足音も気配もなかった代わりに、灯火がユラリと音もなく揺れた。


「そろそろ切り上げなよ」


 入室の断りも挨拶もなく長官室へ踏み込んできた貴陽きようは、暗闇の中で一人、灯火の灯りで書類に目を通していた慈雲じうんに小さな溜め息をこぼす。


「どうせ今根を詰めたって、しばらくこの一件は解決しない。長期戦に備えて体を休めた方が建設的だよ」


 そう言いながら歩み寄ってくる貴陽は、足音もしなければ杖の音もしなかった。顔を上げて貴陽を見遣れば、今の貴陽の腕には目の代わりを果たす杖の姿がない。その代わりに布が被せられた籠が抱えられている。


 一瞬、このまま黙りこくっていたら、目の前に慈雲がいることに気付かず医局に引き返してくれたりしないかと、慈雲は密かに考えた。だがそんな幼稚な手段が通じる相手ではないということも、同時に慈雲は知っている。それこそ、その事実に嫌気が差すくらいには。


「……黄季おうきの容態は?」

「持ちこたえた。山場は越えたから、もう大丈夫」


 しばし逡巡しゅんじゅんして言葉に出したのは、苦言に対する答えではなく己の疑問だった。慈雲ならばそう返すと分かっていたのか、貴陽は問いをはぐらかされたことを怒ることもなく慈雲の問いに答えてくれる。


 その一瞬、貴陽の顔に隠し切れない安堵がぎったことを、慈雲は見逃さなかった。


「さすがは黄季君、と言うべきなのかもね。永膳えいぜんさんは絶対あの場で即死させるつもりで刺しただろうに、とっさに急所から刀身は逸らされていた」


 そうじゃなかったら、いくら僕でも間に合わなかったと、貴陽は小さく呟く。


 そんな貴陽が纏う衣には、いまだにベッタリと血の跡が残っていた。上に羽織った萌黄のうちぎは着替えたようだが、中の医官装束までは着替えていられる余裕がなかったのだろう。あるいは、染み付いた血痕に気付ける余裕がなかったのか。


「……そうか」


 心に余裕がないのは自分も同じであると、分かっている。


 ──あの瞬間、俺と貴陽の全力の合わせ技で、あそこまで歯が立たなかった。


 己の技量が八年前より劣ったとは思えない。貴陽だって、現役を退いたとはいえ、執念から技を研ぎ続けていることは知っている。


 かつて『氷煉ひれん比翼』と並び称された『猛華もうか比翼』は、決して腕前を落としてはいない。今だって自分達は、泉仙省せんせんしょうの切り札という立場を負える一対だ。


 そんな一対が、対を置かないかく永膳単体に歯が立たなかった。


 その事実を突き付けられた慈雲は、正直言って今後どう動けばいいものかと途方に暮れている。


 ──いや、『途方に暮れる』なんて、かわいいもんじゃない。


 これは、絶望だ。


 分かりやすいほどに。これ以上にないくらいに、永膳は自分達に絶望を突き付けていった。そしてこれこそが、いきなり姿を現した永膳の狙いだったのだろう。


 そう思った瞬間、脳裏をぎったのは、この絶望を自分などよりもずっと目の当たりにしたであろう人物の姿だった。


「……涼麗りょうれいの様子は?」

「黄季君の傍にいる」


 小さく答えた貴陽は、わずかに唇を躊躇ためらわせると密やかに言葉を付け足した。


「ちょっと、一人にしてあげた方がいいかなって思って」

「……だな」


 八年の断絶を越えて、死んだはずである永膳が帰ってきた。


 それだけでもどう受け止めていいのか分からないだろうに、事もあろうか永膳は本気で黄季を殺しにかかった。遅かれ早かれこうなることは分かっていたはずだが、ただ予想するのと実際にその現場を目の当たりにするのとでは訳が違う。


「心の整理、なんて……簡単につくもんじゃねぇわな」

「うん。……多分涼麗さん自身が、黄季君が殺されかけたことと、それに対して自分が取った行動に、一番混乱してる。永膳さんの刷り込みって、そんなに簡単にどうこうできるものじゃないもの」


 貴陽のささやきに慈雲は無言のまま頷いた。


 ──永膳としても、黄季の存在は完全に誤算だったんだろうな。


 慈雲が永膳と涼麗の二人に知り合った時、二人はすでに関係だった。


 相方で、主従で、二人だけで世界が完結しているような。


 その関係がどうやって形成されていったのかは、慈雲でさえ知らない。ただかつての二人の一番身近にいた同期として、永膳がいかに涼麗に執着していたか、涼麗にとっていかに永膳が絶対であったかは知っている。


