拾捌

 刻々と季節は移り変わっていくのだと、ふとした瞬間に思い知らされる。特に夜明け際と日の入り際は、季節の変化が鮮やかだ。


 盛夏の頃よりも確実に淡くなった朝日を浴びながら、黄季おうきは目の前に広がる草原を見つめていた。都を囲う羅城は遠く視界の端にあり、日の出とともに開けられた正門からは旅人達が街道を行く姿がチラホラと見える。恐らく旅人達からも、目を凝らせば馬に乗った黄季の姿が見えることだろう。


 ──泉仙省せんせんしょうに入ってから、こうやって外に出ることはほとんどなかったけど……落ち着いてるみたいで良かった。


 かつての己の庭とも言える景色を眺めながら、黄季はホッと息をつく。この分ならば、黄季を指名して『依頼』が舞い込んでくることもないだろう。


 ──都の気が陰に傾いてるから、万が一があるんじゃないかって、ちょっと心配してたんだよね。


『別に兼業できないわけではないんだろうけども、氷柳ひりゅうさんにバレたら……ちょっと、なぁ』と黄季は苦笑を浮かべる。


 その瞬間、黄季の視界の端で影が動いた。


「お」


 空を行く影がカモであることを確かめた黄季は、手にしていた弓に矢をつがえると弦を引き絞った。


 多少距離がある上に馬上は地面に立っているよりも足場が揺れるが、この状況下であのマトを確実に落とせなければ、わざわざここまで出てきた意味がない。今黄季が手にしている弓……黄鵠こうこくであれば、十分に飛距離は稼げるはずだ。


 限界まで弦を起こし、わずかに呼吸を計る。


 心がしんと凪いだ瞬間、矢は自然に弦から離れていた。


 キュインッと、鳥の鳴き声に似た弦音が周囲の空気を揺らす。その音に一拍遅れて、黄季の視線の先で一羽の鴨が落ちた。


 ──確実に的中はしたけど、あの感じは……


 鴨が落ちた軌道を目でなぞっていると、今まで大人しく足を止めていた馬がユラリと動いた。恐らく黄季が目で動きを追っている間に、無意識に体の重心も動かしていたのだろう。その動きだけで次の指示を察した馬は、緩やかな足取りで鴨が落ちた地点まで駆けていく。


 次に馬が足を止めると、落ちた鴨はすぐ目の前だった。黄季が軽やかに馬の背から飛び降りても、鴨はもはやピクリとも動かない。


 だが黄季はまじまじと鴨を観察し、微かに眉を寄せた。


 ──やっぱり。狙った場所に当たってない。


 黄季が放った矢は、鴨の胸辺りに突き刺さっていた。


 あの距離から一射で仕留められたことは、世間一般では称賛されることなのかもしれない。だが残念なことに黄季が狙ったのは、鴨の胸ではなく首である。


 ──狩人としてやっていくなら、今のままでも十分なんだろうけども。でも……


 退魔師として、あくまで弓の鍛錬の一環として狩猟をしている身としては、この誤差は許されるものではない。正確に、的の狙った位置に打ち込めなければ、黄季が意図する使い方はできないのだから。


 黄季は小さく溜め息をつくと、膝を折って鴨を拾い上げた。


「やっぱり、青兄せいにいにはまだまだ遠いな」


 かつてこの場所に黄季を引っ張り出した次兄は、どんな獲物でも、どの距離からどんな角度でも、正確に狙った場所を射抜くことができていた。それもこの黄鵠で、馬上からだ。やはり弓の使い手として次兄の右に出る人間はいなかったのだなと、今になっても黄季は感心してしまう。


 ──そういえば青兄、馬に乗るのも上手かったよね。


 商隊護衛役に引っ張りだこだった青燕せいえんは、おそらく馬に乗る機会も多かったのだろう。弓の師であり乗馬の師でもあった次兄の姿を、黄季は懐かしく思い返す。


 とはいえ、いつまでも思い出に浸っているわけにはいかない。


『要精進』と考え事に終止符を打った黄季は、鴨から矢を引き抜くと膝を上げた。完全に昇りきった朝日に照らされて、いまや世界は完全に目覚めきっている。あまりぼやぼやしていると、屋敷に残してきた氷柳が起き出してきて黄季の不在に気付いてしまいかねない。


 ──馬代は……で相殺できるかな?


