※※※

 氷柳ひりゅう、と。


 夢とうつつの間に懐かしい声を聞いたのは、不穏な空気の中にの姿を垣間見たからかもしれない。



  ※  ※  ※



「……────」


 意識が浮上する微かな浮遊感を覚えながら瞼を持ち上げると、見覚えのない天井が目に入った。身を横たえた寝台は自宅の寝台よりも余程寝心地がいい。


 数度まばたきを繰り返しても目の前の景色が変わらないことを確かめた涼麗りょうれいは、ゆっくりと寝台の上に体を起こす。


 だがその動作は左脇腹に鈍く走った痛みに止められた。


「っ……!」


 その痛みに蘇った記憶があった。


 吹き荒れる瘴気の渦。飛び込んだ自分の体を叩いた風の鋭さ。急速に晴れた視界。その先にあったのは……


「っ!! 黄季おうき……っ!!」


 そこまで思い出した瞬間、涼麗は今度こそ跳ね起きていた。


 だが今度はそんな涼麗を左手に絡む温もりと飛んできた声が止める。


「はいはい、医局ではお静かに」

「っ……」


 気配を感じさせないままいきなり飛んできた声に顔を跳ね上げれば、衝立ついたての傍らに慈雲じうんが控えていた。そして氷柳が寝かされている寝台の傍らには、寝台に突っ伏すようにして眠っている黄季がいる。


「さっき、やっと寝落ちた所だからよ。もうちょっとそのまま寝かしてやってくれ」


 床に座り込んだ状態で肩から上を寝台に乗せて眠り込んでいる黄季は、恐らくずっとここで涼麗の看病をしていたのだろう。伸ばされた黄季の右手が、遠慮がちに氷柳の左手を握っている。そんな黄季の寝顔には痛々しく涙の跡が残っていた。


 ──泣いて、いたのか?


 気付いた時には、空いている右手の指をそっと伸ばして、その跡をぬぐっていた。だが跡になってしまった涙は、涼麗がどれだけ指を滑らせても消えてくれない。


 ──どれだけ厳しいことを言っても、どれだけ厳しい現場に放り込んでも、今まで涙を見せたことなど、なかったのに。


 しごかれてヘロヘロになっても、現場で窮地に立たされても、黄季は泣き言を呟きながらも歯を食いしばって自力で立ち上がる人間だ。周囲の年次が上の人間が泣きわめいてその場にうずくまるようなことがあっても、黄季だけは顔を上げて自分にできることを必死に探っている。


 そんな黄季の『強さ』を誰よりも知っていたから、涼麗は黄季を己の片翼に指名した。


「事の始末をつけて、刺されたお前を連れて強引に転送陣で医局に飛んで、お前を放り込んで、俺を始めとした上役達に一連の報告を上げて、一応の決着をつけてからの、ここで看病って流れだな。いやはや、すごかったぜ? こいつ。鍛冶場の馬鹿力ってやつなのか、それとも」

「事の始末をつけた、とは」


 声を潜めていながら、慈雲はいつもよりも饒舌だった。


 その声の中にわずかな冷笑の気配を察した涼麗はスルリと静かに言葉を滑り込ませる。


「どこからどこまでだ」


 そんな涼麗の声にフツリと慈雲が押し黙った。


 どうやら涼麗が担ぎ込まれたのは、医局の本局ではなく簡易休憩室の方であったらしい。衝立で隔離されていても、音の響き方で何となく室の広さは分かる。本局よりも手狭で常駐している人間も少ない分人払いも容易な簡易休憩室は、昔から泉仙省絡みの傷病者が担ぎ込まれる部屋だった。


「……妖怪に精神を乗っ取られ、お前を刺したというせい万里ばんりにとどめを刺した。あの土地はいまだに忌地いみちのままで浄化自体はされていないが、陰の気の暴走は斉万里の絶命とともに止まったそうだ」


 その言葉に思わず涼麗は黄季と繋がった左手に力を込めた。


「斉万里とゆう伴遊はんゆ李晋りしんかん壬奠じんでんけい威行いぎょうぎょく文玄ぶんげんの計三対をあの現場に呼び出したのは、浄祐じょうゆうであると三対ともの証言が揃った。魏浄祐自身もそのことは認めている。三対を召喚したのは、地脈の流れの異常を察知したから。三対の選定理由は、その三対が現場に近い場所に派遣されていると知っていたから。……まぁ、一応筋は通るわな」

「魏浄祐?」

「知らねぇか?」


 慈雲の問いに涼麗はわずかに記憶を漁る。


 恐らく、顔は知っているはずだ。だが再出仕を始めてからは長官室に引きこもり、身近に黄季と慈雲だけを置いてきたせいか、名前だけを言われてもとっさに顔を思い出すことができない。


