※※※※※
カツ、コツ、カツ、コツ、と足音が響く。どこともつかない闇の中なのに妙な部分の造形だけ律儀なことだと、
そんな永膳の視線の先で、ユラリと青白い鬼火が揺れる。
『戻ったかよ、
同時に低く響いた声に足を止めた永膳は、嘆息とともに腕を組むと脳裏に直接響いたしわがれた声に答えた。
「残念ながら、な」
『ククッ……残念、か』
「残念だろうよ。あいつが大人しくしてりゃ、こんな陰気な場所に戻ってくる必要性なんてなかったんだから」
『
「あ?」
『忘れたかよ、郭の若造。お前は、儂の協力なくば、今ここにおるまい』
同時に、儂の協力なくば、お前が描く策は実行不可能。
そう続けられた言葉に、永膳はわずかに眉を
そんな永膳の内心が透けて見えているのか、鬼火はさらに低く忍び笑うと機嫌が良さそうに永膳へ問いかけた。
『八年ぶりに
「答える義理はない」
『まぁ、お前をしてここへ連れてこられなかったということは、……まぁ、そういうことだったんだろうがなぁ?』
わざと永膳の心を逆撫でるような物言いをする鬼火を永膳は冷然と上から睨み付ける。八年前まで永膳がこんな視線を向ければ、誰もが……父や上官達でさえもが息を呑み青ざめたというのに、今目の前にした鬼火は忍び笑う声を収めようとはしない。
その不愉快な声に、先程まで見ていた光景が脳裏に蘇った。
──初めて目にした時から、あれは暴力的に美しかった。
その容貌が、ではなく。その魂が、でもなく。
ヒトの姿を得ていながら、ヒトに生まれついてはいないモノ。纏う空気は極寒の地を吹き
ただそこにあれがあるだけで、その部分だけ世界の全てが否定されているかのような。ただそこにあるだけで、世界が
人智を越えた、圧倒的な否定。
その在り様が、……そうとしか在れないその姿が、永膳の目にはつまらない世界の何よりも美しく思えた。
ただそこに己があるだけで全てが自分にひれ伏してきた永膳の世界で、あれだけが永膳の存在を真っ向から斬り捨てようとした。
……あれを己の手で屈伏させることができたら、この乾いた心がどれだけ満たされることだろう。
それがあれに執着した、最初の形。
──あれに誰がどう接しようとも、あれの根本は変わらないはずだった。
丁寧に
あれの中身がヒトではないことは、己だけが知っていればいい。
見目麗しいお人形の中に隠された絶対的な『否定』を知っているのは自分だけ。その『否定』を解き放てるのも自分だけ。
誰があれにどう接しようとも。あれの表面にどれだけ周囲がヒトらしく色をつけようとも。
虚無であるがゆえに無色であるあれの本質は変わらない。変えられない。
そうあれと、絶対的な『親』である永膳が
その躾はたかだか八年、永膳が傍を離れただけで消えるものではない。
……消えるものではない、はずだった。
『焦土に屍でか』
不意に、先程この体で直接耳にした声が脳裏に響き渡る。
「……っ!!」
瞬間、ギリッと強く噛み締めた歯が不快に軋んだ。
──何がお前を変えた?
永膳に真っ向から反旗を翻し、真っ直ぐに視線を据えたあれの目には、八年前にはなかったヒトとしての意志があった。漆黒の瞳に宿っていた光は理知的で、否定でもなく虚無でもない『何か』があれの中に根差していた。
確かにあれを連れて
だというのに。
「……」
ずっとずっと変わらなかった美しき虚無が。永膳が心血を注いで氷の牡丹に仕立て上げたあれが。
たった八年、永膳が傍を離れただけで、ヒトの色に染まった。外側だけではなく、内側から。まるで虚無の底から、核となるモノを芽生えさせたかのように。
──不快、などという言葉では、足りない。
怒り、でも足りない。
ただそうなった理由の全てを斬り刻み、粉々にし、そこに芽生えたという事象を根本から否定したい。
……だが、同時に思う。
──再びあれの瞳が光をなくし、俺だけを見るようになったら。
不快な色を内側から
それはそれで、美しかろう。一度ヒトの色を帯び、その感覚を学んだからこそ。
再び色を失い、棘を抜かれたあの獣は。何よりも美しい永膳の『華』は。
どれだけこの乾いた心を潤し、満たしてくれるだろうか。
『……お前も大概よな、郭の若造』
緩く口元に笑みが浮く。それを鬼火も見て取ったのか、鬼火の声に潜む笑みの種類が変わった。
『こんなヤツに執着されるなんぞ、あれも可哀想に』
「人生の大半を注ぎ込んで、たった一人のために屍の山を積み上げて国を焼き払った人間に言われたかねぇよ」
『ククッ……
「
止まっていた足を再び進めながら、永膳は軽く指先を鳴らした。その指先から散った火花は瞬く間に業火に化け、永膳達を取り囲むように周囲を赤々と照らし出す。
「いつになったら実行できる」
炎の輪がサッと広がった後に姿を現したのは、優美な寝椅子と揃いの卓だった。卓の上には緩やかに紫煙をたなびかせる
あの屋敷にあった寝椅子に似ているが、纏う色彩は真逆だった。
──あの屋敷の調度は、あれに似合うように造らせたからな。
「無駄口叩く暇があるってことは、お前の分担はきちんと片付いたってことだろうな? いい加減、こんな陰気な場所にいるのに俺は飽きたんだが」
