※※

「あんたからの翼位よくい簒奪さんだつ、受けてやるっ!!」


 あんな声が自分の喉から出るなんて、知らなかった。


 あんな衝動が自分の中にあるだなんて、知らなかった。




  ※  ※  ※




「『焼き払え 薙ぎ払え 灰にせ』」


 小さな中庭の内に、朗々と呪歌を詠唱する黄季おうきの声だけが響いていた。


「『炎砕えんさい』っ!!」


 黄季の霊力と呪歌詠唱を受け宙に生じた炎弾は、黄季の腕が指し示す先に向かって飛んでいく。


 だがそのどれもが的に当たる前にシュボッという情けない音を立てながら消えてしまった。かろうじて的まで届いた炎弾も微かに的を焦がしただけで、的を焼き払うどころか後ろへ押し倒すことさえできていない。外に害が及ばないように展開した結界はきちんと作用しているというのに、肝心の攻撃呪の出来が情けないにも程があった。


「っ……」


 ジリッと焦げ付くような焦燥が、またチリチリと黄季の心を焼く。


『あんたからの翼位簒奪、受けてやるっ!!』


 黄季がそう叫んだのは昨日のことだ。黄季の言葉を以って浄祐じょうゆうばん黄季によるてい涼麗りょうれいの身代をかけた翼位簒奪は成立してしまった。


 今更それを撤回することなどできはしない。黄季からの撤回はすなわち不戦敗を受け入れるということに他ならないのだから。


 ──氷柳ひりゅうさんを死なせないためには、俺が簒奪を受けて立つのが、一番早かった。


 昨日の現場で魏浄祐が簒奪を迫った時、すでに氷柳ひりゅうの身は内側に根を張った呪詛に侵されていた。魏浄祐は氷柳が首を縦に振るまで痛めつけるつもりだったのだろうが、恐らく氷柳は死んでも首を縦に振ることはなかっただろう。黄季があの場で受けると言っていなければ、最悪の場合、氷柳はあの場で舌を噛んでいた。


 ──でも。


 黄季は情けないくらい震えている自分の両手に視線を落とした。


 ──それだって、ただ、結論を先延ばしにできただけで……


 落ちこぼれと呼ばれた自分と、やり手の泉部せんぶ次官補。おまけに今の黄季は翼位簒奪の規定にのっとり親しい人間ほぼ全員との接触を禁止されてしまっている。頼れる人間はなく、今の自分と魏浄祐の実力差は絶望的だ。


 勝てる見込みがない。


 接触禁止が有効になる直前ギリギリまで、関係者はみんな黄季の心配をしてくれていた。きっと今だって直接関わることはできなくても、皆それぞれ黄季のために力を尽くしてくれているのだろう。それが分かっていたから、黄季は皆に『自分が勝って氷柳の元に戻ってくる』と虚勢を張ってみせた。


 ──もしも、俺が負けたら……


 その先を胸の内であっても言葉にしたくなくて、黄季はギュッと両手を握りしめた。そのまま黄季は顔を上げ、反対側の端に並べた板の的を見やる。


 結界術は何とか実用に耐えうるくらいに使えるようになった黄季だが、攻撃呪は相変わらずてんで駄目だった。その事実は人目を忍んでこの中庭で練習に励んでみた所で何も変わらない。


 氷柳曰く、黄季が攻撃呪を苦手としているのは心持ちの問題であるらしく、呪力の巡らせ方には特に問題はないらしい。むしろ結界術を安定して持続させる方が攻撃呪よりも難しいそうで、なぜここまで黄季が攻撃呪のみを苦手としているのか逆に氷柳には疑問であったらしい。


 裏を返せば、その心持ちさえ何とかなれば、黄季でもそこそこに攻撃呪を扱うことはできる、ということだ。技を求めるよりもその原因を考えてみた方が黄季にとっては根本的な解決になるのかもしれない。


 そして黄季には、そのにすでに心当たりがある。


「……」


 黄季はチラリと己の傍らに視線を落とした。そこにはこんもりと呪具の山ができている。接触禁止が発動される直前に慈雲じうん壬奠じんでんが呪具保管庫から出してきてくれた物で、どれでも自由に使えと言われていた。あまりに量が多かったから、黄季は別途に結界を張ってここに一時的に置かせてもらっている。