 そんな涼麗の内心を、慈雲は問い返した言葉と雰囲気だけで察したのだろう。深々と溜め息をついた慈雲はガリガリと頭を掻きむしりながら苦味を隠さず言葉を紡ぐ。


「お前のそういう気性はじゅーっぶん知ってっけどよぉ……。相方を守りたかったら、ちったぁ周囲に興味関心を持った方がいいぞ、お前」


 その言葉に涼麗は慈雲を見上げた。真っ直ぐに慈雲を見上げる己の目に険が宿っていることが鏡を見ずとも分かる。


 そんな涼麗の視線を受けた慈雲の顔からスルリと表情が消えた。


「その魏浄祐から、お前の身をかけて黄季に翼位よくい簒奪さんだつを申し入れたいという申し出があった」


 感情が消えた声は、ストンと簡易休憩室の空気の中に落ちた。


「……ほぅ?」


 涼麗の唇から零れた言葉は短かった。だが一見して何の感情も含まれていないように聞こえるその一言には、短かさにそぐわない様々な感情が載せられている。


 その感情の機微が読み取れる数少ない人間である慈雲は、ピクリと片眉をね上げると意外そうな目で涼麗を見遣った。


「案外冷静だな。もっと狼狽ろうばいするかと思ってたわ」

「いずれ来るだろうとは思っていた話だ。怒りこそすれ、狼狽うろたえることなどあるものか」


 泉部せんぶの退魔師は良くも悪くも比翼連理。一度対となった相手は余程のことがない限り相方関係が解消されることはない。互いに命を預けあって捕物現場に立つという性質上、常に行動を共にし、相手の思考や手癖を覚えて阿吽の呼吸を得ていた方が身の安全に繋がるからだ。


 ただ、対が解消されるという例外が、完全にないわけではない。


 それが『比翼宣誓』と『翼位簒奪』による相方の入れ替えだ。


「いずれ私の身を狙う頭が沸いた人間が出てくるだろうということは予想できていた。私の相方が永膳えいぜんであった頃ならばいざ知らず、まだまだ新人の域を出ない黄季では格好の餌食だ」


 比翼宣誓は、相方を得ていない退魔師に己の対になってほしい旨を申し入れること。


 このというのは、、という意味だ。


 翼編よくへん試験を経て八位の位階を得た退魔師達は、ひとまず適正に合わせて前翼ぜんよく後翼こうよくかを振り分けられ、長官の判断によって新人同士、もしくはあぶれている先輩と対を組むことになる。基本的にこの時の組み合わせで固定になるのだが、新人のうちはいくつかの対がまとまってひとつの現場に送り込まれることも多い。そんな中で新人達は実地での周囲の手癖や呼吸を知っていく。


 その過程で長官判断で組まされた相手よりもより呼吸が合う相手や、組みたいという熱を持つ相手が現れた場合、己の意志でその相手に対を申し込むことができる。申し入れた相手がその旨を受け入れた場合、正式に対になることが決まり、比翼宣誓が成立するという流れだ。中には最初の対同士で宣誓が交わされることもあるが、これも同じく『比翼宣誓』と呼び習わされる。


 この『比翼宣誓』で対となった相手は、それこそ相手と死別するか、宮廷から退く時まで対が解消されることはない。色違いの佩玉には対を象徴する意匠が彫られ、いずれ名を馳せるようになればその意匠から取られた呼び名で呼び習わされることになる。


 その絆に水を差すのが『翼位簒奪』……簡単に言ってしまえば、対の強奪だ。


「ただ、思っていたよりも、頭が沸くのが早かったな。もう少し猶予はあると思っていた」

「その辺りは俺の手腕の問題かもな。統率が取り切れてなくて悪いな」

「いや。人数が増えればそれだけ思惑も増える。むしろ大乱から八年、ここまで泉部を存続させてきたお前と老師には頭が下がる」


 比翼宣誓が対を成していない相手に申し入れられるのに対し、翼位簒奪はすでに対を誓った相手がいる退魔師のその相方に向かって叩き付けられる。


 その宣言の意味する所は『お前の対にはお前よりも私の方が相応しい。よってその座を私に受け渡せ。さもなくば容赦なく潰す』といったものか。


 叩き付けられた側が素直に折れて簒奪されるよりも先に対を相手に差し出せば、血を見ることなく新たな対が生まれる。


 だが大概叩き付けられた側が素直に折れることはない。そもそも宣戦布告程度で大人しく退くくらいならば、最初から比翼連理など誓わない。叩き付けられた側と叩き付けた側が対を巡って真っ向勝負をするとなった場合は、泉部全体を巻き込んだ大決闘まで発展することがほとんどだ。


 それくらい、翼位簒奪は大事おおごとだ。下手に口に出せば最後、争いの場に立ったどちらかが倒れるまで終わらない。


 それだけ泉部全体が荒れる大事件であるからこそ、翼位簒奪を成立させるためにはある条件が必要になる。


「その上で問うが、まさかその簒奪、許可していないだろうな?」


 翼位簒奪は、宣戦布告された当人、簒奪にかけられた当人、泉部長官、この三人のうちの誰かの同意がなければ成立しない。


 つまり簒奪を仕掛けた当人だけが騒いでいても決闘の場は設けられないということだ。喧嘩を売られた当人が『その喧嘩を買ってやる』と言うか、狙われた当人が『ぜひお前に争ってほしい』と言うか。あるいは長官が『確かにお前は相応しいからやってみろ』と言わない限り、そもそも翼位簒奪は決行されない。


