※※※

 久し振りに、よく眠れたような気がした。


 ゆっくりとまぶたを持ち上げると、見慣れた窓の向こうに夕焼けの空が見える。鼻先をくすぐる独特な香りで、自分が医局の簡易休憩室にいることが分かった。まだ夢とうつつの境を彷徨さまよっている意識を再び眠りに誘い込むかのように、低く穏やかな子守唄の旋律が聞こえてくる。


 その調べに、覚えがあった。


「…、……?」


 自分の唇からこぼれ落ちた声が誰を呼んでいたのかは、自分にも分からない。


 だが傍らにいた『誰か』は、その声を拾い上げて歌声を止める。


 同時に、見慣れたきらびやかなツラが視界に割り込んできた。


「目が覚めたか」


 サラリと流れ落ちる漆黒の髪に、目を疑うほどの美貌。滅多に感情が出ることのない顔は今も一見表情がないように見えるが、その実かなり心配されていることは目元の微かな差異で読み取ることができる。


 そこまで眺めて慈雲じうんは、意識を失う前の自分が何をしていたのかをようやく思い出した。


「……気絶させた当人が、何シラッと心配そうなツラしてやがる」

「残念ながら、一撃を入れられたのは黄季おうきであって私ではない」

「どっちでも同じだ、このクソ尊師」


 思わず低く言い捨てると『調子は問題なさそうだな』とシラッと言い放ちながら涼麗りょうれいは体を引いた。


 その動きを追って視線を投げれば、涼麗が寝台の傍らに丸椅子を置いて座っている姿が目に入る。慈雲の意識が戻るのに合わせて姿を現したわけではなく、こうしてずっと付き添っていたらしい。何となくそんな行動が、涼麗の姿を見ただけで分かってしまった。


「……子守唄なんて、お前、歌えたんだな」

「生憎、この歌しか知らない」


 常ならば感じない気まずさに思ったことをそのまま口に出すと、涼麗は返答として微妙に噛み合わない言葉を口にする。その返しの意図が読めずに視線を流すと、涼麗は慈雲から視線をらして窓の外に広がる夕焼けを見つめた。


「私に子守唄を聞かせるような酔狂者は、お前しかいなかったからな」


 ──『私達』


 あえて複数形にされた言葉を聞いて、寝起きざまの自分が誰の名前を呼んでいたのか、間接的に教えられたような気がした。同時に、涼麗が問いかけに対してなぜあんな言葉で返してきたのか、その理由も理解する。


「……別に」


 ゴロリと涼麗に背を向けるように寝返りを打ったのは、本当に偶々たまたまだ。


 何となく、そういう風に体勢を変えたかっただけのこと。


「お前が、貴陽きようと同じ子守唄を歌ってたことを、皮肉ったつもりはなかったんだが」

「お前を寝かし続けるのに、他に最適な歌を知らなかった」


 さっきまで涼麗が口ずさんでいた子守唄は、慈雲が幼子だった頃、亡き実母に歌ってもらっていた歌だ。実母はその歌を、己の伴侶であり慈雲の実父である人物から教わったと言っていた。十で母を失い、父は物心ついた頃にはすでに亡く、以降母方の叔母夫婦に育てられた慈雲にとっては、両親の形見のような歌でもある。


 昔、まだ自分達が揃って現場に立っていた頃。経緯は忘れてしまったが、どこかの安宿で夜を明かさなければならなくなった時、慈雲はこの歌に呪歌を織り交ぜて歌うことで三人を強制的に寝かし付けたことがある。


『こんな安っぽい寝台で寝られるか!』『部屋も狭い』『何で四人いるのに一部屋しかなくて寝台が二台しかないわけっ!?』とギャイギャイ騒いだくせに不寝番はしたくないとか抜かしたから、プッツリキレた慈雲が実力行使に出た、という流れだけしかもはや覚えていない。


 不意を突かれたせいでスコッと意識を落としてしまった三人は不覚を取ったことを大変悔しがり、術の理屈を調べるために何度も慈雲に子守唄をねだった。天才児達が揃いも揃って挑みに来るのが面白くて、慈雲も調子に乗って何度も歌っては何度も意識を落としてやったものだ。


 ──結局真っ先に貴陽に解析されちまって、今じゃ俺の方が喰らってる率が高いんだから、笑えねぇよな。


 今ではこの歌を歌うよりも、聞く機会の方が多くなった。根を詰めて仕事をしていると、慈雲を簡易休憩室まで引っ張ってきた貴陽が嬉々としてこの子守唄を歌うようになってしまったから。