 大乱前の涼麗は、永膳が目の前で誰をどれだけ殺そうが眉ひとつ動かさなっただろうし、永膳が命じれば誰だって……それこそ慈雲だって殺すことができただろう。


 だから、正直に言ってしまえば、意外だった。


『かつての』と決して過去のことにはできないはずである絶対君主に、涼麗があんなに早い段階ではっきりと否を示したことが。そうであってほしいと願いながらも、涼麗がキッパリと永膳の要求を跳ね除ける姿など想像できずにいた。


 ──それだけあいつの中で、黄季という存在は……


 そのことを思った瞬間、わずかな間だけ己の口元が緩んだ。


 ──ほんと、良かったな、涼麗。


 事態を動かせるとしたら、やはり黄季しかいないのだろう。八年前、あの場にはいなかった黄季にしか。


 そう期待すると同時に、慈雲の中には黄季に対する申し訳なさもある。


 ──巻き込む原因を作ったのは、元を正せば俺の我が儘だからな。


 涼麗を探し出すために細工した佩玉を黄季に持たせていなければ、黄季が涼麗と知り合うことはなかった。涼麗に出会わなければ、黄季がここまでの命の危機にさらされることはなかった。


「はい。じゃあ、待ってた報告も来たことだし、長官としての本日の慈雲の業務は終了」


 思わず卓の上に投げ出した右手に力がこもる。


 その手がグッと拳を握りしめた瞬間、柔らかな声が有無を言わさず慈雲の物思いを断ち切った。コツリと初めて響いた音に顔を上げれば、握りしめた拳の上にフワリと貴陽の手が被せられる。


「というわけで、ただの慈雲は僕の患者ね」

「は? 俺は怪我なんて」

「主治医の言うことは素直に聞いてくださーい。はい、連行」

「ちょっ……貴陽!?」


 ……と思った瞬間、柔らかく被せられただけであったはずの手が慈雲の右腕を容赦なくひねり上げていた。あっさり右肘と右肩の関節をめられてしまった慈雲はすべもなく貴陽の動きに従うしかない。


「おまっ……!! 腕もげる……っ!!」

「患者の制圧は医者の務め」

「初耳なんだがっ!?」


 バサバサと卓から滑り落ちる書類に構わず、貴陽はヒョイッと極めたままの腕を上げて慈雲を立ち上がらせる。そのままわずかな動きで慈雲に卓を迂回させた貴陽は、慈雲の抵抗を封じたまま隣室へ続く扉を開けた。


「はい、着席」


 長官室の隣には、長官専用の休憩室が用意されている。歴代の長官達はこの部屋を来客対応や密談、仮眠に使っていたようだが、慈雲の代になってからこの部屋はもっぱら物置きとして使われてきた。


 ──どうにも寝込みを襲われそうな気がして、疲れ切っててもここだと寝れねぇんだよな。


 常駐している部屋の隣に専用の休憩室がありながら、慈雲が休憩時に使っている場所はもっぱら貴陽がいる医局の簡易休憩室だった。最初の頃は仕事に根を詰めすぎた慈雲を貴陽が無理やり連行していたのだが、気付いた頃には限界を迎えるよりも早く自分から貴陽の所に出向くようになってしまっていた。


 恐らく慈雲の無意識には貴陽によって『疲労が蓄積した時は簡易休憩室へ行く』という行動が刷り込まれてしまったのだろう。最近は開き直って貴陽に目覚まし役まで任せてしまっている。


 ──不思議とよく寝れるんだよな、あそこ。


 無茶のしすぎが貴陽にバレると、起こすどころかお茶に仕込まれた睡眠薬でガッツリ寝かしつけられてしまうのことが玉に瑕なのだが。


「休めって言っても、どうせ慈雲は『今は簡易休憩室には行きたくない』って我が儘言うつもりなんでしょ? 涼麗さんと黄季君がいるから、気軽に仮眠取れる場所がないとかなんだとか言っちゃってさぁ」


 窓際に寄せて置かれた寝椅子に向かって慈雲を突き飛ばした貴陽は、やれやれと言わんばかりに肩をすくめた。かろうじて慈雲が受け身を取れば、図ったかのようにポスンと体は寝椅子の座面に納まる。あれだけガッチガチに極められていた腕は、貴陽の手が離れてしまえば痛みも違和感も残らない。


