拾弐

 ばん黄季おうきは、困っていた。


 より正確に言うならば、目の前で繰り広げられる光景にどう反応すればいいのかが分からず、困っていた。


「黄季、口を開けろ」


 ひとまず目の前には、無表情ながら酷く真剣な顔でかゆすくわれたさじをこちらへ差し出す氷柳ひりゅう。いつ見ても麗しい顔立ちは本日も変わることなく麗しく、こぼれかかる髪は黒絹のように美しい。解いた髪を左の肩口でひとつに括って前へ流しているせいで、黄季の足元を覆う掛布の上には黒絹の川ができている。指を通せばさぞかし心地良いことだろう。


「あの……氷柳さん?」

「開けろ」

「えっと……自分で食べられますが……?」

「手が塞がっているだろうが」

「え……左手、離してもらえれば」

「…………」


 ──あ、この無言は、分かりやすく拒否。


 確かに氷柳が言う通り、黄季の両手は塞がっている。


 右手は朝食の粥が入った椀によって。そして左手は、昨晩から繋がったままの氷柳の手によって。


 別に呪いのたぐいで手が離れなくなっているわけではない。効率よく治癒術をかけ続けるために、氷柳が自主的に手を離してくれないだけである。


 ──それにしたって、そろそろ大丈夫だと思うんだけどなぁ……!


「おい、そこの心配にかこつけた構いたがりクソ尊師」


『というか、椀を膝の上に置けば左手が塞がったままでも自力で食べられるんですが』と口にしても良いものかと迷った瞬間、今度は寝台の足元側……氷柳が椅子を置いた場所とは対角線上に位置する角に腰を降ろした慈雲じうんが背中越しにピッと氷柳に指を突き付けた。


「お前の我が儘で弟子を困らせるな」

「黄季は私の相方でもあるのだが?」

「相方でも同じだろ。とにかく困らせてやるな」

「困らせてなどいないが」

「いーや、困ってんだろ、どう見ても」


 氷柳を振り返らず手元の書類に視線を落としていた慈雲は、そのまま『なぁ?』と誰かに同意を求めるかのように声を上げた。その瞬間ヒョコリと慈雲の傍らに貴陽きようが現れる。


「困ってるかどうかはともかく、僕が黄季君に『髪型お揃いだね』って言った瞬間、同じ髪型にしてきた涼麗りょうれいさんは見物だったよね」

「え」

「あぁ、黄季君は気にしなくていいよ。心の狭い尊師ってやぁーねぇーって話だからさ」

「貴陽、うるさい」


 思わぬ言葉に貴陽を見上げた瞬間、前に流して肩口で適当に括った黄季の髪が跳ねた。そんな黄季の今の髪型は、確かに貴陽に似ていると言えなくもない。


 ──いや、寝込んでたから解いてて、邪魔になったから適当に括っただけなんですがっ!?


 癖が強い黄季の髪は、解いたままにしておくとピンピンと跳ねて邪魔で仕方がない。本当は後ろで括っておきたいのだが、再び寝転んだ時に一々解くのも面倒かと思ってこの位置で括っただけた。そこにものぐさな思考はあっても他意はない。


 しかしまさか氷柳の見慣れない髪型の所以ゆえんがそんな所にあったとは。


「まぁ、涼麗さんが過保護になるのは分かるけど、もうさすがに治癒術止めても大丈夫だと思うよ」


 貴陽は軽やかに言葉を添えながら慈雲の隣に腰を降ろした。三人分の体重を受けた寝台が抗議の声を上げるかのように鈍い軋みを上げる。


 だが貴陽の言葉もその軋みも華麗に聞き流した氷柳は、確固たる意志とともに黄季の口元へ匙を突きつけ続ける。


 ──あー、これは絶対引き下がらないやつ……


 氷柳との付き合いが長いとは言えない黄季だが、これでも氷柳の表情は読める方だという自負がある。


 他の人達からしてみれば常と変わらない無表情に見えるだろうが、黄季はその中に確かな意志があることを知っている。そしてこういう目をしている時の氷柳は、絶対に己を曲げない。