「当たり前だろ? お前の相方はばん黄季。お前はそれを泉仙省復帰の条件として提示し、俺はその条件を呑んだ。だからお前はここにいる。その前提条件を翼位簒奪の申し入れがあったからって一方的に反故にするなんて、裏切りもいい所だ」


 だからまず魏浄祐も形式にのっとり慈雲に許可を求めたのだろう。それをまず慈雲が棄却したというならば、涼麗か黄季が『受ける』と言わない限り、翼位簒奪はそもそも成立しない。


「それに、最近のお前を見てると、性格的にもお前の隣に並べるのは黄季しかいねぇと思ってるわ。なんつったって食に一切興味がなかったお前が『黄季の手作りの夕飯を一緒に食べたいからたまには揃って早帰りさせろ』なんて言い出す始末だ。聞いた時にゃついに空が落ちるかと思ったぜ。永膳にさえできなかった偉業だわ」

「うるさい」

「ま、それを受けて俺が『現場が片付き次第直帰して良し』って許可を出したらぁ? メッチャウキウキで現場に出たあげくぅ? 刺されて直帰どころか直医局でぇ? 手作りの夕飯にありつくどころか土手っ腹に風穴開けられてるわけだけどぉ?」

「慈雲……!」


 せっかく忘れていた不機嫌の素を引き合いに出されたあげく、アッヒャッヒャッヒャッと奇天烈な声で笑われた涼麗は思わず袂の中を探る。だが治療の時に取り上げられてしまったのか、飛刀も匕首ひしゅも手が届く範囲にはないようだった。おまけに涼麗の殺気にあてられたのか、眠っているはずの黄季がモゾリとわずかに身動ぎする。


「ほーら、寝かせてやれって言っただろぉ? 相方さんよぉ?」

「……っ!!」


 思わずギッと強く慈雲を睨んでから、涼麗はかなり苦労してダダ漏れる殺気を身の奥深くに封印した。それが功を奏したのか、黄季は目を覚ますことなく眠りの淵に戻っていく。


「……魏浄祐は、黒か?」


 すぅ、すぅ、と微かに聞こえる寝息に意識を集中させて何とか気を鎮めた涼麗は、ことさら低く囁くような声で問いを向けた。その声に再度慈雲の顔から表情が消える。


「今の所、断言できるような証拠はない」


 慈雲がそう言うならば、残念ながらそうなのだろう。そもそも、そこまで分かりやすく慈雲に喧嘩を売ってくるような人間であるならば、事件を起こされる前に慈雲が何らかの対策を取っているはずだ。


「ただ、信用ならねぇヤツだとは思ってる。そうでありながら次官補までのし上がってくるのを止められなかったくらいにはやり手だな。俺が先に長官になってなかったら、追い落とされたのは俺の方だろうよ」

「そこまでか」

「あぁ。大乱前からあいつが泉仙省にいたら、ちょっと分からなかっただろうな」


 慈雲の言葉に涼麗は己の思考の淵に沈む。


 慈雲が若くして長官の座に就いたのは、恐らく大乱で中堅から上の退魔師が軒並み狩られたせいだろう。だがそれを差し引いても、慈雲は早くから次期長官候補に名前が上がっていた。同年代に常識人がいなかったからというのもあるが、それだけ慈雲が腹芸や策略、引いては組織を率いる統率力に優れていたというのもある。


 ──そんな慈雲が、阻もうとして阻めなかった相手……


「大乱後に魏浄祐は泉仙省に配属になったということだが、それまではどこで何をしていた?」


 油断ならない相手ということか、と考えながら、涼麗は問いを投げる。


 その問いに慈雲の表情が苦味を帯びた。


「軍部の生き残りだとよ」

「は?」

「お前、大乱の後、退魔師の大規模募集が秘密裏に行われたこと、知ってるか?」


 思わぬ答えにほうけた声が零れていた。そんな涼麗に慈雲は変わらず苦味を隠さない声で答える。


「大乱で綺麗サッパリ焼き払われて、となった陰は祓われた。だが、そのまま放置しても大丈夫かってなったら、そうじゃなかった。焼き払うにしても、犠牲がデカすぎたからな。その『犠牲』から新たな陰を生まないために、退魔師による地脈の調整は必須だったんだ」


 だがあの大乱の後始末に駆り出された泉仙省は深刻な人手不足だった。組織を維持することさえ難しく、新たな戦力を補充しようにも学寮は軒並み機能を停止していた。学寮を出てさえいない、新米以下の退魔師まで動員されたのが、あの大乱だった。


