたせいで幼子の遺体が原型を留めない大路の染みと化しても。


 蓮家の行列は、そこに加わった者全員が、亡くなった女児を『そこにいないモノ』として扱ったのだ。


「その所業は、数多の観衆に目撃されていた。元より民から王侯貴族への反発が強まる中で起きた事件だ。父親であった自警団の頭目を頭とした民が蓮家を襲撃し、禁軍が鎮圧に乗り出した。それが『春華の変』だ」


 蓮家の私兵に加えて禁軍にまで出てこられては自警団などひとたまりもない。間違いなく人道にもとる行いを成したのは蓮家側であるはずなのに、自警団側の主要人物達が多く捕らえられ、斬首に処された。蓮家を始めとした国政中枢の貴族達は、その処刑を見世物として楽しんだという。その場には暴帝として名高かった当時の皇帝もいたらしい。


 その行いに、民の不満が弾けた。


 元より重税に苦しめられ、『貴族にあらざれば人にあらず』と虐げられてきた人々は、ついに自分達の手で腐り切った貴族達に天誅を降すことを決意し、立ち上がった。


 民の怒りは、暴帝ともども、腐敗政治の象徴であった王城を焼き払うまで止まらなかった。そして皇帝軍の暴虐の炎は、都を焼き払った後、『氷煉ひれん比翼』が命を賭して組み上げた術式によって止められた。


「……と、表向きに言われているのが『天業の乱』だ」

「え?」


『表向き』と付けられた言葉に黄季は思わず声を上げていた。


「違うんですか?」

「それだけで済んだならば、四鳥しちょう泉仙省せんせんしょうは巻き込まれていない」

「確かにそれは……ずっと疑問でしたけれども」


『春華の変』の引き金を引いた三華と、暴動鎮圧に駆り出された禁軍を仕切る五獣ごじゅうが全面的に争いに巻き込まれるのは、今の話を聞いていれば分かる。だが確かにこのままで話が終われば、退魔師達が争いに巻き込まれなければならなかったわれはない。


 兵の補填として使われたならまだしも、泉仙省は最終的に禁軍よりも前線に放り込まれて乱の集結を丸投げされたという話だ。あの大乱のせいで中堅から上の退魔師達は軒並み命を落とし、泉仙省も四鳥も大幅に勢力を削られた。


 退魔師達が戦うべきは、ヒトではない。


 退魔師の本分は、呪いを祓い、妖怪を狩り、民の安寧を守ることにある。今の話の流れだけならば、確かに退魔師の出番はない。


「あの大乱は、都を囲う羅城、王城、さらに後宮、三重の囲いを使って行われた蠱毒こどくだ」

「こっ……え?」


 急に落とされた不穏な言葉に、黄季は思わず言葉を詰まらせた。


 蠱毒。つまり、呪詛。


 本来の蠱毒は、シキを創り出すための呪法だ。かめの中に毒のある生き物を数多集めて蓋をし、中で殺し合いをさせ、その食い合いを制して生き残った一匹を用いて呪詛を成す。


 ──瓶……つまり、閉じられた空間……


 そこまで思い至った瞬間、黄季は目を大きく見開いたまま凍り付いた。


「黄季、疑問に思ったことはなかったか」


 不意に、氷柳の視線が黄季と繋がったままの手元に落ちた。キュッと黄季の存在を確かめるかのように氷柳の指先に力がこもり、伏せられた瞳の奥に宿る光がスッと温度を下げる。


「都という狭い範囲の中で、なぜ一年という長きに渡って乱が続いたのか。なぜ民も皇帝も、都を捨てて逃げるという手段を選ばなかったのか。なぜ羅城の中にいた人々は、互いに食い合う道を積極的に選んでしまっていたのか」


