※※

 目的の場所は黄季おうき達がいた現場からそう遠くはなかった。沙那さなの都を囲う羅城の際、都外れでほとんど建物も人もいない中を陰の気の乱流だけが吹き荒れている。


 ──周りにいるのは、多分退魔師だけ。


 退魔師は妖怪を滅することが使命だが、それ以上に民の命を守ることこそが至上の命だ。万が一一般人が現場近くにいた場合、特に後翼こうよくは一般人の安全確保および避難誘導が任に加わる。今回はその必要がなさそうだと判断した黄季は、緊張を保ちつつもホッと息をいた。


 同時に、疑問が首をもたげる。


 ──でもなんで、そんな人気のない土地がいきなり堕ちた?


 土地がひとりでに堕ちたというならば、必ずその兆候があったはずだ。そして泉仙省せんせんしょうがそれを見逃したはずがない。いくら人出不足でもそんな足元を掬われるような見逃しを上官達がするわけがない。


 特に今は泉仙省に氷柳ひりゅうがいるのだ。都の内程度の範囲ならば感覚的に地脈の流れを把握できるという氷柳がこんなに大きな変化の予兆を見逃すはずがない。


 平穏だった土地がいきなり忌地いみちまで堕ちる場合は、大抵そこに人間の事情が絡んでいる。


 大量に人が死んだ。あるいはそれに匹敵する負の感情の流れ。戦に疫病。人々の営みのせいで地脈が受け切れる以上の陰がとどこおった時、土地は忌地に化ける。


 ──でもそれだって、こんな急な堕ち方は……


「完全に無人とはいかないようだな」


 考えを巡らせる黄季の一歩先を行く氷柳が低く呟いた。その言葉に意識を集中させれば、黒い竜巻となって吹き荒れる瘴気の影に人影が見える。


 この嵐の傍にあって正気を保っていられるのであれば、影は十中八九退魔師で間違いない。緊急信号が上がっている様子は確認できていないが、どうやら黄季達より先に現場に到着した退魔師がいたらしい。


泉部せんぶの人間だと思いますか?」

「分からん。だがこの場合、どのみち足手まといに変わりはない」


 バッサリ言い切った氷柳は足を止めることなく左手の中に流葉りゅうよう飛刀ひとうを滑り込ませる。それを気配で察した黄季は懐から取り出した数珠を右手に絡めた。


「外界との境界を飛刀で示す。基点として結界を」

「はい!」

「余計な人間の回収は任せた。浄化は私が請け負う」


『やれるな?』という確認を氷柳はしてこなかった。黄季ならば当然それくらいのことはできる、という信頼が透けて見えたような気がした黄季は、気を引き締めると腹の底から声を張る。


「はいっ!!」

「上等」


 その声に一瞬、氷柳が吐息で笑う。


 同時に、氷柳の左手から飛刀がなげうたれた。気の乱流を物ともせず空を裂いた飛刀は、それぞれ違う軌跡を描くと竜巻を中心に四方へ突き刺さる。


 その軌跡を追った黄季はそれぞれの飛刀が帯びた氷柳の霊力に意識を集中させ、それぞれの点を結ぶように己の力を巡らせる。


「『汝はかなめ 汝は光 汝は汝にあらず 界を隔てる地の要』」


 氷柳の白銀の霊力を基点に、黄季の琥珀の霊力が巡る。地脈が陰を極めて土地が忌地に堕ちていても、呪歌に応えてフルリと地面から光の壁は立ち上がった。その壁に阻まれて、無秩序に暴れていた竜巻が壁の中に押し込められる。


「『界断絶 乖壁かいへき展開』っ!!」


 その壁が完成する直前、氷柳は躊躇ためらいなく結界の中に飛び込んだ。一方黄季は氷柳の周囲にも防護の結界を展開しながら地面を滑るようにして足を止める。


 結界基点の際に呆然と座り込んでいた人影の傍らに滑り込んだ黄季は、相手が誰であるかを確認するよりも早く相手の袍の後ろ襟に手を突っ込んだ。そんな黄季の登場に相手が目を丸くする。


