※
「……ったく、あいつ……」
脱ぎ捨てた上着を小脇に抱えながら、
それもこれも、書類仕事から脱走した
「……ま、でも」
『いくら書類仕事が苦手だからって、毎度毎度逃げ出すのもいい加減にしろ』だの『己に割り当てられた責務くらいキッチリ片しやがれ』だのとひとしき文句を呟いてから、慈雲は視線を彼方へ送った。室内にいては見えるはずもないが、市の方向は大体こちらだろう。
「あれだけ発破かけりゃ、いい加減腹
涼麗が
長官室に引きずってきて書類を押し付けたはいいものの、どこか上の空だった涼麗に『傍にいられる現状に満足しているだけなら、お前、また同じことになるぞ』と『雑談』をけしかけたのがそもそも慈雲だ。
色々思うことがあったのか、ポツリ、ポツリと断片的に相談事……それ未満の言の葉をこぼした涼麗に助言めいたこともしこたま言ってやった。あとは野となれ山となれというのが慈雲の正直な心境である。
──お前らは根本的に言葉が足りてねぇんだよ、言葉がよぉ。
誰の目もないのをいいことに襟元をくつろげ、パタパタと引っ張って風を送りながら、慈雲は内心だけで嘆息する。入省当初から手がかかった年下の同期は、どうにも今でも手がかかる。
──ま、でも、多少昔よりいい方向に成長はしたんじゃねぇの?
『あとは黄季、お前に任せた』と部下に無責任にぶん投げながら、慈雲は
──だーもぉ! 暑いし鬱陶しいし、やってらんねぇっ!!
長官室にこもって書類仕事を片付けているだけならば、人目を気にする必要もないだろう。幸い来客の予定もない。もう一枚衣を剥ぎ取り、余計な装飾も外し、袂に
むしろ許すだの許さないだのの許可は必要ない。なぜなら慈雲こそが泉仙省の長であるのだから。
──この際、髪もスッキリ括り直してやる……!
長官室に氷結結界でも展開してやろうかとも考えたが、生憎氷結系の技は慈雲と相性が悪い。涼麗が氷結系を得意としていることをついでに思い出した慈雲は、さらに苛立ちを募らせながらカツカツカツと廊を進む。
──
そんなボヤきを心の中で転がしながら、慈雲は長官室に足を踏み入れる。
その瞬間、視界の先で紫の煌めきが
見慣れているはずなのに『懐かしい』と感じるその艶に、慈雲は思わず息を止める。
無人だと思っていた長官室には先客がいた。入口に背中を向けて窓際に立った人物は、卓の上に置かれた碁盤に視線を落としている。
萌黄色の
そう、頭の後ろで団子状に
──その、髪型……
八年前まで当たり前のように見ていて、六年前に再会してからは一度も見たことがなかったその髪型に、慈雲は言葉を失ったまま動きを止める。
そんな慈雲に気付いていたのか、窓辺に
「お帰り、慈雲」
軽やかな声にいつになく言葉にできない感情が載っていると感じたのは、自分の思い込みだったのか。
あるいは。
「もう、どこに行っちゃってたのさ。今日の昼から作戦会議するって言い出したのは慈雲の方だったでしょー?」
表面上は常と変わらないように聞こえる言葉を紡いだ貴陽は、ぷぅっと少し頬を膨らませてみせると手の中にあった杖でカツンッと床を叩いた。杖の手元側の先に結わえ付けられた小鈴が、その衝撃を受けてシャリンッと涼やかな音を響かせる。
その音に慈雲はスッと意識を引き締めた。
──感傷に囚われるな。
「涼麗の野郎が脱走しやがったから、王城中追いかけ回すハメになったんだよ」
「あらま」
「クソやってらんねぇわ、こんなクッソ暑い中をよぉ」
軽やかに言葉を交わしながら、慈雲は改めて長官室の中へ足を踏み入れる。貴陽は慈雲に視線を合わせたまま、常と変わらない微笑みを浮かべていた。
──視力を失った貴陽は、この形に髪を結えない。逆に言えば、この結い方ができるってことは、確実に今の貴陽は目が見えてる。そのクセして、いつもより見えていないフリをしてやがる。
