どこともつかない闇の中なのに、足元からはやたらとコツコツと音が響く。


 その違和感に、貴陽きようは思わず顔をしかめた。


 ──空間の全容が把握しきれない。


 この八年、音の反響と呪力の流れを読んで場を把握してきた貴陽にとっては、居心地が悪いことこの上ない環境だった。


 再び視力を得た今でも、視界を半ば閉ざされていると、どうしても音に意識が行ってしまう。その無自覚な習慣に、自分で自分の感覚をいじめているような心地さえしてきた。


「どうだ? 慣れたか?」


 その瞬間、まるで貴陽の内心を透かして見たかのように低く忍び笑う声が傍らから響く。チラリと視線を向けてみれば、濃い闇の中にチラチラと白衣びゃくえが翻るのが見えた。


「生者がこんな陰気に慣れれるはずがないと思わない?」


 暗に『よみがっていようとも永膳えいぜんさんは死者だから、この暗闇がさぞかし心地いいんだろうね』という意味を込めて返せば、隠す気のない舌打ちが飛んできた。反射的にこちらからも舌打ちを返しそうになるのを抑えて、貴陽はもう一度傍らに視線を向ける。


 ──どこからどう見ても、八年前の永膳さんと変わらない姿をしてる。


 長官室の地下で地盤の術式を焼き払ったあの時。


 慈雲じうん達が完全に撤退した後、貴陽は永膳の手によって永膳が拠点としている異界へ回収された。特に回収の打ち合わせがあったわけでない。ただ視覚と聴覚を共有している以上、貴陽が死にひんすれば永膳は勝手に動くだろうと読めていた。


 ──慈雲も、多分その辺りは読んできているはずだけど。


 相方のことは誰よりも信頼しているし、相方だってそれは同じであると信じている。


 慈雲はこの状況でも、諦めずに粘ってくれているはずだ。だから貴陽もこの状況を起死回生の一手に繋げるべく、密やかに暗躍を続けている。


 だが残念なことに、状況はあまりかんばしいとは言えない。


 ──この異界の座標を泉仙省せんせんしょうに知らせられれば……


 ここはいわば敵の本拠地だ。泉仙省側が今をもっても特定しきれていない、喉から手が出るほどに割り出したい場所。この異界を作り上げている仕組みを解析し、座標を泉仙省へ伝えることができれば、永膳が国を焼き払う前に永膳本人を叩くことができる。


 あるいは、永膳を蘇らせた術式を解析し、永膳自身をもう一度灰に還すか、だ。


 ──ただ見ている分には、普通の人間と変わらないように見える。だけど確実に一度死んでいる以上、何らかの術式によって永膳さんはこの姿を得ているはず。


 都が焼き払われる前に根本を潰すに越したことはない。そして今の貴陽は、その絶好の機会を得られるかもしれない場所にいる。


 ──この状況を活かさない手はない。


「……ねぇ、永膳さん」


 内心でのはかりごとを綺麗に押し隠したまま、貴陽は隣に並ぶ永膳を仰ぎ見た。


 こちらからは永膳の輪郭しか見えていないが、永膳からは貴陽の姿が見えているはずだ。そのことを想定して、顔には穏やかな……永膳に言わせると『胡散臭い』笑みを乗せておくことも忘れない。


「永膳さんはわざわざ僕をこっちに呼びつけて、一体何をさせようって言うの?」

「は?」

「いや、僕ってさ、泉仙省への密偵役だったわけじゃない? そんな僕をわざわざこんな形で呼びつけて、一体何の得があったのかなって思って」


 正直、『地盤の核となる術式を破壊し、こっちに合流しろ』と命じられた時、その辺りの意図は貴陽にも読みきれなかった。


 どさくさに紛れて殺すつもりなのかと警戒もしていたのだが、その予想を裏切って永膳は律儀に貴陽を回収した。合流後も捕虜以上の……扱いだけを見れば仲間と呼んでもいい待遇がされている。


 ──こっちに加わってから、確かに術式展開の手伝いはさせられてる。だけどそのために呼んだってわけじゃないだろうし。


 そろそろ泉仙省側が貴陽に疑いの目をかけそうな流れだった。もしくは地盤の破壊をさせれば、どんな形であれ貴陽が犯人であるのを隠すことはできなかった。


 呼びつけた理由はそんなところだろうが、ならば永膳には『貴陽を殺す』という選択肢だってあったはずなのだ。貴陽が逆の立場であれば、間違いなくやらせることだけやらせて、地盤破壊のついでに相手を抹殺している。