「〜〜〜〜っ!」


 仕方なく黄季は羞恥心に蓋をするとパカリと口を開けた。そんな黄季の口の中に氷柳はズボッと勢いよく匙を突き入れる。看護、というよりも人の世話全般に不慣れな氷柳ならば絶対に加減が分かっていないだろうなと読んでいた黄季は、さり気なく頭を引くことで氷柳の自覚のない奇襲を避けた。


「まぁ、食べ方はともかく、きちんと食べることは大切だよ、黄季君。出血した分の血の気を取り戻すためには、いつも以上にしっかり食べて、しっかり寝ないと」


 黄季と氷柳の攻防を気配で察しているのか、貴陽はまぶたを閉じたままの顔を黄季へ向ける。その顔には今日も変わることなく穏やかな笑みが浮いていた。


 その表情を変えることなく、貴陽はサラリと言葉を足す。


「まだまだおかわりあるから、たくさん食べてね」

「え」


 その言葉を聞いた瞬間、再び匙を構えた氷柳の瞳がキラリと光ったのを黄季は確かに見た。


 ──いやいやいやいや、氷柳さん、いつまでこれ続けるつもりなんですかっ!?


 ムグムグと粥を咀嚼そしゃくする黄季をじっと見つめる氷柳は、再び匙を差し出す瞬間を測っている。ひたと黄季を見据えた氷柳の目には獲物を見つめる狩人のような鋭さがあった。『とりあえず一口食べたら満足してくれないかな。てか飽きてくれないかな』と甘いことを考えていた黄季は、仕方なく腹を括ると再びパカリと口を開ける。


「……貴陽」


 そんな黄季達のやり取りを視界の端で捉えていたのか、書類をペラリとめくった慈雲が声を上げた。軽く足を組み、その上に肘を預けた貴陽は黄季達に顔を向けたまま軽やかに答える。


「なぁに?」

「お前、どっちの味方なんだよ」

「え? 面白い方」


 ──まさかの確信犯!?


 貴陽の言葉に思わず黄季は目を見開く。そんな黄季が面白くなかったのか、むっとわずかに眉間にシワを寄せた氷柳が再び匙を突き付けてきた。どうやら黄季の意識が氷柳から逸れたのが面白くなかったらしい。


「いやぁ、八年前の自分に教えてあげたいよね。未来の涼麗さんがこうなるって」

「言ったところで信じやしねぇぞ、八年前の俺達」

「まぁ、確かに?」

「〜〜〜っ!! というかっ!!」


 いい加減この状況に頭が茹で上がってきた黄季は思わず声を荒らげた。そんな黄季に慈雲と貴陽が『お?』という表情を向ける。


 そんな二人と相変わらず匙を構える氷柳に向かって、黄季は全力で叫んだ。


「どうなってるんですか、この状況っ!!」


 場所は、昨晩目を覚ました時から変わることなく医局の簡易休憩室である。それはまだいい。世話を焼きたがる氷柳も、まぁいいことにしよう。目を覚ます前からここにいてくれているらしいので。


 貴陽がここにいるのも、まぁこの部屋を預かる医官であるから不自然ではない。


 だが貴陽とともに登場した慈雲がなぜか当たり前のようにこの場所で書類仕事を始めたのはどう考えても不自然だし、以降三人が何かと理由をつけて寝台の周りから離れようとしないのも極めて不自然だ。


 だというのに黄季を振り返った慈雲はキョトンと首を傾げる。


「は? 何か問題あったか?」

「問題というか……! 不自然なくらい実力者が集合してるせいで、号泣しながら登場した明顕めいけん民銘みんめいは硬直して泣き止んでたし、その他見舞客も困惑して早々に退散したわけなんですがっ!!」

「泣き止んだならまぁいいじゃない」

「いいって、確かに泣いてほしくはないですけども……っ!!」

「別に普段の交流から考えて、俺らがここにいても不自然っつーほど不自然でもなくね?」

「いや、見舞いで来てるならまだしも、ここで長官が書類仕事を片付けているのは明らかに不自然ですよ!?」


 ──おかしい、明らかにおかしい……!!