「だから僕がわざわざこっちにきてあげたの。感謝してよね」

「……るっせ」


 あらかじめ反論を全て封じられてしまった慈雲は、視線をそらしたまま小さく呟くしかなかった。


「はいはい。これ以上僕に論破されたくないなら、黙ってこっちに腕貸して」


 そんな慈雲の内心を完璧に把握しているのであろう貴陽は、腕の中に抱えていた籠を慈雲の隣に降ろすと自身は慈雲の足元の床に両膝をつく。


 貴陽が引いてくれないことをいい加減に理解した慈雲は、仕方なく背中を寝椅子の背もたれに預けるように座り直すと貴陽へ左腕を差し出した。その手をスルリと下から取った貴陽は、反対側の手を慈雲の腕に滑らせる。


「骨とか関節は大丈夫だったんだよね? どこかに違和感あったりする?」

「ねぇな。擦り傷と打ち身で済んだ」

火傷やけどとかは?」

「感覚的にはなさそうだな」

「……ん。嘘がなさそうで何より」


 スルリと手首から肩口まで手のひらを滑らせた貴陽は、無言で反対側の腕も寄越せと主張する。


 視力を失った貴陽だが、直接触れれば筋肉の緊張や患者の息遣いで傷の有無と程度は分かるという。ついでに呪力の流れまで見られてしまえば隠し事はほぼ不可能だ。ましてや常日頃から貴陽によって勝手に体調管理をされてしまっている慈雲は、指先の小さな切り傷ひとつさえ貴陽には隠しておけない。


「仕込みなしで大技使ったせいか、ちょっと霊力回路にひずみが出てる。調整しちゃうね。擦り傷も打ち身も大したことはなさそうだから、こっちは自然治癒に任せておけばいいかな」


 貴陽が納得するまでされるがままになっていた慈雲は、診察結果に小さく息をついた。両手を取られたままなのは、貴陽が己の呪力を通すことで慈雲の霊力回路を調整しているからなのだろう。呪力が通った両手は、ぬるま湯に浸かっているかのようにポカポカと温かい。


「……そんなに過保護にされなくても、俺は丈夫なつもりなんだがな」

「過保護にさせてよね。それくらいしか、慈雲を支援できる方法がないんだから」


 小さく苦言を呈すれば、今日も真面目な言葉にキッパリと言い返された。貴陽から『それくらい』以外の手段を奪った自覚がある慈雲は、こう言われてしまうと上手い反論が見つけられない。


「……お前も、疲れてんじゃねぇの?」


 貴陽の手の温もりと、流れ込む呪力による熱、その両方に張り詰めていた神経が緩んでいく気がした。一度緊張が緩むと、今度は押しのけていたはずである疲労や眠気が這い寄ってくる。


「瀕死の重傷だった黄季の治療して、俺の体調管理まで……」

「医療呪術は、簡単に言っちゃうと、本人の呪力と、周囲の地脈を使って肉体を活性化させることで、傷を癒やしたり、不調を正したりする技だから。そこまで術を行使してる人間に負担はないよ」


『現場で黄季君の傷を塞いだ時は永膳さんから掠め取った呪力を使っていたし、医局に担ぎ込んでからは付きっきりだった涼麗さんが力を提供してくれてたから、実質僕の呪力の負担はほぼなかったよ』と、貴陽は静かに続けた。


 その言葉に、慈雲はトロトロと下がってきたまぶたに抗うように瞳をすがめる。


「削って、ねぇだろうな?」

「何を?」

「『炎簫えんしょう』使った時に、寿命、削ってねぇだろうな?」


 眠気に意識がむしばまれている今、慈雲には貴陽の表情を判別できる余力がない。そうでなくとも、灯火のひとつもない、夜の闇に沈んだ部屋の中だ。意識が冴えていても、慈雲の目では貴陽の細かい表情を見抜くことはできなっただろう。


 それでも慈雲には、繋がった貴陽の指先がピクリと震えたのが分かった。


「……許して、ねぇからな」


 その手を逃さないように繋いだ手に力を込めたのは、無意識の行動だった。


「今度勝手に、あんな真似したら……」

「削ってないよ」


 もはや慈雲には、自分が何を喋っているのか、自分が何をしているのかもよく分かっていない。フワフワと眠気に抱き包まれてしまった意識は、心地良い熱を感じながら溶けて消えようとしている。