普段の貴陽ならば、出会い頭の一発目で『もぉー! 慈雲ったら
だというのに貴陽は、慈雲の格好に文句ひとつ言ってこない。まるで『自分は見えていないのだから、分かりっこない』とでも言わんばかりの白々しさで。
──髪型と振る舞いだけで、俺ならば『見えている』という異常に気付くと、貴陽は踏んだ。
その一方で貴陽は、『目が見えている』という状態を慈雲に気付かれないように振る舞ってもいる。勝手知ったる長官室の中で目の代わりを果たす杖など必要としないくせに、わざとらしく杖の存在を主張してきたのはそのせいだ。
──つまり今貴陽の目が見えているのは、貴陽が自発的に術を行使しているからではない。貴陽が歓迎するような事態でもない。俺にそれを伝えたいが、あからさまに俺に気付いた素振りを取られるのは困る。
「……気分転換か?」
表情に出さないように思考を転がした慈雲は、貴陽の隣に並びながら問いを投げた。対する貴陽は隣に慈雲が並んだことに満足したかのように碁盤に視線を落とす。
「何が?」
「髪」
「まぁ、最近暑いしさ。今日は医局で調薬もしてたから邪魔でさ」
何でもないことのように答えながら、貴陽は軽く首を振って毛先を揺らした。
「毎年夏の風物詩でしょ? 髪型の変更」
──んなわけあるかよ。
恐らく貴陽は、今の慈雲の表情を視界に入れないようにするために、あえて視線を慈雲から外したのだろう。
思わずそう考えたくらいには、何でもない表情を保つことができていない自覚があった。
──お前がその髪型をしたトコを見たのなんざ、八年ぶりだっつの。
貴陽が髪を前に垂らして括るようになったのは、視力を失い鏡で己の姿を確認できなくなったせいだ。
医師や薬師としては実に器用な指先をしているくせに、貴陽は自分の髪を結うのが昔から苦手だった。
本当は綺麗な団子状に髪を
鏡がなければ自力で髪を結い上げることすらできないくせに、『信用できない人間は背後に置きたくないんだよねぇ』と、昔の貴陽は
『いいんだよ、これで。自戒も込めてさ』
相方としての絶縁を経て呪術医官として宮廷に帰ってきた貴陽は、すでに今の髪型になっていた。視力を失った貴陽では
あれは、六年前の、ちょうど今の季節のこと。
首筋に纏わりつく髪を鬱陶しそうに跳ね除けながら、乳鉢の中に入り込んだ髪先に気付かず、中に入れた生薬を垂らした髪ごと
貴陽らしくないあまりに間抜けな姿を見かねて、思わず『結い直してやろうか?』と声をかけた慈雲に、貴陽は頭皮をさすりながら実に苦く笑っていた。
『できないってことを自覚していなくちゃ、僕、多分また同じことをやっちゃうから』
ヤだよねぇ、僕、下手に天才だからさ。できないことなんてないって、勘違いしがちなんだもの。
──お前がそんな風に話すのを俺がどんな顔で聞いてたのかも、お前はきっと分かってるんだろうに。
きっと自分は今、あの瞬間と同じ苦味を噛み締めた顔をしている。
だがそれはきっと、貴陽が求める反応ではない。
今まさに危ない橋を渡っている最中である貴陽にとって、慈雲のそんな反応は足手まといに他ならない。やろうと思えば完璧に慈雲を
──それさえをも逆手に取って、今度こそ絶対の勝利を掴むため。
貴陽本人が望んでいない視力の回復。そのことを伝えたい一方で覚られたら困る貴陽。さらに貴陽は気付いたことを視覚的にも聴覚的にも慈雲に表して欲しくない素振りを見せている。
直近の言動と矛盾した発言と行動。そもそも今日は私的な面会も含めて予定はなかったのに、貴陽はいかにも『事前に密会の予定があった』と言わんばかりの言動を取っている。
何より、貴陽がそれらのことを覚られたくない相手は、慈雲と貴陽が過ごしたこの八年間の『空白』を知らない。貴陽が慈雲にだけ見せてきた顔を、知らない。