 普段何かと常識派のツッコミ属性である慈雲までもが貴陽と揃って首を傾げている。これではまるで黄季の方が間違っているようではないか。


「だってさ、慈雲」


 あまりの通じなさに『え? やっぱ俺の方がおかしいのか?』やら『うわぁ、長官とこう先生って、容姿は似てないのに何気ない雰囲気が超そっくり』やらと疑心暗鬼と現実逃避が黄季の胸の内を飛び交い始める。


 そこに至ってようやく、貴陽が笑みとともに慈雲を振り返った。


「そろそろ振っても大丈夫なんじゃない?」

「おー、頼む」

「ん」


『え?』と思った瞬間、貴陽が床につけた踵をカツリと軽やかに鳴らす。たったそれだけで寝台の周囲を外界から切り取るかのように結界が展開された。


 菫の花を思わせる燐光を纏った結界は、貴陽によって展開された防音結果だ。この中で交わされた言葉は、たとえ結界面のすぐ外側に誰かがいようとも部外者の耳には届かない。


「都の土地を陰に傾けている犯人は永膳えいぜんだった。永膳の目的は、八年前の呪詛式を再び発動させ、もう一度この国を焼き払うこと。ここまでは当人が口にした確定事項だ」


 結界が安定したことを確認した慈雲は、手元の書類を傍らにどけると体ごと黄季を振り返る。慈雲がわざわざここに居座っていた本題はこれかと理解した黄季は、姿勢を正すと慈雲の視線を正面から受けた。


「だがあの呪詛式をそっくりそのまま再現することは、いくら永膳でも不可能だ。それに、ただ国を焼くだけならば、永膳がそんな効率の悪いことをするとも思えない」

「そうなんですか?」

「黄季、お前、八年前のこと、涼麗からどれだけ聞いた?」


 黄季の声に慈雲は問いを返す。その問いには黄季よりも先に氷柳が口を開いた。


「おおよその流れは、話したつもりだ」


 匙を黄季の手にある椀に一度戻した氷柳が慈雲に視線を流す。その視線の中からどんな感情を読み取ったのか、慈雲は一度視線を伏せてから再び黄季を見据えた。そんな慈雲に黄季は小さく頷いて答えに代える。


「あの呪詛式は、都に元から蔓延はびこっていた……蔓延るように長い時間をかけて仕込みがされた陰の気を原動力にする大規模なものだ。八年前、都が陰に堕ちる最後のひと押しをしたのは確かに冥翁めいおうだが、栄華を極め切ったかつての王城は、冥翁の暗躍がなくてもいずれ腐り落ちただろうと分かるくらいには陰の気の温床だった」


 だが今の宮廷は良くも悪くもそこまで育ちきっていない。いわば若木が葉を茂らせ始めたばかりの状態で、甘い果実が実るのも、その果実が熟しすぎて腐り始めるのもかなり先の話だ。八年前と違い、巨大な呪詛式を起動させられるだけの陰の素養はここにない。


「呪詛式の目的も違うはずだ。冥翁の最終目標は『皇帝家の血筋を末代まで呪い落とすこと』だったが、永膳がそこに執着する理由はない。あいつはあくまで自分と涼麗にまつわる因縁を全て焼き払うための一手段として国を焼くと言っているんだから」


 つまり、八年前の再現と言いつつ、引き起こされることは完全に同一とは言えない。似たような事象が起きるだろうが、同一視していれば足元を掬われる。


「……えっと」


 慈雲の説明を自分なりに咀嚼してみた黄季は、後翼退魔師として得た知識を参照して慈雲が言わんとしていることを考える。


「八年前よりも、簡素化……というよりも、効率化された仕込みがされる可能性が高くて、発動までにかかる時間も短い、という予想が、できる?」

「正解」


 パチンッと指を鳴らしながら答えたのは慈雲ではなく貴陽だった。そのまま慈雲の説明を引き継ぐかのように、貴陽が続けて口を開く。


「厄介なのは、八年前に仕掛けられた冥翁の呪詛式についても、こっちが編み出した対抗策……大術『炎水えんすい白虹びゃっこう』についても、永膳さんが生存者の中で一、二を争うくらいに詳しいってことなんだよね」