 その山の中から黄季は弓と矢筒を引き出した。ついでに小刀も五本ほど拾い上げ、帯の隙間に差し入れる。


 特に気負うこともなかった。


 矢が入った矢筒を地面に突き立てて固定した黄季は、特に構えることもなく無造作に弦を引き、的に向かって矢を放つ。一番左端に向かって放ったら、矢が当たるよりも前に次の矢を。その動作を繰り返し、連続で五本の矢を放つ。


 さらにその後に右手を翻し、帯に差し入れていた小刀を五本纏めて引き抜くと下から上に振り上げるようにして小刀を打った。それぞれ違う軌道を描いた五刀は、矢によって割られて宙に打ち上げられていた的の破片を過たず貫き、背後の壁に打ち付ける。


「……」


 黄季が息をついた時には、攻撃呪で傷ひとつつけられていなかった的が全て木っ端微塵に粉砕されていた。その破壊の名残を示すかのように、背後の壁には横一直線に並んだ矢と、バラバラに壁に縫い付けられた木片と、それを貫いた小刀が残されている。


 ──俺が、攻撃に対して、積極的になれないのは……


「いやぁ、見事だねぇ」


 心の中を独白が落ちていく。


 だが黄季はその言葉を最後まで紡ぐことができなかった。


「一瞬、汀尊師がいるのかと思っちゃったよ、黄季君」

「っ!」


 人払いの結界が張ってあるこの中庭で、第三者の声が聞こえた。


 ありえないことに黄季は思わず弓を剣のように構えて振り返る。そしてその先にいた人物を目で見て確かめて、思わず目をみはった。


こう先生……」

「や、何だか大変なことになっちゃったみたいだね」


 緩く左の耳下で束ねられて胸元に垂らされた紫の艶を帯びた髪。瞳は瞼の下に隠されているのに、実は見えているのではないかと疑いたくなるほど顔は真っ直ぐに黄季へ向けられている。


 医官装束の上に萌黄のうちぎを羽織り、己の目の代わりを果たす長い杖をついた盲目の青年医官は、散歩のついでに立ち寄ったかのような気軽な雰囲気で、いつの間にか黄季が展開している結界の内に立っていた。煌医官が軽く首を傾げた拍子に杖の先につけられた小鈴の束がシャラリと微かに音を鳴らす。


「ど、どうして、ここに……」


 ──今の、見られた……? いや、でも煌先生は俺の動きを見ることはできないはず……!


 サクサクと下草を踏んで近付いてくる煌医官に向かって、黄季は上ずった声を上げていた。突然のことにバクバクと心臓が脈拍を上げている。


 だがそれは、突然煌医官がこの場に現れたことに対する驚きのせいではない。


 万が一、今の動きを見られて、を知られてしまったら。


 ──その時、俺は……


「ね。今の動きって、汀尊師の投擲術、そのものだったよね? 見えてなくても、音で分かるよ」


 ギリッと、黄季の手に握りしめられた弓が嫌な音を立てる。


 その音が聞こえたわけではないだろうが、煌医官は黄季の間合いの外で足を止めた。


「ねぇ、黄季君。君が攻撃呪を行使する時に怯みが出るのは、君がかつて武芸の世界で『その攻撃が通らぬことはない』って言われた存在だったからなんじゃない?」


 だが煌医官が黄季に向ける言葉は止まらない。


「君が攻撃の意志を示し、行使すれば、相手は地に伏せるしかない。場合によっては命さえ無事ではない。……武芸から退魔術に鞍替えしてもその恐怖が君には残っている。だから君は、守ることに本気にはなれても、攻撃することに本気にはなれない」

「……何の話ですか?」

「一撃必中『鷭の麒麟児』」


 黄季がひた隠してきたは、実にあっさりと暴かれた。


「見稽古の天才。教えられなくてもただ一度、己の目でその技を見さえすれば己のものにできたという、史上類を見ない武芸の申し子」


 ……そう。黄季にとってあらゆる武芸は、『見た』瞬間から己のものだった。それが剣であれ、弓であれ、投擲術であれ、武芸であれば関係ない。


 氷柳が柳葉りゅうよう飛刀ひとうを扱う所を、何度も見てきた。今の黄季ならばきっと、氷柳と同等に飛刀を扱うことができるだろう。先程小刀を打ち出した動きは、その応用だ。だから動きは……そこから発生する音は、氷柳が立てる音とほぼ一緒になる。


