拾参

 盛夏と呼べる時期に差し掛かっても、水上を渡る風はどこか涼やかだった。


「────」


 美しく整えられた庭園の、広大な蓮池のほとり。水上にもうけられた東屋あずまやへ続く飛び石の上に立った黄季おうきは、目を閉じたまま静かに息を整える。


 人気のない庭園は、酷く静かだった。微かにそよぐ風を頬に感じる他は、遠く庭の外でさえずる小鳥の声がわずかに耳に届くだけで黄季の意識を揺らす物は何もない。


 その静寂を体の中に落とし込むように、黄季はただ静かに呼吸を繰り返す。そうしていると、自分を形作る輪郭線が溶け出して、周囲の空気と等張になっていくような気がした。


 そんな意識さえ、静寂の中に溶けて消えた瞬間。


 ユルリと、閉じていたまぶたは自然に開いていた。その動きに合わせるように抜き身の剣を握っていた右腕が滑らかに上がり、対を成すように左腕も動き始める。両腕の重みを支えるように自然と両足が開き、黄季の体は無意識にまで染み込んだ動きをなぞり始めた。


 物心ついた頃には、すでに父や兄達の見様見真似でなぞっていた流れ。


 五獣ごじゅう筆頭らん家がその座を降りた後も磨き続けた、宝剣紫鸞しらんを振るうための型。


 ──うん。ブレは、なくなった。


 凪いだ水面に映り込む自分の姿を確認しながら、黄季はじれったいほどゆっくりと丁寧に己の体の動きを確認していく。


 鍛錬の場にわざわざこの庭を選んだのは、水鏡を利用して自分の動きを目で見て確かめる必要があったからだ。


 本当は結界なりなんなりで鏡の代わりになる物を作り出した方が確実だし早いのだろうが、ごねる氷柳ひりゅう泉仙省せんせんしょうへ送り出すために『大人しく療養してますから安心してください!』と言ってしまった手前、あまり派手に退魔術を使うわけにもいかない。万が一呪力の流れを読まれて黄季が簡易休憩室から抜け出していることが氷柳に知られてしまったら、今度こそ氷柳は黄季の傍から離れなくなるだろうから。


 ──氷柳さんの説得、大変だったなぁ……


 当初、氷柳は黄季が泉仙省に復帰するまで片時も傍から離れるつもりはなかったらしい。


 さすがに治癒術をかけ続けるために繋がれていた手は着替えと傷口の確認を機に離してもらえることになったのだが、それでも氷柳は寝台の傍らに置かれた椅子に腰を降ろしたまま彫像のようにその場を離れようとはしなかった。


 元々、八年間ひとり外界から隔絶された屋敷で過ごしてきた氷柳だ。本人曰く『何もせずぼんやり過ごすことには慣れている』とのことで、氷柳は特に何かをするわけでもなく、口を開くことさえせず、じっと黄季を見つめたままそれこそ生き人形のように黄季の傍らに居座る構えを示したのである。


 そうなると困るのは黄季の方だった。確かに氷柳が傍にいてくれることも、いたいと思ってくれることも嬉しかったが、無言のまま視線を向けられ続けては気が休まらない。何せ黄季はいまだにふとした瞬間に自分が氷柳に見惚れていると自覚しているくらいには、氷柳の顔面国宝っぷりに慣れていないので。


 ──あの美貌を前にして『顔は顔だろ?』とか『いい加減見飽きるくらいには傍にいんだろ。慣れろ』って平然と言い放てる長官って……


 結局、黄季が目覚めた次の日、再び姿を見せた慈雲じうんにより、氷柳は泉仙省に連行されていった。恐らく、これでは黄季の体が休まらないと判断した貴陽きようが慈雲に連絡してくれたのだろう。


 氷柳は『甘えろと言ったくせに!』と慈雲に対して盛大にごねていたが、慈雲の『俺は黄季を困らせるなとも言ったはずだぞ』という言葉と問答無用で後ろ襟を掴んだ手を振り払うことができず、そのまま文字通り泉仙省まで引きずられていったらしい。