 その言葉に黄季は思わず目を丸くした。


 確かに、氷柳も言っていた。大乱末期、冥翁の呪詛式の解析に当たったのはうん老師と貴陽と永膳。その三人が大術の開発も行ったと。


 大乱を引き起こした呪詛式と、大乱を終決させた大術。その両方に通じ、そのどちらをも行使できる実力を兼ね備えた永膳が事の首謀者だというのは、確かに想定しうる限り最悪の敵が現れたと言っても過言ではないだろう。


「こっちの手の内が、今回は主犯である永膳さんに知られちゃってる」

「ま、それはこっちも同じなんだけどな」


 絶望を軽やかに語る貴陽の言葉に、同じ軽やかさで慈雲が言葉を載せた。そんな二人の掛け合いにスッと氷柳の瞳が温度を下げる。その変化に気付いた慈雲が、どこか自棄やけっぱちのようにも思える冷笑を口元にいた。


「つまり今回の俺達の戦いは、いかに相手の思惑を読み、いかに手駒を失わずに相手の思惑を潰していくかにかかっているってことだ。こういう話の流れなら、多少勝てそうな気はしてくるだろ?」

「どのみち最後は永膳との真っ向勝負になるんじゃないのか」

「まぁ、そこはお前と黄季に任せることになるだろうな」


 一瞬、慈雲の言葉にヒュッと喉が引きれた。だがそのひるみとも驚きとも言える感情をグッと噛み締め、黄季は真っ直ぐに慈雲を見つめ続ける。


 ──かく永膳とする退魔師は、氷柳さんくらいしかいない。


 ならばその相方である黄季も、永膳と相対する位置に並ばなければならない。そうありたいと願ったのは、他でもない黄季自身だ。


 黄季は覚悟とともに氷柳と繋がった手にキュッと力を込める。そんな黄季に気付いたのか、慈雲を見つめたままの氷柳が口元に淡く笑みを刷いたような気がした。


「俺達がやるべきことは主にみっつ。ひとつ目は永膳が組み立てようとしている呪詛式の全貌を予想し、かなめとなりそうな部分の陰を優先して散らすこと。これは前々から泉仙省せんせんしょうの通常業務に絡めて進めてきたことだ。一定の成果は出ていると踏んでいる」


 慈雲がスッと人差し指を伸ばす。そんな慈雲の言葉を受けて貴陽が笑みを深めた所から察するに、その『予想』には貴陽も裏から力を貸しているのだろう。本当にこの二人は前々から策略の気配を読んで暗躍を続けてきたらしい。


「ふたつ目は、永膳の居場所を割り出すこと。永膳本人を狩れれば、その時点でこっちの勝ちは決まりだ」

「まぁ、難しいと思うけどね。永膳さんがそんな分かりやすいヘマを踏むとは思えないもの」

「だからこれは『できれば』くらいの目標でいい。呪詛式を潰しまくれば、最終的にあいつは表に出て来ざるを得なくなるからな」


 ポンポンと軽快に猛華もうか比翼による説明は続く。その言葉に氷柳も異論はないのか、黄季がチラリと視線を向けると氷柳は浅く顎を引いた。


 ──そういえば氷柳さん、煉帝剣れんていけんを探す時にかなり精密な探索陣を使ったって……


 簡単に見つかるような場所に潜伏していれば、その時点で氷柳は永膳本人の居場所に気付けたはずだ。それがなかったということは、今をもって泉仙省側は永膳の潜伏場所の手がかりさえ掴めていないということになる。ここまでやって見つけ出せないならば、ここに労力を割くべきではないというのが三人の見解なのかもしれない。


「そしてみっつ目は、こちらの身を守ること」


 考えを巡らせる黄季の前で、慈雲が三本目の指を伸ばした。その向こうで慈雲の瞳がスッと温度を下げる。


「こっちは泉仙省という集団。向こうは永膳の単騎。いくら永膳が強いっつったって数の利はこっちにある。その利をこっちに残したまま永膳が策を押し進めるとは思えない」


 ──確かに……


 本心なのかは分からないが、民銘の首を落とそうとした永膳はあの時『新人だろうが玄人くろうとだろうが、邪魔をする人間には容赦をしない主義』というようなことを口にしていた。己の策謀を見抜く素養がある人間は邪魔になるだろうから消す、というようなことも口にしていた気がする。退魔の腕が立つだけではなく、そういった慎重さも永膳の強さの一部なのだろう。