 だが涼麗と永膳えいぜんが慈雲に同じ技で仕返してくることはついぞなかった。だから結局こちらの二人は解析を諦めたのかと思っていた。


 だがそうではなかったのだと、慈雲は今更になって知る。


「黄季は、私が歌っている間、目覚める気配を見せなかったんだが」


『やはり、貴陽のようにはいかないか』と、涼麗は静かに呟いた。


 その呟きに、掛布と体で隠した手に、無意識のうちに力がこもる。


「……心配かけて、悪かったな」


 今、体を起こせば、涼麗に必ず顔を見られる。


 髪が解かれているとはいえ、それで表情を隠しきることはできないだろう。何より黄季を使ってまで実力行使に出た涼麗が、表情を取り繕えていない慈雲を見逃してくれるとは思えない。


「もうしばらく大人しく寝てるから、お前は持ち場に戻っても」

「慈雲」


 だがそんな慈雲の内心さえ見透かしたかのように、……あるいは、そんな些細な逃げさえ許さないと言わんばかりに、涼麗は常と変わらない静かな声を上げた。


「お前は、強い」


 唐突に向けられた言葉に、息が詰まる。


 驚きが与える衝撃に、一瞬思考が止まった。


「私だったら、きっと、立っていられない」


 極限まで削がれた言葉は、ただ聞いただけでは何を指す言葉なのか分かりづらい。


 だが互いに歩んできた道を知っている者同士、言葉にされなくても伝わる思いがある。


 ──……比翼は、片割れを失ったら飛べない鳥、だったな。


 心を預ければ預けるほどに。ともに時を経れば経るほどに。


 片翼をもがれた時の喪失感は、計り知れない痛みと化す。


 大半の対がその痛みに耐えきれず、残された片翼は現役を退くか、後追いの死を選ぶくらいには。


『比翼宣誓を交わした一対』というものは、それくらい繋がりが深いものだ。


「それでもお前は、八年間、誰にもすがらず、泣きもせず、独りで戦い続けてきた」


 涼麗はかつて永膳を失い、世界の全てに背を向けて小さな世界に引き籠もる道を選んだ。その後に奇跡的に黄季という相方を得たが、今はかつての片翼が敵として対角にいる。


 慈雲はかつて貴陽を失いかけ、貴陽の命を永らえさせるために自ら縁を切る道を選んだ。結局貴陽側が諦めずに再び慈雲の傍らを占領したかと思いきや、貴陽は『慈雲を生かすため』とのたまい、対角に回ってしまった。


 二人が辿ってきた道と置かれた立場は微妙に違う。


 だが限りなく近いからこそ、他人は知らない痛みを、同じ立場から、経験者として共有することができる。


 ……できて、しまう。


「……お前が知らないところで、縋りもしたし、泣きもしたさ」

「誰にだ」


 無意識に敷布を握りしめた手は、涼麗からは体の陰になって見えていないはずだ。平静が取り繕えていない顔だって。


「お前は、そんなこと、誰にもできないだろう」


 淡々と言葉を紡ぐ涼麗の声には、常と変わらず感情など載せられていない。


 だからこの声音が心配しているように聞こえるならば、『そういう風に聞きたい』と慈雲が無意識に願ってしまっているということになる。


 ──あぁ、でも、お前。


「お前はいつだって縋られる側で、泣き付かれる側だ。みんなみんな……私達でさえ、お前にもたれかかって、頼り切ってしまう。そんな私達を当たり前だと、お前はいつだって受け入れてしまう」


 黄季と関わるようになってから、ただでさえ下手だった腹芸が、もっと下手になったんだったな。


 ふと、そんな独白が、胸中にこぼれ落ちた。


「そうであるくせにお前は、誰にも頼ったりしない。……いや、『頼らない』と言うには、語弊があるな」


 淡々と聞こえるようでいて、その実いつの間にか奥底にしっかりと感情が宿るようになった声で、涼麗はいつになく言葉を尽くして己の内心を声に出す。


「お前は、強がるのが、得意すぎる」


 その言葉達をいつになくはすに構えて受けてしまうのは、口下手で手がかかりまくる同期の言葉が、いつになく図星を突いてくるからだ。


「痛くないはずがないのに、『痛くないから気にすんな』と笑うのが、お前は上手うますぎる」

「……そんなんじゃない」

「じゃあ、何だ」


 否定に否定を重ねても、退路を断たれるだけだと分かっている。


 それでも、分かっていても。認めるわけにはいかない。


「……慈雲」


 認めてしまえば、今度こそ立っていられない。


 そこまで追い詰められていると、自覚しているから。


「私は、八年前に、お前を残して、逃げ出した身で……言葉も、下手だ。良い返しも、気が効いた言葉も、口にすることは、きっとできない」


 だというのに、いつも無口な同期は、普段の寡黙っぷりが嘘のように言葉を紡ぎ続ける。こんなに話せる人間だったのかと、現状恐らく付き合いが一番長い人間である慈雲が、我が耳を疑うほどに。