 深々と降り積もる言葉に、黄季の脳裏にあの地獄のような光景が蘇る。


 ──そうだ。不自然なくらいに、みんな『逃げる』という手段を選ばなかった。


 目の前に直接的な危機が迫っていて、己に戦う手段がなければ、普通人間はその場から逃げ出そうとするはずだ。


 そこに財があるならば、抱えて逃げればいい。仕事なんてしている場合ではなかっただろう。家族がいたならば、余計に手を取り合って安全な場所まで逃げた方がいいに決まっている。


 だがあの頃の記憶の中に『都を捨てて新たな場所へ逃げよう』と口にしていた人間は一人もいなかった。誰もが……それこそそれまで美しいくしかんざしばかりを手にしていたような娘や、玩具を握りしめていた子供まで、包丁や鎌を手に『殺せ』『敵を殺せ』と叫んでいた。


『戦うな』と口にしたのは、兄達だけだった。その兄達だって『逃げろ』とは言わなかった。


 誰の頭の中からも、『戦いを放棄して都の外へ逃げる』という選択肢が消えていた。


「まさか……」


 ──都に住まう人間は皆、開戦前から呪詛に侵されていて、正常な判断ができないようになっていた。


 黄季の震える声に、氷柳が小さく頷く。


「そもそも、国が中枢から腐るように、王宮に広がる闇の中から手を回していた者がいた。まつりごとを腐らせることで人々の心を陰に傾け、この都中に……この国中に陰の気を充満させるように画策した呪詛師がいた」


 冥翁めいおう、という通り名だった。本名は結局分からずじまいだったという。


「分かっていることは、その呪詛師がこの都を瓶に、そこに住まう民を贄として、ヒトで蠱毒を成したこと。そしてその目的が、この国もろとも皇帝一族を末の末まで根絶やしにすることだったということ」


 大乱によって積み上げられた死と、殺し合いによって増幅された怨嗟の念。元より腐敗政治のせいで人々の心が陰に蝕まれた都は、全面的に土地が陰に傾いていた。大乱中、都中で日常的に殺し合いが勃発していたのは、争い事の芽が育ちやすい土壌がすでに醸造されていたからだ。


 その全ての陰を、呪詛師は都という瓶の中で食い合わせ、増幅させ続けた。王城の中でも、後宮の中でも、同様のことが行われていたという。


「私達退魔師は、大乱の裏でずっと、この呪詛師と戦っていた。あの大乱は、根本的には退魔師達の争いだったんだ」


 だから泉仙省と四鳥が前線に出ることになった。


 たとえ国の代わりに滅ぶことになろうとも、民の安寧を陰から守る者として、引けない意地がそこにあったから。


「土地に蔓延はびこる陰を祓い、生きながらにして妖怪に堕ちる人々を救い、都のそこここに仕込まれた術式を破り……それこそ『春華の変』が勃発する前からずっと、退魔術を繰らない時間がないくらいに、我々は戦い続けた」


 それでも、たった一人の呪詛師を相手に、泉仙省と四鳥で歯が立たなかった。


 人生の大半を術式構築に捧げ、命の全てを載せ、魂を削って術式を組み上げた呪詛師の呪詛は、それだけ凄まじかったのだ。


「目の前で起きる出来事に、後手後手で対処するので手一杯だった。私は決して交友関係が広いわけではなかったし、周囲の人間の顔を覚えていたわけでもないが……徐々に知っている顔が減り、大部屋に詰める人数が減っていくのを肌で実感するのは、辛いものがあった」


 生き残った人間の顔からも、徐々に精気が消えていった。慈雲じうん貴陽きようの組と帰還時間が重なり、互いに顔を合わせるわずかな瞬間にだけ安堵の息をつくことができた。同時に、次こそは二人の訃報を聞くことになるのではないだろうかと、不安にざわめく胸を持て余した。