「永膳がまず潰したいと考えるのは、まぁ俺だろ。俺が消えればこっちの陣頭指揮を取れる人間がいなくなる。対永膳戦に関して泉仙省は烏合の衆と化すんだからな」

「だがお前はそう簡単には落とせまい」


 慈雲の冷笑混じりの声を氷柳が即座に切り返す。黄季がその両方の圧に思わず空唾を飲むと、慈雲の笑みに物騒な気配がにじんだ。


「まぁこれでも、方々から狙われてる自覚はあるんでね」


 不敵な笑みを浮かべる慈雲にしばらく視線を置いた氷柳は、次いでその傍らを占有する貴陽に視線を向ける。対する貴陽は変わることなく穏やかに微笑むばかりだ。その変化のなさが、逆に黄季には恐ろしい。


「涼麗は最終目的だ。永膳のあの性格なら、お前は最後の最後まで手は出されない。だから逆にお前は安心して使える」

「だろうな」

「私怨から狙われる立場にあった黄季も、一度やり合って永膳の勝ちとも言える形で決着がついた。『捨て置いても良し』と判定されたならば、そこまで執着はされないだろ」


『それに、今度こそ涼麗はお前の傍を離れないだろうしな』と続けられた言葉に、黄季は思わず奥歯を噛み締めた。同時に治癒術で塞がったはずの傷がズキリと痛む。


 ──俺じゃ、手も足も出なかった。


 その事実が、今更になってこんなにも悔しい。埋められない実力差があることなど百も承知でいたはずなのに、そのことに今になって焦燥が募る。


 ──今のままじゃ、いられない。


 だがそのことに対してどう動けばいいのかも、今の自分には分からない。


 それが酷くもどかしい。


「他に狙われそうなのはふう民銘と薀老師だな。民銘は呪具保管庫の結界にされていた細工について理解できてしまったから。老師は呪詛式と大術について詳しい三人の内の一人だ」


 だが黄季の胸を焼いた焦燥は、続けられた慈雲の言葉に吹き飛ばされた。


「民銘が……っ!?」

「安心しろ、明顕と風民銘は双玉比翼……威行いぎょうさんと文玄ぶんげんさんの対に任せた。『新しく位階を拝受した期待の新人に修行をつけるため』ってそれらしい理由は付けたから、そこまで周囲に不審がられてもいないはずだ」


 双玉比翼は大乱を生き延びた一対だ。年次で言えば長官である慈雲よりも上で、腕前も確かだという。泉仙省屈指の実力者でかつての永膳を知る二人ならば永膳相手にも不覚は取らないだろうと慈雲は口にした。


「老師の方には」

「念のために乱寂らんじゃく比翼をつけた」


 思わずホッと安堵の息をついた黄季の隣から氷柳が声を上げる。そんな氷柳にも慈雲は冷静に言葉を返した。


李晋りしんで永膳とやり合えるかっつーと間違いなく無理ではあるか、相方であるかん壬奠じんでんの結界は硬い。一時的ではあるにしろ、老師を守って耐え忍べるだけの実力はある。老師を守ることさえできれば、後は老師自身が打って出るはずだ」


 慈雲の説明に耳を傾けた氷柳は、次いで問うように黄季へ視線を流す。恐らく大乱前から面識がある双玉比翼については把握していても、接点がない乱寂比翼については分かっていなかったのだろう。黄季が慈雲の言葉を肯定するように頷くと、ようやく氷柳の瞳には納得の色が広がる。