 三日間は絶対安静、以降もひと月は出撃禁止、帰宅可否は経過観察次第とされている黄季は、いまだに簡易休憩室に軟禁されている状態だ。ここ数日は毎朝『書類仕事なんぞしたくない』とごねる氷柳をなだめすかして送り出し、夕刻ぶすくれた顔で帰ってくる氷柳の愚痴に付き合うことが最大の仕事と化している。


 ──そろそろ、書類仕事をする氷柳さんの助手……というか、監視役として出仕するくらいには大丈夫な気がするんだけどなぁ……


 ただ傍らに控えているだけならば、大した負担はないはずだ。文字通り『何もしなくていいからとりあえず氷柳の傍らにいる』というのが、長官室に詰める際の黄季の役割なので。


 何でも慈雲曰く『書類仕事がこの世の何より大嫌いな涼麗りょうれいに大人しく書類仕事をさせるには、黄季を隣に置いておくのが一番有効』らしい。


 ──でも新米で弟子で部下である俺が、師匠と上司が働いてる中、ただぼんやり突っ立ってるだけっていうのも気まずいんだよなぁ……。そうは言いつつも俺、書類仕事ではあんまり役に立てないし……


 そんな雑念が泡のように浮いては消えていく。その間も体はユルユルと、だが淀むことなく動き続けていた。要所要所、型を決めてはピタリと動きを止め、深く呼吸しながら体の調子を確かめていく。


 ──やっぱり、寝込んでる間に筋力が落ちてる。……いや、持久力の問題、かも。


 ピタリと止めたつもりだった剣の先が微かに震えていた。


 今手にしている剣は、泉仙省の呪具庫からコッソリ借りてきた呪剣だ。重量で言えば紫鸞よりも軽い。だというのに紫鸞をピタリと静止させられていた己の腕が、呪剣を完全に御しきれずに微かに震えている。


 ──後遺症は残らないって言われたけど、治癒術で傷を塞いだ周囲は体本来の力で回復するまではもろいとも聞いたし、むしろそっちなのかも。


 意識が回復してから今日で五日。昨日から貴陽にお目溢しをもらって寝台を抜け出しているのだが、一度死地まで追い込まれた体は思っていた以上に弱っていた。呪力や霊気の巡りに特に問題はないのだが、寝込んでいた日数以上に体が鈍っているような気がする。


 ──血を流しすぎたっていうのも関係ありそう。


 あるいは黄季が人並み以上の武芸の腕を持っているせいで、余計にそれを感じてしまうのかもしれない。


 何せ物心ついた頃からほぼ毎日、絶やすことなく鍛錬を重ねてきた黄季だ。『積み重ねることは難しいがたるむのは一瞬』と事あるごとに口にしていた亡き兄達の言葉が、今更になってジワリと身に染みる。


 ──破落戸ゴロツキに片足突っ込んでた緑兄りょくにいだって、鍛錬自体は真面目にやってたもんなぁ……


 また浮かんできた雑念を、黄季は深い呼吸とともに受け流す。『心を完全に無にすることは難しい。だから、無を意識するのではなく、浮かんできた雑念に囚われないことを意識しろ』と教えてくれたのは次兄だった。


 高く上げた足をそのまま止める。剣の切っ先はまだ不安定に揺れていたが、持ち上げた足は綺麗に静止していた。水鏡を見る分には、姿勢に崩れもなく正しい型が取れている。


 ──もしも、


 そのことを確かめた瞬間、ふと、兄や父に混じって道場で鍛錬を積んでいた日々を思い出した。


 あの頃はこんな風に、自分で自分の型を確認する必要などなかった。顔を上げればいつだって誰かが傍にいてくれて、型の確認も、助言も、頼まなくても周囲にいる人間が自然としてくれていた。


 今だって黄季は、決して一人ではない。退魔師としての自分に助言をしてくれる先達や仲間にだって恵まれた。


 だが今の黄季には、黄季が幼少の頃から積み上げてきた『武』に対して、助言や指導をしてくれる人は、誰もいない。


 ──今でも、父さんや兄ちゃん達が、生きていてくれたら。


 武芸に関してこんなことを思ったのは初めてだった。つい最近までこの才を隠して生きていこうとしていたくせに、今更現金なことをと思わなくもない。


 だが今は自分に研げる刃があるならば、何でもいいから研ぎ上げたいというのが本音だった。


 かく永膳えいぜん


 あの男をもう一度灰に還す手立てが、少しでも欲しい。


 ──退魔術じゃ、どう頑張っても勝算はない。


 以前氷柳は黄季が攻撃呪を苦手としていることに対して『心持ちの問題だ』と指摘していた。そしてその『心持ち』の根本が武芸の腕を隠して生きてきたことに起因していると、黄季はすでに自覚している。


