空を陰らせていた瘴気が徐々に薄くなっていく。その現場の中心では、瘴気の中にあっても淡く光を纏っているように見える白衣びゃくえひるがえっていた。


 その手元から鋭く光を弾く飛刀がなげうたれたのを見た黄季おうきは、集中を切らさないように注意しながら来たるべき衝撃に備えて奥歯を噛みしめる。


 ──これで王手っ!!


「『闇は闇へかえれ』」


 黄季の視線の先で優美に舞う佳人が凜と呪歌を紡ぐ。


「『滅殺めっさつ』っ!!」


 氷柳ひりゅうが紡いだ呪歌は相対していた漆黒の獣を薄紙を破くかのごとく散り散りにした。存在を解かれた妖怪は黒い塵となり、退魔術が巻き起こす風に散らされていく。結界で閉じられた中を舞う黒い影はまるで漆黒の花弁が舞い散る様を見ているようで、黄季は毎度その光景を前にすると目を奪われてしまう。


 だが最近は、現場に立ち始めた当初よりもその光景に見入ることはなくなっていた。


 その光景を見慣れてしまったから、ではない。


 それよりも目を奪うものができたから、という理由が四半分。そんなことで気を抜いていたら容赦なく指導されるから、という理由が四半分。


 残りは、自分のそんな油断で危険にさらすわけにはいかない存在ができたから、である。


「……修祓完了を確認した」


 妖気の残滓が消えても周囲を囲んだ結界と氷柳を守るために展開していた防護の結界を維持し続けていた黄季に、匕首ひしゅを懐に収めた氷柳が視線を向ける。


「これで今日の任務はしまいだな」

「っ、はぁ〜! ありがとうこざいましたぁ〜!」

「ご苦労」


 その瞬間、黄季はへニャリとその場に座り込んでいた。集中が切れた結界は薄い玻璃を割るかのようにパキパキと光の欠片となって散っていく。


「さすがに朝から連続五件も現場を回されるのはしんどかったぁ……」

「生きたまま任務を完遂できて良かったな」

「うぐっ」


 氷柳の言葉に黄季は思わず息を詰まらせた。


 ──俺の手に余る現場ばっかり朝から立て続けに五件も来た、……なんて言い訳は、通用しないからなぁ……


 本日の黄季と氷柳は、朝から修祓現場をたらい回しにされていた。朝出仕して開口一番に『喜べお前ら、今日はずっと現場だぞ?』といい笑顔でのたまった慈雲じうんをうっかり恨みそうなくらいには、きつめの現場ばかり、連続五件も、だ。


 ──この間の一件以降、現場仕事に出させてもらえるようになったのは……多分、氷柳さんの憂さ晴らしのため、なんだろうけども。


 地面にへたり込んだまま、凜と立つ氷柳に視線を向ける。疲労困憊を絵に描いたような黄季に対し、氷柳は名前の通り実に涼やかに……いや、それ以上に心なしか生き生きとしているように見えた。久しぶりに現場で暴れ回れたのが、本当に嬉しかったらしい。


 ──氷柳さんにとっては憂さ晴らし程度の案件でも、俺にとっては実力相応を越えた現場、なんだよなぁ……


 本来ならば、声を大にして喚いても許されると思う。だってどう考えたって二年目のまだまだ新人に回される現場ではないのだから。


 所属する退魔師達の実力に合わせた現場ばかりが発生するわけではないということは、重々承知している。大乱で上級術師が多く散ったこともあって、黄季達新人以上に先輩諸氏が多忙を極めていることも知っている。


 それでも下っ端であればあるほど実力相応の仕事に当たるのは、実力以上の任を課して若い命を散らさないために上が配慮をしてくれているからだ。上官達にいかに自分達の命が守られていたのかを、黄季は最近氷柳とともに現場を回るようになってようやく知った。