「だが、お前のことを案じている。その気持ちだけは、確かにある。強く、ある」


 その努力が涼麗にとってどれほど大変なものなのか、慈雲には分かってしまう。八年間の断絶があるとはいえ、ずっと隣を走ってきた同期だから。


 だからこそ、朴訥ぼくとつと紡がれる言葉が、痛いほど心に染みた。


「話さないなら、それでもいい。泣かないなら、それでもいい。……ただ、無理に大丈夫だと、言うのは、……やめて、ほしい」


 そんな、お世辞にも上手いとは言えない言葉に。


 最後まで意地で張り詰めさせていた糸が、切れる音を聞いたような気がした。


「……っとに、お前らは……っ!」


 こぼれてしまった声は、ひどくかすれていて悲鳴のようだ。


 その声を取り繕うことさえ、今の自分にはできない。


「俺が黙ってるからって、いっつもいっつも勝手なことばっかり……っ!!」

「うん」

「好き勝手に、言いたい放題言いやがって! どいつもこいつもっ……、勝手に俺に面倒事を押し付けやがって……っ!」

「ああ」

「挙句の果てに、どいつもこいつも勝手に俺を置いてどっかに行きやがる……っ!!」

「うん」


 みっともないと分かっていても、もはやあふれ出す言葉を止めることはできなかった。


『吐き出す』というには勢いが足りず、『絞り出す』というには自発性が足りない。まるで傷口から血を滴らせるかのような慈雲の言葉に、涼麗はただ淡々と相づちだけを打つ。


 その『淡々』が無感情ゆえの無関心から来るものではなく、ただひたすらに慈雲の痛みを引き受けるような『淡々』であることが分かるからこそ、慈雲はギリッと指先を寝台に突き立てていた。


「俺はお前らみてぇな天才でも強者でもねぇ」

「うん」

「お前らが何考えてんのか分っかんねぇし、何でもかんでも、どうとでもできるわけじゃねぇ」

「ああ」

「長官だって、なりたくてなったわけじゃねぇ。押し付けられて、流されて、気付いたら座ってただけだ。ただ、そこにいれば、俺が守ると決めたものが、守れると知っていたから、座り続けていただけで」

「うん」

「お前らと、真実同じ場所にいられたら」


 余計な力がこもった指先は、慈雲の体を痛めつける。だがそうでもしていないと、心の方が耐えられない。


「俺はお前らに、置いていかれずに済んだのかと……今でも時々思う」


 そんな慈雲がようやくこぼした弱音に。


 涼麗は、相づちを打たなかった。


「……慈雲」


 代わりに涼麗は、静かに慈雲を呼んだ。


 その先に何と言葉が続けられるのか分からず、慈雲はがらにもなくわずかに体を強張らせる。


「お前がお前じゃなかったら、私達はきっと、お前に心を開くことはなかった」


 その強張りに、きっと涼麗は気付いているはずだ。


 だが涼麗は一切それを指摘せず、真摯に言葉を紡ぎ続ける。


「お前がお前だったから、私達はお前とともにれた。お前がお前の望むような『強者』であったらきっと……世界はとうの昔に、お前が知らないところで、終わっていた」


 ──涼麗……


 その言葉に、慈雲は静かに目をみはった。


 涼麗に正面切ってそんなことを言われたのは、初めてだったから。


「お前は、強い。……本当に、強いんだ」


 一瞬、涼麗がフツリと口をつぐんだ。内心がうまく言葉にできず、もどかしそうに言い淀んでいる様が、顔を見なくても分かるような沈黙だった。


 ──お前……


 昔の涼麗ならば、とうの昔に言葉を放棄して黙り込んでいたことだろう。だが今慈雲の傍らに寄り添おうとしている涼麗は、労をってでも己の内心を慈雲に伝えようとしてくれている。