「黄季っ!?」

「あ、ゆう先輩だったんですね。ちょっと失礼しますよっ、と!」

「うわっ!?」


 黄季はそのまま滑り込んだ勢いと遠心力を利用して先輩を後ろへぶん投げる。突然の暴挙に釉の体は為す術もなく転がった。平素ならば説教ものだろうが、今は有事ということで御勘弁願いたい。


「先輩っ! 先輩の他にここに何人いますかっ!?」


 後ろに下げた釉を嵐から庇うように立った黄季は、懐から独鈷杵を取り出すと地面に突き立てる。泉仙省の呪具保管庫から借り受けてきた独鈷杵は、刻まれた術式に従い即座に結界を展開させた。


「え、あ……あ」

「先輩っ!」

「ご、五人だ。俺と同格のやつらが、俺を含めて三対……!」

「え? 何でそんなに集まってたんですか?」


 今この場に回収対象が何人いるのかを知りたくて向けた問いだったのだが、思った以上に多かった人数に黄季は思わず釉を振り返る。一方釉の方は気の乱流に揉まれたせいなのか、座り込んだまま全身をガタガタと震わせていた。


「わ、分っかんねぇよ、そんなこと……!」


 だが先輩としての意地があるのか、釉は歯の根が合わない口で何とか黄季の声に答える。


「お、俺と万里ばんりは、別の現場だったんだ。なのに、上官から式文が飛んできて……!」

「魏上官って……魏浄祐じょうゆう上官?」

「他に誰がいるって言うんだよ!」


 思わず黄季が気の抜けた声で問いを投げた瞬間、釉はガバリと顔を上げた。その顔には想像以上に追い詰められた表情が刻まれている。


「俺は反対だったんだ!! こんな訳の分かんねぇ現場にいきなり『ついでに行ってこい』なんて!!」

「ちょっ……ちょっと、釉先輩っ!?」

「でも万里のヤツが上官命令を無視したら後で何があるか分かんねぇからって……!」


 ──マズい、混乱してる。


 釉の手が伸び、黄季の両腕を捉える。そのまま我を忘れて黄季を揺さぶる釉の手には必要以上に力がこもっていた。袍の布地越しに突き刺さる指の強さに黄季は思わず顔をしかめる。


 退魔師が戦う現場は、いつだって死に近い。己が死にそうな目に遭えば人は誰だって恐慌状態に陥るし、陰の気に揉まれれば精神を壊す者だっている。退魔師が戦うべきものには、妖怪だけではなく、そういった見えない脅威も含まれている。


 退魔師ならば誰でも知っている基本的なこと。だが実際に自分がその渦中に置かれた時、それを思い出して己を律することができる人間はあまり多くないのかもしれない。


 ──だから、長官も折に触れて言うんだ。


『退魔師は、冷静さを失った者から負ける。私達の『負け』は『死』と同義だ。目の前の事象に対して、常に冷静であれ』


 不意に、この間聞いた慈雲じうんの声が耳の奥に蘇ったような気がした。


 たったそれだけで、釉の恐慌に煽られてジリジリと胸を焼いていた焦りがスッと消えていく。


「大丈夫です、釉先輩」


 黄季は一度全身の力を抜くと、スルリと釉の手の拘束から逃れた。そのまま逆に釉の片腕を取り、スルリと背中に回って腕を固める。訳が分からないまま黄季に腕を取られた釉は反射的に体を暴れさせるが、腕を取ったまま背中側から体重をかけた黄季はそのまま釉を地面に組み伏せた。


「な……っ!?」

「今、現場にてい師父が来ています」

「て、汀尊師が……!?」


 痛みで注意を引き、抵抗できない体勢に追いやることで無理やり自分の話を聞くしかない状態に持ち込んだ黄季は、なるべく柔らかい語調を心がけながら言葉を紡いだ。


「汀師父がこの土地を浄化すると宣言していました。現在対応中です。だから大丈夫です。先輩も、相方のせい万里先輩も、ちゃんと助かります」


『汀涼麗りょうれい』の名前は効果抜群だった。強張っていた釉の体から明らかに力が抜けていく。グスッと大きく鼻をすすった釉は、涙に揺れる声で小さく呟いた。


「よ、良かった……」


 ──とりあえず、落ち着かせることはできた、か……?