 恐らく慈雲達も似たような心持ちだったのではないかと、氷柳は小さく呟く。


「そんな日々の中でも、なぜか不思議と、私と永膳えいぜんが死ぬかもしれないという危機感だけは、覚えなかった。確かに、戦いは苛烈で、目が覚めている間はずっと、永膳とともに現場を飛び回っているような状況ではあったが……」


 自分達の『死』というものだけが、酷く遠く感じられた。恐らくそれは永膳も同じだっただろうと氷柳は語る。


 どんな地獄を前にしても、永膳の表情だけが変わらなかった。どれだけ目を覆いたくなるような凄惨な現場に突っ込まれようとも、永膳は大乱前と変わらない薄く笑みを湛えた表情で目の前の景色を眺めていた。


 永膳が一切変わることがない酷薄な笑みとともに『やれるな? 氷柳』と命じてくれたから、氷柳は何も考えることなく、どんな現場にも突っ込んでいくことができた。


「それが『盲信』や『依存』と呼ばれるものであったのだと知ったのは……お前に出会ってから、だな」

「え?」


 唐突に出てきた言葉に、黄季は反射的に顔を跳ね上げる。


 そんな黄季の反応に、氷柳は淡く自嘲じみた笑みを浮かべた。伏せられた瞳に一瞬、切なさに似た感情がにじむ。


「それ以外の在り方を、私は許されていなかったのだと……お前を通して世界を見るようになって、初めて知った」


 言葉に纏わりつく重みに、黄季は答える言葉を見つけられないまま息を呑む。


 そんな黄季をどう捉えたのか、氷柳はまばたきひとつで瞳の奥を揺らした感情を掻き消した。ただキュッと、繋がった指先にまた、すがるように力がこめられる。


「どこまで戦況が悪くなっても、私達が追い詰められているという感覚が、私にはなかった。……ただそれは、私が何も感じない『お人形』だったからで、周囲は決して、そんな楽観視できる状況ではなかった」


 自分達には遠く感じられた死が、周囲にいる人間には容赦なく降りかかり続けた。平等に、容赦なく、そして唐突に、周囲にいた人間達の命は摘まれていった。


「……かくの屋敷に戻らなくてもいいのかと、たずねたんだ」


 氷柳は吐息に混ぜるようにささやいた。先の独白よりも小さな声で紡がれた言葉は、この静寂の中でさえ微かにしか拾い上げることができない。


「誰がいつどこで果てるとも分からないのだから、いつが最期になってもいいように、血縁の顔はしっかり見ておいた方がいいんじゃないか、と」


『春華の変』から時は過ぎ、季節は冬に突入していた。あとひと月でも過ぎれば春の足音が聞こえてくるか、というような時期だった。その頃にはもう泉仙省の生き残り達は皆自宅へ帰ることもできず、泉仙省に帰還しては仮眠を取り、次の現場へ送り出されるような生活を送っていたという。


 その頃になってようやく、泉仙省は冥翁が仕掛けた呪詛の全貌を解明することができた。


 冥翁の呪詛式は、都の構造そのものを利用して仕込まれた、かつてない大規模な代物だった。泉仙省と四鳥が対処に追われていた事象は、全てこの呪詛が起こしていた『余波』であって、どれも本命ではなかった。


 この大乱はその巨大な呪詛式を発動させる原動力……莫大な陰の気を得るためだけに仕掛けられた『手段』であって『目的』ではなかったことも。ここまで戦況が進んでしまっては、もう何もかもが手遅れであることも。時期にその式に陰の気が満ちて、本命であった皇帝一族もろとも沙那を滅ぼす呪詛式が起動することも。既存の退魔術ではどれを用いてもその呪詛式を解くことは難しいだろうということも。


 分かったところで、絶望でしかなかった。


「さすがにあれは笑うしかなかったな。長官……うん老師と永膳、それに貴陽。泉仙省に残された結界術の天才達が、死力を尽くして解析した結果が『絶望』だけだったのだから」


