※※

『美人』と呼ばれる人は、本当に何をしていても美しく見えるからこそ『美人』と言うのだと、黄季おうきは最近ようやく理解した。第三者に聞かれたら『何を当たり前のことを』と呆れられるかもしれないが、本当に何をしていても美しくしか見えない人間に巡り合ったのが最近なのだから、戯言たわごとを独白することくらい許してほしいと思う。


 ──氷柳ひりゅうさんが美人に見えなくなる瞬間なんて、そもそもどんな時なのかも思い付かないんだけども。


 そんな現実逃避をしながら、黄季は手にした肉包肉饅かじりつく。細かく刻まれた肉と野菜がみっしり詰められた肉包は蒸したてで温かく、噛み締める端からジュワリと肉汁が溢れ出てくる。味付けは少し濃いが、この濃さが炎天下を歩いてきた体には嬉しい。


 黄季はモグモグと肉包を咀嚼そしゃくしながら、チラリと正面に座した氷柳を見上げた。


「……」


 卓を挟んで向かいに座している氷柳は、黄季が齧りついている肉包と同じ物を両手で支えてしげしげと観察しているようだった。それからスンスンと鼻を動かし、ようやくチミリと一口齧りつく。モキュモキュと口を動かしながら微かに首を傾げた所から推測するに、どうやら一口が小さすぎて具材が詰まった部分まで到達できなかったらしい。


 ──こんな何気ない食事姿でさえ、周囲の景色が霞む勢いで美人さんなんだもんなぁ……!


 黄季達新人退魔師組でも気楽に入れる、市の傍らに店を構えた飯店の中だった。二階の個室へ通された黄季と氷柳は、黄季が適当に注文した料理を二人で摘んでいる。


 ちなみに上客でも常連客でもない黄季達がわざわざ奥まった個室に通されたのは、二人が来店した瞬間に氷柳の美貌にあてられた店内でちょっとした騒ぎが起こったからだ。


 氷柳の顔面を呼び込みに使わず、店内の混乱回避のために個室へ突っ込んだ店員さんの判断は中々に良識的だったと思う黄季である。一階の大部屋の一角や、表通りから目につく席に通されていたら、こんなに落ち着いて食事にありつくことはできなかっただろう。


 ──そういえばおん長官も言ってたっけ。氷柳さん達と食事に行く時は、きちんと人目につかない個室に通してくれる店を選んでたって。


 思えば大乱前の慈雲じうんが行動を共にしていた三人は、それぞれ方向性は異なるものの全員が人目を引く整った顔立ちをしている。慈雲が氷柳の美貌に対して『顔は顔だろ』とバッサリ切って捨てられるようになったのも、案外そんな三人に振り回されて苦労したせいなのかもしれない。


 ──いや、それでもさすがに悟りすぎなのでは?


 かつての泉仙省せんせんしょうで三本の指に入ると言われていた麗人を三人とも身近に置いていながら『三人ともツラがきらびやかだったから、事あるごとに目がチカチカしてたなぁ』という感想だけで終わらせる慈雲の境地には一生かかっても到達できなさそうな黄季である。


 そんなことを考えながら、黄季はまぐまぐと手にした肉包を完食した。ちなみに氷柳はようやく二口目を口に含んだ所である。具材がようやく口に入ったのか、数度口を動かしてから一度固まった氷柳は、次いでキュッと眉間にシワを寄せた。再びあごが動き始めても眉間のシワが取れない所から察するに、どうやら味付けがお気に召さなかったらしい。


 ──さっき飲んでた卵の汁物は、さじが進んでたから気に入ったみたいだったけども。


 黄季はそれとなく氷柳を観察しながら鶏肉料理を摘む。骨付き肉を塊のまま豪快に焼いた物なのだが、唐辛子の辛みが効いていて中々に美味しい。


「お気に召しませんでした?」


 眉間にシワを寄せたままの氷柳が何とか肉包をひとつ完食した時には、黄季の目の前に置かれた大皿がひとつ空になっていた。ちなみに入っていたのは野菜炒めだったのだが、氷柳は初手で一口含んだ瞬間凍り付き、以降は一度も箸をつけていない。


