※※※

 しばらくは感情の整理がつかなくて、周囲から漏れ聞こえてくる雑踏の音を聞いていた。


「その……」


 どう切り出したものかとしばらく悩んだ黄季おうきは、モゴモゴと口を躊躇ためらわせたあと、ひねることなく率直に疑問を口に出す。


氷柳ひりゅうさんって、修行で悩んだことって、ありますか?」

「修行で?」


 黄季の言葉を受けた氷柳は、姿勢を正したままわずかに小首を傾げた。


 その反応に黄季は己の言葉が足りなかったことに気付いて慌てて言葉を継ぎ足す。


「いや、あの! 俺が悩んでるのは武術面での修行のことであって、退魔術の方ではないんですけども!」


 ──今の言葉だけだと、まるで俺が氷柳さんの指導に不満があるみたいじゃん! ……いやでもこの状況で退魔師的に悩んでないっていうのもある意味問題かっ!?


「その、あの……俺の家が、武芸百般指南の看板を掲げてた町道場だったって話は、前に何かのついでにチラッとしたことがあったと思うんですけども」


 内心がとっ散らかったまま勢いだけで事情を説明し始めた黄季だったが、氷柳はパチパチと目をしばたたかせただけで静かに黄季の言葉に耳を傾けてくれている。どうやらこのまま、黄季が話したいように話す言葉を聞いてくれるつもりらしい。


「俺、八人兄弟の末っ子で、父や祖父のお弟子さんとかも、道場にはたくさんいて。その中に混じって、物心つく前から剣を振ってました。八年前まで、俺の周囲は、そうやって武芸を切磋琢磨する人達で、あふれていたんです。悩みがあれば、聞いてくれる人がたくさんいたし、助言なんかも、求めるよりも前に、もらえるような状況で」


 話しながら、ふと昔の光景を思い出した。


 今はガランと広いだけの道場も家も、昔はそこかしこに人の気配があふれていて。あの頃は人気ひとけがない場所を探す方が、難しいくらいで。家族も、門弟達も、ご近所さん達も、みんな黄季のことを可愛がってくれた。


 父や兄や師兄達の指導は厳しかったけれど、それにガムシャラについていく日々が、黄季にはひどく楽しくて。


 あの頃の自分は、あの幸せな日々がこれから先もずっと続いていくのだと、疑いもなく信じていた。


「……八年前の大乱で、家族はみんな死にました。争いに巻き込まれて、じゃなくて。……みんな、兵に取られて、戦って、死にました」


 遠い日の幻を追っていたら、言葉はポロリと唇からこぼれ落ちていた。以前、慈雲じうん啖呵たんかを切った時に口にしていたせいか、氷柳はまとう空気を揺らがせることなく黄季を見つめている。


ばん家は、祖父の時代まで『らん』を名乗っていました。五獣筆頭の、鸞家です。俺は、直系最後の生き残りなんですけども」


 その沈黙に甘えて、黄季は曖昧にしてきた事情を氷柳に向けて初めてきちんと言葉にした。


「祖父は筆頭将軍を務めていたらしいんですけど、思う所があって、一族郎党揃って軍を辞したそうです。以降鷭一族は、自分達がどれだけ優れた武を備えていても、その力を国のために振るうことを一族の者に許しませんでした。弟子を取って教えることをしても、その弟子の中から有力な将軍が出ても、その弟子に請われても……決して公にその武を振るうことを自分達に許さなかった」


 なるべく分かりやすく、湿っぽくならずに説明したかった。


 自分の事情に心を痛めてほしいわけではない。ただ、今まで伏せていたことを氷柳に開示したかっただけだから。


「戦う道を、捨てたんです。だけど、そんな生き方を、周囲は俺達に許してくれませんでした」


 ──その辺りは、少しだけ、氷柳さんと事情が似てるのかも。


 優れた技量を使うか使わないか選ばせてもらえなかったことも。戦う道を強いられて、他に逃げ場を与えられなかったことも。


 ただ、黄季には周囲から自分を庇ってくれる家族がいたのに対し、氷柳にそういった存在はなかった。


 その違いがあったというだけで。


「母や祖母も含めて、家族はみんな民間軍側の兵として徴集されて、帰ってきませんでした。『戦いたくない』って泣いて、それでも他の家族を代わりに出したくなくて。断れば、周囲こそが敵になって、家族を守れないって分かってたから、結局みんな、自分が行くって。……そうやって、最後まで庇われ続けた俺だけが、生き残ったんです」