 ──永膳さんだって、僕が本気でこっちについたとは思っていないはず。


『殺すよりも手勢に取り込んだ方が旨味がある』『慈雲の生存がかかっていれば、自分は永膳を裏切れない』と持ちかけ、取引を成立させることには成功した。だがその言葉の全てを永膳が真に受けたとは思えないし、思ってもいない。


 あれがあの場で即刻殺されることを回避するためだけに持ちかけた取引であったことも、この状況下でも依然として貴陽の立ち位置が泉仙省側であることも、永膳は承知しているはずだ。その証拠に永膳は呪詛式の一切を貴陽の目に入らないように秘匿しているし、仕事を命じているようでいてその実、貴陽を計画から遠ざけようとしていることも、薄っすらと感じ取れる。


 そんな状況だからこそ、分からない。


 なぜ永膳が、あえて身近に貴陽を置こうとしたのかが。


「得、か」


 貴陽が永膳の真意を探ろうとしていることにも、永膳はまた気付いているのだろう。


 クッ、と喉の奥に声を押し込めるように、永膳は笑った。


「得ならあるさ」

「あるならいい加減教えてくれてもいいんじゃない?」


 どう探りを入れてやろうかと、貴陽は永膳の口調に調子を合わせながら答える。


 その瞬間、カツンッと一際高く足音を響かせながら、永膳が足を止めた。


「そうだな」

「え?」

「そろそろ、いいか」


 ──え?


 一瞬、永膳が何と言ったのか呑み込むことができなかった。まさか永膳が、あっさりと貴陽の言葉に肯定を返してくるとは思っていなかったから。


 意表を突く発言に、貴陽の意識に一瞬隙が生まれる。止まりきれなかった足は、二歩分だけ永膳よりも前に出た。


 そんな貴陽に向かって、ユルリと白衣の袖が振られる。いや、開いた距離を埋めるかのように、腕が伸ばされたのか。


 そんなことを考えた、その瞬間。


「っ!?」


 パチンッという鋭い音が響いたと思った瞬間、貴陽の四肢は闇の中から鞭のように飛んできた触手によって縛り上げられていた。


「っ、何を……っ!?」

「お前にはなぁ、貴陽。『密偵』以上の旨味があったんだよ」


 いくら警戒していたとはいえ、己が身を浸していた闇そのものがいきなり形を持って襲ってくるとは貴陽も予想していない。あっさりと両手首と両足首を捕らえられた貴陽は、さらに膝裏から加えられた衝撃にすべもなく膝をつく。


「……っ」

「お前には紹介がまだだったな、貴陽」


 膝をついた状態で腕を吊り上げられる格好になった貴陽は、キッと永膳を睨みつけた。そんな貴陽をはるか上から見下ろしながら、永膳は優雅に左の手のひらを宙へ広げる。


「今の俺の協力者である、めい寧伴ねいはんだ」


 その言葉を合図にしたかのように、永膳の手のひらの上にボッと青白い炎が灯った。


 永膳の霊力によって展開されている炎ではない。灯った瞬間からゾクリと背筋を凍らせるそれは、本来陽気の塊である『炎』や『光』といった存在とは真反対の存在だ。


 鬼火。


 人の魂魄が死を経て陰に堕ちてなお、極まった執念と負の感情にて自我を保った存在。


 さらにそこに『在る』だけでここまで貴陽の背筋に悪寒を走らせるなど、並の妖怪ではない。


 ──まさか、


 嫌な予感に、ザッと血の気が下がったような気がした。


 そんな貴陽の様子を嘲笑あざわらうかのように鬼火が揺れる。


『直接相見あいまみえるのは初めてだなぁ、こう貴陽。しかしわしはお前のことをよぉく知っておる』


 さらに耳慣れない第三者の声が闇に響いた瞬間、貴陽は己の推測が正しかったことを知った。


『八年前、お前は儂の呪詛式の肝心なところばかりをことごとく壊していきおった。お前が命を削って荒らしたあの式が生きておれば、儂の大願はあの時を待たずに成就しておったであろうて……』