「退魔師確保を急務としたお偉いさんが出した策が、退魔師としての素質を持つ者の泉仙省への引き抜き。……呪術大家の人間や祓師寮ふっしりょう卒の人間じゃなくても、素質さえあれば泉仙省に秘密裏に引き抜く。そういうことをやったんだ」


 退魔師としての素質を持ちながらも退魔師になる道を選ばなかった人間というのは、少なからずいるものだ。武官や文官に比べて特殊職である退魔師は、その分特殊な命の危機にさらされることも多い。幼少期から退魔師としての素質のせいで嫌な目に遭ってきていれば、その才を隠して一般人として生きていこうと考えるのも責められたことではない。


 大乱後の泉仙省は、そういった人間を集めることで何とか人手不足を補ったのだという。


「事が落ち着いても退魔師として残った人間が半分、退魔師からは足を洗った人間が半分ってとこだな。魏浄祐はその残った側の人間だよ」

「お前、内心これは下策だったと思ってるだろう?」


 つぶさに慈雲の表情を観察していた涼麗は低く呟いた。そんな涼麗の声に慈雲は苦味を消さないまま冷笑を浮かべる。


「もっと選別はすべきだったと思ってる」

「あまりにも選別をしなかったせいで、ねずみが潜り込む隙を与えたか」

「だな。証拠はねぇが、魏浄祐は最初からきな臭かったぜ。大乱の引き金を引いたやつらと同じ臭いがしやがる」


 証拠はない、と言いながらも慈雲がそれだけ警戒しているならば、恐らく何かはあるはずだ。同時に慈雲がそれだけ警戒していながら今まで排除ができなかったということは、相当なやり手でもあるということ。


 そんな人間が、今この時に、涼麗の身をかけて黄季に翼位簒奪を叩き付けようとしている。


「軍部の魏家、か」


 世情に疎い涼麗でも知っている家名だった。


「大乱では、皇帝側についた家だな。確か歴代将軍を輩出してきた武勇名高い一族であったはずだ」

せい三華さんかしゅ四鳥しちょう、武の五獣ごじゅう。そう謳われた家の一角だからな」

「魏家そのものは、決着がつくまでに皇帝側を離れたのだったか」

「そうでなけりゃさすがに今の王城にはいられねぇだろうよ」


 大乱以前、この国はまつりごとを『三華』と呼ばれる三大貴族が、呪術を『四鳥』と呼ばれる四大大家が、軍務を『五獣』と呼ばれる五つの部族が取り仕切っていた。その内の何家かは、大乱の折に断絶している。


 三華と呼ばれた家は二家が最後まで皇帝側についたために一家しか残されていないし、四鳥の筆頭であったかく家……永膳が当主を継ぐはずであった涼麗の主家も、全面的に大乱に巻き込まれて断絶している。五獣も今や三家しか残されていないという噂だ。もっとも、五獣の一角を担っていたらん家は、大乱が始まるよりも以前に姿をくらませており、大乱時は実質四家しかなかったという話もあるのだが。


 魏家はその五獣のうち、開戦時には皇帝側につき、戦況が皇帝側に不利に傾いた折に民側に寝返った一族だ。大きく規模と勢力は削がれたが、断絶に追いやられる手前で許された家だと涼麗は記憶している。


 ──きな臭い素養は最初からあった、か……


「……何か見つかれば、簒奪が成立する前に追い落とせるか」


 思わずボソリと言葉が零れていた。我ながら物騒な声が漏れたな、と思ったが、慈雲がギョッと目を剥いたくらいだから、余程今の自分は物騒な空気を纏っているに違いない。


「お前、捏造だけはやめとけよ」

「では暗殺……」

「……お前、外から分かる以上にブチ切れてんのな」

「当たり前だ。私の対が軽んじられたんだぞ。これに怒らずにいられるか。許されるなら今すぐその魏浄祐とかいう輩の首を掻っ切りたい。お前だってこの心境は分かるだろう」

「まぁ、なぁ? 想像することくらいはできなくもないけども?」


 ──そういえばこいつもこいつで、相方貴陽が強烈すぎて簒奪に掛けられたことはなかったんだったな。


 曖昧な返答に一瞬だけ涼麗は過去を振り返る。


 かつての涼麗は入省当初から白衣びゃくえを纏う退魔師で、永膳と比翼宣誓を交わした対だった。


 涼麗は確かにずば抜けた才を持った退魔師で戦果もずば抜けていたが、同時に永膳もそれに引けを取らない退魔師だった。結果、『あの一対に手を出すような命知らずな真似はできない』とある意味倦厭され、今のように簒奪を狙われるようなことはなかった。対の実力が揃って突き抜けてしまうと身を狙われることもないという良い実例である。