 それに比べれば肉包の方はまだ行けたのか、と考えながら氷柳に問いかけると、氷柳は眉間のシワもそのままに短く感想を述べた。


「濃い」

「確かに、ここの店、全体的に味が濃い目ですよね。白米……はないかもしれないんで、饅頭まんとうでも追加しましょうか?」

「……そこまでは、食べられない」


 卓の上に並んだ料理を眺めた氷柳がうっすらと困惑を顔に広げた。


 確かに、氷柳の好みが分からず広く浅く品数多めで注文したせいで、卓の上にはそこそこの量の料理が並んでいる。注文した覚えがない甘味や果物のたぐいまで混ざっているのは、恐らく店側のご好意というやつだろう。


 黄季は人並みに食べる方だから、氷柳が少食である分を差し引いてでも現状ならば食べきれないということはない。だがさらに追加した分が氷柳の口に合わなかったらと考えると、確かにそろそろ追加注文は控えたい所だ。


「さっきの卵の汁物はどうでした?」

「……フワフワが、美味かった」

「干貝柱で取ったダシと、卵の甘みが合わさって美味しかったですよね。ネギもいい仕事をしてましたし」

「お前が前に作ってくれた海鮮卵粥と、味が似ていた」

「言われてみれば確かに、似たような具材使ってますね」


『なるほど、あの海鮮卵粥は好みの味付けだったのか』と心に留めた黄季は、さり気なく肉包が入った蒸籠せいろを自分の手元へ引き寄せると、空いた空間に胡麻団子が入った蒸籠を滑らせた。


 その動きに目をしばたたかせた氷柳は、素直に箸を取ると寄せられた蒸籠から胡麻団子を摘み上げる。またスンスン、とにおいを確かめてからチミリと齧った氷柳は、今度は眉間のシワを解いた。どうやら濃い味付けの料理を避ければ平気であるらしい。


 ──そういえば小さい子供も、最初はほとんど味付けをしていない物から食べさせて徐々に慣らしていくんだっけ?


 黄季が食事を作るようになるまで食事らしい食事を必要としていなかった氷柳は、体格は大人でも味覚と胃のは赤子同然なのかもしれない。黄季が作った料理ならば氷柳は何でも目を輝かせて食べるから気にしていなかったのだが、二人暮らしに戻ったらその辺りも気を使った方がいいのだろうか。


「…………」


 そんなことを考えていると、ついっと氷柳の視線が上がった。数拍黄季を見つめた氷柳は、無表情の中にわずかに不満そうな色を混ぜる。その意図する所は恐らく『今何か失礼なことを考えていなかったか?』だろう。


「えーっと。氷柳さん、どうして急に俺と出掛ける気になったんですか?」


 宙へ視線を彷徨さまよわせた黄季は、ちょうど気になっていたことへ話題をらすことにした。口にした瞬間は氷柳の意識を逸らしたい一心だったが、いざ口にしてみると一旦横へどけていた疑問がムクムクと頭をもたげてくる。


「恩長官を撒くだけだったら、他にも方法はあったんじゃないですか? 結界を張って籠城しちゃうとか」


 黄季の勝手な印象だが、氷柳は決して自分から好んで外へ出るような人間ではない。むしろ人混みや見知らぬ場所への外出は極力避けたいと考えているように思える。書類仕事から逃げ出したかったというのは本当なのだろうが、それだけが理由であるならばわざわざこんな人混みの中に出てくる必要性はなかったはずだ。


 何か他にも理由があったのではないか、という疑問を込めて氷柳へ視線を向け直す。その瞬間、口の中の胡麻団子を咀嚼していた氷柳がピタリと動きを止めた。


「……、……その」


 今度は氷柳の視線が宙を泳ぐ。コトリと箸を卓に戻した氷柳は、胡麻団子を飲み込んだ後も中々口を開かなかった。言いよどむ氷柳を見た黄季も思わず箸を卓に戻して姿勢を正す。