 そのしこりは、貴陽が解いてくれた。同時に貴陽は『呪力を通した武器で直接相手に殴りかかる』という戦い方も伝授してくれている。何より、そんな迷いを焼き切るくらい守りたい存在モノが自分の中にあるのだと、黄季はもう知っている。


 恐らく今の黄季ならば、翼位よくい簒奪さんだつ戦に挑む前よりも多少マシな程度には攻撃呪も扱えるだろう。


 だがその程度で郭永膳と自分との間にある実力差が埋まるとは到底思えない。


 ──武力に訴えてみても、今の俺じゃあの首に手が届く気もしない。


 そのことを思った瞬間、掲げた剣の動きがブレた。そこにも自分の弱さが滲んでいるような気がして、黄季は思わずキリッと奥歯を噛みしめる。


 ──それが、こんなにも悔しいなんて。


 自分こそが最強だとおごっていたつもりはない。確かに自分は泉仙省所属の退魔師としてならば武術的に抜きん出ているかもしれないが、広く世の中を見れば黄季を上回る技量を持つ者などごまんといる。生前の兄や父に今の自分が敵うとは思ってもいないし、禁軍辺りに出稽古にでも行けば恐らくコテンパンに熨されることになるだろう。


 それでも、あの瞬間、自分の刃は郭永膳に届くと思っていた。ずっとずっと無意識のうちに、郭永膳に呪術では勝てずとも武術でならば対抗できると思い込んでいたのだと、気付いてしまった。


 その結果が、このザマだ。


「……っ」


 そのことを思った瞬間、ついに型だけではなく呼吸までもが乱れる。雑念に囚われすぎてプツリと集中が切れたのが分かった。そのことを自覚した瞬間、グラリと体勢が崩れて足がよろめく。


「とっ!? と、……っ!」


 背中から池に落ちそうになった黄季は、倒れ込むよりも早く自ら飛び石を蹴った。そのまま剣を池の底に突き立てて支えとしながら、後ろ向きに縦に一回転して新たな飛び石に着地する。着地が多少乱れたが、何とか池に飛び込むことなく態勢は安定してくれた。


「……はぁ」


 バシャリと、大きく波紋を立てた水面が飛び石に当たって水音を立てる。像を結べなくなった水面に視線を落とし、黄季は大きく溜め息をついた。


「何やってんだろ、俺……」


 ずっと、同じ場所で足踏みをしているような気がする。郭永膳の影がチラつき始めてから、ずっと。


 氷柳に出会って、多少は退魔師として成長したような気がする。貴陽に師事して、多少は戦えるようになったような気もする。


 だけどもっとずっと、奥底では。自分の核を成す、自分の根底を支える芯のような部分は、果たして本当に成長できているのだろうか。気持ちばかりが空回って、何も成長などできていないのではないだろうか。


 そんな焦燥が、ずっと消えてくれない。


 それこそ、家族が今も生きていたら、自分にどんな助言をしてくれただろうか、と夢想してしまうくらいには。


 ──何を、馬鹿みたいなこと。


 乱れた水面を見つめたまま、ギュッと手の中にある剣を握りしめる。


 考えても仕方がないことを考えたって意味はない。残された者は、必死に前を向いて足掻いていかなければ生き続けることはできない。こんな状況に立たされている今は尚更、過去に囚われている暇などないはずなのに。


 それなのに。


「……っ!?」


 キリッと、また奥歯が軋む。


 その瞬間、黄季の肌は不自然な風の動きを察知していた。聴覚が風切り音を察知するよりも早く、頭が何かを考えるよりも早く臨戦態勢に入った黄季は、本能が命ずるままに手の中の剣を振り抜く。


 そこまで無意識に動いてようやく、黄季は己に向かってくるのが見慣れた柳葉りゅうよう飛刀ひとうであることに気付いた。キンッと鮮やかに弾かれた飛刀の向こうに視線を投げれば、いつの間にか白衣びゃくえに身を包んだ貴仙がたたずんでいる。


「氷柳さんっ!?」


 上げた声が思わず引っくり返っていた。体は無意識の内に落ちてきた飛刀を指先で摘んで止めていたが、黄季の内心はそんな冷静な動きに反して焦りに空回っている。


 ──み、見つかってしまった……! 安静にしてるって言ったのに、抜け出して鍛錬してる現場をバッチリ目撃されてしまった……!!


