拾肆

 夜でも暑さをはらんだ風に、隣に掲げられた松明がパチンッと微かに音を鳴らした。


 火の粉と熱に払われる闇の中を、校尉こういと呼ばれるようになったさい安湛あんじんは、部下とともに歩いている。


 軍部の持ち回りで行われている、王城夜間哨戒しょうかいの道中だった。本来ならば安湛が率いる部隊に夜間哨戒の任は発生しないのだが、ここ最近は諸事情あって安湛達も夜間哨戒に出ている。


 ──まぁ、夜間とか王城とかに限らず哨戒してっけどな。


 先日の昼間、一般市民に身をやつして市の飯店で酔客の喧嘩を仲裁……もとい叩き潰した時も、思えば極秘哨戒の真っ最中だった。


 最近は戦場に出なくても良くなった反面、地味な哨戒をしこたまこなしている。戦がなくなったことはいいことだが、最近都に蔓延はびこる気配はどうにも良いとは言っていられない雰囲気だ。だからこそ哨戒任務が増えているのだということも、安湛はもちろん理解している。


「それにしても、どうなされたんです? 校尉」


 黙々と歩みを進めながらも胸中で考えを巡らせていると、傍らに並んだ部下が声を上げた。大乱時代から従ってくれている右腕とも言える部下へ視線を向ければ、それだけで安湛の問いを覚った部下は問いを続ける。


「校尉御自ら夜間哨戒にお出ましなんて。何か気がかりが?」

「なーに言ってやがんだ、遊渠ゆうきょ。俺は前々からお前らと一緒に哨戒任務もこなしてただろ?」

「昼間は、でしょ。夜は皆に『どうか自分達に任せてお休みください!』『そこまでされては我々の面子メンツが立ちません!』と泣きつかれたせいで控えていたではありませんか」


 もちろん、有能な部下がこの程度で誤魔化されてくれるとは安湛も思っていない。それでも安湛は口笛とともに視線を明後日に向けてすっとぼける。


「先日の一件で、何か思うことがありましたか?」


 そんな安湛へは視線を向けず、部下はあくまで穏やかに問いを続けた。だが部下が安湛の内心を手に取るように理解できるように、安湛だってその穏やかさの中に多分に心配が溶け込んでいることを察している。


「飯店での喧嘩を捌いてから、どうにも様子がおかしいご様子。何か気にかかることが?」


 部下がフリだけでも誤魔化されてくれる気がないことを察した安湛は、無言のまま口をつぐんだ。部下も無言のままなのは優しさなどではなく『喋るまで待つし、逃がしもしない』という強迫だ。


 この部下がここまでしてくるとは、相当心配をかけてしまっているのだろう。あるいは複数の部下に『心配だから何とか聞き出してくれ』と泣きつかれたか。


 ──今はある意味『有事』だからな。不安の種は潰しときてぇって気持ちも分からんでもないが。


 安湛は小さく溜め息をつく。


 その瞬間、あの日、喧騒の中から微かに聞こえた気がした声が、耳の奥に蘇った。


『采師兄?』


 微かではあったが、幻聴と片付けるにはやけにはっきりとした声だった。


 血ではなく武術で繋がった大兄弟の、末弟にして大天才だったあの子の声は、昔から小さくてもよく通った。どんな戦場の乱戦にあっても指示を貫き通せる、将校向きの声だと感じていた。


 ──記憶の中にある黄坊の声とは、似ても似つかねぇ声だったはずなのにな。


 それなのに、直感的にあの子の声だと思った。


 それは都中が不穏にさざめく空気のせいで、最近よく八年前のことを思い出すせいなのか。それとも……


「っ!?」


 そこまでぼんやりと考えた瞬間、意識の端がハッと無意識に緊張した。


 直感に従って足を止めた瞬間、鋭い風切り音が自分達に向かっていることに気付き、それを理解するよりも早く視界のど真ん中を横切るように何かが飛ぶ。


 反射的に身構えた時には、部下が掲げた松明をかすめるくらいの距離で飛来した矢がかたわらの壁に突き立てられていた。タンッ! という綺麗で重みのある刺突音とともにビィンッと微かに矢が鳴く。この矢を射掛けた主はかなり腕がいい。


 だが安湛が息を呑んだのは、そのどの事実に対してでもなかった。


「っ……!」


 ──藍染めの矢羽……!?