「大乱末期、『鷭の麒麟児』はよわい幼くして戦場に駆り出されて戦死したって噂を聞いていたけれど。……生きていたんだね」


 今知った、という口調で煌医官は語ったが、恐らく煌医官は黄季の事情を随分前から把握していたのだろう。そうでなければこんな風には語れない。


 黄季は一度、瞳を閉じた。


 煌医官は、黄季の事情をすでに粗方知っている。誤魔化すことはできない。


 そして煌医官は、泉仙省せんせんしょうにとってなくてはならない存在だ。


「……おん長官から、聞いたんですか?」


 逃げることも、誤魔化すことも、……煌医官を殺して口を封じることも諦めた黄季は、腹を括ると瞼を上げた。


『お前、入省先は本当に泉仙省ここで良かったのか?』


 天涯孤独で関係者もほとんどが大乱で散った今、黄季の事情を知っている人間はほとんどいない。いないからこそ黄季は今まで、不器用ながらも事情を隠し通せてきた。


 そんな中、黄季は慈雲にだけ、己の事情を触りだけ説明している。


『お前が本来あるべき場所は、泉仙省じゃなくて、軍部なんじゃないのか?』


 泉仙省入省をかけた最終試験の場で、黄季は慈雲に個別に呼び出され、その質問を受けた。


『お前の祓師寮ふっしりょうでの成績を見させてもらったが……お前、武術鍛錬、本気になればもっとやれただろ? 祓師寮の講師からも、そのように伝達されている』


 講師があえてそんなことを特記したのは、黄季が在学中に一度、うっかり本気を出してしまった現場を目撃していたからだろう。夜間に実地で行う訓練に出向いた時、野盗に襲われかけた同期達を守るために黄季は剣を抜いたのだが、その現場を駆けつけた講師に見られてしまっていたから。


『なぜ適性がある軍部への仕官を拒み、泉仙省に固執する? 事情があるなら、その辺りを聞いておきたい』


「聞いた、というよりは、無理やり聞き出した感じだね。黄季君、入省したての頃、一度派手に倒れて僕の治療を受けたでしょう?」


 煌医官の言葉に記憶を漁った黄季はあぁ、と納得の声を上げた。


 入省してから初めて出た現場で、黄季は土地に霊力を吸われすぎて倒れてしまったことがある。簡易医局室に担ぎ込まれた黄季を治療してくれたのは煌医官だったという話だ。


「あの時、黄季君の体に触れてみて、やけに鍛えられてるなって感じたんだ。何か事情があるなら、いざという時のために耳に入れていた方がいいと思って恩長官に問い合わせたんだけど、珍しく恩長官の口が重くてね。これは何かあると思って、ちょっと無茶を言って聞き出したんだ」


『あとはちょっと自分でも調べたけれど、医療目的のためだから、もちろん誰にも口外なんてしないよ』と煌医官は穏やかに続けた。


 その言葉に思わず黄季の肩からホッと力が抜ける。口外しないと言った煌医官の言葉は、何だか信じられるような気がしたから。


「……俺のすぐ上の双子の兄貴達が、俺の代わりに出兵する時に、周囲に嘘を言いふらしたんです。『『鷭の麒麟児』とは、自分達のことだ』『末の弟はまだ幼くてろくに武器も握れない、鷭を名乗るに値しない人間だ』『だから鷭家から兵を出すのは、自分達で最後にしてくれ』って」


 安心したら、勝手に言葉はこぼれ落ちていた。


 今まで誰にも言えなかったが。


「全部、全部、嘘でした。麒麟児は俺のことで、俺はもう十歳で弓でも剣でも扱えました。……大乱前から、他の兄弟を軍部に関わらせないっていう条件を叶えるために、俺の軍部への仕官が例外的に決まっていたくらいなんです。……それくらい俺は、戦うことを、周囲に切望されてたのに」