 だが黄季はここで気を緩めるわけにはいかない。何せ黄季の仕事はまだ何ひとつとして片付いていないので。


「分かっている範囲でいいから教えてください。釉先輩と斉先輩、あと他にいる四人は誰ですか?」


 黄季は釉の腕を絞り上げたまま問いを向ける。一瞬余計な力がこもったのか、釉の体がビクリと跳ねた。


「り、李晋りしん壬奠じんでんけい先輩とぎょく先輩だ!」

「この場所が忌地に堕ちてから駆けつけたんですか? 先輩達が居合わせた現場が忌地に堕ちたんですか?」

「お、俺達が現場で顔を合わせてからだ。他の二組も魏上官からの呼び出しだったって……!」

「特にその時何をしたとか、この場所に曰くがあるとかの情報は?」

「していないし、聞いてもいない!」


 そこまで聞き出してから、黄季はようやく腕を締め上げる力を緩めた。黄季が釉の上からどいて軽やかに立ち上がっても釉は腕を抱えて呻いている。


 ──そんなに強く締め上げたつもりなかったんだけどなぁ……


 思っていた以上に痛がっている釉に首を傾げながらも、黄季は次に成すべきことに意識を切り替えた。


 ──李晋先輩と壬奠先輩の組なら、きっと大丈夫。


 李晋と壬奠は『海』が暴走したあの現場にも居合わせた一対だ。李晋の実力は把握していないが、李晋と対を成す壬奠の実力は知っている。壬奠ならば必ず己と相方を守って持ちこたえてくれているに違いない。


 ──壬奠先輩なら、今の結界展開で氷柳さんと俺が駆けつけたことは分かるはず。景先輩と玉先輩はそれより格上。だとすれば問題は斉先輩……!


 状況を頭の中で整理しながらそっと地面に右手を添える。意識して呼吸を整えながら地脈に意識を凝らすと、陰に染め上げられた中で微かに色が違う霊力が存在を保っていた。


 乱流に真っ向から立ち向かう氷柳の霊力の影に隠れてはいるが、確かな存在感を持った気配がふたつ。荒れ狂う気の乱流をいなすように繭を張る力は、誰かが防護の結界を展開している証だ。


 ──これは壬奠先輩と……玉先輩。


 やはり無事だったかと安堵しながら黄季はさらに感覚を研ぎ澄ます。だが呼吸を数回繰り返してみても、それ以上の気配は見つけられない。


 ──俺じゃこれくらいが限界か……!


 気を凝らすだけでは万里を探し出すことはできない。


 そう結論付けた黄季は地面に突き立ててあった独鈷杵を引き抜くと釉の手に押し付けた。まだ混乱の中にいるのか、黄季から押し付けられるがまま独鈷杵を受け取った釉はグズグズと鼻をすすりながらキョトンと黄季を見上げる。


「今ここで展開している結界は、その独鈷杵を基点にしています。俺が離れても結界は大丈夫です。先輩をちゃんと守ってくれます」


 なるべく釉が安心してくれるように、黄季は目線を合わせてしゃがみ込むと諭すように柔らかく言葉を紡いだ。


「先輩はその独鈷杵を持ったまま、なるべく早くこの場から離れてください。先輩が移動すれば、他の先輩方もそちらについて移動してくれます。先輩には、他の方の誘導役をやってほしいんです」

「……万里は?」


 先輩としての威厳を失っても、混乱で何が何だか分からなくなっていても、釉は相方の名前を口にした。置いてはいけないと、訴えるかのように。


 その言葉が、黄季には嬉しかった。


「大丈夫です。俺が迎えに行きますから」

「……黄季が?」

「はい。汀師父に、そのように命じられています」


『実際の所は厄介払いを頼まれたわけだけども』と黄季は心の中だけで呟く。


 最終的に結果は同じになるのだ。完璧に嘘とも言い切れないだろう。


 黄季はそこで話を切り上げると、膝を上げてポンポンッと釉の肩を軽く叩いた。


「さぁ、行ってください! 先輩が動かないと、他のみんなが動けないので!」


 そうして軽やかに背中を押してやれば、釉はヨロヨロと立ち上がった。ふらつく足で一歩、二歩と下がった釉は、クルリと背中を向けると言葉にならない悲鳴を上げながら脱兎の勢いで走り去っていく。


 ──釉先輩って、あれで六位の中じゃなかったっけ?