 まるで『よく見ろ』と言わんばかりに安湛の眼前に突き立てられた矢の矢羽は、わずかに色せてはいるが確かに藍色をしていた。


 わざわざその色に染められた矢を誰が使っていたのか、その矢をわざわざ打ち込む意味が何を意味するのか、恐らくこの世界で今は安湛だけが知っている。


「何者だっ!?」


 文字通り目の前に突き付けられた事実に安湛が身を強張らせている間に、部下は松明を矢が飛来した方向へ差し向けながら誰何すいかの怒号を上げていた。その声にようやく我に返った安湛は部下が視線を飛ばす先を追う。


 二人が立っているのは、庭に面した外廊だった。庭の突き当りに築かれた築地塀ついじべいの向こうは石垣に覆われた崖になっていて、塀の向こうには新月の夜空だけが広がっている。


 その塀の上に、今宵の闇に輪郭を溶かし込むかのように暗色の外套をスッポリと頭から被った人影が立っていた。その人物が構えた弓に見覚えがあった安湛はさらに目を丸くする。


 ──あれは、青燕せいえんの……


ほう紹旺しょうおう将軍旗下、第三部隊校尉、采安湛殿とお見受け致します」


 ユルリと構えを解きながら、人影は凜と声を張った。その声があの飯店で聞こえた声と相違ないことに、安湛は思わず唇を震わせる。


 ──間違いじゃ、なかった。


 幻ではなかった。自分の願望が聞かせた声ではなかった。


 あの頃の面影を残したまま、彼の兄達によく似た響きに成長した声は、確かに今安湛の鼓膜を直接震わせている。


 ──生きてて、くれた。


 同時に、この声を自分は聞くべきではないということも、心のどこかでは理解している。


 だって聞いてしまえば安湛は、彼の兄達が命を燃やして残した願いを無碍むげにしてしまう。


「このような形で恐縮ですが、どうか私に一手御指南願いたい」


 それでもその声を聞いてしまえば、安湛はもう抗えない。


「貴様っ……! 校尉に向かって何を」

「遊渠」


 剣を抜こうとする部下の手を片手で止めながら、安湛は部下よりも前へ出た。そんな安湛へ部下が批難の視線を向けるが、その表情は安湛の顔を見た瞬間ハッと驚きに変わる。


「俺の客だ。俺が相手をする」

「校尉」

「人払いを頼む。キッチリ一刻、ここには誰も寄せ付けるな。いいな、鼠一匹通すなよ。んでもってこれから起きることは、首が飛んでも他言無用だ」


 低くささやく安湛に、部下はしばらくほうけたように視線を向けていた。


 だがその表情はすぐに穏やかな笑みに掻き消される。


貴方あなたの待ち人が、いらっしゃいましたか」


 その言葉に、安湛は笑みを以って答えた。好戦的な色が躍る笑みは、己の気分が高揚していることを隠しきれていないだろう。


「承服致しました、校尉。どうぞ御存分に暴れてきてください」


 部下の見送りの言葉に軽く手を振って答え、安湛は中庭に降りた。その動きを、塀の上の人物が緊張とともに見つめているのが分かる。


 ──昔はひたすら無鉄砲だったっつーのに、いつの間にか遠慮やら躊躇ためらいってことを覚えたのかねぇ?


 しかし『一戦願うために夜の王城に忍び込み、足留めのためにひとまず矢を射掛ける』という行為は、間違いなく無鉄砲のたぐいに分類されるものだろう。この兄弟は昔から揃いも揃って、根っこは礼儀正しいのに時折全てをすっ飛ばした無鉄砲なことをしてくるから面白い。


「降りてこいよ、一手と言わずに御指南してやる」


 中庭の中程で足を止めた安湛は、足場を確かめるように地面を踏みしめると笑みとともに血が繋がらない末弟を見上げた。


「久々に、存分に打ち合おうぜ」


 その言葉に、一瞬人影が息を詰まらせる。


 そんな反応がどこか今の自分に似ていて、安湛は笑みの中に思わずほろ苦いものを混ぜたのだった。




  ※  ※  ※




「弓を預かろうか」


 下から微かに響いた声に黄季おうきはハッと我に返った。反射的に声の方へ視線を投げれば、木陰に身を隠した氷柳ひりゅうが黄季のことを見上げている。


 工部が根城にしている建物の一角でのことだった。


 今宵の夜間哨戒に采安湛が出てくるということと、その巡回の道筋を探り当ててきてくれたのは慈雲じうんだった。何でも泉仙省せんせんしょう泉部せんぶ長官としての伝手つてやらコネやら何やらでどうにかこうにかしてきてくれたらしい。


『お前の悩みが晴れて、結果こっちの総力が上がるってんなら、俺だって喜んで協力してやるっつの』


 話は涼麗りょうれいから聞いた、と唐突に慈雲に話を振られたのは、氷柳と市に出かけた二日後のことだった。どうやら氷柳は黄季の心はすでに決まっていると判断し、早めに慈雲を巻き込んだらしい。貴陽きようから『もう今夜から自宅に戻っていいよ。明日から書類仕事程度なら出仕しても大丈夫』と諸々の許可が出たのでその旨を先に慈雲まで報告しに行った所、黄季はいきなり采安湛に関する情報を与えられた。