そこから導き出される結論は。
──視覚と聴覚の共有。思考と記憶は読まれてない。……
対永膳戦で、永膳が一番折りたいのは慈雲だ。そして慈雲を折りたいならば真っ先に折るべき存在が貴陽であると考えるのも、現状ならば慈雲よりも貴陽の方が折りやすいと考えるのも、いかにも永膳らしい考え方だと思う。
恐らく貴陽は、何らかの形で永膳と接触があったのだろう。置かれた状況から考えて、貴陽側から接触したとは思えない。
奇襲を掛けられて、絶体絶命の場面で、貴陽は何らかの取引を持ちかけることで一命を取り留めた。あるいは自分が寝返った方が利があると永膳に
それを永膳が受け入れ、貴陽の視覚と聴覚を共有することで間者として使っている、といった所だろう。貴陽の視力が回復したのは、視覚情報を共有できた方が情報を得るのに便利だという永膳側の思惑に違いない。
視覚と聴覚を共有していれば、貴陽を介してこちらの手の内をごっそり
──ま、そう考えるように、ある程度は貴陽が誘導したんだろうけどな。
危ない橋を独りで勝手に渡ったことに、怒りがないとは言わない。だが予測できる事態でもあった。
だから一応、事前に対策も施してある。貴陽自身にも覚られない形で施した策だ。恐らく最後の切り札にはなれるだろう。
──こうならなきゃいいって、願ってもいたんだがな。
「……貴陽」
今も貴陽の袿の下で密かに揺れているのであろう赤輝石と紫水晶の佩玉を思いながら、慈雲はゆったりと口火を切った。慈雲の声にまだ苦味を感じたのか、貴陽は盤面に視線を置いたまま言葉を返す。
「なぁに?」
「作戦会議の前に、言っときたいことを思い出した」
──
事あるごとに、涼麗にチクチクと向ける小言には、慈雲が抱える『後悔』が多分に
だからこそ。
「今度、俺が死地に立たされたら。逆にお前が死地に立たされた時も」
目の前を、あの日自分達を隔てた紅蓮の炎が
慈雲も貴陽も、きっと心はまだあの日の炎の中にいる。
あの時の自分は、色んなことを諦めていた。
貴陽の手を再び取ることも。生きて帰ることも。……死ぬ瞬間まで貴陽と相方であり続けることも。
貴陽の生存を願って、その傍らで自分の命を諦めて。ともに生きることも、ともに死ぬことも、中途半端に諦めたからこんなことになった。
だからこそ。
あの時、この道を選べなかったからこそ。あの時、この言葉を口にできなかったからこそ。あの時、手を伸ばすことを諦めたからこそ
今度は願って、手を伸ばす。
この言葉が、最後の最後で……慈雲が密かに施した『切り札』よりも最後に、慈雲の唯一無二の相方を、慈雲の元に繋ぎ留めてくれるように。
「今度は俺と一緒に、死んでくれ」
その言葉にどんな感情が含まれているのか、慈雲にとってそれを切り出すことがどれだけ重たいことなのか、分かるのは世界で貴陽ただ一人だ。
その証拠に、貴陽は弾かれたように慈雲へ顔を向ける。丸く見開かれた紫水晶の瞳は、かつて見たことがないくらいに無垢で、純粋な驚きに
その瞳が、次の瞬間には涙で
「……うん」
「うん、いいよ」
それでも声に溢れていたのは、間違いなく『喜び』だった。
「慈雲がそう望んでくれるなら」
二人にしか通じない言い回しは、きっと盗み聞きをしている相手には通じない。これは表面上だけで聞いても、
その重みに心底幸せを噛みしめるように、貴陽は目を狭めた。
「……今度は一緒に、死んであげる」
その言葉に慈雲は、淡く笑った。
多分きっと、今の自分は目の前の相方と似たような表情をしているんだろうなと、思いながら。
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