その寝椅子にぞんざいに身を投げ出し、永膳は傲慢に足を組んだ。黒檀と鮮やかな朱色の対比も美しい寝椅子の上に、くすみひとつない純白と、白翡翠と赤輝石で組まれた佩玉がシャラリと広がる。
そんな永膳と卓を挟んで対面するかのようにユラリと動いた鬼火は、永膳の周囲を彩る朱とは対象的な青を揺らしながら低く忍び笑った。
『大体の仕込みは終わったさ。ただ、やはり八年前ほどすんなりとは行かんよな』
「お前の職務怠慢さのせいか?」
『
永膳の嫌味をサラリと流した鬼火が低く呟いた瞬間、どこからともなく碁盤の上に石が増えた。
カツリと音を立てながら現れた石は、白。その石が先程まで確かに黒石が置かれていた場所に落ち着くと、まるで連鎖するかのように周囲の黒石までもが色を白に変えていく。カツ、カツカツカツッと軽やかに響く音は、まるで退魔師が柏手を打ち鳴らすかのようにこの空間にはびこる陰の気までをも打ち払った。
『やはり、邪魔よなぁ』
その光景に、永膳は口元に薄く笑みを乗せたまま眉尻を
──これは薀長官じゃなくて、慈雲だな。
この碁盤と同じ術を施した物が、泉仙省の長官室にも置かれているはずだ。そしてその碁盤の向こうには、永膳と対局するかのように慈雲が座していることだろう。
──
『実行よりも前に、落とすか』
「難しいと思うぜ」
『お前が相手をすれば造作もない』
「その造作もない相手にお前は手ェ焼かされてんだろうがよ」
実際、慈雲を直接どうこうしようとするのは難しいだろう。
永膳に比べて呪力総量も技術も劣るとはいえ、仮にも今の慈雲は泉仙省
──だからこその『天才』だ。
ただ技量に優れているというだけではなく。ただ並よりも呪力総量が大きいというわけでもなく。
周囲を天才と呼ばれる人間に囲まれていたからこそ身についたのであろう、その用意周到さと警戒心。天才達を目の
──初手で慈雲は落とせない。
ならば誰から削れば、より効果的に、より効率的に向こうの一手を阻み、こちらの一手を進めることができるのか。
「
何より、あれには最後の最後まで対極にいてもらわなければ。そうでなければ国を焼き払う意味がない。あれのために用意した余興は、全てきちんと見せつけてやらなければならない。
「雛鳥は、削った所であいつらの反感を買うわ、大して戦力も策も削れねぇわで意味がねぇな。……まぁ、生きていれば、だが」
『ならばこのまま、あいつらの反撃は捨て置いて計画を進めるのか?』
「……いや?」
現状のままでは、確実性に欠ける。
直接顔を合わせる以前から、慈雲はこちらが嫌になるほど的確に計画の要となる部分ばかりを潰してきた。黒幕が永膳であり、目的は氷柳であると知った今、慈雲はさらに精度を上げてこちらの計画を潰しにかかるだろう。
──さすがに俺も、策で正面から慈雲とやり合うのは避けたい。
ならばどこから、どのように手を回していくべきか。
久し振りに見た顔を順繰りに思い出し、今後の計画を脳内でさらい直した永膳は、肘掛けに立てた腕に頬を預けると薄っすらと
まるで目の前に獲物の姿が見えているかのように。
「一人、残ってんだろ?」
一瞬、目の前を菫に似た淡紫色の燐光が横切ったような気がした。
その幻影に、永膳はゆっくりと手を伸ばす。
「現役時代より格段に弱った癖に、まるでまだ現役であるかのようなフリして現場にしゃしゃってるガキがよ」
『……あれこそ、恩慈雲以上に手を焼きそうだが』
「そうでもねぇさ」
慈雲や周囲に覚られないように取り繕っているようだが、今の貴陽は最盛期の三割にも満たない力しか持ち合わせていない。所属も医局だ。泉仙省の退魔師は『泉仙省に所属している』というだけで働く守りがあるが、今の貴陽にはその守りも適用されていない。
渦中近くにいながら、今の貴陽はあまりにも無防備でか弱い。そうでありながら貴陽は昔と変わらない距離感で慈雲が抱える事案に首を突っ込んでいるはずだ。何より、結界術の理に通じ、退魔師達の治療を一手に引き受けている貴陽を消すことができれば、今後の戦局は圧倒的にこちらに有利になる。
「邪魔すんなら殺すって、最初に警告したよな?」
何より貴陽は、慈雲の懐刀だ。一度心の支えとしてしまった存在を心から掻き消すことは容易ではない。あの二人を間近に見てきた永膳だからこそ、周囲が言うほど二人の仲が貴陽からの一方通行ではないということを知っている。
貴陽が消えれば、その分だけ慈雲は脆くなる。使いようによっては、永膳が直接手を降さなくても慈雲を折ることができるだろう。
慈雲当人をすぐに消すのは骨が折れる。ならばその周囲から、薄皮を剥ぐように落としていけばいい。
「……お前は知らなかっただろうけどな。俺は」
まるで当人を目の前に置いているかのように、永膳はウッソリと微笑んで
「初めて顔を合わせた時から、お前のことが気に食わなかったんだよ、貴陽」
ゆっくりと伸ばした指先は、やがて伸ばされたままグッと握りしめられた。まるで幻影の主を握り潰さんとするかのように。
「まずはお前から、お前の唯一と共に、消えろ」
低く落ちた声に、鬼火が忍び笑うように揺れる。
その揺れとともに躍る影が、永膳と永膳の『華』にのみ許された白衣の上に複雑な紋様を描き出していた。
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