『現状、純粋に退魔術だけで永膳に勝てる見込みは薄い。サクッと永膳本人に刃を突き立てられるんなら、それが一番手っ取り早くて確実だと俺は思っている』


 何せ一回あいつの死は偽装されている。だから今度殺すならキッチリ殺しとかねぇと。そしてそれだけのことをやれる技量があるのは、どう考えても黄季、お前しかいない。


『だから、研ぐことができる先が見つかったなら、キッチリ研いでもらってこい。これは長官命令だ。いいな?』


 慈雲はそう言って全面協力を申し出てくれた。氷柳も氷柳で言葉には出していないが気持ちは同じであるらしい。黄季はこの場に一人で出てくるつもりでいたのに氷柳は当然と言わんばかりの顔をして無言のままここまで着いてきたし、今だって黄季が求めたわけでもないのに人払いの結界を展開していてくれる。安湛は安湛で部下に人払いを命じていたが、氷柳が結界を展開してくれている以上、この場には鼠一匹どころかアリ一匹でさえ入り込めないはずだ。


 ──二人とも、本心はそればっかじゃないだろうに。


『対永膳戦のため』『総戦力底上げのため』と言って協力してくれている二人が、それ以外に黄季の内心をおもんぱかって協力してくれていることを、黄季は何となく察している。二人は対永膳戦のことがなかったとしても、黄季の個人的な感情のしこりをほぐすために力を貸してくれただろう。


 ──俺、いつの間にか、一人じゃなくなってたんだな。


 そんな実感に、ジワリと心が温まるような気がした。


「お願いします」


 黄季は小さく答えながら塀から飛び降りると氷柳へ弓を渡した。次兄の遺品である弓は、ただ持つだけでもずっしりと重い。その重さを予想していなかったのか、手渡した瞬間一瞬だけ氷柳の手元が揺れた。


 それでも氷柳は常の無表情を崩さないまま黄季を見つめている。見上げた瞳の中には、この暗闇の中でもはっきりと分かるくらい温かな感情が宿っていた。


「行ってこい」


 背中を押してくれる言葉は、出会った頃から変わらず凜としている。いつだって黄季の心からおびえや躊躇ちゅうちょを払ってくれる声は、今宵もわずかに緊張を残した黄季の肩から余計な力を取り除いてくれた。


 その声に小さく頷いて答えてから、黄季は安湛と相対する位置まで足を進める。外套を頭の上から被ったままの自分に、かつての大師兄が真っ直ぐに視線を注いでいるのが新月の闇の中でも分かった。


 ──変わらないな、采師兄。


 星明かりと松明しか光源がない中でも、夜目が利く黄季には安湛の姿がはっきりと見えている。


 安湛は長兄よりも三歳歳上だったはずだから、今は三十四歳であるはずだ。堂々とした体躯は防具に包まれていることもあって、記憶にあるよりも大きく見えるような気がする。実際に袂を分かってから九年近く安湛は軍部に籍を置いていたわけだから、黄季が知っている以上に体は鍛えられているのかもしれない。


 それでもニヤリと悪戯いたずら小僧のように笑う表情や、親しみやすいようでいて油断のない身のこなしは、黄季の記憶にあるままの安湛だった。そのことに黄季はひとまずホッと安堵する。


 ──これなら俺も、本気で行ける。


 剣を抜き、構えるのは黄季の方が早かった。


 右足を引くように置き、右肘を上げて後ろへ。スラリと鞘を払った紫鸞しらんを右腕一本で構え、刀印を結んだ左腕は前へ。わずかに腰を落として構えれば、ユラリと揺れた紫鸞の房飾りが手元で揺れる。


 その構えを見た安湛も、目をすがめるとゆっくりと腰に佩いた剣を抜いた。その造りを見た黄季も外套の下で目を眇める。


 ──天鴦てんおう。手放してなかったんだ。


 かつて父から大師兄へ下賜された、ばん家伝来の剣。その対とされた剣は、長兄とともに出兵し、帰ってはこなかった。


 その鷭の証とも言える剣を、安湛は黄季と同じ型で構える。たったそれだけで、周囲の空気がピンと張り詰めたのが分かった。その空気に触れたことで、黄季の中に最後まで残っていた感傷までもが掻き消える。


 武人として誰かの前に立つのは、八年ぶりのことだった。大人と目される年齢になってからは、初めてのことだ。


 それでも、緊張と呼べるものはなかった。それどころか、あらゆる感情が掻き消されて、空っぽになった自分と周囲の空気が溶け合って輪郭が曖昧になっていく気すらする。


 そんな自分と等張の空気を吸い落とし、吐き出す。


 同時に、足は地面を蹴っていた。


「っ!」


 突進の勢いと全身のバネ、さらに腕の円運動の勢いまで使った一打を安湛に向かって叩き込む。だが黄季渾身の一打はフワリとあまりに手応えがないまま安湛の剣にいなされた。まるで柳が風を受け流すかのようにソヨリと捌かれた剣先は、そのまま柳の枝先に巻き込まれたかのように力を絡め取られ、地面に向かって叩き付けられる。