 それでも同朋達の屍の上に生き残ったからには、何を犠牲にしてでも呪詛の成就だけは阻まなければならない。


 呪詛が成れば、この都から国ごと全てが陰に堕ちる。大乱が勃発して以降、どれだけの命が無碍むげに散らされたかも分からない。呪詛が成った暁には、その何百、何千倍もの人間が同じように命を散らすことになる。


「命を賭して創り出した呪詛式であるならば、打ち消すためにも命を賭して。魂を削って書き上げた陣であるならば、掻き消すためにも魂を削って。……結局、天才達をしても、それ以外の方法が見つけられなかった」


 呪詛の成就までに残された時間は、約ひと月。


 解析にあたった高位後翼退魔師達の試算に、泉仙省と四鳥は相討ち覚悟の最終決戦を決めた。


 氷柳が永膳に郭家への帰還を促したのは、その決議がされた日のことだった。


「呪詛式の解析と合わせて、三人は対抗策も編み出していた。……それが世間一般に『大術』と呼び習わされている大反転陣『炎水えんすい白虹びゃっこう』。永膳が己の命と引き換えに発動させた……私達『氷煉比翼』が『救国の比翼』と呼ばれる所以ゆえんとなった、あの術だ」


 都中に荒れ狂う呪詛の炎を浄化の炎に反転させ、全てを丸ごと焼き払った後、清めの雨で押し流す。


 冥翁の呪詛を完全に相殺し、都中に満ちた陰の気を根こそぎ浄化させる。この大乱に完全決着をつける唯一の手段として編み出された技。


「高位退魔師の命を対価に発動させる、呪詛潰しの呪詛。……術の理屈を誰よりも理解していた永膳は、あれを指してそう言っていた」


 世界のことわりは、退魔師が己の技量に余る術を行使しようとしても応えはしない。ギリギリ手が届いたとしても、力が足りなければ命と魂を削り取り、最悪の場合、行使者の命を奪う。


 泉仙省が最終手段として編み出した大術は、行使者の落命が前提となった技だった。行使者を生贄に捧げることで、本来ならば個人では発動しえない大技の使用を可能とする儀式術式。