 信じられない思いで永膳を見上げると、永膳はしてやったりと言わんばかりの顔で貴陽を嘲笑っていた。


 そんな永膳に、貴陽は思わず呻くように叫ぶ。


「いつから……っ!!」


 血を吐くような、とは、まさしくこんな声だろう。


 いや、いっそのこと。血を吐いてこの心が少しでも楽になるならば、吐き出してしまいたいくらいだった。


「いつから協力関係にあったの……っ!?」


 冥寧伴。


 その名は初めて聞いた。だがこの鬼火が何者であるのかを、貴陽はよく知っている。


 泉仙省で使われていた呼称は『冥翁めいおう』。


天業てんごうの乱』の裏で、全ての糸を引いていた呪詛師。


 あの大乱の中で、泉仙省が数多の同朋達の屍を積み上げ、死の行軍を続けながらもほふったはずである全ての元凶。


 他ならぬ永膳が、最終決戦の場で討ち取ったはずであるかたき


「……っ、ふざけるな」


 全ての点が繋がって一筋の線になった瞬間、腹の底から沸き上がる怒りで生身が煮えるかと思った。


 かつてここまでの怒りが沸いたことはないかもしれない。そう感じながらも、冷静さを残した思考は拾い上げた情報からここまでの筋書きを組み上げる。


 ──そうだ。仮に冥翁が生きていたとしたら。


 最終決戦の場で、……あるいはそれよりも前に永膳と冥翁が何らかの取引を交わし、協力態勢を築いていたのだとしたら。永膳が冥翁を討ち取らず、相討ちを偽装していたのだとしたら。


 ──冥翁は呪詛師。反魂はんごんは退魔師よりも呪詛師が得意とする領域であるはず。


 煉帝剣れんていけんに永膳の魂魄を移し替えることも、器となった煉帝剣に呪力を蓄えさせて代替の肉体を生み出すことも、冥翁の知識とわざがあれば、永膳が単身で事に挑むよりも容易たやすかったはずだ。都の造りを乗っ取り、三重にもなる蠱毒の壷を創り上げるような呪詛師ならば、泉仙省の目をあざむき煉帝剣に細工をすることなど息をするよりも簡単だっただろう。


 八年前、呪詛を組み上げた張本人が味方に付いているのだ。今回の計画がこれだけ小回りを利かせられたのだって、ある意味納得ではないか。


 何より、永膳が単身で事に当たっていたよりも、国を焼く動機が分かりやすい。


 ──真実国を焼きたがっていたのは、永膳さんじゃなくて冥翁の方だったのか……!


 永膳の目的は、あくまで涼麗りょうれいを手中に収めること。『今度こそ誰にも邪魔されない理想郷を創る』と永膳は宣言していたが、大乱前の永膳にとって唯一にして最大の障壁であったかく家はすでに断絶している。今の永膳に障害らしき障害はない。だというのに八年前と同じ様式にこだわるような行動の理由が、貴陽には推測できなかった。


 だがここに冥翁が関わっていたとなれば、話は変わる。


 冥翁の目的は、皇帝一族の断絶にあったと言われている。皇帝の血脈に連なる者を一人残らず血祭りに上げ、皇帝が造り上げたこの都を徹底的に破壊し尽くすことにこそ、冥翁の目的はあった。


「ふざけるなっ!!」


 そこまで一瞬で理解できてしまった。


 だが『理解』はできても『納得』はできない。


 できるはずがない。


「あの戦いで僕達がどれだけの犠牲を出したと思ってるのっ!? どれだけ……っ」


 叫ぶ脳裏に、いつもいつも脳裏をぎるあの紅蓮の炎が、また過ぎったような気がした。


 ──こんなことがあっていいはずがない。


 だって、こんなのが真実だったとしたら。


 幾万もの民が殺し合い、最悪の結末を回避するために同朋達の命が無碍むげに散らされていったあの大乱は。誰もが心に傷を負い、大切な存在を失った、あの地獄のような光景は。


 ──それ以上に、この八年間は……っ!!


 視力と少なくない寿命を失った貴陽は、それでも慈雲の隣元の場所に戻りたくて足掻き続けて。


 独り残された慈雲は、全てを背負い込んで、色んな感情モノを振り切って戦い続けて。


無二の相方己の全て』を失った涼麗は、生きることにさえ背を向けて、それでも痛みを抱えて生き続けた。


 そんな八年間が。それぞれに、誰しもが、凄絶に乗り越えた八年間が。


 よりにもよって『亡くした』モノの筆頭に、その当人に。


『あれはただの茶番だったんだよ』と、抱えてきた思いを踏みにじられて、わらい飛ばされたも同然ではないか。


「理解が早くて助かるぜ、貴陽」


 だが貴陽が叫ぶ怒りを、永膳は冷笑とともに叩き落とした。


 理解した上で、ことごとく馬鹿にするかのようにわらった。


「これだけ察しがいいお前なら、そろそろ俺がお前をこっちに引き入れた理由を理解できるんじゃねぇのか?」


 強すぎる怒りのせいで視界が揺れる。それでも手のひらの上で鬼火を揺らす永膳が一歩前へ踏み出し、腰を曲げて貴陽の顔を覗き込む様は見えていた。


「なぁ、貴陽。お前が持ってる霊力って、珍しいたぐいのやつだったよな?」


 反射的に体を引こうとしても、膝をついて両腕をいましられている状態では大した身動きも取れない。せめてもの抵抗として全力で永膳を睨みつけても、永膳は冷笑を深めるばかりだ。