『結局やったことは避難誘導みたいなもんだったな』と考えながら、黄季は飛刀を基点に紡いだ結界と相対するようにしっかりと大地を踏みしめた。腕を大きく両側へ広げ、目一杯の力を込めて胸の前で柏手を打つ。


 最初の音は、瘴気に阻まれてこもった小さな音でしか鳴らなかった。それにめげることなく、臆することもなく、黄季は柏手を繰り返し打ち鳴らす。


 ──こんな現場を駆け回って人を探すのは、こっちの命が危ない。


 状況は翼編試験の時と同じだ。不意に爆発した陰の気と、訳が分からないまま巻き込まれた退魔師達。気の乱流に奪われた視界。己の術では歯が立たない絶望。


 そんな現場をすでに黄季は経験している。乗り越えてきている。


 ──氷柳さんの望みは厄介払い。退魔に必要な場さえ整えば、氷柳さんにとって事が起きた経緯や状況は些事。氷柳さんなら問答無用で全部まとめて祓うことができる。


 パンッと、全てを斬り裂くかのように黄季の柏手の音が響いた。柏手に瘴気が払われた黄季の周囲は、澄んだ空気に包まれて視界が晴れている。


 ──一瞬でいい。視界を確保して斉先輩を回収。出来次第斉先輩ともどもこの場から撤収!


「『この穢れを祓え これは神の息吹 ここは常橘とこたちばなの咲きける所』っ!!」


 最後の柏手を打ち鳴らした両手で印を切る。黄季が凜と紡いだ呪歌に呼ばれて地脈からフルリと力がこぼれた。浄化の風を生み出す霊気が結界面に沿って瘴気の黒を上へ押し上げるように立ち昇っていく。


 だがその動きは以前何回か同じ結界を展開した時よりも鈍い。印を組む黄季の腕にもズシリとその重みが使わってくるかのような鈍さだ。


 ──……っ、重い……!


 黄季は奥歯を噛み締めて一瞬その重みに耐える。


 続く言葉は、きちんと喉から飛び出してきてくれた。


「『ここを浄華じょうかと成せ 浄祓じょうばつ』っ!!」


 浄拔呪が完成した瞬間、足元から空に向かってブワリと風が立ち昇った。その風に押されて、足元から視界が晴れていく。竜巻のような乱流はやんでいないが、視界を奪う瘴気の黒が薄れた。


 黄季の視線の先で、どんな時でも光を纏って見える白衣びゃくえが躍っていた。竜巻の中心に向かって匕首ひしゅを構えた氷柳が、一瞬黄季に視線を向ける。


 そんな氷柳の目が、一瞬無防備に見開かれたのを黄季は見た。


「え……?」


 どんな戦場でも絶対に隙を見せない涼やかな瞳が、明らかに隙を見せた。


 そう思った瞬間、黄季の背後からぬっと濃い影が伸びる。その変化に目で気付くよりも先に全身の血の気がザッと下がった。


 ヒュッと、喉が細く鳴る。


「黄季っ!!」


 それでもとっさに体が動いたのは、聞き慣れた声が聞いたことのない絶叫を上げたからだった。かろうじて体が横に流れた瞬間、さっきまで黄季の体があった空間をグパリと開いたあぎとが薙いでいく。


「っ……っ!!」


 体勢を崩して地面に転がり込む中、黄季の視界に映ったのは虎の横顔だった。


 黄季なんて簡単にひと飲みにしてしまいそうな、漆黒の巨大な虎。靄で形作られた虎の体の中で、唯一目だけが燃えるような赤い燐光に彩られている。


 こんな獣を、黄季は過去に二度見た。


 一度は、氷柳に買い物を頼まれて出掛けた市で。あの時に見た虎は、まだこれよりも存在があやふやだった。


 二回目は『海』で。そこに在るだけで気の嵐を巻き起こしていた虎は、『脅威』だけで片付けるには余りある存在だった。


 そしてこれが、三回目の虎だ。


 ──何でこんなに、虎ばっかが続くんだ?