「っ……!」


 黄季はその力の流れに逆らわず、わずかに自分の力を横向きに加えてクルリと腕の動きを落下から円運動へ変える。今度はその流れを使って斬りかかったが、また同じように紫鸞の切っ先はいなされた。


 さらに踊るように足を捌きながら一打、さらに背後へ体を逃しながら背後からも斬りかかるが、同じように体を捌いた安湛に完璧に対応される。どれだけ斬りかかってみても、確かに斬り結んでいるはずなのに打ち込んでいる手応えが一切感じられない。


 それはまさしく、黄季の剣の運び方そのものだった。


 ──すごい。確かに打ち合ってるはずなのに、その感触さえ分からないくらい完璧に力が流されてる。


 一度後ろへ下がって距離を取りながら、黄季は再度紫鸞を構える。立ち位置を入れ替えての仕切り直しに、安湛も同じように天鴦を構え直した。


 受け流し、絡め取って、落とす。


 鷭家、かつてのらん家が伝える武術の理は全てそこへ帰結する。


 鸞は、風を従える神獣だ。その名のごとく鸞家の武術は力の流れを風にたとえ、その流れを制御する術を教えている。


 いかに風の流れを受け流し、風を利して己の体を捌き、風を巻き起こして相手を打ち据えるか。


 黄季が武の根本として納めた理がそれだ。『一目見ただけであらゆる武術を己のものにできる』とその才を評された黄季だが、どの技を取り込んだ時もその根本は変わっていない。


 だが今、久しぶりに大師兄を相手取って、己の理がいかに浅いものだったかを黄季は噛みしめる。


 ──そうだ、この感覚。父上や紅兄こうにいと同じ。


 斬り掛かっても斬り掛かっても打ち込んでいる感覚がなくて、いつも地面に転がされては最後にポコリと軽く頭に木刀を当てられるのが常だった。父も、祖父も、長兄も。三人には劣るけれど三兄だって、そんな剣の遣い手だった。


 ジワリと一瞬、感傷が涙腺を緩ませる。


「シッ!」


 その隙を突くかのように、今度は安湛側が斬り掛かってきた。黄季はそれを反射的に受け流す。


 安湛からの打撃は、今まで受けてきたどの攻撃よりも重かった。安湛が黄季の攻撃を受け流したのと同じ所作で受け流しているはずなのに、力が逃げ切らずにジンと痺れが手を伝う。かく永膳えいぜんの大剣による斬撃を左腕と匕首ひしゅ一本でしのぎきった黄季が今、両手で紫鸞を握っているのに同じ剣での攻撃の衝撃を流しきれていない。


 それでも黄季の体は考えるよりも先に反撃に乗り出そうと動く。だがそれをいち早く察した安湛は手首の動きだけでわずかに天鴦の軌道を変えた。


 たったそれだけの小さな動きで、黄季の体は軽々吹き飛ばされる。


「っ!?」


 受け身を取りながら地面を転がると、離れた場所から驚きに引きれた呼吸の音が聞こえた。木陰と認識阻害の結界で姿を隠した氷柳が、軽々といなされている黄季の姿に驚ろきを隠せずにいるらしい。


 そんないつになく分かりやすい反応に、黄季は少しだけ苦笑をにじませた。


 ──カッコ悪いとこ、見られちゃったなぁ……


 黄季としては順当な結果なのだが、氷柳にとってはそうではなかったのだろう。『何があっても止めないでください』とあらかじめ頼んでおいたからこの程度で乱入されることはないはずだが、気配に聡い安湛に氷柳の存在に気付かれるのは少々マズい。


 黄季は外套を剥ぎ取るように脱ぎ捨てて後ろへ放り投げると、再度紫鸞を構えて地を蹴った。今度は受け流さず正面から紫鸞を受け止めた安湛が、一瞬驚きに目を丸くしてからわずかに瞳を細める。それが笑みによるものであると、眼前で競り合う黄季には分かった。


「デカくなったな、黄坊おうぼう


 低い囁きは、恐らく黄季の耳にしか届かなかっただろう。


 だから同じ声音で、黄季も言葉を返す。


「安湛さんは、変わんないね」


 その言葉に笑みを深めた安湛が、黄季の体を後ろへ押しやる。その力に逆らわず一度後ろへ下がった黄季は、低い位置から再度安湛へ斬り掛かった。


 武人同士が刃を向け合えば、そこに言葉はいらない。


 ──変わっていないからこそ、もうゴチャゴチャ言葉はいらない。


 紫鸞の切っ先は相変わらず天鴦によって手応えさえ与えられないまま受け流される。


 それでも黄季はもう言葉を発することなく、頼りになる大師兄に向かって一切の遠慮なく紫鸞を振りかぶった。




  ※  ※  ※




「っだぁぁぁぁっ!! つっかれたぁ〜~~!!」


 半刻後、盛大に叫んだのは安湛の方だった。中庭の地面に大の字に倒れ込んだ安湛は、人払いだの何だのを完全に忘れた大声でわめき立てる。


「黄坊お前なぁ! こちとらもうオッサンなんだ! 十代の体力お化けの相手させんなよなぁ!」

「いや、……それ……安湛さんが、言う……?」


 対する黄季は安湛よりも先に地面に伸びていた。喚かないのは、もはや喚くだけの体力がないせいだ。


 ちなみに対戦結果は、明らかに黄季が安湛の手のひらの上で転がされるだけ転がされた形で終わっている。木陰の向こうにひそんだ氷柳がこちらに出てくる瞬間を逸してソワソワと心配そうな視線を向けているのが気配で分かった。