 黄季の頓狂とんきょうな声を受けた氷柳は、誘い出されたかのように歩を進め出す。どこを歩いていても変わらない静かで優美な歩みを進めてきた氷柳は、池端まで近付いてくると優美さもそのままに飛び石に足をかけた。


「あ、あの……まだ泉仙省で、仕事をしている刻限じゃ……?」


 氷柳のおもてからその内心を推し量ることはできなかった。盛夏の暑さを一切感じさせないまま裾も袖も長い白衣と艶やかな黒髪を翻して飛び石を飛んできた氷柳は、黄季の前に立つと無表情のまま黄季を見つめる。普段は気にならない沈黙が、今この瞬間だけは妙に重い。


「えっ、と……」

「体調は、もういいみたいだな」

「ぴぇっ!? はいっ!!」


 黄季をしても内心を読ませない無表情のまま、氷柳は静かに腕を組んだ。せめて視線はらさずに受け止めようと決意した黄季は、視線で責められることを覚悟しながら氷柳を見つめ返す。


 だが意外なことに、氷柳の瞳には黄季を責める色もなければ、氷柳に黙って簡易休憩室を抜け出していたことに対してねている気配もなかった。


 ──えっと……?


 相変わらず傾国の美貌は恐ろしいほどに無表情のままだが、真っ直ぐに向けられた漆黒の瞳には淡く感情が透けて見える。その色を黄季が読み間違えていないならば……


 ──嬉しそうというか、ワクワクしてるというか、ソワソワしてるというか……?


 予想していなかったその色に、黄季は思わず首を傾げる。


 そんな黄季の前で、氷柳の唇が薄く開いた。


「黄季」

「? はい」

「体調がいいならば、出掛けないか」

「え? 今から、ですか?」

「今から」


 コクリと、氷柳は頷いた。幼子のような仕草は絶世の美貌には似つかわしくないものだが、氷柳がするとなぜか妙にしっくりくるし、妙にホッとする。恐らくそれが氷柳の素であると、黄季がすでに知っているからなのだろう。


「実は、お前が簡易休憩室から抜け出してきたように、私も泉仙省を抜け出している」

「え」

「よって、即刻、王城から抜け出したい」

「へっ!?」

「王城の中だと、どれだけ泉仙省から離れようとも、王城の結界を使って居場所を慈雲に割られる。よって、即刻王城の外に出たい」

「はいっ!?」


 ──ちょっ、それは仕事から逃げ出してきたということではっ!?


『俺はきちんとこう先生に許可を得ているんですけどもっ!?』とか『それって後で俺もおん長官に叱られる流れじゃないですかっ!!』という反論が浮かんだが、氷柳がそんな言葉を言わせてくれるはずもない。『出掛けないか』という投げかけ方をしているが、案外こういう時の氷柳はこちらの意見を聞いてくれないものであるとすでに黄季は知っている。


 ましてや今の氷柳は大嫌いな書類仕事から逃走している身だ。黄季の体調に問題があるならいざ知らず、問題なく動けると分かった今、氷柳が黄季に遠慮するわれはない。


「と、いうわけで、飛ぶぞ」

「へっ!? え、ちょっ!?」

「剣はしまえ。抜き身のままだとさすがに危ない。飛刀はこちらにもらい受ける」

「え、あ、はい……はいっ!?」

「早くしろ。どうやら慈雲がこちらの居場所を特定したらしい」


 黄季が戸惑っている間に黄季の指に挟まっていた飛刀は氷柳のたもとの中に回収されていた。急かす声に思わず反射的に剣を鞘に戻した瞬間、氷柳の手が黄季の手を取る。


 その瞬間、黄季の耳に微かな怒声が届いたような気がした。思わず声の方へ視線を投げた瞬間、ユラリと周囲の景色が揺らぐ。慌てて氷柳へ視線を引き戻すと、空いた手で刀印を結んだ氷柳が低く呪歌を歌っていた。