 虎の顔が黄季に向け直される。対する黄季は体勢を崩したまま立て直せていない。


 そんな絶体の危機の中、真っ白になった黄季の頭の中にはそんな疑問が転がっていた。


 ──他にも妖怪って色々姿形があるのに、最近虎ばっかりだ。


 きっと黄季は無防備に目を見開いたまま固まっていたのだろう。虎の瞳が黄季をわらうかのようにすがめられるその動きが、やけにゆっくりと流れていった。誰かが何かを叫んでいるような気がするのに、その意味を理解することができない。


 ──まるで、誰かが妖怪の形を虎に統一するって決めてるみたいな……


 ガパリ、と、目の前で顎が剥かれる。


 逃げなくては、と思うのに、体は凍り付いて動かない。怖い、という感情さえ、抱くことができない。


「黄季っ!!」


 それでも、その声だけは、黄季の耳に届いた。


 ハッと我に返った時には、視界が白に覆われていた。その白が見慣れた人が纏う白衣びゃくえなのだと気付いた時には、反対側から翻った閃光が虎の頭を撃ち抜いている。


「ひりゅ……さ……」


 視界を覆う白は、氷柳の背中だった。翻った閃光は氷柳の右手に握られていた匕首で、黄季を喰らおうとしていた虎は匕首に裂かれて塵となって消えていく。


「……チッ!」


 黄季と虎の間に割って入るように黄季を庇った氷柳は、黄季を庇ったまま鋭く舌打ちを放つ。


「っ……氷りゅ……」


 一瞬、黄季は自分の不始末に対する怒りを表されたのだと思った。


 だがそれは勘違いであったと、黄季はすぐに覚る。


「最初から、狙いはこれか……!」


 フワリと、鉄臭が香る。え、と間抜けな声が漏れた瞬間、氷柳の体がグラリと揺れた。


 つややかな黒髪に縁取られた秀麗な顔が黄季を振り返る。常ならば涼やかに揺らぐことなく凜と黄季を射抜く瞳は今、黄季が見たことのない感情で揺れていた。


 色を無くしているはずなのに常よりも鮮やかな紅を刷いた唇が、細く言葉を紡ぐ。


「逃げろ」

「……え?」


 倒れかかってきた氷柳の体を黄季は反射的に抱き留めていた。その瞬間ジワリと手を濡らした感触に疑問を覚えて視線を向けた黄季は、今度は違う意味で血の気が下がるのを自覚する。


「逃げろ、黄季」


 氷柳自身に隠れて見えていなかった氷柳の左脇腹には、深々と斬りつけられた傷が口を開けていた。そこからあふれた血がジワジワと白衣を赤く染め、鉄錆に似た匂いを立ち昇らせる。


 さらにその向こう、この傷を氷柳につけた元凶であろうものを見た瞬間、今度こそ黄季は言葉を失った。


「これは、罠だ」


 ユラユラと危なっかしく揺れる体。その体を包むのは、泉仙省にいればよく見かける青みを帯びた暗い色。


 細身の剣を片手に携え、ユラリ、ユラリと幽鬼のようにそこに立っていたのは、黄季も知っている人物だった。


「斉、先輩……?」


 表情が抜け落ちた顔にも、精気を失った瞳にも、正気の影はなかった。ユラユラと、まるで陽炎かげろうか糸が切れかけた操り人形かのように氷柳の前に立った万里は、手にした剣をぎこちない動きで持ち上げる。