 馬に載せられた鞍の後ろには、黄季が仕留めた兎と狐が一匹ずつ括りつけられていた。このまま引き渡して毛皮と肉を売りに出してもらえば、今朝馬を借りた分のお代は相殺できるだろう。ついでに『狼や野犬の姿は今のところ見えない』という情報も渡しておけば、多少の貸しになるかもしれない。鴨を引き渡せば逆に金子を得られるかもしれないが、せっかくだからこちらは氷柳に食べさせてあげたい。


 ──今日は遅番だし、お昼ご飯に一品追加できるかな。


 そんなことを考えながら、黄鵠を背に負った黄季は兎と狐の上に鴨を括りつける。


「さて、今日はこれでおしまい。よく働いてくれたね。ありがとう」


 作業を終えてから馬の頭側へ回った黄季は、馬の首に優しく手を添えながら『今朝の相方』に声をかけた。


「もう帰るだけだから。もうひと駆け頼む」


 黄季が柔らかく語りかければ、馬はまるで答えるかのように黄季の顔に鼻先を擦り付けた。賢いいいだな、と笑みをこぼした黄季は、軽く馬の首を叩くとヒラリと馬上に飛び乗る。


 黄季が手綱を握ると、馬は都に向かって駆け始めた。速度は速いが余裕を残した走りに、黄季の心も軽やかに弾む。


 ──この走り具合なら、思ってるよりも早く帰れるかも。


『やっぱいい馬だなぁ、この子。また乗らせてもらいたいけど、指名すると指名料取られるんだっけ?』と他事を考えながら、黄季は久々に感じる馬上の風と振動に目を細めた。




  ※  ※  ※




 日は完全に昇ってしまったが、基本的に氷柳は夜型だ。いや、一日のどこを取ってもよく寝ていると言った方が正しい。夜は起きていようと思えばいくらでも起きていられるようだが、必要性がなければさっさと寝てしまうようだし、朝は厨房から食事のにおいが漂い始めない限り起きてこない。


 よって黄季が朝食の準備に取り掛からない限り、氷柳が早朝から起きてくることはない。


 ……と、思っていたのだが。


「ただ今戻りまし、たぁっ!?」

「お帰り」


 まだ世間一般でも『早朝』と言える刻限であるにも関わらず、ソロリと表門を開いた内側には、なぜか氷柳が仁王立ちで待ち構えていた。誰もいないと思っていた門のすぐ内側に傾国の美貌が控えているというのは、様々な意味で心臓に悪い。


「ひっ、ひりゅさっ……なっ……!?」

「朝早くから随分と熱心だな」


 言葉にならない悲鳴を上げる黄季に対し、氷柳はどこまでも冷静だった。いや、黄季の読み間違いでなければ、そこはかとなくご立腹である。


 夜着の上に一枚上着を羽織った姿で髪も下ろしたままだが、氷柳の意識は完全に覚醒しているようだった。まるで退魔の現場に立っているかのように冴え渡った視線を黄季に向けた氷柳は、黄季の手の中にある鴨に視線を落としてから再び黄季の瞳を見据える。


「泉仙省入省前のように狩りに出なければ生計たつきが立たないほど、私の食費が家計を逼迫ひっぱくしているのか?」

「えっ!?」

「それとも害獣退治の依頼がいまだにお前指名で入るのか? それなら私でも役に立てるはずだ。なのになぜ」

「ちょっ……ちょちょちょちょぉっと待ってもらっていいですかっ!?」


 そのままサラサラといつになく饒舌じょうぜつに続けられた言葉に、黄季は思わずひっくり返った声を上げた。


 言葉を遮られた氷柳はムッと眉間にシワを寄せるが、黄季としてはそれどころではない。


「氷柳さん、何で俺が泉仙省入省前に狩りで生計を立ててたこととか、害獣退治を請け負ってたこととか知ってるんですかっ!?」


 黄季は大乱の折に身内と呼べる存在を全員失った。それは同時に、齢十にして養ってくれる存在を失ったということも意味している。


 幼かろうが、大乱後だろうが、人が生きていくにはお金がかかる。


 幸い、ばん家の屋敷は都の外れに位置していたおかげで戦火を逃れることができた。屋敷と家財道具、身内が貯めてくれていた金子や、らんを名乗っていた時代から受け継がれてきた武具はそのまま残されたが、それでいつまでも食べていけるわけではない。


 頼る相手がいなかった黄季は、何とか生計を立てる道を模索するしかなかった。


 だが黄季の最大の得手であり、家族が生計のすべとしていた『武芸』は、兄達の遺志により人前で振るうことができない。かと言って黄季には他に秀でた学や芸があるわけでもない。


 もっと言えば、身内が全員武芸者だったこともあり、武芸を抜きにした他の生き方を想像することができなかった。当時の情勢では商人や職人の元で住み込みの弟子になるという道も取れず、幼い黄季は途方に暮れた。


 その末に見つけた抜け道とも言える職が、狩人……単身、人目のない場所へ出向き、肉や毛皮となる獲物を仕留めたり、狼や野犬といった人々を食らう害獣を駆除する仕事であったのだ。


 ──『人前で武芸の腕を振るうな』っていうのが双兄そうにい達の遺言だったから、俺の中では生きるために精一杯折り合った結果だったんだよなぁー!