 ──ごめんなさい、氷柳さん……もう少しだけ待っててください……


「安湛さん、俺の、剣って……」

「強くなった!」


 荒れる息を何とか誤魔化しながら問いかけると、重ねるように安湛が叫んだ。その声の端々に嬉しそうな笑みがにじんでいるのが響きだけで分かる声だった。


「バッカみてぇに強くなった! でもまだ伸びるぜ! 今のお前じゃ橙旺とうおうと五分ってとこだ。先生も大先生も紅兎こうとも、もっともっと強かった!」

「伸びる……?」

「だな! 荒削りってことは、まだまだそこに研ぐ余白があるってこった。こりゃまだまだ先が楽しみだ。俺ぁまだまだ死ねねぇな!」


 ガッハッハッと、まるで悪の親玉のような笑い方をする安湛に、黄季は思わず首だけを巡らせて視線を向けた。その視線の先で安湛が空を見上げたまま、声の調子そのものに豪快に笑っているのを見た瞬間、黄季の涙腺が再びジワリと熱を帯びる。


 ──まだ伸ばせる。まだ、研ぐ余白がある。


 ずっと、不安だった。


 自分が持つ力は、ここで頭打ちになるのではないかと。この武力を目にした周囲が目をみはり、称賛し、頼りにしてくれるようになればなるほど、その不安はひそかに大きくなっていった。己の刃が永膳には届かないのだと突き付けられてからは、その不安はもう隠しておけないくらいに成長してしまっていて。


 だからこそ、自分より格上だと素直に認められる相手にコテンパンにされた上で、まだまだ伸ばせると太鼓判を押してもらえたことに、こんなにも安堵している。


 ──そっかぁ……。そっかぁ……!


 その言葉が聞けただけでも、氷柳と慈雲の手を煩わせてまでここに来た意味があった。右手の甲を目元に載せて目を閉じれば、ここ最近心の片隅を常に占拠していた黒いもやが綺麗に消えていくのが分かる。


「……そうだよなぁ、死ねねぇ、よなぁ……」


 疲労で指の一本さえ動かせないくせにどこか軽くなった体の感触を確かめていた瞬間、隣からポツリと声が聞こえてきた。先程までの豪快な笑い方からは想像もつかない湿っぽい声に目元から手をどけて隣を見遣れば、安湛の顔からは笑みが消えている。


「黄季、お前にずっと謝らなきゃなんねぇと思ってたことがある」


 その真摯な響きに、黄季は視線だけで答えた。本当は体を起こしてきちんと威儀を正して聞くべきなのだろうが、今はその余力さえない。


 安湛としては、それで良かったのだろう。安湛も安湛で地面に大の字に寝転んだまま、続く言葉は紡がれる。


「俺はお前の兄貴達を、一人もお前の元に帰してやれなかった」


 ポツリとこぼされた声に、黄季は何と答えたらいいのか分からなかった。深すぎる懺悔は、なぜその形を取ったのかも、どう受け止めればいいのかも分からないまま、深い新月の夜闇の中に溶けていく。


「俺はさ、かなり早い段階から、民間側の兵に参加してた。先生達は止めてくれたってのに、俺はさ。……何だろうな、正義に酔ってたのかもしんねぇな」


 安湛が鷭道場を出奔した理由が大乱参加のためだったという話は、黄季もおぼろげながら覚えている。まだ強制徴集が始まる前に自ら戦に加わると言い始めた安湛と、安湛を引き留めようとした父や祖父達が言い争う声を聞いていた。指導は厳しくても温厚だった三人が鬼のような形相で言い争っているのが怖くて、一緒にいた三兄の服の裾を必死に握りしめて泣くのを耐えていた覚えがある。


「参加が早かったお陰でさ、俺、紅兎と青燕が強制徴集で民間兵側に引っ張られてきた時、あいつらの上官だったんだ」


 黄季の父と祖父である先生と大先生が強制徴集され、戦死したという話は、自分の下に紅兎が配属されてきてから知った、と安湛は語った。


 鷭家はその武を人に教授することはあっても、自ら国のため、皆のためという大義を以って振るうことは家訓で許されていない。そんな鷭家の人間である紅兎が、なぜ民間側とはいえ軍に身を投じたのかと、安湛は配属されてきた紅兎の姿を見て我が目を疑ったという。