 淡々と感情を込めずに説明したつもりだったのに、心なしか語尾が震えたような気がした。その震えを聞き取ったのか、氷柳がわずかに瞳を狭める。


「俺、昔、『鷭の麒麟児』って呼ばれてたらしいんです。武芸の天才だって。……他の鷭一族が国に関わらない代償として、俺が十歳になったら禁軍に仕官させろって。それで手打ちにしてもらえるくらい、俺は戦えたのに。それなのにみんな、俺を隠して、生かす道を、選んでくれました」


 氷柳を見上げていられなくて、視線は手元に落ちた。うつむいたら泣いてしまうかもしれないと分かっているのに、顔を上げ続けることができない。


 ──いつまで経っても、弱いなぁ、俺。


 そんな自分自身に、やるせない笑みが浮いたような気がした。


「俺のすぐ上の双子の兄が出兵する時に、約束したんです。『お前はもう、人前で武器を握っちゃいけない』って。『その腕前を隠して、普通の人間として生きていけ』って。兄達が俺を庇って出兵してくれたお陰で、世間では『「鷭の麒麟児」はよわい幼くして戦死』ってことになってるらしいです」


 その笑みさえ噛み潰すように、黄季は一度ギュッと目を閉じた。深く息を吐くことで呼吸を整えて、うつむけてしまった顔を無理やり上げる。


「俺が、氷柳さんに呪剣を勧められて言葉を濁したのは、それが理由だったんです。あの時はすぐに答えられなくて、申し訳ありませんでした」

「……武芸を捨てて生きることが、亡き家族の遺志だったから、か」


 再び見上げた氷柳は、無表情ながらもわずかに瞳の奥をさざめかせていた。痛みをこらえるような色に気付いた黄季は慌てて言葉を加える。


「もう一度剣を取ったことを後悔はしていませんし、それが氷柳さんのせいだとも思ってません! というか、それに後悔していないからこそ、さっきの質問に至るわけなんですが!」


 あわあわと両手を振り回した黄季は急いで話を振り出しに戻した。突然騒がしくなった黄季に氷柳が呆気に取られたかのように目をしばたたかせる。


「自己鍛錬を怠ったつもりはないんですけど、この八年間ずっと一人で鍛錬してきたせいで煮詰まってしまっているというか、どこまで自分の武芸が使い物になるのかよく分からないというか」