 弓の鍛錬の一環で次兄に狩りは仕込まれていたし、かつて鷭家に持ち込まれた害獣駆除の依頼に同行したこともあったから、仕事内容と手法については黄季にも心得があった。


 十歳という見た目通りの外見をしていた黄季が馬を借りるのは一苦労だったし、他の人に己が武芸を振るう姿を見られるわけにはいかなかったから単身任務ばかりという苦労もあった。だが黄季が泉仙省へ入省して俸禄を得られるようになるまで何とか一人でやってこられたのは、全ては狩人として一定の腕前と信頼を得ていたからである。


 ──人を相手にしているわけじゃなかったし、人目もなかったから、退魔術でも武芸でも躊躇ちゅうちょしないで済んだんだよなぁ……


 思い返せば、夜間に狼の群れに囲まれた状況を一人で切り抜けられたのは、落ちこぼれなりにそこそこの退魔術が使えたおかげかもしれない。間違いなくかつての黄季は、都でも名うての狩人だった。主に害獣駆除の名手として。


 ちなみに武芸の腕に物を言わせて片っ端から斬り捨てている、という手法に関しては、いまだに取引先にも伏せている。


 ……というよりも、齢十から狩りに出ている幼子にそんな芸当ができるはずがないという先入観があるのか、黄季は狩人としての仕事を始めた当初から『何らかの罠を使って狼の群れさえ一網打尽にしてみせる、幼いが凄腕の害獣駆除人』と勝手に評されているらしい。


 黄季が泉仙省の退魔師になったというのを知った取引先は、そこに加えて『なるほど。退魔術で狼を相手取っていたのか。道理で幼くてもあんな無茶ができたはずだ』という納得を上乗せしたようだ。


 おかげで泉仙省に入省してしばらく経った後も、他の狩人達の手に余る案件が黄季を指名して舞い込んでいたものである。


 ──って、今はそこじゃなくてっ!!


「俺が都の外に出てることは、地脈を読むのと同じ要領で分かるかもしれませんけどもっ! そこで狩猟やら害獣駆除をしてることまで分かるものなんですかっ!?」

「お前が何をしているのかは、お前のごかっ」


 思わず氷柳に詰め寄れば、氷柳も珍しく強めの語気で言い返す。


 だがその言葉が途中で不自然に切れた。ガチンッというすさまじい音が響いたが、これはもしかしなくても歯を食いしばった音ではないだろうか。その証拠に氷柳の口元は不自然なくらい横一文字に引き結ばれている。


「え? ちょっ、……氷柳さん?」


 一体何事かと思わず黄季は目を丸くする。


 そんな黄季が見つめる先で、氷柳の視線が思いっきり泳いだ。


 ──え? 氷柳さん?


 見たことがないくらい目を泳がせた氷柳は、引き結んだ口の中で何やらモゴモゴと言葉を転がしているようだった。顔面は相変わらず神々しいくらいの無表情を保っているが、氷柳を取り巻く空気には『焦り』や『気まずさ』といった感情がダダ漏れている。よくよく耳を澄ませてみれば、『ごか……ごき……ごけ……』と何やら言葉遊びのような呟きが口の中からこぼれ落ちていた。


 ──碁か? 碁器ごき? 碁笥ごけ


「ごき……ご近所さん」

「へ?」

「そうだ、に、聞いた」


『氷柳さん、碁石入れに興味でもあるのかな?』と我ながらナナメ上すぎると分かっている発想に首を傾げていると、急に氷柳が語気の強さを取り戻した。だが黄季はその言葉にも首を傾げる。


「ご近所さん?」

「そう。お前が狩りを生計にしていたことも、害獣駆除の名手であったことも、全てご近所さんに聞いた」


 ──ご近所さん……って?


 氷柳は『ご近所さん』という単語で押し切ることにしたらしい。『これならば不自然ではないだろう』という若干の余裕が生まれたような気配までしている。


 だが残念なことに、鷭家には『隣近所』と呼べるような家が存在していない。そのことに果たして氷柳は気付いているのだろうか。


 ──実は周囲に残ってる家はほとんど空き家で、治安が最悪に悪いってこと、氷柳さんにはそろそろ教えといた方がいいのかな?