 ──でも俺は、望んで、守ってもらえる範囲の中から飛び出した人間だから。


 気を抜くと口から零れ落ちてしまいそうになる弱音をグッと飲み込んで、黄季はふらつきながらも自力で腰を上げた。そんな黄季に向かって氷柳が歩みを進めてくる。その歩みは相変わらず優雅で、先程までの激しい捕物の名残は一切感じられない。


 ──氷柳さんが立つ場所は、俺も並んで立つ場所だから。


 隣に並ぶということは、同じ場所に、同じ目線で並ぶということ。


 氷柳の片翼をになうと覚悟を決めた以上、己の実力不足に歯噛みすることは許されても、課された任に弱音を吐くことは許されない。


 ──まだまだ遠いって分かっていても、でも。


「持久力はついたが、速度が物足りん」


 黄季と一歩の間合いを残して足を止めた氷柳は、腕を組むと淡々と言葉を零した。その声にグッと一度奥歯を噛み締めてから、黄季は神妙に氷柳に答える。


「俺の結界展開が追いつかなくて、氷柳さんが自力で妖怪の攻撃を弾いた姿を、確認しました。三回で、合ってますか?」

「今の現場だけなら四回」

「朝から通しで総計だと……」

「一件目で二回。二件目、三件目はなかった。四件目は六回。これは向こうの動きが素早かったせいもある」


 続いてどの動きで間に合っていなかったのか、どの動きの時に展開範囲とブレたのか、という細かい注釈が入った。さらに続いてああいった場面ではこうしてほしい、あの場面ではこうした方が得策だったという指導に続く。


「あぁ、でもさっきの、私の動きに合わせた目くらましの煙幕は良かった。あれは、視界を塞ぐだけではなく、呪力を帯びた霧を生じさせることで地脈的にも私の居場所が妖怪から分からないようにする仕掛けだな?」

「氷柳さん側に不都合はありませんでしたか?」

「なかった。私には霧が帯びた呪力と妖怪が帯びた瘴気の判別は可能だからな。だが妖怪側からは霧と私が一体となって私がいる位置が分からなかったはずだ。明らかに動きが鈍った」


 屋敷で実地訓練を課されていた時と変わらず、氷柳の指導は厳しいが的確で分かりやすかった。そんな氷柳の言葉を、黄季は頭に叩き込む。


 ──俺の成長に、氷柳さんの身の安全が掛かってる。


 そういう意味では、屋敷での実地訓練よりも身が入るくらいだった。


 あの時は自分のことだけで済んだが、今は事情が違う。ましてや黄季よりも氷柳の方が危険度の高い前翼ぜんよくを担っているのだ。黄季の実力不足で黄季が倒れるならまだしも、氷柳が倒れたらと思うとそれだけで胃の腑を凍り付かせるような恐怖が全身を巡る。


 ──足引っ張らないって自分から言ったんだ。こんな所でへこんでなんかいられない……!


 氷柳と初めて組んだ戦場で誓った言葉をもう一度噛み締めて、黄季は真っ直ぐに氷柳を見つめる。


 そんな黄季の前で、ふと氷柳が言葉を途切れさせた。


「? 氷柳さん?」


 その表情の中に『躊躇ためらい』や『遠慮』といった感情があるのを見て取った黄季は、氷柳を見上げたまま首を傾げる。氷柳も氷柳で黄季が氷柳の躊躇いに気付いたことを覚ったのか、黄季に落とされていた視線が逃げを打つかのように一瞬横へ流れる。


「どうしました? 何か、もっと至らない所とか、ありましたか?」

「……いや」


『思えば初対面の頃からは想像できないくらい表情を見せてくれるようになったよなぁ』とも『俺が読めるようになったのか、氷柳さんの表情が動くようになったのか、どっちだろう?』と他事を考えながら、黄季は根気強く氷柳から言葉が出るのを待つ。


「……呪剣、を」


 真摯に続く言葉を待つ黄季をチラリ、チラリと数度見遣ってから、氷柳は根負けしたかのようにモゴモゴと言葉を紡いだ。


「手にしていただろう。この間の一件で」

「呪剣、ですか?」


 これは、あれだ。黄季に家事や雑用を頼む時にも見せる、あの『居心地が悪そうな氷柳』だ。


『物を頼むのが苦手なだけじゃなかったのか』と新たな気付きとともに小首を傾げる。そんな黄季の姿に腹をくくったのか、氷柳は黄季に視線を置き直すと、今度は常と変わらない口調で言葉を紡いだ。


