『あんたからの翼位よくい簒奪さんだつ、受けてやるっ!!』


 そう叫んだ声に息を呑んだのはきっと、知らなかったせいだ。


 あの雛鳥があんな苛烈な声を出せるのだと、己が知らなかったせいだ。




  ※  ※  ※




「おい、起きろクソ尊師」


 不機嫌な声が頭上から聞こえてきて、初めて自分が寝落ちてしまっていたのだと気付いた。


「お前なぁ、黄季おうきが起こしにこなくなった瞬間から遅刻常習犯になるなんてあからさますぎるぞ」


 聞き慣れてはいるが聞いてもあまり嬉しくない声に嫌々瞼を上げれば、すでに日は中天にかかろうとしている所だった。身を投げ出した寝椅子から体を起こさないまま伸びをすれば、伸ばした手の先がポスンッと声の主に突き刺さる。


「……こういう時は、お前の方が遠慮して私の手をけるべきなんじゃないのか?」

「第一声がそれかよ?」

「お前が避けないなら、本気の掌底を繰り出しておけば良かった」

「おーおー、無断欠勤かました上に喧嘩まで売る気か?」


『俺は仮にもお前の上司に当たるんだが?』という声にようやく声の主の方を見やれば、頭の上から涼麗りょうれいを覗き込んでいるせいで上下が反転している慈雲じうんの顔が見えた。


 仮にも泉部せんぶおさである慈雲がわざわざ無断欠勤の涼麗の様子を見に来たのは、何か内密な用事があるというよりも、ただ単純にこの屋敷の中に穏便に立ち入ることができる人間が現状黄季と慈雲しかいないせいだろう。そして涼麗が唯一正当な立ち入りを許している黄季は、事が片付くまで涼麗との接触を禁止されている。


 うっかりそのことを思い出してしまった涼麗は、目元に険をにじませると容赦なく舌打ちを放った。


「結界強度の底上げが必要なようだな」

「お前、ここの結界の本来の目的を忘れかけてねぇか? お前、簒奪が成立してから、また腹いせにいじっただろ? エゲツねぇぞ、今のここの結界」

「それでもお前は入ってこられた」

「まぁ、一応、『結界破りの天才』の相方やってましたからぁ?」


 おどけるように答えてから慈雲は体を引いた。そんな慈雲の視線が寝椅子の足元に置かれた煙草盆と、その上に渡された煙管に向けられたことに気付いた涼麗は、自身もチラリとそちらへ視線を向ける。寝椅子に仰向けに寝転んでいる涼麗からは煙管も煙草盆も見えてはいないが、そこから立ち昇っている紫煙だけは眺めることができた。


「……ここの結界基点も、永膳えいぜんの遺品なんだな」


 慈雲が零した言葉に、感情の色はなかった。


 だがそこに複雑な内心が載せられていることを察した涼麗は、ただ無言のままゆっくりとまばたきを返す。


 この屋敷に引きこもっていた間、常に涼麗の手の中にあった虎に柳の意匠の煙管は、涼麗の物ではなく永膳の愛用品だった。永膳の生前からこの屋敷の結界の基点として使われていた物で、永膳は煙草を楽しむためというよりも、この結界を維持するためにこの煙管で煙草を吸っていた。永膳が己の前から姿を消した時、それらを涼麗がまるっとそのまま引き継いだだけであって、涼麗自身も煙草を好んで吸っているわけではない。


「……よく、気付いたな」


 色んな感情を心の中で転がして、最終的に涼麗が口にしたのはその一言だった。


「あいつは、屋敷の中でしかこれを使っていなかったはずなんだが」

「『虎に柳』はあいつの意匠だろ。お前らの佩玉も『虎に柳』ではあったけど、お前の持ち物にそれが刻まれてんのは見たことがねぇし」

「まぁ、私自身が永膳の『所有物』だったからな」


 特に何の感慨もなく、その言葉はポロリと唇から零れ落ちた。だが慈雲は同じ言葉に目を丸くする。


「自覚、あったのか」

「自覚もなにも、最初からそうだが?」

「いや、……なんっつーか、お前がそれをあえて自分から言葉にしたのを初めて聞いたような気がしたからよ」


 ──そうか?