 確かに『隣近所』と言える場所に屋敷自体は何件かある。だがそのほとんどが大乱時に主を失った空き家ばかりだ。何件かは最近になって住み手が現れたようだが、どう見ても訳ありな人間ばかりだし、そもそも彼らは大乱後にこの辺りに住み始めた人間だから、黄季の素性に関しては何も知らないはずだ。


 市まで行って大々的に聞き込み調査を行ったならばいざ知らず、この辺りの家々を回った程度では到底真実には行き着けない。仮にそんなことを行っていたら、氷柳の美貌に当てられた人間達が騒動を起こしていて、黄季が知るところになったはずだ。


「で、どうなんだ。ここ五日ほど、お前はずっと連日、早朝に出かけていただろう」


 氷柳の言葉は明らかに矛盾をはらんでいる。だが氷柳は『ご近所さんから聞いた』の一点張りで切り抜けることに決めたらしい。ずいっと身を乗り出した氷柳は再び語気を強めて黄季に迫る。


「何か私に言えないようなことがあるのか? 正直に言わないならば……」

「えーっと、その、あの」


 いつになく強気な氷柳に、黄季は思わず両手を顔の前に立てて壁を作った。正確に言えば、間近に迫る御尊顔に耐えきれずに物理的に目隠しを作った。


 ──こんな時でも顔がいいのは反則ですって氷柳さんっ!


「ちょっ……ちょーっと、弓の鍛錬がしたくて……っ!!」

「弓?」

「きょ、今日の現場でご披露しますっ!!」


『私に隠れてか?』という圧を追加で感じた黄季は、ついに白旗を上げた。本当はもっと実用に耐えうるくらいに煮詰めたかったのだが、ここまで迫られてしまっては仕方がない。


 ──てかこれ氷柳さん! 俺が氷柳さんの顔面に弱いこと、知っててやってますよねっ!?


「ちょっと、……新技? の特訓を、してまして……」


 黄季がモソモソと白状すると、ようやく氷柳はスルリと体を引いた。それを気配で察した黄季は、ソロリと両手を下げながら氷柳を見上げる。


 元の体勢に戻った氷柳は、腕を組んで黄季を見下ろしていた。相変わらずその顔に納得は見えないが、顔を合わせてすぐに感じたご立腹な空気は薄れつつある。


「新技、か」


『なぜわざわざ私に黙って』という空気と『今日の現場で披露するというのは本当か?』という空気、その両方を察した黄季は、上目遣いで氷柳の様子を観察する。


 ご立腹が収まると、後に残るのはねだ。恐らくこれは連日氷柳に黙って出かけていたことが面白くないのだろう。


 ──あとひと押しあれば、機嫌直してもらえるかな?


 ならば今、黄季の手元にはとっておきのがある。


「あの、氷柳さん。今朝の特訓の一環で、鴨が手に入ったんですけど」


 片手に携えたままの鴨を示しながら、黄季は控えめに氷柳に笑いかけた。


「どうやって食べたいか、ご希望はありますか?」


 黄季の問いに、氷柳の視線が素直に鴨に流れる。その瞬間、氷柳の瞳がキラリと光ったのを黄季は確かに見た。


 ──よしっ、これなら……!


 食の楽しみを覚えたここ最近の氷柳は、以前にも増して黄季の手料理にご執心だ。黄季が料理の話を持ち出すと、大抵のことは思考の彼方に放り出される傾向が見受けられる。


「……黄季」


 だが今日の氷柳はなぜか違った。


 心持ちすがめられた瞳を黄季に据えた氷柳は、無表情のまま不満を訴えてくる。


「お前、最近私に手料理の話をチラつかせれば、私がそちらに意識を流されて全てをにできると思っているだろう」

「え゛」

「今回は流されてやらんからな」


 冷ややかに黄季を見据えた氷柳は、一言言い捨てて身を翻した。


 だが三歩進んだところで、氷柳は足を止める。振り返った氷柳は、無表情を若干輝かせながら告げた。


「酒蒸しと照り焼きだ」

「え」

「酒蒸しと、照り焼き」


 念を押すように繰り返した氷柳は、今度こそ奥へ引っ込んでいった。黄季の見間違いでなければ、その足取りは明らかに浮かれている。


「……氷柳さん、鴨、好きなんですか?」


 ──というか、しっかり今回も流されているような気がしますが。


 とはいえ、ここ数日、氷柳に黙って別行動を取っていたこと自体は事実である。


 ここは誠心誠意、お詫びを込めて、氷柳の要望に応えるべきだろう。


「酒蒸しと、照り焼き。……できるだけの分量、あるのかな?」


『いつの間にか、欲張りになってくれたもので』と小さく苦笑をこぼしながら、黄季は厨房へ向かって歩を進めたのだった。

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