「……話を、したくて」


 数度唇を開いては閉じ、しばしの沈黙を要してから紡がれた言葉は、氷柳から出たとは思えないほど弱々しく、今にも空に溶けて消えてしまいそうなくらい細い。


 だが個室の中、向き合って座している黄季に届けるには十分な音量だ。何より、短さにそぐわない思いが籠もった声を黄季が聞き逃すはずがない。


 きっちりと氷柳の言葉を受け取った黄季は、パチパチと目を瞬かせた。


「話……ですか?」

「その……世間一般で言う、雑談……と、いうのか」

「雑談?」

「…………ここ数日、様子が……いつもと、違って見えた、から」


 自分の心を表す言葉を手探りで探しているかのようにポツリ、ポツリと言葉を紡ぎながら、氷柳はソロリと黄季を見やる。久し振りに見た『居心地が悪そうな氷柳』の姿に、黄季はわずかに目をみはった。


「だから、……悩んで、いるのかと」


 自分の心を己の意志で表す時、誰かの心に自分から触れたいと願う時、氷柳はいつもこんな風に躊躇ためらいながら言葉を紡ぐ。


 人と関わることを諦め続けてきた氷柳が自ら距離を詰めようとする姿は、普段の姿からは想像がつかないくらい酷く不器用だ。きっと氷柳は人と関わるすべを知らないままここまで来てしまったのだろうとも思う。


 それでも氷柳は、その壁を越えて、苦心してでも黄季に心を砕いてくれる。黄季の内心が知りたいと言ってくれる。


 ──そのことが、こんなにも……こんなにも。


「……ける時に、訊いておかなかった。その後悔を、私は今まで、二度経験した」


 ささやくように口にした氷柳は、小さく瞳を伏せた。次に上げられた視線は、真っ直ぐに黄季に据えられて、もう揺らぐことはない。


「同じてつは、もう踏まない」


 黄季を見据える漆黒の瞳には静謐な光が満ちていた。凪いだ春の湖を思わせる瞳は、前へ進むことを決めた覚悟がにじんでいる。


「だから、お前と出掛けることにした。……込み入った話は、気楽な場所でした方がいいと、助言もされた」

「助言って……恩長官、ですか?」


 コクリと、氷柳が緩やかに頷く。


「『傍にいられる現状に満足しているだけなら、お前、また同じことになるぞ』とも言われた」

「同じ?」


 何のことかと黄季は首を傾げたが、氷柳はその部分には答えなかった。ただ瞳が剣呑にすがめられた所から察するに、相当面白くないことがあったのだろう。


 ──というか、簡易休憩室で傍についてくれていた時、ひたすら無言で俺のこと見てたのって……


 もしかしてあれは黄季が無事に回復した現状を噛み締めていたとか、黄季が傍にいるから満足していたとか、そういう何かをしみじみと噛み締めていたがゆえの沈黙だったのだろうか。


「私は……」


 ユルリと開かれた唇からこぼれた言葉は、先が続かずフツリと途切れた。意図的に口を閉ざしたわけではなく、心の内を伝える言葉が見つからないのだろうということは、開いては引き結ばれる唇の動きを見ていれば分かる。


 いつの間にか、そんな内心が分かるようになっていた。


 黄季は心もち肩から力を抜くと、静かに氷柳の言葉を待つ。不意に生まれた沈黙は、階下の大部屋から響く客のにぎやかな話し声や窓の外から届く雑踏の音が柔らかく埋めてくれた。そういえばこんなに音が溢れた中で氷柳と過ごすのは初めてのことではないかと、黄季は物珍しさに少しだけ言葉で形容できない音達に耳を傾ける。