 涼麗は内心で首を傾げる。心当たりはないが、同期という名の腐れ縁である慈雲が言うならばそうなのだろう。


 涼麗は何となく視線を逸しながら唇を開いた。


「……心境の変化だろう」

「その変化がもーちょっと周囲に関心を払うっつー方向にも向いてほしいもんだぜ」


 さらに続いた言葉に、涼麗は反論の言葉を見つけられずに黙り込んだ。


 今回、己のみならず黄季までをも窮地に立たせてしまったのは、確かに涼麗の身の不始末と、涼麗が周囲に注意を払っていなかったことに原因がある。そこを突かれてしまっては黙り込む他に取れる術がない。


「……あれは」


 ただでさえ重い唇がさらに重くなったのを感じながら、涼麗は低く声を上げた。


「あれは、今、どうしている?」


 簒奪が成立してしまった一対は、成立宣言の翌日から簒奪に決着が付くまでの期間、一切の接触が禁止される。不正や駆け落ちまがいの敵前逃亡を防ぐため、というのがその理由だ。共に現場に出ることはおろか、言葉を交わすことも、同じ空間で書類仕事を片付けることさえ禁止事項に入るそうで、過去にはその掟のせいで泉仙省せんせんしょうの機能が一時的に止まってしまったこともあったらしい。翼位簒奪に長官許可が絡むのはそんな側面もあるからだという話を、涼麗はこうなってから慈雲に聞かされて知った。


「さて、ねぇ。俺もあんまり黄季に接触するとマズい立場だからなぁ」


 接触が禁止されるのは、簒奪にかけられた相方だけではない。


『双方への公平性を保つため』という名目で接触が禁止される人間の中には、成立宣言の証人やそれぞれと縁が深い関係者までもが含まれる。今回の場合、涼麗と黄季、双方と関わりが深い慈雲や、成立宣言を現場で聞いていた明顕めいけんふう民銘みんめいも接触禁止人物に入っている。


 ──明らかに黄季に分が悪すぎる。


 今の黄季は完全に孤立無援状態だ。この状況に追い込むために浄祐じょうゆうはあの場に黄季の同期二人を呼び出したのだろう。手回しの良さに腹が立って仕方がない。


 黄季は弱くはない。だがずば抜けて強いわけでもない、というのが欲目を抜きにして見た時の正当評価なのだろう。簒奪が行われるまでの間に涼麗か、せめて慈雲がみっちり仕込めばあるいは何とかなったかもしれないが、いきなり孤立無援で放り出されてしまった黄季では対策の施しようがない。


 無策のまま次官補であり、事の黒幕でもあろう魏浄祐にぶつけてしまっては最悪命に関わる。かと言って掟を無理に曲げれば、その時点で黄季の不戦敗とされる可能性も高い。


 ──そんなことになる前に……


「『そんなことになる前に魏浄祐を暗殺』、とかはやめとけよ」


 眉間に皺を寄せて考え込んでいたせいか、内心が顔に駄々漏れていたらしい。


 考えに沈みすぎて無防備になっていた涼麗の額を指先で弾いた慈雲は、軽く溜め息をつきながら言葉を続ける。


「まぁ、本っ当に最悪の場合、黄季が本気になれりゃ命だけは助かるはずだ。それがあいつのだからな」


 だが内心を読まれた不愉快も額を弾かれた痛みも、慈雲が何気なく口にした言葉を聞いた瞬間、どうでもよくなってしまった。


「一応、俺が切れる手札の中で一番の『奥の手』は切っておいた。これ以上やってやれることは、今の俺にはねぇってのが現状だな。俺も悔しいが」

「慈雲、お前は」

「知ってる」


 涼麗の言葉を断った慈雲の声はいつになく鋭かった。思わず体を跳ね上げて振り返った先にある慈雲の顔からはスルリと表情が抜け落ちている。


「お前が知りたいこと、知りたくて訊ねきれていなかったこと、俺は一通り知ってる。あいつの泉仙省採用を決める時に、気になることがあってちょっと突っ込んで訊いたからな」