『武を以て国に関わるべからず』


 都の外れに『武芸百般指南道場』の看板を掲げていた鷭家は、自分達がどれだけ優れた武芸を備えていようとも、一族の人間に軍部仕官を決して許さなかった。門弟から名のある将が何人も生まれ、軍の上層部に上がったかつての門弟達にどれだけ頭を下げられても、自分達が国に関わることを良しとはしなかった。祖父の代までは軍部の重鎮であったが、思うところがあって一族郎党揃って職を辞したのだという話を、黄季は幼い頃に祖父から聞いている。


 そんな鷭一族の在り方を、多分周囲は大乱前から許さなかったのだろう。力があるならば戦え、国にその武を捧げろという圧を、父と祖父は跳ね除け続けることができなかった。


 それはきっと、鷭黄季というずば抜けた天才が生まれてしまったからだ。その噂が巡り巡って皇帝の耳にまで届いてしまったせいだ。


『『鷭の麒麟児』が十になったら軍部へ仕官させよ。それを以て当代の鷭一族は放免となす』


 黄季が八歳の歳の夏、皇帝からの勅書が鷭家に届けられた。


 だが結局黄季が戦場で剣を握ることはなかった。


天業てんごうの乱』


 あの大乱が、全てを焼き払ってしまったから。


「結局俺は戦わないまま庇われて、みんなみんな、俺の代わりに、死にました」


 鷭家は最初から民の側にあった。かつての門弟達から要請を受けても、鷭の人間は軍部に手を貸すことはなく、無辜むこの民を戦火から守るために刃を振るった。


 だがやがて鷭家は、その民達から、守るだけではなく攻めるために刃を取れと迫られるようになる。


 民のための刃として、自分達に仇なす皇帝の軍をほふれと。力があるならば、自分達のために戦えと。


 その圧から家族を守るために、まず父が兵に取られた。次は祖父。それから七人いた兄達が上から順番に。四番目の兄の戦死を受けて、次は母と祖母が。それでも戦は終わらなくて、五番目の兄も。


 そしてついに六番目と七番目の双子の兄が黄季一人を残して戦場に出なければならなくなった時。


 双子の兄は、黄季を抱きしめて、言ったのだ。


『黄季』

『黄季、兄ちゃん達との約束だぞ?』

『絶対破っちゃダメだかんな』

『お前は……』

『お前だけは』

『お前だけは金輪際、人前で武器を握っちゃダメだかんな』


 自分達が、きっとこの戦を終わらせてくるから。『鷭の麒麟児』の名前は、自分達が負って出るから。


 だから黄季だけはもう、武芸の世界に関わらないでいてほしい。都合よく詳細を知っている関係者は全員死んだ。


 だから、誰にも事の真相を覚らせず、お前はただの『鷭黄季』として生きていけ。


「……本当に、兄が戦死したくらいで、ちょうど大乱は終わりました。ただの、鷭の出来損ないになった俺は、家族の最期を訪ね歩いて……みんな、『戦いたくなかった』って、泣きながら死んでいったって、知りました」