「理屈だけで言えば、己の血を供物に捧げることで己の技量以上の力を行使できる『血華けっか爆呪ばくじゅ』と似たようなものだ」


 使えば最後、生きて帰ることはない自爆技。発動できる好機は、恐らく冥翁が本命の呪詛を発動させるために皇帝の目の前に姿を現す一度きり。


 その一度を無駄にしない腕前を持つ者。何より『炎水白虹』をまず起動できるだけの技量を持つ退魔師。


 あの大乱末期、その条件に合致した人間が複数生き残っていただけでも奇跡だった。


「私がやると、自分から名乗りを上げた」


 直前に、猛華がついに倒れたという報が泉仙省に入った。慈雲はまだ軽傷で済んだが貴陽は生死不明であるとだけ、氷柳の耳にも届いた。


 その報を聞いた足で、氷柳は単身、長官であったうん魏覚ぎかくの元に乗り込んだ。常に隣にいたはずである永膳をどうやって撒いてきたのかは、記憶にない。


「思えば、私が自発的に何かをしようと考え、口に出したのは、あれが初めてだったのかもしれない」


 行使者として候補に挙がっていたのは、永膳、慈雲、そして氷柳の三人だった。貴陽の名前が最初から挙がっていなかったのは、呪力総量で貴陽が三人に劣っていたからだ。


 慈雲では実力的に永膳と氷柳に劣る。実質永膳と氷柳の二択のようなものだった。


 ならばどちらが死ぬべきかなど、誰に言われずとも氷柳には明白だった。


「……私が死ぬのが、一番自然だと、思っていた」


 自分は所有物で、永膳は主。


 下僕と絶対君主。弟弟子と兄弟子。元浮浪児と名門呪官家の跡取り息子。そうでありながら呪力総量は氷柳の方が高く、退魔術の技量は同等。


 何を取っても、永膳が生きている方が都合が良かった。逆に氷柳だけが生き残っても何にもならない。


 心の底から、素直にそう思えた。


「老師も、内心ではそれしかないと、もう分かっていらっしゃったのだろう。ただ一言『分かった』という言葉で、行使者は私に決定した」


 王城には、冥翁の気配を探知するための結界が張られていた。その結界から反応が上がり次第、転送陣で氷柳が現場に飛ぶという手筈てはずが整えられた。


 氷柳が永膳へ郭家への顔出しを勧めたのは、その話が纏まった直後だった。


 氷柳が死にに行くと知った永膳が素直に氷柳を送り出すとは思えない。良くて死出の旅路へ同行、最悪の場合は氷柳をさらって逃亡。どちらの結末も、氷柳が望むものではなかった。


 だから永膳を郭家へ送り出し、その後ろ姿を見送った後には、二度と王城の敷居をまたがせないつもりだった。郭家へは事前に式文を飛ばし、永膳が郭家を訪れた際には大乱終結まで足止めをと頼んであった。元から氷柳の存在を快く思っていなかった郭家は、ようやく魔性から次代の当主を取り戻せると喜んで氷柳の策に協力を申し出てくれた。


「その時点で、気付くべきだった」


 永膳は氷柳の提案を最初断ったが、重ねるように薀老師が郭家への密書運搬を頼み、最終的に永膳は渋々氷柳との別行動を受け入れた。恐らく密書運搬というのは永膳を氷柳から引き剥がすために老師が無理やり作り出した用事であって、術で封印された密書の中に大した用事は書かれていなかったのだろう。


 永膳は氷柳を独り泉仙省に残して王城を後にした。それが最期の別れになった。


永膳が、私達のたくらみを読めないはずがないと」


 冥翁の気配が探知され、転送陣で現場に飛んだ氷柳が見たのは、まさに今己がいるべきはずである王城から火の手が上がる光景だった。


 氷柳が飛ばされた先は、瓦礫の山と成り果てた郭家の屋敷跡だった。事前に氷柳の思惑を読んでいた永膳が氷柳に置換の術式を仕込んでいたのだと……その置換術と乗っ取った転送陣で永膳の方が冥翁の元へ乗り込んだのだと気付くのにそこまで時間はかからなかった。


「全てを逆手に取られて、私は結局全てが終わるまで、王城へ近付くことさえできなかった。……できなかったんだ」


 永膳が冥翁の元へ乗り込んだ瞬間、泉仙省に最後まで詰めていた人員も王城の外へ退避していた。郭家の屋敷から王城へ駆けた氷柳は途中で慈雲に取り押さえられ、大術の発動を都の大路の上で知った。


 見事、としか言えない出来栄えだった。


 術は完璧に発動し、浄化の炎と鎮めの大雨が呪詛も陰の気も全てを打ち消した。


 暴帝は王城とともに焼け落ちたが皇帝の血筋と国は残された。人々は憑き物が落ちたかのように正気へ返り、大乱は終わった。


「……大雨が降り注いでから以降のことを、私は覚えていない。記憶は酷く曖昧で、何も思い出せない」


 もやを詰め込んだような記憶からどうにか目の前の景色を認識できるくらいまで意識が回復した時、氷柳は永膳とともに過ごした屋敷に誰にも破れない鉄壁の結界を展開し、世界とのあらゆるえにしを断ち切って、独り幻惑の庭の中に立っていた。


 自分がどうやって屋敷まで戻ってきたのかも覚えていなければ、意識が戻るまでの間にどれだけの月日が流れたのかも分からない。自分がその日々に何を思っていたのかも、何をして過ごしていたのかも、今となっては思い出せない。