「……っ!」

「でも、教えてなんかやんねぇ。これはお前の不始末だ。最大のな」


 ほとんど涼麗は言葉を発していないのに、慈雲はことごとく内心を読んで一方的に言葉を畳み掛けてくる。


 慈雲は、怒っているのだ。いつも何かしらの表情が浮かんでいる慈雲の顔から表情が消える時、慈雲はその心の内に滅多にないほど怒りを抱えている。黄季を介して初めてこの屋敷に踏み入ってきた時も、慈雲は今と同じ顔をしていた。


 だがその時だって、慈雲は会話をしてくれた。


 今の慈雲は恐らく、あの瞬間よりも深く怒っている。


「訊ける時に訊いておかなかった。言える時に言っておかなかった。手が届くうちに手を伸ばしていなかった。……その結果どんな後悔を抱えることになるかなんて、……お前、誰よりも知ってるだろうが」

「っ……」


 知っているに決まっている。そうでなければそもそも涼麗はこの屋敷に八年も引き籠もることにはなっていなかったのだから。


 隣にいてくれる間に、全部訊いてしまえば良かったのだ。


 なぜ『戦いたくない人は戦わなくてもいい世界を創りたい』という大志を抱くことになったのか。あの剣技は一体誰に仕込まれたのか。亡くなった家族はどんな人で、今までどうやって生きてきて、どうやって今に至ったのかと。


 黄季から返事がなくても、ぶつけたいだけ問いをぶつけて、答えが返ってくるまで待てるだけ待っていれば良かったのだ。涼麗が思い切っていさえすれば、せめて知るきっかけくらいは掴めただろうに。


 きっと黄季は、時間がかかったとしても、答えてくれただろう。仮に涼麗に話せない事情があるとしたら、はっきりとそのことを伝えてくれたはずだ。


 涼麗はそのことを知っている。そうであると信じている。


 だというのに、涼麗は知る努力をしなかった。隣にいられるだけで満足していて、それ以上に手を伸ばすことを躊躇していた。躊躇して、最後にはなおざりにしていた。


 そうであるのに今、慈雲から……黄季当人ではなく、涼麗にとって訊ねやすくて都合がいい人物から情報を引き出そうとするのは、酷く勝手な振る舞いだ。だから慈雲はそんな涼麗に対して、自分本位で、対を軽んじる行動だと腹を立てている。


「お前が他人に頼りたくない気質だってことは知ってる。お前に解呪できない呪詛を他の人間が見て解呪できたかっつったら、まぁ望みは薄だろうな」


 言葉に詰まった涼麗に、慈雲は簒奪が成立した直後にも言って聞かせた言葉を繰り返した。


「だが、どうしてそのことをせめて黄季には伝えておかなかった? お前にとって黄季は、世界で一番信頼に足る相手だっただろうが。解決できなかったにしろ、なぜ相談くらいしておかなかった?」


 あの簒奪は、涼麗が己で対処しきれない不調を隠し、悪化させたせいで成立してしまったという側面もある。魏浄祐は涼麗のそんな気質も把握した上で全てを仕込んでいたのだろうが、その仕込みは防げたはずだというのが慈雲の言だった。ちなみに初回でこの言葉を聞かされた時には思い切りのいい張り手も一発喰らっている。


 ──なぜ、だなんて。


 涼麗は慈雲を振り返って睨み付けたまま、寝椅子の肘掛けに置いた手に力を込めた。


 ──その理由が分かっていたら、


 そもそもここまで心を波打たせることなんて、なかっただろうに。


 八年。八年だ。


 八年間ずっと、涼麗の心は凍て付いて揺らぐことはなかった。この美しく虚しい幻の庭の中、ただずっと思い出を手繰っては死に行ける時を夢想していた。空を見上げることはあっても、心に蒼天が掛かることなど、一度たりとてなかった。