「……そう」


 煌医官の相槌は短い。だがそれは無関心であるから短いのではなく、胸の内にある感情をあえて押し殺したからこその短さだった。


「だから、俺は。……家族の遺志を守りながらも、……戦うことは、やめたくなくて」


 ひたすら亡き家族の菩提を弔って、世間から隠れて生きていく道を選べていたら良かったのかもしれない。亡き家族はむしろ、黄季にその道を望んでいたのかもしれない。


 だけど黄季は、その道を選べなかった。


 もう誰にも、自分のような思いをさせたくなかった。そんな世界を誰も作ってくれないなら、自分が作ってやると誓った。


 幸か不幸か、黄季は剣を捨てても霊力があった。研げば使えると判断されたその力を生かし、黄季は新たな場所で戦う道を選んだ。


 それが黄季の、理不尽に家族を奪った世界に対する、仇討あだうちだったのだ。


「でも、結局……俺のそんな行動が、氷柳さんを巻き込んで……」


 黄季もある意味、『戦う』という道を選ばなかった人間だ。大乱後、世間を捨てて屋敷に引き籠もった氷柳のその選択が分からないわけではない。


 黄季は結局、氷柳に戦う道を強いた。引き返せない場所に引きずり出した。


 その上でさらに、こんな貧弱な存在に未来を託させる事態に陥っている。


「俺は……」

「思うにさ」


 自己嫌悪なんて言葉では収まらない感情の波の中に、スルリと声が挟まれた。


 どんな雑踏の中でも呪歌を貫き通せそうなその声は、黄季の感情のうねりさえ貫いて黄季の意識に言葉を運ぶ。


「黄季君のお兄さん達は、どうして黄季君に人前で武具を握ることを禁止したんだろうか?」

「え……」


 その言葉に黄季は思わず顔を上げた。


 そんな黄季に煌医官は穏やかに言葉を続ける。


「そもそもどうして、黄季君を庇ってみんな戦場に出たんだろう? それだけ黄季君の才が求められていたって知ってたならば、まず黄季君を差し出すという選択肢だってあったはずなんだ。『鷭の麒麟児』が差し出されたら、周囲だってひとまず溜飲を下げたわけだろうし」


 煌医官の言葉に、黄季は息を詰めたまま固まった。


 問われた所で、そんなことは黄季には分からない。だってもう、みんな死んでしまっているのだから。


「それに、戦火が収まった後、たった十歳の少年が一人で生きていくってなった時、ずば抜けた才を封じられて生きていくのって、すごく難しいと思うんだよね。黄季君の場合、武才を活かして仕官するなり、どこかのお屋敷の用心棒やら何かをするっていうのが、職を手に入れる一番の近道だったはずなんだ。それをわざわざ遺志という一番厄介な形で禁止したのは、一体なぜだったんだろう?」

「え……」

「僕が思うにそれは、ひとえに黄季君の幸せを願ったから、だと思うんだよね」


 煌医官の言葉に、黄季は言葉もなく目を見開いた。


 ──俺の、幸せ……?


 そんなこと、考えたこともなかった。


 生きることに必死で、目の前のことに必死で。周りから強いられた道から逃げることができずに死んでいった家族の姿や、最後に泣きながら笑っていた兄達の姿が脳裏に焼き付いて消えてくれなくて。


 ただ残された言葉を守ることに必死で、そこに込められた想いを考えることなんて、できていなかった。


「実は僕ね、結構いい家の出なんだけども」


 不意に、煌医官が話を変えた。


「家の生き方に殉じることが僕の幸せにならなかったから、家を飛び出して自分の幸せを追ってた時期があるんだよね」

「え?」


 煌家と言えば、三華さんか四鳥しちょう五獣ごじゅうに並ぶ医術大家・二極にきょくの片割れであったはずだ。確かにその煌家に連なる家の出であれば『結構いい家の出』であると言えなくはない。


「人生のドン底にいた時、『人生、一度きりしかねぇっつーのに、何かに囚われて己を枠にはめて、その中で腐っていこうとするなんて、クソつまんねぇヤツ』って言われちゃってさ。プッツン来ちゃったから、家業を放り出して、やりたいことをやってやったんだ。まぁ、結果的にそんなことを言いやがった人間を追っかけてギャフンと言わせてやったんだけども」