 そんな安湛に紅兎は、いつものように明るく笑って答えた。


 父と祖父の二人が戦死しても、周囲の人間は鷭家が戦いをいとうことを許してくれなかった。あのまま突っぱねれば、周囲の民こそが鷭家にとっては最大の脅威となる。その脅威から家族を守るために、自分がここに来たのだと。


「その話を聞いた時にさ。俺はさ、黄季。なぜお前を差し出さずに紅兎が出てきたのかって、心底本気で思ったんだ。軍部にその身を渇望されてたお前を民間軍側に売れば、他の兄弟は見逃してもらえたのかもしれねぇのにって」


 その言葉に黄季は思わず身を強張らせた。


 ──自分が死ねば、兄達は、家族は、死ななくても済んだのかもしれない。


『武芸の申し子』『鷭の麒麟児』


 二つ名だけは立派だったくせに何もできなかったという深い後悔は、誰に突きつけられるまでもなく、黄季自身の心に暗い影を落としている。


 ──安湛さんですら、そう思ってたんだ。


 血は繋がらないけど、兄弟同然で、家族同然だった安湛にさえ、そう思われていた。


 その事実に『それが当たり前だ』と思う反面、心の一番柔かい部分が食いちぎられていくような痛みも感じる。


「勘違いすんなよ、黄坊。ありゃ悪化する戦況に追い詰められてた俺がトチ狂ってただけだ。今じゃ当時に立ち戻って自分自身をぶん殴ってやりてぇって思ってる」


 だが痛みを与えた安湛自身が、そんな黄季を庇うような言葉を口にした。


「まぁ、俺が俺を殴れない代わりに、当時の紅兎が全力で俺を殴ってくれたけどな。それでも当時の俺にゃ意味が分かってなかったみたいで、似たようなことを青燕が来た時にも言っちまって、同じように青燕にも殴られたよ」

「え」

「紅兎は右、青燕は左で殴ってきたから、左右の奥歯が一本ずつ折れた。きっと橙旺にまで同じことを言ってたら、今度は前歯を持ってかれてただろうな」

「えぇ……?」


 ──紅兄と青兄せいにいが安湛さんを殴った? あの二人が?


 長兄と次兄はそれぞれ剣と弓の名手で、そりゃあもう名前を聞いただけで軍部崩れの猛者さえ震え上がるような強者だったが、長兄は穏和で礼儀正しく、次兄は寡黙で優しい人だった。割と荒っぽい所があった三兄や破落戸ゴロツキに片足を突っ込んでいた四兄ならまだしも、長兄と次兄が自分達の大兄貴と慕った安湛を容赦なく殴ったとは想像もできない黄季である。


「『いかに個として強かろうとも、集団戦である戦でその強さを発揮できるかは別問題だ。個としての強者が一人いるだけ戦を終局に持ち込めると思うな。それが正しい理屈ならば、この戦は父上が徴集された時点ですでに終わっていた』……紅兎も青燕も、そう言ったよ」


 思わずパチクリと目をしばたたかせていた黄季は、続けられた言葉に無防備に目を丸くした。


 だってその言葉は、今まで黄季が囚われていた心のおりさえ払う言葉だったから。


「だから黄季がここに来る必要性なんて微塵もない。あの子は自分達の可愛いい末弟で、まだたったの十歳なんだ、ってな。二人ともがそう言った。橙坊とうぼう緑坊りょくぼうが俺と顔を合わせてても、同じことを言ったと思う」


 ──俺が行っても、戦は終わらなかった?


 今までずっと、心のどこかで思っていた。


 自分さえ出兵すれば、大乱はたちどころに終わっていて。家族はみんな死ななくて済んで。都が灰燼かいじんに帰すこともなくて。全てがもっと良い形で、綺麗に収まったのではないかと。


 氷柳から大乱の裏事情を聞いて、あの大乱はそんなに単純なものではなかったのだということを知っても、長年心の奥に巣食った妄想が消えることはなかった。


 ──俺一人の命で家族みんなの命を救えたら、それ以上にいいことなんて、なかったはずなのに。


 七人の兄と、父母と、祖父母。


 それだけの命を背負って生きるのは、時々重すぎて。もう自分みたいな思いをする人なんていなくなればいいと、自分に許された道で戦うことを決めて走り続けていても、時々その重みに潰されそうになる夜もあったから。


 だから今、亡き兄が過去に言い放った言葉に、これだけ心が揺れ動く。


「校尉なんて呼ばれる立場になって、しみじみ紅兎の言葉は正しかったと実感した。……黄季、お前が真っ先に出兵してても、あの戦の結末は変わらなかった。きっと鷭家は、今頃全員死んでた」