 だがあの雛鳥がこの庭の池に落ちてきたあの日からはどうだ。


 もはや揺らぐことはないと思っていた心は理解できない感情で荒れているし、目に映る世界は目まぐるしく動き続けている。果ては謀略だ、呪詛だ、簒奪だと振り回されて。


 それでも、あの雛鳥のことを思うといつだって、心には蒼天を思わせる光が差すから。


 だから。


「……っ!」


 涼麗は慈雲を押しのけて石床に降り立つと、無言のままツカツカと屋敷の中にきびすを返した。屋敷の中を突っ切り裏へ出れば、くりやの裏手には井戸がしつらえられている。


「……」


 背後から慈雲の足音がついてくるのを聞きながら、涼麗は縄の先に繋がった桶を勢いよく井戸底に向かって投げ入れた。黄季が修復してくれた釣瓶つるべは滑車の動きも滑らかで、普段全てを退魔術に頼り切っていて滅多に井戸を使わない涼麗でも簡単に水を組み上げることができる。


「おい、涼麗お前何し……ぬわっ!?」


 その水を、涼麗は思いっきり自分の頭上から己に向かってぶち撒けた。若干勢いが良すぎて後ろに続いた慈雲まで濡れたようだが、そこは気にしてやらない。むしろいい腹いせになったと清々した気分を噛みしめる。


「ちょっ、おまっ、マジで何して……っ!?」


 頭から水を引っ被った涼麗は、次いでそのまま厨の中に取って返す。歩くついでに全身から滴っていた水は指のひと鳴らしで乾かした。全身から綺麗に水分が飛んだ後には、冷えた井戸水を浴びたことでもたらされた清涼感だけが残る。


 慈雲の戸惑いの声を放置して厨に入った涼麗は、卓の上に置かれていた蒸籠せいろの蓋をパカリと開いた。その中には大きさが不揃いな竹皮包が不器用に並べられている。蒸籠に時流停止の結界が展開されているお陰で、持ち上げた竹皮包はいまだにほっこりと温かい。