「……剣で永膳に負けて、自信を喪失した、と?」

「うっぐ! ……ま、まぁ、簡単に言ってしまえば、そういう感じなんですかね……?」


 氷柳から繰り出されたド直球に黄季は思わず言葉を詰まらせる。対する氷柳はようやく得心がいったのか、過去に思いを馳せるかのように宙へ視線を投げた。


 ──でも質問しといて何だけど、氷柳さんが修行で悩んでる姿なんて想像もつかないんだよなぁ……


 氷柳はずば抜けた実力を持つ退魔師だ。その強さの所以ゆえんは、ヒトよりも妖怪に近い体質と莫大な保有霊力によるものであるらしい。


 氷柳にとって退魔術は学ぶよりも前に息をするように振るえるものであったという。そんな退魔師の申し子とまで言える氷柳が退魔師修行で悩む姿など想像もできない。


「……あった、な」


 だがしばらくの沈黙の後、氷柳の口からポロリとこぼれ落ちてきたのは、意外なことに『有』という返答だった。


「へ? あったんですかっ!?」

「あった。悩んだ、というか、苦労した、というか」


 思わず黄季は椅子を蹴って身を乗り出す。そんな黄季に淡々と答えた氷柳は、視線を黄季に引き戻しながら言葉を紡いだ。


かく家は炎術の大家だ。血筋的に生まれてくる人間の霊力属性は火にかたよっている。家が伝える術も、その大半が炎術だ」


 郭家ではまず炎術を習得し、それを基盤として他の退魔術を学んでいくのだという。


 つまり郭家に師事する人間は、まず炎術が使えなければ話にならない。


「しかし私の属性は氷雪系だ。雷術や風術との相性は良いが、属性的に見ると炎術との相性は最悪でな」


 保有霊力がずば抜けて高く、理屈が分からずとも感覚で退魔術を扱うことができた氷柳だったが、感覚頼りだったらこそ術との相性による波は大きかった。あり余る霊力をゴリ押しする形で相性が悪い術を無理やり発動させることはできたが、精度や威力は到底他の術者には及ばない。何より無駄が多い。


「己の武器と成し得る『相性が良い術』を教えてくれる相手がいないというのは、悩みの種だった。自力で習得しようにも、とりあえずの取っ掛かりさえないのでは、さすがにどうしようもなくてな。不快感から気が荒立つことが多かったが……あれは恐らく、悩んでいたとか、苦労したとか、そういうものだったのだと、今振り返ると、思う」


 書物から学ぼうにも、当時の氷柳は読み書きが苦手で、自力で読解できる文字も少なかった。誰かに教えを請おうにも、知り合いはいないし、何より永膳えいぜんが良い顔をしない。


 退魔術を習得すること、それ自体は『面白い』や『快』に分類されるものではあったが、あふれ返る力を最適な形で振るえないことは『不快』だった。気持ちの荒れから永膳や師である瑞膳ずいぜんに八つ当たり同然に力を振るい、コテンパンにやり返される日々が続いたという。


「でも、氷柳さんはその状況を打破できたんですよね?」


 氷柳の口から語られる意外な修行時代の姿に目を丸くしながら、黄季は疑問を投げた。その言葉を受けた氷柳は、口元に淡く笑みを浮かべる。


「ああ。意外な所から、新たな師が見つかってな」

「え?」

「お前も会ったことがある人物だ」

「へ?」


 思わぬ言葉に黄季はさらに目を丸くした。だが記憶を漁ってみてもまったく心当たりが見つからない。


 ──え? え? だってうん老師やおん長官は泉仙省せんせんしょうに入省してから知り合ったはずだよな? こう先生は後輩のはずだし……。俺が知ってる退魔師って、泉仙省か祓師寮ふっしりょうに所属してる人しかいないはずだけど……


「以前、呪具屋に遣いを頼んだだろう。紹介も兼ねて」

「え? あ、はい。氷柳さんが再出仕を始めるより前に……」

「あの呪具屋の主、実は永膳の異母兄でな」


 ──イボケイ? いぼ、けい……異母兄っ!?


「えっ!? なっ……!? はぁっ!?」

「あの方は、郭本家の血を引いていながら、霊力属性が私と同じ氷雪系でな。私が不貞腐れて中庭に逃げ出した時にバッタリ出会って逃亡を阻まれて以降、永膳の遊び相手をするついでに私に指導をつけてくださるようになったんだ」

「遊びあいっ……!? 郭永膳のっ!? いや、異母兄っ!?」

「永膳には同腹、異腹を含めて何人か兄弟がいたはずだが、親しい、と言えるような兄弟は雪榮せつえい様……あの呪具屋の主くらいしかいなかった。恐らく、郭本家で暮らすことを許されていながら、かなり早い段階で本家から距離を置こうとしていたことと、裏表のないざっくばらんな性格が良かったんだろうな」


 素の性格が何となく慈雲じうんに似ているのだと、氷柳は何てことないように続けた。


 だが黄季はいきなり告げられた新事実に目を白黒させることしかできない。


 ──異母兄ってことは、つまり母親違いのお兄さんってことだろ!? しかも小さい頃の郭永膳の遊び相手になってて、さらには氷柳さんの師匠の一人!?