 ただ分かったのは、自分が世界との繋がりを全て断ち切って、全霊を尽くして強化した結界を用いて思い出の中に引き籠もったことと。


 何もかもがなくなってしまったというのに、自分はまだのうのうと息をしているということだけ。


「……あとはお前も知っている通り。私はあの幻の中で、ただひたすらに死にく日を……永膳の元へ逝ける日を、待っていた」


 語り終わった氷柳は、そのままフツリと口を閉ざす。しばらく無言のまま黄季と繋がっている手に視線を置いていた氷柳は、やがてゆっくりと顔を上げて黄季を見つめた。


 視線が、再び絡む。真正面から見つめる漆黒の瞳は、酷く静かだった。


 出会ったばかりの氷柳の瞳は、全てにんだまま凍て付いていた。だが今は、その瞳の奥に静謐な光が満ちている。揺れることをやめた瞳は、深く凪いでいながら生命の躍動も感じさせる春の湖のようだった。


「……質問しても、いいですか?」


 語られた過去に対して何と言葉を紡げばいいのか、黄季には分からなかった。


 想像がつく話もあれば、想像が及ばない話もあった。大変でしたねと言ってしまうことは簡単だが、そんな単純な言葉で纏めてしまえる話ではない。同情するのも筋が違う。ましてや氷柳の行いをとやかく言える立場に黄季はいない。きっと誰だってそんな立場から物を言うべきではない。


 そう思えたから、黄季はポツリと問いを投げた。


 ずっと、いつだって、心の奥底に眠っていた問いを。


「どうして氷柳さんは、『海』が暴走した時に、助けに来てくれたんですか?」


 あの時、戦場いくさばに現れた氷柳は、黄季に問いかけた。『もしもお前の家族が「戦いたい」と言って自らの意志で戦場に旅立っていたのだとしたら、お前は家族を笑顔で見送ったのか?』と。それに対して黄季が『笑顔では無理でも、きっと送り出すことはできたと思う』という旨の言葉を返すと、氷柳はこう言った。『ならばそれがきっと、私にとっての答えなのだろう』と。


 それが戦場へ舞い戻る氷柳の決意表明となったわけだが、黄季はいまだにその言葉の真意を理解できていない。なぜ氷柳が自分とともに戦場を舞うことを決意したのか、その理由を知らない。


 氷柳が自分から戦う道を捨てた理由は、今の話で痛いほどに分かった。だがその痛みを振り切らせるだけのモノがどこからどんな形で芽生えたのか、それが黄季には分からない。


 だというのに氷柳は、虚を衝かれたかのようにパチパチと目をしばたたかせると、実に軽やかに黄季の問いに答えた。


「単純な話だ。お前に死なれたくなかった。ただそれだけだ」

「……え?」

「むしろそれ以外の理由があると思っていたのか?」


 フワリと、氷柳の口元に淡く笑みが浮かぶ。その笑みは過去を語る時に常に含まれていた憂いや悲しみといった感情とは無縁な、どこか夏の蒼天を思わせる笑みだった。


「私にも、衝動的に屋敷を飛び出した瞬間には分かっていなかった。それまでの八年、色を失っていた世界と、いきなり私の庭に落ちてきたお前、その両者の一体何が違うのかと」


 一度まぶたを閉じた氷柳は、恐らく出会ったばかりの黄季のことを思い出したのだろう。より鮮やかな笑みを刻んだ氷柳は、瞼を上げるとまた真っ直ぐに黄季を見つめてくれる。


「だが、戦場でお前を前にして、思い知らされた。その色を失っていた世界に再び色を落としたのが、お前だったと」


 ギュッと、再び指先に力がこもる。記憶にある景色を懐かしむように瞳を細めた氷柳は、互いの手の熱を確かめるかのようにギュッ、ギュッ、と指先の力を緩めてはまた強め、という仕草を繰り返した。