「……」


 蓋をきっちりと戻し、結界が再びきちんと作用したことを確かめてから、涼麗は取り出した竹皮包を開いた。中から顔を出したのは、なんてことない白米の握り飯だ。


 それに数瞬視線を注いでから、涼麗ははむっと小さく一口、握り飯にかじりつく。


 そんな涼麗の様子をずっと後ろで眺めていた慈雲が、呆気に取られたかのように口を開いた。


「お前、それ、もしかして黄季が?」

「簒奪が成立した日、ありったけの米を炊いて、置いていった」


 あの日、慈雲に事の次第を説明した涼麗と黄季は、慈雲の気遣いで仕事を早く切り上げることができた。その時間で黄季が残していったのが、この大量の握り飯だ。


 ──利き腕側の肩に酷い怪我を負っていたはずなのに、治療もそこそこに屋敷に引き上げると言って聞かないから何事かと思ったら。


『急だったんで、禄な食材がないんですけども!』


 そして怪我もしてるんでまともな料理もできなかったんですが! と前置きをして、酷く真剣な顔で黄季は言った。


『具材、全部違うんです。俺が簒奪を破棄してくるまでに全部食べて、具材に何が入ってたか、全部正しく答えてください』


 期間が明けたら、という言い方を、黄季はしなかった。己が魏浄祐を打ち破ってこの屋敷に帰ってくるという言い方を、黄季はあえてしていた。


『全部合ってたら、俺、氷柳ひりゅうさんが食べたい料理、全部作りますから。絶対作りに来るんで、氷柳さんは気合入れて、これ全部食べてください』


 ──私のことよりも、己のことに集中しろ、このたわけ。


 これが黄季なりの意志表示で、心配の表し方だったのだろう。黄季との接触を禁じられた涼麗がどれだけ自暴自棄に陥るか、黄季は漠然と、肌感覚で覚っていたに違いない。


 ──私は自分自身が自分の世話を拒否してもそうそう簡単には死ねない体質であると、お前だっていい加減知っているだろうが。


 少しずつ、不慣れすぎて時間がかかっても、涼麗は握り飯を腹に入れた。そこに込められた思いを噛みしめるように。


「……お前さ」


 そんな涼麗を観察していた慈雲の顔に、いつの間にか笑みが浮いていた。


「ほんと、良かったよな」


 最後の一粒まで噛み締めて慈雲に視線を流す。出来の悪い弟を見る兄のような顔、というのは、きっと今の慈雲のような表情のことを言うのだろう。


うるさい」


 その視線に居心地の悪さを覚えながら、涼麗は空いた手の甲でコンッと卓の上に載せられていた地図を叩いた。都の大路小路を示した地図には朱墨で所々印が付けられている。


「お前が目星を付けた現場は粗方片した。全て外れだ。さっさと次を寄越せ」

「はぁっ!? 昨日の今日で現場十三件片したっつーのか!? てかお前、俺が補助につくから今日まで待てっつっといただろっ!?」

「必要ない。気晴らしに丁度良かった」


 怠惰に真昼まで眠りこけていた涼麗だが、別に今まで本気で不貞腐れて屋敷に引き籠もっていたわけではない。


 簒奪が成立する前から都の土地は陰に傾きつつあったが、簒奪が成立してから二日が経った今、その勢いは加速の一途にある。


 呪具庫の結界が破られ、煉帝剣れんていけんが消えた。都は陰に傾き、涼麗の身代を巡って翼位簒奪が成立した。これだけのことが同じ時期に起きてそれぞれが無関係だと思えるほど、涼麗も慈雲も楽観的な性格はしていない。


 昨日、泉仙省で慈雲と顔を合わせた時、近頃急速に土地が陰の気に傾いている場所については聞き出してあった。裏で蠢く謀略がどんな絵を描いているのかは分からない。だがひとまずどこかを崩せば道は開けるだろうと踏み、涼麗は陰気が激しい場所を片っ端から潰して回って煉帝剣に繋がる手掛かりを探っている。


 昨日も泉仙省から退出した後、単騎で一晩中現場を潰し続けて、夜明けを迎えてから屋敷に戻ってきた。ひとまず寝椅子に倒れ込んだ所で記憶が途切れているから、恐らく昨晩……いや、今朝はそのまま寝入ってしまったのだろう。


「案外、ここまで潰して回って手掛かりがないならば、どこかに保管されているのではなく、犯人が持ち歩いているのかもしれない」


 地図に視線を落としながら、涼麗は静かに己の考えを零した。


「慈雲。そもそもお前、なぜ煉帝剣は消えたと考えている?」


 そして、今更ながらにその疑問を口にした。


「八年前のあの大乱の折、呪具庫から持ち出されたのは玉だった。玉を基点に都中の陰を増幅させ、都から国を一国、丸ごと呪詛の舞台として堕とそうとした。それがあの大乱の、が知っている真実だ」


 八年前、この都を一度灰燼に帰した大乱『天業てんごうの乱』。


 表向きにあの大乱は、暴虐の限りを尽くした皇帝に民が決起した戦だと言われている。そしてそれは、まつりごとを司る者や軍部、民から見れば正しい解釈だ。確かにあの戦は、涼麗達が知っている事情がなくても、いずれ起こるべくして起こったものだっただろう。


 だが当時現場に立っていた退魔師達からしてみれば、あの戦はそれ以上に大きな意味を孕んでいた。


「お前は煉帝剣が消えた時、このままでは八年前の再来になると言っていたな」


 あれは、この国を恨んだ一人の呪術師が仕込んだ、壮大な呪詛だった。


 土地を陰に堕とし、民同士を殺し合わせ、その負の念を用いて皇帝一族を末の末まで根絶やしにせんとした、大きすぎる呪詛。それを阻まんとした四鳥しちょうと泉仙省は全面的に乱に巻き込まれ、ほぼ相討ちとも言える状況で決着はついた。