「私は、お前の話が、聴きたい」


 そんな心地良い雑踏の中に、氷柳の声は落ちた。


 いつだって静寂とともにあった声が、今は雑踏の中に違和感なく溶けていく。


「今、何に、悩んでいるのかも。お前が、どうやって、今に至ったのかも。どんな風に、ここまで歩んできたのかも」


 そんな氷柳の声は、いつもよりほんの少しだけ硬くて、それでも黄季の耳に心地良く響く。


「家族の、ことも。……どうやって、剣や弓を、鍛錬したのか、とか。なぜその腕を、封じることになったのかも。……私は、知らないままで、ここまで、来た。部分的に、伝聞や推測で知っている話もあるが……お前に直接、訊ねないまま、ここまで、来た」


 その声で紡がれる言葉に、黄季は無言のまま目を見開いた。


 慈雲や貴陽きようが事情を把握していたから氷柳も知っているものだろうと勝手に思い込んでいたのだが、確かに黄季から氷柳に直接自分の来し方を語ったことはない。


 家族が住んでいた家に氷柳を招いて同居しているが、その家族についても他の話のついでにポロリとこぼした程度だ。恐らく黄季の卓抜した武術の所以ゆえんに関しては浄祐じょうゆうを相手に上げた名乗りで察しているのだろうが、なぜその腕を隠してきたのか、その理由までは貴陽が口を割っていなければ知るよしもない。


「お前から、直接、聞きたい」


 黄季が何を思ったのか、氷柳には分かったのだろう。『長官達からは聞いてないんですか?』という問いを黄季が口にするよりも早く、氷柳ははっきり己の願いを口にした。


「お前の来し方も。『戦いたくない人は戦わなくてもいい世界を創りたい』とお前が願うようになった理由も。今のお前が、何に悩んでいるのかも」


 その強さに、黄季は一瞬、言葉を失う。


「話せるだけで、いい。時間がかかっても、いい」


 噛み締めるように話す氷柳は、まだ言葉を探しているような顔をしていた。己の心を表す言葉が見つからないと、そのもどかしさに眉間にうっすらシワが寄っている。


 氷柳であれば、そんな表情さえもが絵になった。


「お前がそうしてくれたように、私も……私も、お前の話が、聞きたい」


 ──ずっと、知りたいのは、俺の方ばかりだと。


 一方通行、ではないけれども。


 氷柳の世界はずっと、あの幻の箱庭のように、他人を心の内に置くことはないのではないかと思っていた。慈雲やかく永膳えいぜんのように、その箱庭に踏み込むことを許される人間はいても、氷柳の方から興味を持って招き入れる人間はいないのではないかと考えていた。


 そんな在り方を、黄季はずっと寂しいと思っていた。氷柳のことを知るにつれ、その在り方を黄季が変えようと思うなど烏滸おこがましいことだと感じるようになったが、それでもそんな氷柳の在り方が少しでも寂しくない方へ変わっていけばと淡く願っていた。


 ──変わって、いたんだなぁ……


 そのきっかけが自分であったと、少しは自惚うぬぼれてもいいのだろうか。


 そう思った瞬間、少しだけ涙腺が緩んだような気がした。


「えっと……えっと、その、氷柳さん」


 目元に集まった熱を誤魔化すために、無理やり口を開く。そんな黄季に、氷柳は穏やかに小首を傾げた。黄季を見つめたままの瞳は、黄季の言葉を受けたことによって言葉が見つからない苦しさが薄れて、少しだけ満足そうな色を浮かべている。


 その感情に背中を押されるように、黄季は思い切って言葉を吐き出した。


「悩みが、あるんですけども。……聞いて、もらえますか?」


 穏やかな雑踏の中に、黄季の硬い声が跳ねるように落ちる。


 その硬さを、果たして氷柳はどのように受け取ったのだろうか。


「……ああ」


 小さく呟くように答えた氷柳は、黄季を見つめたまま嬉しそうに微笑んだ。


 牡丹にたとえるには少し砕けた、柔らかな笑みだった。


「聞かせてほしい」


 氷雪に喩えられることが多い佳人の温かな笑みに、普段ならば内心で悲鳴を上げている黄季が、この時だけは泣き笑いのような笑みを返していた。

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