「私は己の箱庭の安寧のためにお前を切り捨てたつもりだった。だがもう、お前がいない世界に『安寧』なんてものはないのだと、思い知らされてしまったんだ」


 だから、戦おうと思った。


「『世界』や『国』などという有象無象のためになんぞ、私はもう戦えない。ただ、『戦いたくない人は戦わなくてもいい世界を創りたい』というお前を守るためにならば、戦える。……戦ってやってもいいと、思ってしまった」


 その言葉と仕草に、黄季は呼吸まで忘れて固まった。そんな黄季の内心をどこまで理解してくれているのか、傾国の美姫さえ裸足で逃げ出しそうな美貌の退魔師はクスリと吐息だけで笑うと黄季の瞳を覗き込む。


「この私をここまでたらし込んだんだ。責任を取ってもらわなければ」

「せきにっ!? と……っ!?」


 思ってもいなかった言葉に黄季の声が裏返る。そんな黄季の反応がお気に召したのか、氷柳は珍しくクスクスと声を上げて笑うと空いている左腕を伸ばしてトンッと黄季の肩を押した。氷柳の言葉に動揺して無防備になっていた黄季は、加えられた力を受け流すことができずポスリと寝台に倒れ込む。


「さて。少々話し込みすぎたな」


 もう寝ろ、と、氷柳は上機嫌なまま続けた。


 いつの間にか黄季が目を覚ました時に氷柳を取り巻いていた沈鬱な空気は綺麗に消えている。黄季に己の来し方を語り尽くした氷柳は、何かを吹っ切ったかのように晴れ晴れとした顔をしていた。


「お前はまだまだ重傷患者だ。もっときちんと眠れ。次に目を覚ましたら、嫌でも難しい話し合いに巻き込まれるのだからな」

「えっと、……その時は、氷柳さんも一緒、ですよね?」

「当然」


 軽やかに答えた氷柳は、黄季と繋がったままの指を解くことなく、空いた片手で不器用に黄季に掛布を掛け直すとポスポスと柔らかく寝台を叩く。一瞬腹あたりを手が彷徨さまよった所を見るに、恐らく黄季の体の刺し傷に響くことを考えて直接体を叩くことはやめたのだろう。


 ──というか、いつまで手、繋いでるつもりなんですか、氷柳さん……!


 寝ろと言われても、いつになく心臓がうるさいせいで眠れる気がしない。それもこれも全て、思わせぶりなことをしてくる氷柳が悪い。


 ──『誑し込んだ』って言葉、そっくりそのまま氷柳さんに返しますっ!!


「てか氷柳さんもきちんと寝てください! 俺もちゃんと寝ますから!」

「ここで寝るからいい」

「こ……っ!? えっ!? どっ!?」

「煩い。寝ろと言っている」


『いやこの態勢のまま!? 手繋いだまま座って寝るってことっ!?』と黄季は思わず目を見開く。だがムッとした氷柳の顔が見れたのも一瞬のことだった。空いていた氷柳の手が視界を覆うように黄季の目元に載せられ、氷柳の唇からはゆったりした旋律の子守唄がこぼれ落ちる。


 子守唄なんて子供騙しを、と抗えたのも、歌い出しの一節を聞いていたわずかな間だけだった。グラリと土台から掻っ攫われるかのように、眠気などなかった意識が急速に睡魔に巻かれていく。


「ちょっ……と……っ!!」


 ──ただの子守唄なのに……!


 高位にある退魔師が力を込めて言葉を紡げば、呪歌の形を成していなくてもその言葉は理を動かし、聞く者を縛る。


 氷柳が意図して霊力を通わせながら歌う子守唄は、実質睡魔をけしかける呪歌だった。


 黄季の意識がスコンッと眠りに向かって落ちていく。


 その最後の瞬間に、黄季は確かに笑みを含んだ声を聞いた。


「良い夢を」


 本当に本当に嬉しそうな声で、確かにその言葉は聞こえたのだ。


 たったそれだけでなぜか、あんなことがあった後なのに、幸せに眠れるような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る