「つまり、現状、打てる手は打った、と」

「他のやつらにもなるべく一対での行動は控えるようにと通達は出した。後は入り込んでるねずみが少ないことを祈るだけだな」


 鼠……つまり、永膳側と繋がる存在。浄祐じょうゆうという前例がある以上、他にいないとは言い切れないだろう。


 ──その辺りの内偵も、多分長官は進めてる。


 本当にすごいな、と黄季は思わず舌を巻いた。氷柳を表に引きずり出すことになった一件といい、今回といい、一体慈雲は裏でどれだけ先を読み、手を打ってきたのだろうか。


「ひとまずお前らは、心身を整えることが第一優先だ。どうしてもお前らに任せる現場が一番重くなるだろうからな」


 慈雲はそう説明を締め括ると軽やかに腰を上げた。その小脇にはいつの間にか整頓されていた書類が抱えられている。


 その状態で黄季達を振り返った慈雲は、再度ビシリと指を突きつけた。


「涼麗、お前はとりあえず黄季に甘えてもいい。お前の精神の安定が黄季にあることは嫌になるくらい分かった。お前の退魔術が冴えるならいくらでも甘え倒せ。ただし迷惑は掛けるな、あと困らせるのもやめろ」

「へぁっ!?」

「お前にしては話が分かるな」

「あと黄季」


 突然の通告に思わず黄季は裏返った声を上げる。


 隣に心なしか機嫌が良くなった氷柳を置いたまま硬直する黄季をまじまじと見つめた慈雲は、口元に楽しそうな笑みを載せるとヒラリと手を振った。


「しっかり療養するように」

「は、はい!」

「あとそのクソ尊師、よろしくな」


 その言葉に黄季はパシパシと目をしばたたかせた。そんな黄季からの答えを待たずに、慈雲は寝台の足元側を迂回すると衝立ついたての向こうへ姿を消す。


 そんな慈雲へ、黄季は慌てて返事をした。


「はいっ!!」


 慈雲は足を止めることも、振り返ることもしない。だからこれは、黄季の勘違いかもしれない。


 だが黄季には慈雲が『氷柳を頼む』と口にした瞬間、いつになく柔らかな眼差しをしていたように思えた。




  ※  ※  ※




 ……油断をしていたつもりはなかった。多分、狙われるだろうなという自覚もあった。


 ただ、ここまで懐に入られているということには、気付けていなかった。


「っ!!」


 慈雲が泉仙省へ帰還し、甲斐甲斐しく黄季の世話を焼こうとする涼麗とどうにかそれを諦めさせようとする黄季の攻防を微笑ましく眺めた後、貴陽は結界を残したまま簡易休憩室を後にした。一度本局に顔を出し、造血作用のある薬湯でも煎じてこようと考えたからである。


 その道中、普段から人気のない廊下でのことだった。


「抵抗すんなよな、貴陽」


 ゾクリと背筋に走った悪寒に振り返り、反射的に召喚した呪扇を振り抜く。手元に走った鈍い衝撃で、自分が打ち払った物が重さのある刃だということは分かった。


 何より、一瞬前までは探知できなかった禍々しい炎気に包み込まれたことで、今の自分に何が起きているかは理解できる。


「楽に殺してやれねぇからよ」


 耳に響く声は、周囲を満たした炎気よりもなお禍々しい。記憶の中にある声と一切調子が変わらない声。慈雲の話によると、その容貌も八年前と一切変わっていないらしい。


「……こんな所に何の用? 永膳さん」


 背筋に浮く冷や汗に気付かない振りをして、貴陽は声が聞こえる方へ常と変わらない笑みを浮かべてみせた。そんな貴陽の内心がどこまで読めているのか、突如姿を現した永膳はハッと吐息だけでわらう。再び構えられた煉帝剣の切っ先が心臓を狙っていることは巡る呪力の流れで分かった。