 そっと添えるように、安湛は言葉を落とした。


 その言葉に、ついに耐えきれなくなった雫が、静かにまなじりを滑り落ちていく。


「同時に、当時兵を率いる立場にいた者として、残されたお前に本当に申し訳が立たなかった」


 個の強さで勝敗が決しない戦は、将の力量によって勝敗が決する。兵をどれだけ無駄死にさせずに帰還させられるかは、全て隊を率いる者の技量にかかっている。


「末期なんてもう、指揮系統もクソもあったもんじゃなかったけどよ。それでも……だからこそ、そのドサクサに紛れてどっかに放り込まれてた双子や、萌牙ほうがくらい、逃がしてやることも、できたかもしれねぇのに」


 自分には、それができなかった。


 安湛が吐き出した懺悔は、黄季の心の奥に巣食っていた後悔と同じ重さを抱えている。……いや、安湛の場合は目の前で命を散らした兄達を直に見ている分、黄季よりも深くて重いのかもしれない。


「……安湛さんはさ」


 あの大乱から生き残った人は、多かれ少なれ何かを抱えて生きている。


 だが安湛がこぼした思いは、一人で八年間も抱えすぎるには重すぎた。


「そう思ってたから、俺に会いにきてくれなかったの?」


 黄季はようやく何とか上半身を起こすと、上から安湛を眺めた。記憶の中でも今でも黄季よりはるかに背が高い安湛を見おろすなんて、初めてのことだ。


「俺に会わせる顔がないからって」

「それももちろんあった。けど、一番の理由はそれじゃねぇ」

「え?」

「『自分が戦死して、お前が生き残ったとしたら。お前が軍に身を置き続ける限り、どれだけ心配だったとしても、残された弟達に会いにいくのは絶対にやめてくれ』。そうやって、紅兎と青燕、それぞれに釘を刺されていた」


 あいつら、性格はあんまり似てなかった癖に、変な所で言動がそっくりなんだもんな、と、安湛はほろ苦く笑った。


「俺が軍に居続ける限り、俺を通して軍部の視線は鷭家に向き続ける。先生も、大先生も、紅兎も青燕もいなくなったら、軍部からの要求を跳ね返せる人間はいなくなる」


 そうなったら、残された弟達は軍の喰い物にされる。弟達がそんな目に遭ったら死んでも死にきれない。搾取されるくらいならば、飢え死にさせた方がきっとまだ楽に死なせてやれる。


 だからお前は生き残ったとしても、二度と鷭家の敷居をまたぐな。お前に行く末を心配されなきゃならんほど、うちの弟達は弱くはない。


「あいつらほんっと、状況が分かりすぎだろ。……現にお前以外はみんな、民間軍ではあったが、軍に喰い散らかされるように死んじまった」


 囁くように告げられた事実に、黄季は今度こそ言葉を失った。


 仮に、だ。大乱が終結した後、黄季の身を案じた安湛が鷭家に顔を出していたら。


 安湛が籍を置いた軍部と安湛を取り巻く人間は、果たして安湛が心を砕く幼子に興味を抱かずにいられただろうか。安湛は生き残った幼子が『鷭の麒麟児』であることを隠し通せただろうか。安湛は黄季の武才を封印することや、武芸以外で身を立てる道を後押しすることができただろうか。


 ……答えは否だ。


 鷭道場の高弟であった安湛の挙動は、大乱後、失われた戦力の拡充を急ぐ軍部の中で一際注視されていたはずだ。その空気を肌身で感じていた安湛は、軍部に入りさえすれば生活が保証されると分かれば黄季に軍部入りを勧めたに違いない。後ろ盾になるならば、黄季が元五獣筆頭・鸞家最後の直系にして武芸の天才『鷭の麒麟児』であることも公表していただろう。


 ──俺は。


 ひとりで生きてきたのだと、思っていた。おごりではなく、独りで生きていかざるを得ない状況に置かれていたと思っていた。


 でも、違った。


 一人になった後だって、自分はずっと生前の兄達のはからいによって守られていた。一人だったけれど、独りではなかった。


「安湛さんはさ、『帰してやれなかった』って言ったけど」


 その事実によって与えられた熱をグッと噛み締めて、黄季は袖元で涙を拭うと笑みを浮かべてみせた。


 きっと不格好ではあるだろうけれど、前に進むためには必要だった、黄季のとっておきの笑みを。


「でも、紅兄と青兄は、帰してくれたでしょ?」


 その笑みになのか、言葉になのか、安湛は黄季を見遣ると目を丸くした。そんな安湛に黄季はさらに笑みを深める。


「あの大乱の中、始めの頃とはいえ亡骸や遺品が帰ってくるのは稀だったって聞いてた。……届けてくれたの、安湛さんだったんでしょ?」


 黄季の問いに安湛は答えなかった。ただ黄季を見つめたまま目がこぼれ落ちそうなほど大きく見開かれる。


 ──やっぱり、そうだったんだ。


 兵に取られた家族は、死んでしまえば何も帰ってはこない。遺品のひとつ、遺髪の一筋もないまま、ただ噂だけで死んだのだと聞いて、何年もかけてその事実を呑み込む。それがあの大乱の中での『常識』だった。