「へ?」

「僕、何においても天才だから。やる気になったら、何でもやれちゃった」


 とんでもない過去を語りながら、ニコリと煌医官は綺麗に笑った。いつになく楽しそうなその笑顔は、煌医官が心の底からその選択に満足していることが分かる。


 そんな煌医官が、スイッと片手を己の目元に添える。


「その代償というか、その選択の末に、僕は視力を失うことになったけれど」


 それでも煌医官の口元から、穏やかな笑みは消えなかった。


「それでも僕は、この選択を後悔できない。僕は確かに、幸せだった」


 そっと己の目元に触れた煌医官の手は、次いで黄季へ向けられた。


「ねぇ、黄季君。君の家族が残した『武具を取るな』という言葉が、君の幸せを願ったものだったとして」


 白くて優雅な指先は、日々医局で薬の原料を扱っているせいか、所々荒れている。


『幸せだった』と語った日々の中で、この指はどんな風に、何を握っていたのだろう。


 ふと、黄季はそんなことを思った。


「君のこれから先の幸せは、その言葉を守った先にあるのかい?」


 黄季は呆然と、その指先から煌医官の顔へ視線を上げた。


 いつの間にか笑みを消していた煌医官の顔に表情らしき表情はない。真剣になった時ほど表情が消える様は、なぜか慈雲とよく似ていた。


「君の幸せを願う言葉に殉じるせいで、君がこれから先、一生消えない後悔を背負うことが、果たして君のご家族の望みだろうか?」


 ……詭弁だと、言い返すこともできた。


 だって煌医官は、黄季の家族を知らない。ここまで黄季が生きてきた道を知らない。知らなければ、何だって自由な物語に仕立てることはできる。


 それでも黄季の心に響くものがあったのは、黄季自身がそうであったらいいと願ったからなのか。あるいは煌医官の言葉が、真実を言い当てていたからなのか。


「ここで武具を取って、一撃必中の剣を、人の命を奪うものから、譲れない『大切』を守るための刃に転化すること。……黄季君の亡きご家族の遺志を守ることと、黄季君の幸せを追うこと。それを両立させることは決して不可能なんかじゃないと、僕は思うよ」


 柔らかくて、それでいて力強い声は、確かに黄季の心に届いた。暗雲立ち込める空を割って、一条の光が差し込むかのように。


「君の武芸の腕を世間にさらすことなく、君の武芸の腕を攻撃呪として転化する方法を知っていそうな人間に心当たりがあるんだ。その人物は、君との接触を禁止されてはいない。その人物に師事すれば、あるいは短期間の間に魏次官補に対抗できる技量が身に付くかもしれない」


 黄季に差し出していた手を降ろし、再び両手で杖を握った煌医官はクルリと優雅に身を翻した。杖の先に付けられた小鈴の束が、またシャラリと微かに揺れる。


「黄季君。君が望むならば明日の朝、君の手に一番馴染む武具を持って、またここへおいで。君の新たな師匠と引き合わせてあげる」


 顔だけを振り返らせてそう言い置いた煌医官は、鈴の音とともに中庭から姿を消した。


 その背中を、黄季はずっと無言のまま見つめていた。




  ※  ※  ※




 黄季の朝は、早い。


 家族が残してくれた都外れの家に今でも独りで住んでいるから、王宮まで出向くのに時間がかかるというのももちろんあるのだが、言ってしまえばただの習慣だ。


 日が昇るよりも前に起きて、家中の扉を開けて空気を入れ替える。さらに母屋の隣に残された道場の扉も開けて、空気の入れ替えついでに、多少の運動も。


「……」


 だが今日の黄季は、道場で体を動かすことはなく、道場主が座るために置かれた高座を見つめていた。


 あの大乱が始まってから座る主をなくした高座には今、肘掛けの間を渡すように一振りの剣が置かれている。まるで亡き主の代わりに、その椅子を守るかのように。


「…………」


 鞘には、青を基調に極彩色が散りばめられた美しい鳥が彫り込まれている。柄の先を彩る房飾りは紫藍色。房飾りとともに通された水晶飾りは、戦の穢れを知らないかのように涼やかだった。