「かっ……郭家って、断絶したんじゃ……!?」


 混乱の極地にありながらも、今回飛び出してきた言葉は比較的まともなものだった。目を白黒させながら百面相を繰り広げる黄季を興味深く眺めていた氷柳は、黄季の言葉に小さく頷いて答える。


「本家は断絶した。類縁ならばあるいは数人生き残っているかもしれないが、四鳥しちょうに返り咲けるほど一族を再興することは不可能だろうな」

「で、でもっ、本家筋の退魔師が生き残ってて……! というか、大乱末期に郭本家は屋敷ごと郭永膳に吹っ飛ばされたんじゃ……!!」

「雪榮様に再興の意思はない」


 そもそも郭雪榮は、郭家本邸に住まうことを許されるほどの才を持ちながら、郭家の気質をいとっていたらしい。永膳や氷柳に友好的だったのも、永膳が雪榮に氷柳と関わることを許したのも、かなり早い段階で跡目争いから自主的に手を引いていたからだろうというのが氷柳の推論だった。


 さらに言えば、郭雪榮はそこそこ優秀な退魔師で四鳥本家の生まれであったにも関わらず、『退魔師』というものにとことん興味がなかったらしい。むしろ雪榮の興味は退魔師が振るう呪具の方にあったそうで、雪榮は暇があれば郭家の倉で呪具を漁っては解析ばかりしていたという。


 そんな郭雪榮は、氷柳達が泉仙省に出仕を始めるよりも前に郭の屋敷を出奔した。出仕を始めてしばらく後に再会した時には、すでに呪具屋を営んでいたという。


「以降、私達の関係は、客と呪具屋の主だ。贔屓ひいきにさせてもらっている」

「はぁ……」

「雪榮様は、あの大乱にも関与しなかった。物資の支援はしてくださったが、御自身で退魔術をることはなかった。屋敷を出奔して独り立ちしてからは、郭の屋敷に顔を見せたこともない」


 だから生き残れたのだろうと氷柳は静かに言い切った。そこにどんな感情が載せられていたのかは、黄季をしても分からない。


「今は『呪具屋の榮榮えいえい』と名乗っているらしい。これから先も、自分と郭家の関わりを公表することなく生きてゆかれるんだろう」


 そう話を締めくくった氷柳は『話が逸れたが』と改めて黄季を見やる。一瞬『本筋って何でしたっけ?』と考えてしまった黄季は、何とか『郭家のやり方に己の特性が合致しなくて悩んでいた氷柳の話』という本筋を思い出し、慌てて椅子に腰を戻す。


「お前が悩んでいることに当てはめて考えるならば、一度専門家に指導を受けるといいのかもしれないが」


『この場合は、軍部か』と氷柳は片手をあごに添えながら首を傾げる。だが口にしておきながらこの案はマズいと自分で分かっているのか、氷柳の眉間には微かにシワが寄っていた。


「お前の腕を衆目にさらすのは、立場上困るんだな?」

「はい。見る人が見れば、俺の剣術が鸞家のものだってことは分かるはずなので……」

「同じ理由で、素性を伏せて、他の道場に密かに通うのも……」

「バレちゃうと思います」


 黄季がここまで軍部や皇帝筋に目をつけられず平穏に暮らしてこれたのは、兄達が黄季の代わりに『鷭の麒麟児』の異名を背負って出兵してくれたからだ。


 近しい人間が軒並み戦死しているということは、事情を知っている人間も死に絶えたということ。結果として『鷭の麒麟児』は戦死したものとされ、あとは黄季が人前で武器を握りさえしなければ誰にも真相が知られることはなかった。


 ──もしかしたら、軍部にお弟子さんの生き残りがいるかもしれないけども。


 大乱が終わってから、あの家を誰かが訪れてくれることはなかった。だから、自分達を気にかけてくれるような、身内同然に近しかった門弟達も、皆戦死したのだと思うようにしてきた。