 自分の言葉は慈雲に伝わるし、伝えなければならないものなのだと、思ってくれている。


 ──本当に、変わったな。


 自分達では起こせなかった変化を涼麗にもたらしたのは、やはり黄季なのだろう。『やっぱあいつ、すげぇヤツだな』という感想が心の片隅を転がっていく。


「お前が、逃げずに、戦い続けてくれていたから」


 そんなことを思った瞬間、涼麗はポツリと呟いていた。


「だから、いつだって私達は、帰ってくることができた」


 今や涼麗の声音はささやき声に近い。それでも今、この部屋は本来の主を失っていて静かすぎるから、どれだけ小さくても涼麗の声は慈雲の耳に届く。


「お前の強さは、技量云々の話じゃない。もっと根本的な部分で……黄季が持っている『強さ』に似ている」


 その声音が、不意に温もりと丸みを帯びた。


「私が……私達が、憧れて……惹きつけられてやまない、……私達にはない、強さだ」


 その変化に気付いた瞬間。


 フワリと、少しだけ胸が軽くなったような気がした。


「……なぁ」


 いつになく必死な涼麗は、恐らく慈雲から何か会話の終わりとなるきっかけを与えられなければ、らしくもなくいつまでも喋り続けることになるだろう。


 その気付きが何だかおかしくて、慈雲はひっそり泣き笑いのような微笑を口元に浮かべた。


「あいつ、帰ってくるつもり、あると思うか?」


 そんな慈雲の言葉か。あるいは笑みが見えていたのか。


 一瞬口をつぐんだ涼麗が、ハタハタと目をしばたたかせたのが分かった。


「帰ってくるつもりしかないだろう」


 その上で答えは『心底呆れた』とでも言わんばかりな声音で紡がれる。


「あいつの執着をナメない方がいい。あいつ、お前の余生に自分がいない未来など考えていないぞ」

「余生って」

「だからお前は、難しいことは考えずに素振りでもして備えておけばいいんだ。あいつがしれっと甘えた顔で『じーうん、ただいま!』なんて言ってきた瞬間、迷いなくぶん殴れるように」


 拳でなのか、あるいは偃月刀でなのか。そこは慈雲のご随時に、といったところなのかもしれない。


 そこまで言い切ってようやく人心地がついたのか、涼麗は軽く息をつくと微かな衣擦れの音ともに立ち上がる。


「仕方がないから、泊まり込みでお前の代わりをしておいてやる。だからお前は、一晩ここでじっくり眠れ」


 さらに涼麗がカツンッとかかとを鳴らすと、音もなく結界が展開されたのが分かった。どうやら防犯のためというよりも、慈雲の逃亡防止のためのものであるらしい。


「……なぁ、慈雲」


 無意識のうちに力の流れを読んで術式を紐解く慈雲に気付いたのか、身を翻した涼麗は一度足を止めると慈雲を振り返った。視線がこちらに向いたことを察した慈雲は、今度は反対側に寝返りを打って涼麗に視線を向け返す。


「話さなくてもいい。泣かなくてもいい」


 そんな慈雲の視線の先で。


 涼麗は少しだけ、迷子になった幼子を彷彿ほうふつとさせる顔を見せた。


「代わりに時々立ち止まって、きちんと私達がついてこれているかを、確認してほしい」


 その言葉に慈雲は一瞬面喰らう。


 数瞬の空白の後、何と返すべきか言葉に迷った慈雲は、結局無言のまま再び背中を向けるように寝返りを打つと肩越しに軽く手を振った。犬を追い払うようなその仕草から涼麗は何を読み取ったのか、涼麗は特に文句を言うこともなく静かに退室していく。


「……確認、ね」


 どうやら涼麗の中で、いつも『置いていかれている』のは涼麗の方であるらしい。


 ──……たく。どこをどう取ったらそういう考えになりやがる。


 胸中で小さく呟いた慈雲は、ひとつ溜め息を転がすと掛布を肩まで引き上げて目を閉じた。


 視覚が閉ざされると、嫌でも医局特有の香りが鼻をつく。


 いつも相方が纏っていた香りは主が不在でも薄れることはなかった。そのせいなのか意識が淡く眠りに溶けていくと、今でもすぐ傍に相方がいてくれるかのような錯覚を抱いてしまう。


 ──ここにいると、よく眠れる……


 そんなことを寝落ちる間際に思った自分は、もしかしたら気付いていない間に、少しだけ泣いていたのかもしれない。




  ※  ※  ※




 積もる話と積もる鍛錬に夢中になっていたら、知らない間に空は綺麗な茜色に染まっていた。


 ──さすがにちょっとゆっくりしすぎたかも……!