 黄季が名を連ねる一族が『鷭』を名乗る前から伝えられてきた、一族の由来を正しく語る先祖伝来の品。


 この一振りはあの大乱がなければ、齢十歳の黄季の手に継承されるはずの物だった。それが決まっていたから、父も、祖父も、兄達も、この剣をここに置いていった。


 黄季ももう、この剣を手に戦場を舞うことはないと、思っていた。


 けれど、今は。


「……みんな」


 そっと手を伸ばし、両手で剣を持ち上げる。ずっしりと重たい剣は、黄季の手にスッと馴染んだ。この重さが逆に腕に心地良いのだということを、黄季はすでに知っている。


「ご……」


 ごめん、という言葉が今日も口から出かけて、すんでのところで黄季は口を閉じた。


 代わりに、不器用に微笑んで、いつもとは違う言葉を口にする。


「我が儘に生きる俺を、どうか許してほしい」


 呟いて、唇を引き結ぶ。


 そして黄季は初めて、愛剣『紫鸞しらん』を引き連れて道場を後にした。




  ※  ※  ※




 多分、この人がいるんだろうなという予感は、すでにあった。


「やぁ、黄季君、おはよう」


 昨日と同じ中庭は、三方を建物の背面で囲まれているせいで薄暗かった。


 そんな中、常と変わらない穏やかな笑みを浮かべた煌医官は、すでに中庭の真ん中で黄季のことを待ち構えている。


「見えなくても分かるよ。いい顔をしてるって」


 黄季はそんな煌医官に答えないまま、紫鸞の布包を剥ぐ。それだけで周囲の気配が変わったことに気付いたのか、煌医官が浮かべる笑みが深くなった。


「腹は据わったみたいだね」


 言葉にまで深く笑みを含めた煌医官は、長い杖の先でカンッと地面を叩いた。


 たったそれだけで、黄季が展開していた結界を上書きし、より強力な防護の結界が展開される。自分が構築した展開式を瞬時に問答無用で乗っ取られた黄季は、その手際に思わず目を見開いた。


 ──防護を強化されただけじゃない。界断絶と反転が付与されてる……!?


「僕ね、今でこそ医局で呪術医官なんてしてるけど、大乱の頃まで泉仙省泉部所属の退魔師だったんだよね。これでもそこそこ強かったんだ」


 言葉を紡いでいる間にも、結界内には煌医官の呪力が巡らされていた。菫の花を思わせる淡紫色の燐光は、凶暴な風を生み出しながら結界内を吹き荒れる。それが周囲に巡らされた反転陣に弾かれてさらに凶悪さを増していた。


「今の僕は、泉仙省の人間じゃない。だから黄季君と親しくても、接触禁止の範囲には入らない」


 コテリ、と煌医官は首を傾げた。その動きはどこかあどけないのに、顔に浮いた笑みにはなぜか嗜虐の色が見える。


「僕ってさぁ、何につけても天才だったから、指導とかよく分からないんだよねぇ。何せできない人間の気持ちって分かんないから。汀尊師ほど優しくもないから、根気強くて分かりやすい解説とかも無理だし」


 コンコンッと煌医官の杖先が地面を叩く。


 たったそれだけで黄季の体は横合いから吹き荒れた風に殴られた。結界面に叩き付けられた体をさらに吹き荒れる風が嬲る。


「だから、体で覚えてね? 黄季君」


 そんな黄季に向かって、煌医官は綺麗に笑ってみせた。明らかに今まで黄季に向けてきた笑みとは違う種類の笑みを載せて。


「その剣に呪力を通して、僕の攻撃を全部断ち切ってみせて? 僕に一太刀入れられたら及第にしようか。心配しなくても大丈夫。僕は黄季君ごときに殺せる人間じゃないから。でも」


 杖を腕に抱き込むようにして口元に手を運んだ煌医官は、クスクスと上品に笑い声を上げたようだった。


「それくらいできるようになれば、魏浄祐ごときは敵じゃないだろうね?」

「……っ!」


 追い打ちをかけるように片膝をついた黄季を暴風が襲う。それを横に飛び退いてかわした黄季は、鞘から抜き払った紫鸞に呪力を通しながら襲いくる暴風を一閃した。


 その瞬間、一瞬だけ風が凪ぎ、暴風の向こうに立つ煌医官の姿が映る。


 口元を袖先で隠し、嗜虐的に笑った煌医官は、普段は瞼に隠されている瞳を黄季に向けていた。視力を失っているはずである紫水晶のような瞳は、こんな時でも本当は見えているのではないかと思うくらい真っ直ぐに黄季のことを見据えている。


「煌先生……いえ、煌師父」


 その瞳を真っ直ぐに見つめ返し、黄季はグッと足に力を込めた。


「お願いしますっ!!」

「受けて立つよ、。でも」


 フワリ、と、萌黄の袖が舞う。その瞬間、黄季の体は再び地面に叩き付けられた。


「こんな指導をしたことも、師父って呼ばせたことも、黄季に僕の手癖をつけちゃったことも、全部まとめてにバレちゃったら、僕、きっと殺されちゃうなぁ」


 物騒なことを呟きながらも、その声は端々まで笑っていた。


「っ、ラァァアアアアアッ!!」


 黄季は全身に力を込めると、呪力を通わせた紫鸞を手に低い姿勢のまま前へ飛び出す。


 自ら死地へ飛び込むような日々は、こうして幕を開けた。


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