 慈雲と貴陽きようの場合はそれに比べればまだ実力的に手が出せる一対ではあったが、貴陽の慈雲に対する執着がそりゃあもうすごかった。


 何せ薬師大家の嫡男で自身もいずれは典薬寮大夫の地位に登ることが確約されていたようなものであったにも関わらず、退魔師として護衛に派遣されてきた慈雲に懐いてしまい、慈雲の相方に収まるためだけに泉仙省に入省してきたような化け物だ。慈雲に出会うまで一切退魔の世界に触れてこなかったにもかかわらず、当時空いていた慈雲の相方の座が埋まる前に泉仙省に入ると決意した貴陽は、たった半年でずば抜けた退魔師に成長してしまい、その優秀さから前代未聞の秋期中途入省で泉仙省にやってきた。さらに翌春に翼編試験を難なく通過し、その勢いのまま慈雲に比翼宣誓を叩き付けたという経緯を持っている。


 入省した当時の貴陽は14歳と半年。翼編試験を通ったのが15歳。


 これより下の年齢で入省した人間は永膳と涼麗しかなく、二人の14歳入省、同時に位階拝受というのが最年少記録であるという。


 ──まともな精神をしていれば、そんなやつらに手を出そうとは考えない、か。


 恐らくそれでも簒奪を目論んだ人間には、さり気なく貴陽の毒茶が振る舞われていたことだろう。涼麗の記憶にある貴陽は、そういう人間である。


「とにかく、『受ける』とさえ言わなければ、簒奪は成立しねぇんだ。軽々しく受けるって言うなよ。お前、外見に似合わず案外喧嘩っ早いからな」

「『外見に似合わず』は余計だ」

「いくらお前が黄季をかってて、実際黄季が成長株だっつっても、相手は次官補で五位の上の実力を持つ退魔師だ。さすがに分が悪すぎる」


 その言葉に涼麗は喉から出かけた言葉をグッと飲み込んだ。反論したい気持ちはまだあったが、自分に欲目があることも、こういう判断にかけては慈雲は公平であることも分かっている。


「……煉帝剣れんていけんに関しては、どうだ」


 だから涼麗は、自分から話題を変えた。


 そんな涼麗の言葉に慈雲がピクリと眉をね上げる。一瞬慈雲の視線が黄季に流れたが、それに気付かない振りをして涼麗は話を続けた。


「現場は私が、中はお前が。そういう分担だっただろう。そっちは何か進捗はあったのか」


 唇を動かしながら、涼麗は黄季と繋がったままになっている指先にキュッと力を込める。その瞬間、繋がっていなければ分からないくらい微かにピクリと黄季の指が跳ねた。


「……こっちは目ぼしい動きはねぇな。色々探っちゃいるが、気配は掴めていない。思惑がうごめいてる気配はあるっちゃあるが……」

「王城においては、それはいつものこと、か」


 涼麗の視線を受けた慈雲は渋々と言った体で口を開く。渋々ではあったが、恐らく告げられた言葉自体は真実だろう。


「そっちはどうだ」

「煉帝剣自体の気配は掴めていない。ただ、気になることはある」


 先の呪具保管庫の暴走事件以来、涼麗は黄季とともに現場に出る機会が増えた。それを周囲は『汀涼麗の気晴らしのため』『あんなことがあったから、長官は汀尊師を外に出すようにしたのだ』と噂しているようだが、実際は違う。