「呪具が暴走していた時、お前が最初に手に取った剣のことだ。保管庫に返したと聞いていたが、あれをお前の新たな呪具として使ってみる気はないか」

「えっ!?」

「今日の現場で、私が何回か、お前を庇った時があっただろう?」


 思わぬ言葉に黄季の声が引っくり返る。その反応をどう受け取ったのか、氷柳は説明の言葉を継いだ。その声に黄季は思わずショボンと情けなく顔を伏せる。


「申し訳ありません……」


 黄季が気付いている分だけでも、黄季の結界展開速度が間に合わず、氷柳の前をすり抜けた妖怪が黄季に攻撃を仕掛けた瞬間が五回はあった。全て氷柳が庇ってくれたから黄季は無事だったが、本来ならばあれは後翼こうよくが自力で対処してしかるべきものだろう。先程氷柳が『生きたまま任務を完遂できて良かったな』と口にした理由はここにある。


「別にそのことを責めたいわけではない。後翼を妖怪から守るのは前翼の役目だ。あの場面は、あれで正しい」


 ではどうしてそんなことを口にしたのか、と黄季は疑問を込めて氷柳を見上げる。


 そんな黄季の視線を、今度の氷柳は真っ向から受け止めた。


「ただ、私がいつでも万全にお前を守れるかと問われれば、答えは否だ。現場では何が起きるか分からん。私でも対処し得ない事象が起きるかもしれないということは、常に念頭に置いて行動すべきだ」

「以前にも、言ってましたもんね。『後翼だからって、攻撃呪の習得に消極的であっていいわけではない』って」

「そうだ。知性が高い妖怪は、前翼を叩く前に後翼を砕くことも多々ある。後翼は前翼に比べて直接の戦闘が苦手であることが多い上に、後翼を失った前翼は脆いからな」


 だからこそ後翼こそが万全であるべきだ、というのが氷柳の持論であるらしい。


「お前は、性格的に攻撃呪の習得に向いていない。それは知っている。だから、それを補うための呪具を持つのも悪くはないのでは、と、この間考えた」


 氷柳の視線も声も、常と変わらず淡々としている。


 ただ、黄季に据えられた瞳にだけは細波さざなみが見えたような気がした。


「慈雲にも確かめたが、あの呪剣は特に曰くがある物でもなければ、以前に高名な主があったわけでもない。純粋に備品として置かれていた物だ。お前と呪力的に相性が良さそうに見えたし、現にお前は軽々とあの剣を扱っていた。……悪くはない提案だと思うのだが」

「え、でも……」


 その波に触発されたかのように、黄季の心も小さく揺れる。


 いや、これはそんな物ではない。


「俺みたいな新人が、備品を貸与されるとか……剣って、どう考えても高価なものだろうし……」


 この揺れは、氷柳の瞳が波打つよりも前にあった。揺れは小さくないし、もっと言うならば、これは……


『黄季』


 ドクドクと、急に脈拍を上げた心臓の音が、耳鳴りを伴いながら体中に響き渡る。


 その向こうから、声が聞こえたような気がした。


 氷柳の、低く清涼な声ではない。


 まだ高くて、ヤンチャで、幼さが抜けきっていない、子供の声。


『黄季、兄ちゃん達との約束だぞ?』

『絶対破っちゃダメだかんな』

『お前は……』

『お前だけは』


「それに俺……武具の形をした物は……」


『お前だけは金輪際、人前で武器を握っちゃダメだかんな』


「……黄季?」


 まごまごと答えた言葉の語尾が、中途半端な形で消えてしまったせいだろうか。氷柳の声が珍しいくらい分かりやすく困惑を宿す。


 その声にハッと黄季は我に返った。改めて氷柳に意識を戻せば、氷柳は声だけではなく表情にまで、本当に分かりやすく困惑と、気遣わしげな色と……何か他の、黄季では分からない感情を浮かべている。