 だがそんな中でも、貴陽が何を言っているのかだけは、不思議と理解できた。


「大丈夫。今回は、削ってない」

「……そうかよ」


 その証拠に、慈雲の口元には安堵の笑みが浮く。


 分かったのはそこまでで、次の瞬間、慈雲の意識は完全に眠気の海に溶けて消えていた。




  ※  ※  ※




「おっと」


 カクリと倒れかかってきた体を、とっさに手を離して抱き留める。長官の座についてからも時折現場で偃月刀をぶん回している慈雲の体は、膝立ちの状態で支えると貴陽の腕にはずっしりと重い。


 ──またえらく無防備に寝落ちたもので。


 耳元で響く寝息は穏やかだった。抱き留めたままの体勢でその寝息と伝わってくる心拍に耳を澄ませていた貴陽は、慈雲が穏やかな眠りについたことにホッと息をつく。


 ──根詰めて働きすぎなんだよ、馬鹿。


 ここ最近の慈雲は、明らかに無理をしていた。呪具保管庫の結界が破られてからずっと、通常業務に加えて浄祐じょうゆうへの対策や煉帝剣れんていけんの捜索、その裏で張り巡らされる策略への対抗策を講じていたのだ。いくら心身ともに頑丈な慈雲でもそろそろまともに休まなくてはガタが来る。


 ──そんな状態なくせして、口を開けば周囲の心配ばっかなんだもの。


 そんな慈雲だからこそ、ついてくる人間がいることは知っている。何を隠そう、貴陽自身がそんな慈雲の気性に救われた人間だ。永膳や涼麗といった問題児達が揃って慈雲に懐いたのも、大方理由は貴陽と同じだろう。


「……でも、だからこそ」


 そこまで呟いて、貴陽は『むぅ』っと頬を膨らませた。あえて歳に似合わない可愛らしい仕草をしてみたのは、内心を心の内だけでも言葉にしたくなかったからだ。


「……変な人にモテるの、ほんっとにやめてほしいんだけど?」


 代わりの言葉を口にしてから、貴陽は己の足に力を込める。グッと腰を入れて慈雲の体を押し返すと、ポスリと慈雲の上半身は寝椅子の背もたれに帰っていった。


 倒れないように重心を調整していても慈雲が目覚める気配はない。よほど深い眠りに落ちたのだろう。『この部屋では熟睡できない』などと日頃口にしているくせに、貴陽がいるというだけで随分と現金なことだ。


「そろそろ認めなよね〜。『簡易休憩室だから熟睡できる』んじゃなくて『貴陽が傍にいるから熟睡できる』んだってさ〜」


 万が一にも起こさないように密やかに囁きながら、そっと慈雲の頬へ手を伸ばす。熱を確かめるために手の甲で触れた慈雲の頬は、まだ少し冷たかった。


「……」


『「炎簫えんしょう」使った時に、寿命、削ってねぇだろうな?』


 その冷たさが単純な疲労から来ているわけではないことに、先程気付かされてしまった。


『……許して、ねぇからな』


「……知ってるよ」


 小さく答えた瞬間、袿の下に隠すように吊るした佩玉が微かに揺れた。


 魏浄祐が壊器かいきした現場で慈雲からり取った佩玉を、貴陽は慈雲に返していない。慈雲に返却を迫られても返すつもりなど元からなかったが、意外なことに慈雲からその類の言葉は向けられていなかった。


 慈雲に限って忘れるということはないだろうが、貴陽を徹底的に泉仙省せんせんしょうから切り離した慈雲があっさり貴陽を自分の相方に据え直すこともないだろうとも貴陽自身は思っている。


 それだけのことを、……それだけの恐怖を慈雲の中に植え付けてしまったのだと、知っているから。


「許してくれなくて、いいよ」


『今度勝手に、あんな真似したら……』


 その後ろに慈雲は、何と言葉を続けるつもりだったのだろうか。


「許されなくてもきっと、必要に迫られたら僕は、きっとまた同じことをするだろうから」


 大乱末期、貴陽は文字通り命を削って戦っていた。そうしなければきっと、慈雲は死んでいた。


 今でも鮮明に覚えている。


 慈雲の姿を飲み込んだ業火の鮮やかさも。肌を叩いた熱の痛みも。自分が展開していた結界が耐えきれずに壊れていった感触も。目の前で唯一無二を誓った相方の命が呆気なく掻き消されそうになった恐怖も。己の無力さを突き付けられた時の絶望も。