「『道を開け 我は玉令ぎょくれいかざす者 門の鍵を開く者』」


 朗々と響く声に応えるように氷柳と黄季を中心に風が逆巻く。転送陣が発動する時特有の空気の変化に黄季は思わず目を閉じた。


「『転送通霊 解錠』」


 周囲を取り巻いた暴風が、パンッと弾ける。


 次の瞬間黄季の周囲を取り巻いたのは、ガヤガヤとした喧騒と心地よい気の流れだった。ソロリと目を開けば、先程とは打って変わってにぎやかな人並みの中に黄季と氷柳は立っている。どうやら氷柳が行使した転送陣でひとっ飛びに城下の市の中まで移動したらしい。


 ──前にも一回、氷柳さんの転送陣で移動したことはあるけども。


 本来ならば転送陣は、自分の手元と目的地にあらかじめ陣を刻み、陣同士を固定してからでないと使えない大掛かりな仕込み陣だ。他の退魔術と変わらない気軽さで仕込みもなく使える退魔師はそう多くはない。というよりも、黄季が知る限りだと氷柳くらいしかそんな離れ業を行使できる人間はいない。


 ──まさか氷柳さん、それを逆手に取って、恩長官を引き付けるだけ引き付けて、あえてあの瞬間に転送陣を発動させたんじゃ……


「さて」


『泉仙省に帰還したらどんな叱責が待ち受けているのか』と戦慄する黄季を他所よそに、氷柳はキョロキョロと周囲を見回すと満足げな雰囲気をかもした。どうやらきちんと予定通りの地点に飛べたらしい。


「では、行こう」

「う……」


 一瞬、『やっぱり戻りません?』という言葉が口をつく。だが微かに口元に笑みを浮かべた氷柳が黄季を振り返った瞬間、その言葉は喉に詰まったかのように動きを止めた。


 ──なんっっっでまさしく今この瞬間にそんな嬉しそうな顔しちゃうかなぁっ!?


「わっ……かりました。行きましょう!」


『毒を食らわば皿まで』という言葉が脳裏に飛んだ瞬間、勝敗は決していた。


 腹をくくった黄季は呪剣を背中に負うと氷柳の後を追うように足を進める。そんな黄季の様子に氷柳の口元を彩る笑みが深くなったのは、きっと黄季の気のせいではないだろう。


「で? 氷柳さんはどこに行きたいんですか?」


『もう! 本当にこれ、意識的にやってるなら有罪ですよ氷柳さんっ!!』という内心を押し殺し、黄季は氷柳に問いを投げる。


 その瞬間、氷柳がハタハタと目をしばたたかせた。


「……どこ?」

「え? 目的地、あるんじゃないですか?」

「……さて」


『いや、「では、行こう」とか言ってたじゃないですか』と内心で突っ込んだ瞬間、氷柳は緩く首を傾げていた。まさか、と黄季が凍り付いた瞬間、傾国の麗人は仕草同様に緩やかな口調で言葉を紡ぐ。


「何せ、昔も今も箱入りの自覚があるからな。都の地理など、とんと知らない」

「……え?」

「どこかオススメはあるか?」


 ──…………え?


 では一体、何のためにここを目的地に設定したのか。本当に純粋に王城から逃げ出せればそれで良かったのか。


 ──俺、まだまだ本当に、氷柳さんのこと、分からない。


 カタコトのように内心で呟きながら、黄季はぎこちなく指を上げて市の先を示した。


「ちょっと行った先に、民銘みんめい達と行ったことがある、飯店があるんですけど……」

「……分かった。案内を」

「え、はい」


 黄季がギクシャクと歩き出すと、氷柳は大人しく隣に並ぶ。歩みは相変わらず優雅だが、キョロキョロと周囲を物珍しそうに眺める様は好奇心旺盛な仔猫のようだ。


 ──分からない……


 でもまぁ、氷柳さんが楽しんでいるなら、それでいっか。


 そんなことを思いながら、黄季は氷柳がはぐれないように気を配りつつ、市の雑踏の中を進み始めた。

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