 その瞬間、黄季の体は後ろに転がされていた。氷柳が渾身の力で黄季を後ろへ突き飛ばしたのだと分かった時には、すでに剣が振り下ろされている。


「氷柳さんっ!!」


 その光景を目にした瞬間、黄季は考えるよりも早く地面を蹴っていた。




  ※  ※  ※




 嫌なことが起きる時というのは、得てして嫌なことが重なる時でもある。


「失礼。少々宜しいですかな? 長官」


 医局から飛んできた式文に慌てて長官室を飛び出そうとした瞬間、慇懃無礼を音にしたかのような声が聞こえてきた。


 明らかに扉の前にいると分かる声を無視するわけにもいかない。第一、ここで部屋を飛び出したら嫌でも声の相手と鉢合わせしてしまう。


「……どうぞ」


 一瞬、声を無視して窓から飛び出してやろうかとも考えた。だがそんなことをしたらしたで恐らく声の主はそれを面倒事に仕立て上げてくるはずだ。ならばまだ真正面から受けて立った方が己から立ち向かう分まだマシだ。


「おや、何やらお取り込み中でしたかな?」


 イライラしながら椅子に腰を落ち着けた瞬間、声の主はスルリと長官室に入ってきた。その姿に慈雲はスッと瞳をすがめる。


 目にも鮮やかな緋色の袍に身を包んだ、慈雲よりもいくらか年嵩としかさな男だった。口元に浮いた笑みは、それが仮面であることを隠そうとさえしていない。腰に揺れる赤翡翠が用いられた佩玉は、鮮やかな緋色の袍とともに彼の身分が高位の後翼退魔師であることを示している。


 浄祐じょうゆう。位階は五位の上。


 万が一慈雲が長官から退くことになった時は、その後釜として名前が上がる人間の一人。


 ──好きじゃねぇんだよな、このオッサン。


 だが慈雲は、いまいちこの魏浄祐という男を信用できなかった。


 大乱後に泉部にやってきた人間だから、というわけではない。馬が合わないから、というわけでもない。


 ──大乱の引き金を引きやがった野郎どもと、どーも同じニオイがしやがる。


「お取り込み中に長々とお時間を頂くのも気が引けますな。端的に用件を申し上げましょう」


 慈雲の不機嫌にも、焦りにも気付いていながら、魏浄祐はにこやかに用件を切り出した。


 あるいはその余裕は、慈雲が何に焦っているのかを見透かしていたからこそのものだったのか。


ばん黄季に対して、汀涼麗の身をかけて、翼位よくい簒奪さんだつを申し入れる許可を頂きたい」

「は……?」


 スルリと喉からこぼれ落ちてきた声は、真夏の茹だるほどの空気さえ瞬時に凍りつかせるほどに低く、冷え冷えとしていた。


「……お前、自分が何を言ってるのか理解した上で、そんなふざけた許可をもらいに来たのか?」

「分かっておりますとも」


 殺気とまで言えるほどの冷気に、浄祐が気付かないはずがない。それでも浄祐が浮かべた笑みはチラリとも揺らがなかった。


「『救国の比翼』の生き残り。その強き翼は、同じだけの強さを持つ翼と相方を組んでこそ、初めて大空へと飛び立てるのです。まだ空を飛ぶことさえ覚えぬか弱い翼と組まされては、それこそ泉部の損失。飛べる翼であっても地に落ちるは必定」


 それどころか浄祐は優雅に笑みを深めると、心底楽しそうに……あるいは心底嘲笑うかのように、唇の両端を吊り上げた。


「私のように強き翼と組んでこそ、もまた輝けるというもの」


 その言葉に、我知らず眉が跳ね上がったのが分かった。


 翼位簒奪。


 それは自分が気に入った翼を、対を誓った相手からもぎ取ろうとする行為。『お前は私が気に入った翼の片翼に相応しくないから身を引け』と横槍を入れる略奪の宣誓。


 比翼連理を誓った一対にとって、最大の侮辱にして最低な宣戦布告。


 それを浄祐は、……泉部長官に次ぐ実力を持つ退魔師は、気に入らない雛鳥に叩き付けるとのたまった。


「新米であろうとも、比翼連理を誓う一対である以上、こういった展開もあるとは予想できたはず」


 舌打ちを返さないようにきつく奥歯を噛み締めた慈雲の前で、浄祐は冷ややかでありながら実に楽しそうに嗤った。


「もちろん、お許しいただけますよね? おん慈雲泉仙省泉部長官殿?」


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