 そう思わなければ、あまりにも寂しかったから。


「事情を知られても害がなさそうなのは、泉仙省の人間くらいか」


 一瞬胸をぎった感傷に目を伏せた黄季は、氷柳の言葉に視線を上げた。対する氷柳はまだ難しそうな顔をしている。


「だがお前以上に武芸の腕が立つ人間が泉仙省にいるとは思えんが……」


『お前自身はどう見る?』と氷柳は視線で黄季に問いかける。そんな氷柳に黄季は曖昧に小首を傾げた。


「全員の武芸鍛錬の様子を知っているわけではないですし、実地が一緒になっていない先輩もたくさんいるので、俺ではなんとも……」

「立ち居振る舞いを見て、ある程度分かることもあるだろう」

「えぇ……?」


 さらに『お前の勘ではどうなんだ』という視線を追加で注がれた黄季は、困惑に眉根を寄せると視線を宙に彷徨さまよわせる。


「……長官には、何だかんだ言って、本気になれば、勝てると思います」

「単純な武芸勝負ならば、余裕だろうな」

威行いぎょう先輩と文玄ぶんげん先輩にも、勝てると思います」

「二人纏めてでも勝てるだろうな」

「他、だと……」


 言葉に詰まったまま、黄季は宙を見つめ続ける。氷柳も似たような困惑顔で同じように宙を見つめていた。


 ──そもそも退魔師は妖怪と戦うことが使命なんだから、武芸の腕前……特に対人を想定した武芸の腕は、本来そこまで重要視されてないんだよなぁ……


 ここ最近の状況と黄季の来歴が特殊であるだけで、本来ならばこんなことに悩む必要などないはずなのだ。


 ──まぁでも、結局俺が活路を見出す先は『退魔術と武術の融合』なんだろうし、長官や威行先輩達に稽古をつけてもらうってのもいいのかもしれないけれども……


 でも結局それは、黄季の悩みの根本を解決してくれる手段とは、少し違うような気がする。


 ──結局、俺が求めている解決手段って……


 過去にすがって『あの頃は良かった』と嘆きたいだけなのか。もしくは『ないものねだり』というやつなのか。


 そんな結論に辿り着きそうになった、その瞬間だった。


「っ!?」


 空気が緊張した、と感じた次の瞬間、何かが割れるようなけたたましい音と男の罵声が轟き、遅れて女の絹を裂くような悲鳴が響く。階下の大部屋で揉め事が起きているのだと分かった時には、争う声が他の雑多な音を押しのけるようにして黄季達がいる部屋にも伝わってきた。


「……喧嘩か?」


 氷柳が伸び上がるように戸口を見やる。そんな氷柳をその場に押し留めるように片手で制しながら、黄季は椅子から立ち上がった。


「様子を見てきます。氷柳さんはここにいてください」

「気を付けろ」

「はい」


 氷柳の声に見送られながら、黄季は廊へ踏み出すと階下へ続く階段の方へ視線を向ける。他の部屋に通されていた客達も何事かとうかがうように顔をのぞかせているが、黄季のように階下へ出向こうとする者はいないようだった。


 黄季は軽やかな足さばきで廊を進むと、音と気配を探りながら階段へ足をかける。


 黄季の読みが当たっていれば、恐らくこれは酔客同士のいさかいだ。夕飯時の花街ならば日常茶飯時のことだが、昼時の飯店で起きるのは珍しい。酒浸り同士の喧嘩となると、少々性質たちが悪いかもしれない。


 ──酔っ払いって、なぜか美人を見かけると絡みたがるからなぁ……!


 場合によっては自分が制圧を、とも考えながら、黄季は足音を殺して階段を下る。


 どうやら諍いは店表に近い場所で起きているらしい。階段を数段下りただけで、殴り合う男達の姿がチラリと見えた。逃げ惑う客と、悲鳴を上げる女給、さらに争いをやめさせようとする従業員達で階下は思った以上に混乱している。