 行方知らずとなった煉帝剣の行方を探るため、目ぼしき現場を涼麗が巡り、王城内には慈雲が目を光らせる。そういう分担があの日に成されたからだ。


 そのせいで黄季には当人が知らない間に重い現場ばかりを連れ回してしまった。本来ならば涼麗の対であったとしても、もっと負担が軽い現場で済んだはずなのに。


 だから今の黄季には、


「今回の現場も、『海』でも、その前に市で突発的に遭遇した時も、だった」


 黄季から今回の現場の報告を受けていると慈雲は言っていた。ならば慈雲とて、涼麗が言いたいことはうっすらと覚っているはずだ。


 案の定、慈雲は難しそうな顔で眉をひそめる。


「虎の妖怪自体が珍しいとは言わん。ただ、陰の気の暴走が続く中、煉帝剣が奪われ、暴走の現場に虎が続くとなると、偶然とは言い難い」

「虎、ねぇ……」


 呟く慈雲の口元に微かに笑みが閃いた。冷笑を含んだ、慈雲がどうにも嫌な事柄に向き合っている時に浮かべる、あの笑みだ。


「確かに、お前が言うなら、そうなのかもな?」


 虎は、涼麗にはある意味、何よりも馴染み深い生き物だ。


 何せ、かつては腰に常にその意匠が揺れていたくらいなのだから。


「『煉虎れんこ』」


 ポツリと、己の喉から言葉が零れ落ちていた。


「虎は、永膳の式だ」


 郭家は炎術を得意とする一族だった。永膳も類に漏れず、類稀なる炎術使いだった。


 その最も象徴的な術が『煉虎』。永膳の異名とまでなったその術は、炎で錬られた虎を使役し、戦場を駆けさせる炎術にして式術だった。


 戦場に立つ永膳の傍らには、常に燃え盛る虎が控えていた。


「まぁ、繫がってはいるだろうよ。そこに永膳そのものの存在が関わってんのか、煉帝剣が関わってんのかは分かんねぇけども」


 一瞬、懐かしい姿が脳裏を過ぎって胸が痛んだ。


 そんな涼麗に気付いているのか否か、慈雲は妙に投げやりな声を上げる。


「ただ、忘れんなよ、涼麗」

「分かっている。永膳は、死んだ」


 その言葉の先を、涼麗は慈雲に言わせなかった。


 己に言い聞かせるように、あるいは己の言葉にすがるように、淡々と言葉を紡ぐ。


「あれが生きていたとしたら、八年も私を放置しておくものか。……あいつは、八年前、あの大火の中で、死んだんだ」


 己に言い聞かせるように呟いた瞬間、キュッと左の指先に力がこもった。


 その力に視線を向けないように気をつけながら、涼麗は伏せてしまっていた視線をもう一度慈雲に向ける。そんな涼麗を見遣った慈雲は小さく肩をすくめると身を翻した。


「分かってんならいい」


 ヒラリと手を翻した慈雲はそのまま衝立の向こうに消えていった。特にこの後の処遇について話はなかったが、こちらは刺された直後の重傷人だ。いくら涼麗が地脈を吸い上げることで常人よりも早く傷を治すことができる特異体質の持ち主であっても、回復次第すぐに仕事をしろとはさすがに言われないだろう。


 涼麗はそのままバスンッと音を立てながら寝台に背中から倒れ込んだ。微かに傷が痛んだが、目覚めた時よりも痛みは格段に軽くなっている。


 そのにチラリと視線を投げ、涼麗は再び唇を開いた。


「で? いつまで狸寝入りをしているつもりだ?」



  ※  ※  ※



 ──え、ここで振る……っ!?


 完全に起き時をいつしていた黄季は突然降ってきた言葉にギクッと体を強張らせた。しばらくそのまま氷柳ひりゅうの反応をうかがうが、視線が注がれるだけで氷柳は言葉を発しようとはしない。


「……あの、えっと……」


 結果、黄季は布団に突っ伏したままおずおずと声を上げた。


「いつから、気付いてました……?」

「少なくとも、翼位簒奪の話が出た時には意識があっただろう」


 ──案外早くから気付かれてた!


 実は本当のことを言うともっと前から……それこそ氷柳が黄季の名を呼びながら跳ね起きた瞬間から起きてはいたのだが、それは黙っておくことにした。何だか、気恥ずかしいので。


「えっと、その……そんな感じ、です」


 もにょっと曖昧に答えた黄季は、意を決して顔を上げた。ソロリと氷柳を見やれば、枕に頭を預けた氷柳は常と変わらない無表情で黄季を眺めている。治療と療養のために髪を解いて衣の襟を緩められた姿は、屋敷でくつろいでいる時の氷柳に雰囲気がよく似ていた。


 ──久々に見たかも。


 最近は何だかんだと忙しくて、氷柳を屋敷に送り届けた後はそのまま帰宅していたから、氷柳と常に行動を共にしていてもくつろいだ姿を見るのは久しぶりだった。


 ──……そう言えば。


「あ、の……氷柳さん?」

「何だ」


 起きたついでに繋がっていた指をソロリと外そうとしたのだが、なぜか引き止めるように指を絡められてしまった。そんな何気ない仕草に黄季の心拍数が容赦なく跳ね上がる。


 ──いやこれは霊力供給のためであってねっ!? 治療してくれたこう先生が氷柳さんの体質を見抜いて『こうしてると黄季君から霊力が供給されるから、地脈から霊気を吸い上げるより傷の治りが早くなると思うよ』って言われたから繋いでいたのであって俺に他意はないんですヨっ!? いや、心配してたってのもありますけど、決して他意は……っ!!


「俺の作る夕飯……そんなに、食べたかったんですか?」


『この仕草に他意はないはず! だっ!!』と己に言い聞かせながら、黄季は気になったことを口に出した。もっと重たい話題を切り出す前の、下準備というか準備運動というか、とにかくそんな感じで。


「……」


 一瞬、黄季の問いを受けた氷柳はキョトンと目をしばたたかせた。その状態でしばらくじっと黄季を眺めた氷柳は、不意にふいっと視線を逸らす。


「あの、もしかしてあの時『市が開いてる時間には帰宅する』って言ったのって、夕飯の材料の買い出しをしたいからって意味だったんですか?」

「……」

「心なしか生き生きしてたのって、久々に現場に出れたのが嬉しかったからじゃなくて、俺が作る夕飯が食べられるかもって思ったから……なんです、か?」

「…………」

「その……直帰が実現していたら、何が食べたかったとかって」

ハマグリと鶏の汁物、肉野菜炒め、焼売、春巻、揚げ豚、水餃子の汁物も捨てがたい。飯は干し海老と山菜を使った炊き込みご飯がいい。シメの甘味に杏仁豆腐があったら嬉しいがそこまでの贅沢は言わん。何か水果でも代用可の」

「いやいやいやいや!? そんなに食べれるんですかっ!?」


 若干食い気味で返ってきた言葉に黄季は思わず全力で突っ込んでいた。そんな黄季にいよいよ不貞腐れたのか、氷柳はプイッと顔をそむけてしまう。


 ──てか蛤はもう季節終わったし……とかじゃなくて!


