※※
すぐにでも崩れるかと思った平穏は、思っていたよりも長く続いていた。
あるいは、内部から不穏な空気に当てられてグズグズと崩れていっていることに、
──唯一気になることと言えば……
「『闇は闇へ還れ』」
黄季の視線の先で、今日も
「『滅殺』っ!!」
黄季が結界の安定に注力する中、氷柳の退魔術は今日も鋭く目の前の闇を断ち切る。瘴気の広がりを抑えるために土地の外周に添って展開された結界の中を妖怪の残滓が舞う様は、相変わらず漆黒の花弁が散るようで、妖怪の成れの果てでありながら酷く見る人の心を奪う。
だが今はその光景も黄季の胸には響かない。
黄季が視線を置いた先では、解けた結界が光の欠片となって降り注ぐ中、氷柳が
──氷柳さんの退魔術、明らかにキレが鈍い。
術の精度から言えば十分すぎるほどだが、本来の氷柳の実力から考えると、ここ最近の氷柳は精細に欠けているように思える。黄季の気のせいかと思っていたのだが、氷柳の表情を見るに勘違いではなさそうだ。
──俺の結界術が安定しないのは、俺の技量不足なんだろうけども。……氷柳さんの退魔術が安定しないって、よっぽどだよな……?
氷柳の退魔術のキレが鈍ったのと時を同じくして、黄季の結界術も徐々にブレが酷くなってきているような気がする。恐らく今まで氷柳がそれとなく補ってきてくれていた分が明るみに出てきているのだろう。
そんな己の不甲斐なさに、黄季は袂の中でキリッと手を握り込んだ。
──氷柳さんが不調な時ほど、俺がしっかりしてなきゃいけないはずなのに。
焦りとも、怒りともつかない感情がジリッと胸を焼く。そんな内心を、黄季はひとまず深呼吸を繰り返して落ち着けた。
──技量不足は、ちょっとずつでも精進を続けるしかない。氷柳さんの不調に関しては……
「氷柳さん!」
キッと顔を上げた黄季は声を上げながら氷柳に駆け寄った。その声に黄季を振り返った氷柳はようやく手にしていた匕首を鞘に納めて懐にしまう。
「氷柳さん、ここ最近気になってたんですけど。もしかして体調悪かったりしません?」
駆け寄った黄季に視線を向けた氷柳だったが、投げかけた問いに答えはなかった。そんな氷柳の顔に表情らしい表情は見えないが、顔色は明らかに常よりも悪い。妖気にあてられた
「氷柳さんが言い出さないから、口を出すべきことじゃないのかと思ってずっと黙ってましたけど……。明らかに顔色が悪いし、術の精度も落ちてます。俺が言うことじゃないかもしれないけど、これ以上現場に出るのは危険なんじゃないですか?」
黄季が言葉を続けても氷柳からは肯定の言葉も否定の言葉も出てこない。
この場合の氷柳の沈黙は『認めたくはないが正解』を意味していると、黄季は普段のやり取りから勘付いている。
「一度医局で、呪術医官の先生に診てもらった方がいいんじゃないですか? この間みたいにまた不意を突かれたら……」
「……この間のような不覚は、もう取らない」
「氷柳さん!」
短く返された言葉に拒否を感じた黄季は反射的に氷柳の袂を握っていた。氷柳から返される視線には冷たさを感じたが、それに怯むことなく黄季はキッと氷柳を見据える。
「……医局を嫌がるのは、氷柳さんが特殊体質だからですか? それとも他に理由があるんですか?」
氷柳から返事はなかった。ただ冷たい視線だけが注がれる。それでも引けないと黄季は氷柳の袂を取った手に力を込めた。
──そういえば、出会ったばっかの頃って、ずっとこんな感じだったっけ。
久し振りに拒絶に満ちた冷たい視線にさらされて初めて、最近感情のある視線ばかりを受けていたのだなと気付いた。いつの間にかそれが当たり前になっていたのだと、黄季はこんな時に知る。
──それを知ったから、こそ。
知り合った当初の黄季なら、この視線に耐えきれずに追求を諦めたことだろう。むしろ踏み込むことを躊躇って、最初から問うことさえしなかったはずだ。
だけど今は、その氷の貴仙のような面立ちの裏に、表には出せない心を隠していることを、知っているから。
「教えてください」
言えないことも、言いたくないことも、きっとあるのだろう。
それでも黄季は氷柳に、その心を無視したままでいてほしくない。
「……私の体質的に、下手にいじられるよりも放置しておいた方が治りが早いというのと」
そんな黄季の心が、氷柳には分かったのだろうか。
しばらく黄季を見つめた後、小さく溜め息を零した氷柳は渋々答えを口にしてくれた。
「よく知らない相手に診察されたくないというのと、医局を訪れたということを周囲に知られて付け入られる隙を見せたくない、という三点が理由だ」