「どの属性とも特段相性がいいわけでもなく、さりとて特段相性が悪い属性があるわけでもない。それゆえどんな術でも展開可能。いわゆる『無属性』って呼ばれてるのが、お前の霊力だよな?」

「それが、何」


 永膳が口にした内容は、間違いなく事実だ。


 人が保有する霊力は、大抵何かしらの属性を帯びている。個々人で術の得手不得手が生じるのも、この属性の影響が強い。永膳が炎術を得意としているのは永膳の霊力が強い炎気を帯びているからだし、涼麗の得手が氷雪系や雷術系なのも属性的にそっちの方が相性がいいからだ。


 だが貴陽が保有している霊力は、珍しいことにそういった偏りが一切なかった。ずば抜けて相性がいい術がない代わりに、ずば抜けて相性が悪い術もない。その特性のおかげで貴陽は『結界呪ならば展開できないものはない』と称されるほどの後翼退魔師として力を振るうことができた。


 だがその事実を今この場で指摘される理由が分からない。


「その特性ってな、退魔師よりも呪詛師向きなんだとよ」


 永膳は顔から笑みを絶やさなかった。


 心底貴陽を馬鹿にしきったような。憐れみさえ混ぜたような笑みを浮かべたまま、永膳はそっと貴陽の耳元で囁く。


「慈雲に執着し続けるその性格も、『一点に執着し続ける』っていう、まんま呪詛師向きの素養だよな」

「……っ」


 ──まさか、


 その言葉の奥底に横たわった冷たさに触れた瞬間。


 貴陽はようやく、永膳の真意を覚った。


 同時に、永膳の左手に掲げられた鬼火が、歓喜を表すかのように青白い炎を爆発させる。


「俺はな、お前を冥寧伴の新たな器とするために……魂魄のみの存在である冥寧伴に新たな肉体を与えてやるために、お前をこっちに引き入れたんだよ」


 永膳が笑みをにじませた言葉を紡いでいる間も、貴陽の体は拘束を解こうと全力で暴れている。だがいつの間にか腰や太腿にも巻き付いていた触手は、貴陽にろくな反撃を許さない。


「なぁ、貴陽。お前のその器、冥寧伴に譲ってやってくれよ」


 迷っている暇はなかった。


 圧倒的な勝者の笑みを浮かべる永膳を前に、貴陽は纏った衣の右袖に己の全呪力を集中させる。緊急用に衣の袖の中に縫い込まれていた符は、急激に通った呪力に反応し、即座に光を爆発させた。


「っ!?」


 まさかこの局面で貴陽が抵抗してくるとは思っていなかったのだろう。右腕で顔を庇った永膳が一歩後ろへ下がる。


 それ以上に下がらなかったのは、貴陽の反撃を食い止めようととっさに考えたからだろうか。それとも貴陽が触手を振りほどけたのが右腕だけだと瞬時に把握ができていたからなのか。


 だがどちらにせよ、貴陽にはその『一歩』で十分だった。


「……っ」


 自由になった右手で、袿の袖の縫い目を探る。いざという時にそこに仕込まれていた長針は、爪のひと掻きで貴陽の手の中に収まった。


 護身用に帯びていた毒針を、貴陽は迷うことなく己の首筋に向けて振りかぶった。細い針は喉を突いたところで致命傷にはならないが、生憎とこの針は暗殺にも使えるような毒針だ。首の太い血管を狙って振り下ろせば、短時間で確実に死ねる。


 ──永膳さんは最初から僕を冥翁の新しい肉体としててがうつもりだった。密偵役は二の次で、最初から冥翁の使用が前提にあったから視力も回復させて……っ!!