 黄季は思わずパチパチと目をしばたたかせた。呆気にとられたまま氷柳を見上げるが、氷柳は明後日の方向を見遣ったまま視線を戻してこない。


 ──本当に、楽しみにしてたんだ。俺が夕飯作るの。


「……心配をかけて、悪かった」


 不意に、ポツリと氷柳が言葉を零した。


「あれは、私の判断が悪かった」

「! そんな……っ!!」

「後翼を守るのは、前翼の役目。成したことは正しかったと思っている。だが手段は誤っていた」


 ソロリと氷柳が黄季に視線を戻す。その顔は常の無表情に戻っていた。


「話は、聴いていたな?」


 何を指して『聴いていたな?』と言っているのか、氷柳は仔細を口にしなかった。氷柳の場合のこれは『全て承知だな?』と言っているのと同義だ。


「……はい」


 空気が変わったことを感じ取った黄季は、床に座ったまま背筋を正した。そんな黄季に対して、氷柳も寝台の上に半身を起こして向き直る。


「簒奪は、どんな手段を用いようとも成立させない。私の翼は、お前だけだ」


 その言葉の重みに、黄季はコクリと喉を鳴らした。


 それでも、答える言葉は迷いなくスルリと紡がれる。


「元より、それ以外の言葉は言わせません」


 翼位簒奪。自分にその言葉が向けられる日が来るなんて、正直思っていなかった。


 ──でも、考えてみれば、来るのがある意味当たり前なんだ。


 氷柳は黄季の実力を買ったと言っていた。だが傍から見れば黄季は元落ちこぼれの新人で、どうあっても『救国の比翼』の片翼には相応しくない。実力的に見れば泉部にはもっと相応しい退魔師がいるだろうし、現状氷柳が黄季で満足していられるのは他の人間の実力を知らないせいだと言われてしまったら、黄季に反論できる材料は何もない。


 それでも、氷柳と対を誓ったのは黄季だ。


『戦わない』と一度決めた氷柳を、黄季は戦場に引きずり出した。一度手を取ってしまったら、もうあの寂しい庭に氷柳を独りで置いておきたくはなかった。今一度氷柳が戦場を舞うならば、そんな氷柳は自分が守りたいと、強く思った。


 たとえ、こんな雛鳥には大それた願いであったとしても。


 ──氷柳さんの隣は、誰にも譲りたくない。


「良く言った」


 そんな覚悟とともに氷柳を見つめ返せば、ふわりと柔らかな笑みが返ってきた。本当に嬉しそうな笑みとともに、繋げたままの指先にキュッと力が込められる。


「簒奪を口にした魏浄祐は、どうもきな臭い。恐らく慈雲は呪具保管庫のあの一件への関与も疑っている。あの一件からそう時を置かずに私が刺され、さらには簒奪の申し入れだ。十中八九、無関係ではあるまい」

「そういえば、調査がどうとか、えっと……レンテイケン? がどうとかも言ってましたよね? 刺された時、氷柳さん自身も『これは罠だ』って」


『だからその何気ない仕草が一々心臓に悪いんだってばっ!!』と内心だけで絶叫しながらも、黄季は目の前で明かされる事実に集中することにした。


 そんな黄季の言葉を受けた氷柳がふっと表情を改める。


「ああ。あの現場に関しては、私を物理的にどうこうするのが目的だったように思える」

「えっ!?」

「私を害したいならば、刃物を持ってきてどうこうするのが一番手っ取り早い。だが私も早々簡単にくたばってやるつもりはないし、泉仙省にいる間は身近にお前や慈雲がいる。確実に狙うならば、捕物現場でどさくさに紛れるのが一番だ」


『つまり、あの現場を仕込んだ人間は、私のことが邪魔だったわけだな』と氷柳は言葉を締めくくったが、黄季はうっかりその言葉を聞き逃しかけた。


 ──いやだって、害すってそれ……っ!!


「私を害したかった理由までは分からんが。案外それも、煉帝剣絡みかもしれないな」

「でっ……!? あ、で、煉帝剣ってナンデスカっ!?」


 思わず黄季は次の話題に喰い付いた。『害したかった』について、あまり具体的に深堀りはしたくなかったので。


 ──あれ? でも氷柳さんの身の安全を考えるなら、むしろ深堀りしといた方が良かったのか!?