 呪詛の炎が都を焼く直前、その炎を浄化の炎に転化する大術を発動させたのが永膳で、本来その役目を担うはずであった涼麗は独り生かされた。


 それが、『救国の比翼』と呼ばれるてい涼麗が知っている『天業の乱』の真実。


「今度は誰が、何を呪い堕とそうとしている?」

「さぁなぁ? 分かってたら、もうちょい手の施しようがあるんだが」


 涼麗が知っていることと同じことを知り、同じ光景を見てきた慈雲の声がヒヤリと冷えた。


「ただ、煉帝剣が今度の呪詛の基盤になるだろうってことと、魏浄祐が一枚以上噛んでるってことは確定だな」

「証拠が出たのか?」

「まだ出てはいない。だが、あの時破られた結界を直に確認した李明顕と風民銘からの証言に気になる所はあった。つつきゃ何かは出るかもしれん」


『あいつらも、黄季のためになるならって必死だしな』と慈雲は言葉を続けた。そう言うということは、慈雲の指示で黄季の同期達は秘密裏に何か事を請け負っているのかもしれない。


 涼麗はしばらく地図に視線を落とすとパンッと両手で頬を挟むように思い切り叩いた。気合入れに黄季が時折やっていたことを真似してみたのだが、これが中々に痛い。


 痛くて、疲れやら眠気やら後ろ向きな気持ちやら、何やらが諸々纏めてどうでも良くなるくらいには。


「私は今日の出仕を休む。お前はさっさと泉仙省に戻れ」


 顔から手を離した涼麗は慈雲を残して寝椅子がある庭先へ身を翻す。涼麗の奇行に思わず一歩引いていた慈雲は、涼麗の言葉で我に返ったようだった。


「は? まぁ、もうすでに無断欠勤みたいなもんだが」

「場合によっては数日休むことになるかもしれん。代わりに、煉帝剣の所在地は責任持って割り出してやる」

「はぁっ!?」


 慈雲の叫びを背で聞きながら、涼麗は地脈に意識を集中させ、何も握っていない左手を下から上へ振り上げる。


 その瞬間、屋敷を満たす空気が変わった。


「この屋敷の結界を探索陣に組み変え、都中の地脈に私が本気になって向き合えば、どれだけ厳重に封印して持ち歩いていようが、あんなに馬鹿デカい炎気を帯びた呪具を隠し続けていられるものか」


 フワッと一瞬白銀の燐光が舞ったと思った瞬間、炸裂した閃光は庭を覆い尽くした。吹き荒れる風に髪と衣を遊ばせながら軽く腕を振れば、界を断絶させていた幻術結界が端から組み直されて用途を変えていく。都の大地を縦横無尽に走る地脈が、屋敷を中心に徐々に涼麗と感覚を同期させていく。


「はぁっ!? バッ……おまっ! いくらお前でもそんな大技行使し続けたら……!!」

「だから言っただろう。『場合によっては数日休むかもしれん』と」


 涼麗は慈雲を振り返ると軽く顎をしゃくった。その意味する所は『結界が完全に組み変わる前にさっさと帰れ。邪魔だ』である。


「黄季が戦っているんだ。私もしょぼくれてなぞいられるか」


 絶対的な実力差があることを承知で、あの雛鳥は敵に喰らいついた。その上で絶対にここに戻ってくると宣言した。


 ならば涼麗に今できることは、己の失態を嘆くことでも、大人しく待つことでもなく、未来を信じて共に戦うことだろう。


 比翼ではなく鳳凰。


 自分達は寄り添って飛ぶだけが能ではない。それぞれ違う戦場いくさばに立っていようとも、再会の空を目指してそれぞれ羽ばたいていくことができるのだから。


「見つけ次第、吊るし上げてくれる。お前はその時に備えて支度を整えておけ」


 自分に喝を入れるために強く声を張り、涼麗は白衣びゃくえの袖を白銀の風の中に翻した。


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