 ──どうしよう、怪我人が出る前に介入した方が……


「おい」


『騒ぎが収まるまで籠城したいけど、それは人道的に……』と黄季が思案した瞬間、だった。


 階段の途中にいた黄季にもソヨリと風がそよいだのが分かった。軽く投げかけられた声は、特に力がこもっていたわけでもないのに喧騒を縫って黄季の耳を揺らす。


「こんな場所で暴れんなよ、バカどもが」


 次いで、殴り合っていた男達の体がフワリと鮮やかに宙を舞った。動きは『フワリ』と形容する他ない軽やかさだが、叩きつけられた男達の体はドンッと重たい音を立てる。


「えっ……」


 その動きに、見覚えがあった。


 最近ではない。はるか昔の、記憶の中に。


 ──あれって、風転拳ふうてんけんじゃ……


 鸞家の体術の中に、よく似た動きがある。黄季がよく目にしていたのは、もっぱら三兄と四兄が喧嘩をするたびに仲裁に入った次兄が二人をぶん投げていた姿なのだが、記憶と寸分違わぬ動きで男は諍い合う酔客二人を投げ飛ばしていた。


「飯屋は飯を食う所であって喧嘩する場所じゃねぇんだわ。殴り合いなら外でやんな」


 投げ飛ばされた男達の間に立っていたのは、一見するとうだつの上がらない風体をした男だった。くたびれた衣服に覇気のない顔は、投げ飛ばされた酔客達と似通った雰囲気さえ漂っている。


 だがそれが人の中に溶け込むための仮の姿だということは、男の立ち居振る舞いを見ていれば分かった。何より周囲を睥睨へいげいする瞳には武人特有の鋭い光が宿っている。


 その男の声に、聞き覚えがあった。


「……さい師兄?」


 思わずこぼした声にハッと我に返った黄季は、慌てて死角になる位置まで下がると片手で口元を覆った。一瞬遅れて男の視線がこちらに飛んだのが気配で分かる。


 ──どうしよう……! 本当に采師兄だったとしたら……!


「采校尉こうい!」


 男の視線はしばらく黄季がひそんだ階上に向けられていたようだった。だが本日の彼には連れがいたのか、彼に呼びかける声が響き、こちらへ向けられていた意識は他所よそれる。


「采校尉、ご無事ですか!?」

「校尉言うなや、今の俺はただの采おじさんだっつの」


 階下から微かに聞こえてくる声に耳を澄ませながら、黄季はそっと後ろへ下がって階上へ戻る。


 その最上段に、氷柳が控えていた。


「……知り合いか?」


 部屋にいてくれと伝えたのに、氷柳は密かに一部始終を見ていたらしい。片手で口元を覆ったまま後ずさるように帰ってきた黄季の様子に特に疑問を呈さず、氷柳は端的に本質を突く。


「幽鬼にでも会ったような顔をしているが」

「……幽鬼なら自力で祓えるんで、むしろここまで驚かないかもなんですけども」


 ソロリと口元から手を離しながら、黄季はヒソヒソと氷柳の問いに答えた。


「俺の事情を知ってる関係者が、生きてました」

「門弟衆の内の誰かか」

「父の高弟で、俺達兄弟の大兄貴みたいな人です」


 采安湛あんじん。彼が存命だったというならば、これ以上に嬉しいことはない。


 同時に、なぜ今まで鷭家を訪ねてきてくれなかったのかとも思う。


 ──話してみたい。でも、顔を合わせるのは、怖い。


 だから今は、顔を合わせたくない。どんな顔で再会すればいいのか、全く分からないから。


「……消息が分かったんだ。所属先も、あの呼称からして軍部で間違いない。再会を望めば、今でなくても会いに行ける」


 腕を組んで背中を壁に預けた氷柳は、階下を見透かすかのように視線を階段の方へ投げた。安湛の介入で騒ぎは収束に向かいつつあるのか、階下から伝わるざわめきは落ち着いたものに戻りつつある。


「お前は、どうしたいのか自分で決められる人間だ。それに……」


 その視線がツイッと黄季へ流れた。深い漆黒の瞳には怜悧でありながら温かな光が宿っている。


「答えはもう、お前の中にあるようだが?」


 背中を押してくれる言葉に、コクリと黄季の喉が鳴る。


「……はい」


 答える声は、喧騒にかき消されてしまいそうなくらいに細い。


 それでも黄季の言葉を聞き取ってくれた証に、氷柳の淡い微笑みがざわめきの中に溶けていった。

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