 そんなことに己の体を使わせるわけにはいかない。あくまで欲しているのは生きている人間であるはず。肉体を乗っ取られる前に死ぬことができれば、永膳の目論見は成就しない。


 選択肢など、もはやない。


 そう思った、はずだった。


『……貴陽』


 それなのに。


 こんな時に限って、耳の奥にその声が蘇る。


『今度、俺が死地に立たされたら。逆にお前が死地に立たされた時も』


 約束をした。


 世界で一番信頼していて。世界で一番信頼してほしくて。


 世界で一番大切で、大好きで……この人が自分の隣にいてくれるならば、他には何もいらないと、掛け値なく思えた人と。


『今度は俺と一緒に、死んでくれ』

「……っ」


 その一言が、一瞬だけ、毒針を振り下ろそうとした貴陽の手を止める。


 


「貴陽、お前は知らなかっただろうけどな」


 再び音もなく飛んできた触手が右手を払い、毒針が貴陽の手から払い落とされる。


 その上で再び右腕が固定された瞬間、貴陽の視界は青白い炎に焼き尽くされた。


「俺はお前と出会った瞬間から、お前のことがいけ好かなかったんだよ」


 目から、鼻から、口から。自分がに浸食されていくのが分かる。『自分』というモノが肉体から引き剥がされて、押し出されていくのが分かる。その耐え難い苦痛に、口から勝手に絶叫が漏れているのを、貴陽は意識の遠いところで聞いていた。


 ──ごめんね、慈雲。


 それでも最期に思ったのは、やはり無二の相方のことで。


 ──あの約束、守れそうにないや。


 あんなに、嬉しかったのにな。


 そう思ったのを最期に、貴陽の意識はブツリと途絶えた。




  ※  ※  ※




 暗がりを狂ったように乱舞していた青白い鬼火は、やがてチロチロと体を舐めるだけに収まり、すぐに消えた。鬼火の収縮に合わせるかのようにシュルシュルと触手も引いていき、やがてクッタリと座り込んだ貴陽の体だけがその場に残される。


 永膳は変わらず貴陽の前に立ったまま、笑みをかき消してその変化を見つめていた。


 どれだけそのままでいただろうか。


 時さえ止まった静寂の中にたたずんでいた永膳は、投げ出されていた貴陽の指先がピクリと跳ねたのを確かに見た。さらにそのまま視線を注いでいれば、うつむけられていた顔がゆっくりと、焦れるような速度でユルユルと上がっていく。


嗚呼ああ


 永膳を見上げたは嗤った。


 煌貴陽でありながら、煌貴陽ではない顔で、嗤っていた。


「嗚呼、何と居心地の良い」


 愛らしい声は煌貴陽のままに、冥寧伴としての毒々しさが滴る声音で呟いたは、真っ直ぐに永膳を見上げると片手で髪をかき上げた。


「郭の若造、随分と良い手札を隠していたじゃないか」

偶々たまたまだぞ。お前と貴陽の属性が近かったのは」

「口惜しいこと。あの一件よりも前からこやつの存在を知っておれば、弟子として仕込んでやったものを」

「ハッ、慈雲と出会う前だったら、案外そいつも誘いに乗ったかもな」


 新たな器として己に与えられた肉体をペタペタと触って確かめていた冥寧伴は、長く前へ垂らされた髪を指先で摘むとわずかに顔をしかめた。『邪魔で仕方がない』という内心を読み取った永膳は、寧伴の生前の姿を思い浮かべながら早めに釘を差す。


「ナリは変えるなよ。そのままの姿で使え」

「対おん慈雲用か」

「慈雲に限らず、泉仙省の他のやからにも有効だ」


 とはいえ、寧伴も器の外見の価値については理解していたらしい。いかにも『仕方があるまい』といった風情で、寧伴は垂らされた髪を片手で払いのける。


「それで? 使い物になりそうか? 壊れてんだろ、そいつの霊脈」

「確かに一度大きく損傷したようだが、儂の手にかかれば修復は可能だ。それなりに使えるようにはなろうて」


 一度ゆっくりとまばたきをした寧伴は、永膳を見上げるとニヤリと嗤った。顔の造形はいけすかない後輩のものから一切変わっていないはずなのに、中身が変わっただけでここまで印象が変わるとは興味深い。


 ──今のこいつの顔なら、多少視界にチラついててもウザくはねぇな。


「さて、それでは始めよう」


 寧伴は優雅に左のたなごころを宙に広げた。その上に躍る燐光は淡紫の色を失い、背筋を震わせるような鬼火の青白さに変性している。


「この国を焼き滅ぼす薪木に火を着けよ」


 宣戦布告の言葉に、メラリと青白い燐光が揺れる。


 その様を、永膳は心の奥底から笑って見つめていた。

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2024年9月20日 22:00

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