 それでも戦う道に背を向けようとしなかった慈雲が、内心で死を覚悟していたことも。その覚悟に貴陽を巻き込むつもりがなかったことも。


「……ねぇ、慈雲。僕はね」


 視力を失っても決して消えてくれないその光景を、貴陽は今日も噛みしめる。


 絶対に、忘れないように。あの光景も、あの痛みも、全部全部。


「自分の命が削れることよりも、君が僕の目の前からいなくなってしまうことの方が、ずっと怖いよ」


 そうやって全部噛み締めて、噛み砕いて……その上で自分は今、この場所に立っているのだから。


「慈雲は、僕を許さなくていいよ」


 手の甲で慈雲の頬に触れたまま、そっと囁く。言葉を声に出していながら、この言葉を夢の中であっても慈雲が聞いていませんようにと願いながら。


「僕だって、慈雲を許してないから」


『昇る月を阻むモノは 地を這う菫が全て枯らす』


 あの宣誓の言葉は、いつだって貴陽の本心だ。


 どれだけ時が経とうとも。互いの立場が変わろうとも。


 隣に並べなくなっても。たとえ慈雲の方が勝手に契約終了だと思っていようとも。


「僕の決意を、馬鹿にしないでよね」


 死んでもこの人の隣を並走してやると、心に決めた。この人の隣に並ぶためだけに、全てなげうって突っ走ってきた。


 それが自分の望み。そこにもはや慈雲の意志は関係ない。貴陽が勝手にやって、勝手に満足している道だ。むしろ慈雲はこんな自分の標的にされてしまった被害者だと言ってもいいだろう。


 ──それでも君は、僕が僕の勝手で死んでも泣くだろうから。


 慈雲に出会っていなければ、貴陽の命はきっとよわい幼くしてこう家という毒の坩堝るつぼに捲かれて摘まれていた。本家嫡子といえどもその程度のものだ。慈雲を守るために削るならば、むしろ価値のある燃やし方だとも心底本気で思っている。


 ただ、それをやってしまうと、その当の守りたい相手に泣かれてしまうということも、貴陽は知ってしまった。


 泣かれて、叱られて、最終的には殴られる。


 ──おまけに君、どうせひとりで泣くんだろうし。


 慈雲が泣いたところに遭遇したのは、貴陽が死の淵から生還したあの時だけだ。きっとあの時だって貴陽しかその場にいなかったから無防備になっていただけで、他の誰かが場にいたら慈雲は涙なんて見せなかっただろう。


 どれだけ泣きたくても、きっと慈雲は誰かの前では泣けない。


 貴陽が死んでも、きっとそれは変わらないだろう。我慢して、我慢して、心のせきが壊れる限界まで我慢して、それからきっと、独りで泣く。


 ──君のために死ぬことは構わないけれど、きっと君は独りで壊れそうに泣くだろうから、死にたくはないんだよね。


 そんな内心を呟きながら体を起こし、慈雲の傍らに置いた籠へ手を伸ばした。一番上に畳んで被せてあった厚手の衣をバサリと広げて掛布代わりに慈雲に被せ、少しだけ悩んでから籠をどかして慈雲の隣に並んで座る。


 ──本当は、横に寝かせてあげた方が疲れが取れるかもしれないけど。


 膝の上に落ちていた慈雲の左の手のひらに、自分の右手を被せるように乗せる。『これはあくまで治療なので』と胸中で呟きながら緩く呪力を流し込むと、ピクリと反応した慈雲の手がキュッと貴陽の手を握り込む。


 その反応にひっそりと満足の笑みを浮かべながら頭を慈雲の肩に預けると、さらに上からポテリと慈雲の頭が乗った。慈雲が寝落ちた時の恒例行事に今日も満足していると、温もりと眠気が移ったのか貴陽の意識までトロトロと眠気に抱き包まれていく。


 ──さすがに僕も、ちょっと疲れたな……


 籠の中には夜食用に軽食も入れてきたのだが、この分では朝食に持ち越しになりそうだ。それでも許されるくらいには、今日の自分達は頑張ったと思う。


 ──せめて、今だけは……


 そこまで考えた辺りで、貴陽の意識はフワリと眠気の海の中に溶けていた。


 預けあった肩の温もりは、あんな絶望を叩きつけられた後だというのに、いつになく柔らかな夢見を連れてきてくれそうな気がした。

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