 顔を引きらせた黄季は、駆け足で王城の中を進んでいる。目指すはもちろん泉仙省せんせんしょうだ。


 ──いくら俺がかく永膳に狙われにくいって言っても、無防備にフラフラしてたら妖怪に狙われる可能性は高いんだってば!


 何より、今回の外出は氷柳ひりゅうに断りを入れていない。


 最近学んだのだが、どうやら氷柳は黄季の無断かつ長時間の単独外出が気に入らないらしい。たとえそれが業務であっても、氷柳の傍らを長時間離れると帰還時にご機嫌がほんのり悪いことが多い気がしてならない。


 ──えっと、生まれたばっかりの雛鳥って、確か最初に見た動くモノを親だと認識して懐くんだっけ?


 何だかそれに似ている。


 ──氷柳さんがお屋敷の外に出るきっかけを作ったのは俺だし、ある意味状況は似てるような気がしないでもないけども。


 とは思いつつ、己の師匠に対してそんなことは口が裂けても言えない。氷柳自身は案外目をパチクリさせながら『……言い得て妙だな』と納得の表情を見せそうでもあるのだが。


 ──いやいやいやいや、だから失礼だってば。


「あ! 黄季ー!!」


 そんな自分の内心に自分で首を振った瞬間、だった。


 聞き慣れた声が自分の名前を呼んでいることに気付いた黄季は、足を止めると周囲をキョロキョロと見回した。そんな黄季をさらに声が呼ぶ。


「こっちこっちー!」

「ちょうどいいトコに来てくれたじゃん、黄季大先生」

民銘みんめい? それに明顕めいけんも」


 黄季は数歩来た道を戻ると、通り過ぎかけていた鍛錬場を覗き込んだ。主に飛び道具の鍛錬に使われている鍛錬場では、弓を手にした民銘と的を腕に抱えた明顕が黄季を招くように手を振っている。


「二人とも、こんな時間まで鍛錬?」

「いやさ、ちょっと新技を開発中で」


 黄季が二人に駆け寄ると、二人は嬉しそうに黄季を招き入れた。思えばこんな風に三人で話をするのは久し振りなような気がする。


 ──ちょっと前まで双玉比翼に連れ回されてヘロヘロしてたのに。


 今では二人で居残りをして自主鍛錬に打ち込めるくらいの余裕が生まれたらしい。


『これは俺も負けてられないな』と同期の成長に心を躍らせながら、黄季は民銘の言葉に首を傾げた。


「新技?」

「ま、ちょっと見てよ」


 軽く答えた民銘は、弓を構えながら明顕に視線を向けた。それに頷いて答えた明顕は、的を腕に構えたまま鍛錬場の端に向かって走っていく。


 だが矢をつがえた民銘は、矢尻の先を明顕とは真逆の方向へ向けた。明顕に背中を向けたまま、民銘は目一杯弦を起こして矢を放つ。


 ──? 何がしたいんだ?


 民銘が放った矢は、そのまま真っ直ぐに何もない方向へ向かって飛んでいく。


 その矢を見据えた民銘が、弦から離した手で素早く印を切った。構えた民銘の指先から、淡く橙色の燐光が舞う。


「『追え』っ!!」


 呪歌は短く、鋭い。


 号令を受けた瞬間、放たれた矢の矢羽が淡く橙の燐光をこぼして民銘の声に答える。


 同時に、矢は見えない振り子に繋がれていたのかと思うような動き方で、進行方向を真反対に変えた。


「えっ!?」


 空中でグリンッと折り返してきた矢は、そのまま真っ直ぐに明顕が抱えた的を狙う。


 対する明顕はしっかり矢の軌道を見定めると、矢が的を捉える寸前でヒラリと身をかわした。的を捉え残った矢は再び的を捉えようと方向を転じるが、途中で勢いを失い、的を捉えるよりも先に地面に滑り込むように落ちていく。


「えっ……ちょっ……えぇっ!?」

「いやぁ、俺ってさ。得物に弓を選んだはいいものの、弓の扱いもヘナチョコじゃない?」


 決して矢が描くはずがない軌道を見せつけられた黄季は、思わず矢と民銘を交互に指さしながら口をパクパクさせる。そんな黄季に民銘は頭を掻きながら照れたような笑みを向けた。