「あ……」


 何か、言わなくては。『そうですね』でも『考えておきますね』でもいいはずだ。


 黄季が何か答えれば、氷柳は納得してくれる。安心してくれる。それを自分は、分かっている。もっと言えば、諦めが早い氷柳は、黄季が答えを口にできなければ、あの全てを諦めた淡々とした瞳で会話を打ち切ってしまうだろう。


 分かって、いるのに。


「えっと、俺、は……」


 それでも、適当にこの場を回避するための言葉を黄季は口にできなかった。頭の中は空っぽで、普段ならば何でもなく口にできる社交辞令的語句でさえ何も浮かんではこない。


 ──この人には、適当な言葉で答えたくない。


「……その、私の勝手な推測……なのだが」


 不意にあふれた感情に黄季は思わず目をみはる。


 そんな黄季の先で、黄季の反応をつぶさに観察していた氷柳が唇を開いた。いつになく歯切れ悪く言葉を紡ぐ氷柳は、まるで喉につかえた物を吐き出そうとしているかのように見える。


「お前が呪剣を持つことを躊躇うのは、その……お前の剣の腕前が並外れていることと、関係がある、のか?」


 その問いに、黄季はさらに目を丸くする。


 問いの内容に驚いたからではない。氷柳の口からこうして人の過去や内面に踏み込むような問いが出る所を初めて聞いたからだ。


「あの時のお前は、その……何だ。……私が知らない、顔付きを、していた、から」


 酷く苦しそうに途切れ途切れになりながらも、氷柳は言葉を紡ぐことをやめないし、視線も黄季から外さない。


 答えを渇望しているような。関わることを諦めずに足掻いていると分かる表情を、今の氷柳はしている。


「だから、何か理由が、あるのかと」


 不器用に向けられた言葉に、黄季は息を呑んだ。


「あ、の。俺……俺、は」


 答えたい。人と関わることを諦め、興味さえ失ってしまった氷柳が、それでも断絶の向こうから差し伸べてくれた手を、無下にはしたくない。


 だが、それは。


「俺、その……実は」


 黄季にとってのこの八年と、あの炎の中で泣きながら散っていった家族の思いを、どぶに捨てることと同じだ。


「……っ!」


 それでも何かを答えたくて、黄季は必死に口を開く。


 だが黄季が何か意味がある言葉を口にするよりも、背筋を氷塊に似た悪寒が駆け抜けていく方が早かった。


 思わず黄季はバッと気配がある方を振り返る。氷柳の反応はそんな黄季よりも一瞬早かった。黄季と同じ方向を見つめた氷柳は涼やかな目元をついっとすがめる。


「これは……」

「妖気、ですか? こんな強い気配、かなり強いやつじゃ……」

「いや、違う。これは」


 地脈の流れを読んだのか、氷柳は一瞬だけ瞳を見開くと次の瞬間にはさらに瞳に険を宿した。


「土地そのものが陰に堕ちた」

「えっ!?」


 土地が堕ちる。つまり、今この瞬間、この近場に新たな陰の気の吹き溜まり……忌地いみちが誕生したということ。


「そんな……っ! この辺りに、そんなヤバそうな土地なんて……っ!!」

「ああ、なかった。あったら私達の仕事に間違いなく追加されていたはずだからな」


 黄季の言葉に答えながら氷柳は黄季を流し見た。そんな氷柳の視線に黄季は頷いて答える。


「せっかく今日は慈雲から『現場が片付き次第直帰して良し』との許可をもぎ取っているんだ。さっさと片付けて、市が開いている時間には帰宅する」

「はい! ……はい?」


『何で帰宅目安時間が市?』とは思ったが、黄季が疑問を呈するよりも氷柳が走り始める方が早い。


 置いていかれないように地面を蹴りながら、黄季は意識を今から向かう現場に集中させた。

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