「目が見えなくなっただけで、随分愚鈍になったじゃねぇか、貴陽」

「さぁ? どうなんだろうね?」


 ──こういう事態は、想定していたはずだ。


 永膳ならば、真っ先に狙うのは慈雲の首。だが己が狙われる立場にいることを自覚している慈雲は、常に自分の周囲に何重もの守りを敷いている。


 初手で慈雲は落とせない。


 ならば慈雲を落とすために狙いやすいのはどこなのか。


 ──でも、まさかこんなに早く、王城の中に姿を現すとは、さすがに予測できてなかった。


 今の自分はあまりにも弱い。慈雲の傍にいれば、必ず弱点と目される。


 そうと分かっていながら、それでも貴陽は『慈雲の隣』という場所を誰にも譲りたくなかった。


 だから、決めていた。弱点ならば弱点なりの戦い方をしてみせると。


 何よりも大切な相方を、もう誰にも、何にも、害されなくて済むように。


 ──後は心を決めるだけ。


「ねぇ、永膳さん」


 演じることは、得意だ。


 演じなければ、ここまで生きてはこられなかったのだから。


「ただ僕を殺すだけじゃ、勿体ないと思わない?」


 誰が相手であろうとも、たったひとつの願いを叶えるためならば、貴陽はどんな役だって演じ切ってみせる。


「僕と取引しようよ、永膳さん」

「あ?」

「泉仙省の内部情報、逐一手に入るとしたら、便利じゃない?」


 手の中から呪扇を消し、両手のひらを永膳の方へ向けて肩まで上げる。あっさりと降伏した貴陽に、永膳が戸惑いを広げるのが分かった。


「そうじゃなくても、泉仙省側の策略は全て僕の知識と解析を基礎としている。その僕が永膳さんに都合がいいように情報を歪めれば、永膳さんは有利に策を進めることができる。ただ僕を殺して泉仙省側の戦力を削るよりも、ずっといい使い方だと思うけど?」

「お前が泉仙省を……慈雲を裏切るってか? 自分が死にたくないってだけで?」

「別に僕が死ぬのはどうでもいい。死なせたくないのは、別の人」

「……あぁ」


 だがその戸惑いは、言葉を重ねた瞬間納得に変わった。相対した永膳がニヤリと笑ったのが気配で分かる。


「なるほど? 慈雲か」

「そう。だって、もう慈雲を生かすためには、これしか道がないじゃない?」

「慈雲一人を生かすために、泉仙省とこの国、まるごと全部売り渡すって? とんだアバズレだな」

「だってどう考えたって、今の泉仙省じゃ永膳さんには勝てっこないんだもの。慈雲が生きてくれてさえいれば、僕にとって他はどうでもいいよ。永膳さんになら分かるでしょ? この気持ち」


 永膳は、強い。本人もその強さを自覚している。


 だからこそ、そこに油断が生じる。いつだって相手を殺せると思っているからこそ『問答無用』という手段を取らない。


 貴陽を殺したいならば貴陽が紡ぐ言葉に耳を傾けてはいけないと、知っていてしかるべきだけの付き合いがあったはずなのに。


「僕が泉仙省側の情報を永膳さんに全部流す。僕を信用できないならば、術式でも何でも使って、僕の目でも耳でも自由に使えばいい。ただし」

「その見返りに慈雲は殺すな、か?」

「別にいいでしょ? 永膳さんは涼麗さんを手に入れたいわけなんだから。慈雲が生きていてもそれが成せれば、永膳さんには関係ない」

「生き残った慈雲が俺達の邪魔をしない保証は?」

「僕が囲って外に出さなければ、それで良くない? そもそも僕が死んだ時点で、慈雲にはもう戦えるだけの気概はないよ」


『昇る月を阻むモノは 地を這う菫が全て枯らす』


 トリカブトが纏う毒は、何も薬学の知識だけではない。


「永膳さんにとっての涼麗さんが、僕にとっての慈雲。……そのことは、永膳さんも知ってるでしょ?」


 その『毒』を行使しながら、貴陽はニコリと綺麗に笑ってみせた。


「慈雲の生存がかかっているからこそ、僕は永膳さんを裏切れない。慈雲のためなら僕は、永膳さんと宣誓呪詛式だって交わしていいよ?」


 背筋を濡らす冷や汗にも、永膳の意識をジワジワと侵す毒にも気付かない振りをしながら、貴陽はスッと笑みの種類をすり替える。


「ね? 僕と取引、しよ?」


 かつて視力を失う前にいつも視線で追っていた青が、そんな貴陽を咎めるかのように脳裏をぎったような気がした。

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