「武術やら体術やら全般に自信がないから、前線に出なくていいように弓を選んだわけなんだけども……いやぁ、当たらない当たらない」

威行いぎょう先輩と文玄ぶんげん先輩にも呆れられるくらいだったんだぜ? 実戦での民銘の弓」

「あー……」


 退魔術全般に優れ、特に結界呪と探索呪で学年首席の座を不動のものにしていた民銘だが、唯一体練だけは毎回ギリギリスレスレの及第点だった。民銘の結界呪の腕前ならば最悪物理的に戦えなくても何とかなるのではないかと思っていた黄季だが、現実は……というよりも、双玉比翼はそこまで甘くはなかったらしい。


「さすがに俺もこれは何とかしなくちゃって思ったんだけど、いきなり腕を上げるのって難しいじゃない?」

「確かに」

「だから、自分の得意分野で補ってみたってわけ」


 民銘曰く、今民銘が放った矢にはあらかじめ術式が刻まれていたらしい。民銘が術式を起動させると、民銘が的として指定した物体を追うように動くという。追尾と探索の術式の応用なのだと民銘は説明してくれた。


「はー! 自分で独自に術式を組んだってことか? すっごいなぁ!」


 黄季は思わず心の底から感嘆の声を上げていた。そんな黄季の傍らに戻ってきた明顕が『うんうん』と重く頷いて同意を示す。


「いやいや……結局的を勝手に追うようにはできても、飛距離は自分の腕で出さなきゃだから。ヘッポコなことに変わりはないんだよ」


 親しい同期二人からの惜しみない賛辞に、民銘はさらに照れたように笑った。そんな民銘を黄季は眩しいものを見るように目を細めて見つめる。


 同時に、自分の中で何かがカチリとはまり込む音が聞こえたような気がした。


 ──ん? あらかじめ矢に術式を刻んでおいて、ってことは……


「あ、でね? 黄季って弓の扱いも上手いじゃない? 強めの弓も引けるしさ」

「今の術式だけでどこまで飛距離を稼げるのか試したいらしいんだけど、俺も弓は専門外だし……」

「民銘!」


 ふとあることに思い至った黄季は、考えるよりも早くガシッと民銘の手を両手で掴んでいた。その勢いに民銘は目を丸くし、弾き出されそうになった明顕は的を抱えたまま大きくけ反る。


「矢に刻める術式って、何か制限とかあったりするっ!?」

「ふぇ?」

「結界呪の起点を刻んだりとか、状況に応じて発動させる術式を任意で変更したりとか……」


 黄季が必死に言い募ると、民銘と明顕は無言のまま違いに目配らせをした。そんな二人は揃って黄季に視線を戻すとニヤリと悪巧みをしているかのような表情で笑う。


「なぁに? なぁに? 黄季。何か面白いこと考えてそうじゃん」

「俺らにも噛ませろって」


 ズイッと迫る二人の言葉を聞いて、黄季はようやく我に返った。二人が身を乗り出してきた分、今度は黄季が体を仰け反らせる。


「あ、ごめ……っ、民銘の実験に付き合ってからで……」

「そりゃもちろん付き合ってもらうけども」

「それ以上にお前の必殺技開発に、俺らは首突っ込むぜ」


 二人は黄季に逃げを許さなかった。それぞれ空いている方の腕が伸び、黄季の肩を左右からガッツリと囲い込む。


「何せ俺ら、同班同期だし?」

「黄季がこんなに自主的に真っ直ぐ俺らを頼ってくれたのなんて、初めてだし?」

「モチのロンで首突っ込みますけど?」

「拒否権ねぇからな?」


 ニヤニヤと笑う二人の表情は、端的に言ってしまえばかなり治安が悪い。


 だが黄季の肩を抱き込む腕は、優しかった。『落ちこぼれ』と言われていた時代から、何くれとなく黄季の肩を叩き、背中を支えてくれた腕だった。


 そんな二人がこの局面でも背中を支えようとしてくれることが、黄季は何よりも嬉しかった。


「……うん」


 黄季はこそぐったい心地を誤魔化すかのように小さく笑った。


「でも正直二人は、もっと武芸の腕も上げた方がいいと思う」

「……ごもっともぉ」

「ド正論〜……」


 照れ隠しに口をついた言葉に二人がスンッと真顔になったのが何だかおかしくて、黄季は思わず声を上げて笑ってしまう。そんな黄季の声につられて、気付いた時には三人揃って笑っていた。


 夜の色が濃くなり始めた空に、久し振りに揃った三人分の笑い声が響く。


 笑い声を受けて揺れる宵闇の空気は、どことなくいつもよりも柔らかく感じられた。



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