 そんな中鷭家では、長兄と次兄の死の根拠だけが、どうしてだか屋敷に届けられた。


 いずれも明け方に屋敷の表門が叩かれる音を聞いて顔を出せば、そこには人の姿はなく、長兄の時は亡骸が、次兄の時は遺品の弓が、門柱に寄り掛かるように丁寧に置かれていた。


 その事実があったから、残された家族は長兄と次兄の死を、引いては先に徴集された父と祖父の死を事実として受け入れることができたのだ。


「お礼、みんなずっと伝えたがってた。あの状況の中で、一部でも帰ってきてくれたなら、それは奇跡だって」


 息を呑んだまま固まる安湛に心の底から笑みかけて、黄季は何とか膝を上げた。まだ疲労は全身に重くのしかかっているが、何とか歩けそうなくらいにまでは体力も回復したような気がする。


「紅兄は、鸞家のお墓に入れてあげられたからさ。今度、墓参りに来てあげてよ。きっと紅兄も、青兄も、他のみんなも、喜んでくれるから」


 そろそろ撤退時だ。ヤキモキした氷柳がついに認識阻害の結界を掻き消してこちらに歩みを進め始めたのが音で分かる。何とか氷柳が安湛の視界に入るよりも先に合流しなければ、氷柳の美貌のせいでまた一波乱起きそうな気がする。


「俺が今住んでるのは、彩陳さいちん通りから一本裏に入った、前庭に銀木犀が入った屋敷だ。実際に近場まで行きゃあすぐ分かる」


 ふらつく足を踏みしめて身を翻した瞬間、背後に残した安湛が声を上げた。その意味する所がとっさに理解できなかった黄季は、無防備に安湛を振り返る。


「人目につかねぇ所で、またじっくり鍛錬しようや」


 そんな黄季の視線の先で、ようやく体を起こした安湛が両手を包拳の形に結んでいた。黄季を見上げた顔には、安湛らしい悪戯小僧めいた笑みが浮いている。


「っ、はい!」


 拱手よりも先に覚えた礼法に則り、黄季も安湛へ一礼を返す。


 それからようやく重要な一言を言い忘れていたことに気付き、黄季は慌てて声を上げた。


「御指導頂き、ありがとうございました!」


 その言葉に、安湛が虚を衝かれたかのように目を丸くしてからクシャリと顔全体で笑う。


 そんな景色が、背後から溢れた白銀の燐光に塗り潰された。体勢を保てずに足を縺れさせれば、背後から伸びてきた腕が抱き留める形で支えてくれる。


「わっ!? 氷柳さんっ!?」

「気が晴れたならば、帰るぞ」


 素っ気なく言い放った氷柳はすでに転送陣を起動させているようだった。問答無用の撤退劇に黄季はわずかに面喰らう。


「えっと、氷柳さん?」


 背後から抱き留められている状況なので、今の黄季には氷柳の顔が見えない。移動が完了して視界が安定するまで双方の身の安全のためにも甘えさせてもらった方がいいだろうと判断した黄季は、態勢を変えないまま氷柳に問いを向けた。


「何だか、機嫌悪くないですか?」

「……」

「もしかして、お腹空いてます?」

「…………」

「帰ったら、何か作りましょうか?」


 何となく不機嫌であることに間違いはないだろうと考えての問いだったのだが、氷柳から返されたのは深い溜め息だけだった。


 ──えぇ? 何で……?


「……もうお前はさっさと休め。無理をするなら、もう一度医局にぶち込むぞ」


 低く言い放った氷柳が黄季を支えていた腕を離す。白銀の燐光が消えると、二人は鷭家の屋敷の中に立っていた。氷柳が行使する転送陣で王城から都の端にある自邸までひとっ飛びしたらしい。


「明日も出仕日なんだ。お前は私と一緒に泉仙省に出仕するんだから、恙無つつがなきよう今宵はもう休め。私ももう今日は休む」


 ツンッと不機嫌なまま、氷柳は黄季に預かっていた弓を返すと自室へ下がっていった。


 その後ろ姿を見送りながら、黄季は小首を傾げる。


「……聞き間違いじゃなければ、行きの時点で腹の虫が鳴いてた気がしたのになぁ……?」


 普段ならば黄季の手作り料理を食べられる機会を氷柳が逃がすことなどないはずなのだが、一体どうしたのだろうか。疲労困憊こんぱいの黄季を気遣ってくれたのだろうか。


 ──あ、しまった。付き合ってもらったのにお礼言いそびれてる!


 仕方がないから明日は、感謝の気持ちを込めて朝食から氷柳の好物三昧にしよう。


 そう心に折り合いをつけた黄季に『多分それ、自分以外の、しかも自分よりも付き合いが長い師匠役が現れたことが単純に面白くなかっただけだと思うよ?』という情報がもたらされるのは、夜が明けて数刻後、経過観察のために黄季が医局の貴陽きようの元に顔を出した時のことなのだが、この時の黄季はまだそのことを知らない。

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