「煉帝剣は、呪具保管庫に保管されていたはずである呪具だ。保管庫の結界の要を担っていた物だが、あの後私達が保管庫を片付けた時には姿が消えていた」


 一瞬判断を迷ったが、次の話題も中々に聞き捨てならない事柄だった。


 結局黄季は迷った後、大人しく拝聴の姿勢を取る。


「消えていたって……それ、大問題ですよね?」

「大問題どころじゃない話だな」

「でも、なんでその煉帝剣が紛失すると、氷柳さんが……その、命を狙われるんですか?」

「現在存命な人間の中で、煉帝剣の気配を一番よく知っているのが私だ。だから私がきな臭い現場を回って気配を探っていた」


 そこまで語った氷柳は、ふいっと視線を伏せた。感情が見えない表情の中、伏せられた瞳だけがさざ波のように揺れている。


「煉帝剣は、……私のかつての相方であった、永膳の形見だ」


 その言葉に、我知らず繋がった指先に力がこもった。


 永膳、という名前。その名前が語られる時、氷柳の瞳は必ず黄季では形容できない感情で揺れている。


 黄季が知らない時代の氷柳。『氷柳』という呼び名を与えて、他に呼ばせなかったという、かつての相方。彼は氷柳の隣にあっても、誰にも文句をつけられなかった優れた退魔師であったという。


 ──俺となんか、比べ物にならないくらい、すごい人。


 国を救った伝説の退魔師だ。比べることさえ烏滸おこがましいと分かっている。


 でも。


 ──どうしてなんだろう。何か、胸がモヤモヤする。


「煉帝剣を奪った人間は、余程行方を追われたくないんだろう。だから私を害するために罠を張った」


 その靄は、あの呪具暴走事件があった日、まさにこの場所で煌医官に胸の内を吐露した時にも感じた靄と似ていた。


 だが今はその靄に囚われている場合ではない。そう割り切った黄季は氷柳の言葉に口を開く。


「その現場に先輩達三対を呼び出したのが、魏上官」

「さらには翼位簒奪だ」

「いっそこれで黒じゃなかったら、逆に不自然ですよね」

「決めつけは良くないがな」


 氷柳から語るべきことは、ひとまずそれで一区切りなのだろう。ほぅ、と疲れが見える溜め息をついた氷柳はポスリと上半身を寝台に戻す。


「つまり俺達が直近でやらなきゃならないことは、『魏上官からの翼位簒奪を成立させないこと』と『呪具保管庫から持ち出された煉帝剣の行方を追うこと』の二点でいいってことですか?」


 聞かされた話を自分なりに咀嚼した黄季は脱力して寝台に沈む氷柳に確認の問いを向ける。そんな黄季にチラリと視線を走らせた氷柳は、一度視線を宙に逸してから、もう一度黄季を見遣った。


「もうひとつ、そこに成すべきことを追加してもいいか?」

「え、何でしょう?」


 何か聞き逃したことはあったかと、黄季は思わず姿勢を正す。


 そんな黄季を真っ直ぐに見つめ、氷柳はいつになく強い口調で『成すべきこと』を口にした。


「何でもいいから、何か食べたい」

「……はい?」

「いや、何でも良くはない。お前が作った料理が、何か食べたい」


 一瞬聞き間違いかと思ったが、そうではなかったらしい。


 普段黄季に何かを頼む時に付き物の躊躇いやら遠慮やらを全て蹴散らして、氷柳はいっそ恐ろしいほど真っ直ぐに黄季に要求を突きつけていた。表情らしい表情はなく一見普段通りにも見えるが、注がれている視線にはいつになく期待のような感情が宿っている。


 瞬き数回分の間にそのことを確かめた黄季は、思わずフハッと気が抜けた笑い声を上げてしまった。


 ──そんなに食べたかったんだ、俺の手作りご飯。


 氷柳が食べなくても生きていける人間であることは、すでにもう知っている。


 そんな氷柳がここまで強く食事を要求してくれるのが、黄季にはこの上なく嬉しかった。


 ──俺、別にそこまで料理上手ってわけでもないのに。ほんっと、どこをそんなに気に入ってくれたんだろう? 


「鍋と火元は医局で借りれると思うんですけど、多分碌な材料ないですよ?」

「それでも」

「帰宅できるくらい回復してからにしません?」

「今すぐ」


 駄々をこねながら氷柳はキュッと掴んだままの黄季の指に力を込める。まるでそうすれば黄季が折れると分かっているかのように。


「仕方がないですねぇ、多分粥しかできませんよ?」

「それでもいい」

「卵があったら卵粥がいいですよね。あ、薬箪笥開けてもらえばナツメくらいはあるかも?」

「お前に任せる」


 そんな黄季の言葉に満足したのか、氷柳はまたフワリと笑みを浮かべる。


 ──まったく。ほんっと、こういうの、他の人にやるのやめてくださいよね。


 そんなことを心の内で呟きながらも、黄季の口元はきっと笑みに緩んでいたことだろう。


 長くは続かないと分かっている束の間の優しい時間に、黄季は思わず瞳を細めた。


 ──どうかまた、この時間に戻って来れますように。


 無意識のうちにそう祈っていたのは、本能的にこれから巻き起こる嵐の気配を察していたからなのかもしれない。

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