「付け入られる隙、という点では、このままでも十分な隙です。それに、半月が過ぎても良くなる所か悪化しているんですから、放置しておいたら治るっていうのはもはや希望的観測でしかありません。二点目に関してはただ単に氷柳さんが医者嫌いってだけでしょ」
「……いつになく言うな」
「それだけ心配してるってことですっ!!」
黄季は氷柳を睨み付ける目をさらに吊り上げる。そんな黄季が珍しかったのか、居心地が悪そうに視線を泳がせていた氷柳がチラリと黄季に視線を向けた。
その瞬間を逃さないように黄季はズイッと身を乗り出す。
「医局に俺が懇意にしてる呪術医官の先生がいます。この間氷柳さんの傷を処置してくれた人です。今日の現場が終わったら診てもらいに行きましょう? 待っていてもらえるように式文飛ばしときますから」
黄季の剣幕に氷柳が思わず一歩引きかける。そんな氷柳の動きを黄季は握った袂を引くことで引き留めた。
「いいですか? 氷柳さん。『こんなの大したことない』とか『寝れば治る』とか言ってる傷を放置すると、後々それが命取りになるんです。『戦場ではそういう傷の有無が生死を分けることもあるんだから、己の体は大事にしろ』って、俺の父も祖父も兄貴達もみんな言ってました」
「……やけに大袈裟だな」
「俺の家、町道場だったんで。御弟子さん達はみんな、うちを巣立ったら軍部で仕官したり、武者修行の旅に出たり、実際に戦場に立つ人間ばかりだったんです。そりゃ本気でそういうことだって言いますよ」
弾みで言ってしまった言葉に氷柳が目を丸くしたのが分かった。その表情の中に驚きと納得を見た黄季は、『そういえば』とこれまでの己の発言を振り返る。
──俺、自分の家族のことに関しては『みんな死んでる』ってことしか言ってなかったっけ?
恐らく『納得』の部分は、黄季の剣の腕前に対するものなのだろう。もしかしたら以前口にした『みんな戦って死んだ』の部分に対してなのかもしれない。
同時に、少しだけヒヤリと背筋が冷えた。
──これ以上のことは、突っ込まれたくない。
「と、とにかく! これ以上不調を押して現場に立つつもりなら、今日中に医局に連行しますから!」
答えたくても口にできない部分に氷柳が突っ込んでくるよりも早く、黄季は話題を切り上げることにした。
そんな黄季に氷柳は分かりやすく表情に険を載せる。
「その呪術医官の腕がいかほどのものかは知らないが、呪術の腕前で私より上を行く人間がそうそういるとは思えん。私自身でどうこうできない代物を他人がどうこうしようとしても無駄だ」
「え? ま、待ってください! それって、呪術的に不調があるとか、呪いを負ってる自覚があるとか、そういう意味ですよねっ!?」
「呪具保管庫の一件も、
すげなく言い切った氷柳は『この話はこれで終いだ』とでも言わんばかりにスルリと身を翻す。何故かそれだけの動きできつく握りしめていたはずである袂は黄季の手の中から逃げ出していた。あ、と思った時には氷柳がいつもと変わらない優雅な歩みで前へ進み始めている。
「ちょっ、……と! 氷柳さんっ!!」
「まだ現場が残っている。行くぞ」
──これは俺に対する拒絶っていうよりも、相当根が深い医者嫌い……!
何となくこんな時、氷柳は猫っぽいなと思う。弱っている部分を決して人に見せたくないというあり方は美しいのかもしれないが、周囲にいる人間からしてみたら厄介以外の何物でもない。
──俺じゃ言葉で説得するのは難しいかも。
このまま放置は絶対に良くない。黄季単独での説得が難しいならば、慈雲か、あるいは
──それでも無理なら、いっそ絞め落として引きずっていっても……
精神的に追い詰められているせいか、思考が物騒な方向に偏っているような気がする。だが案外、実力行使の強硬手段もいい案なような気がしてきた。退魔術で勝てる見込みは一切ないが、不意打ちの体術勝負に持ち込めれば、あるいは今回だけなら絞め落とすこともできるかもしれない。
──氷柳さんからの信頼を裏切るのは心苦しいけれど、体調より優先されることなんてないわけだし……
やってやろう、そうしよう、と密かに心に決めた黄季は、飛びかかる隙を狙ってひたと氷柳の背中を見据える。
体格差はあるが、黄季が本気を出せば制圧は可能であるはずだ。都合よく氷柳は黄季に背中を向けているし、黄季に信頼を置いてくれている氷柳は背後に注意を払ってはいない。
黄季はそんな氷柳の背中目掛けて、何気なく最初の一歩を踏み出す。
だが黄季が氷柳に腕を伸ばすよりも、ピタリと氷柳の足が止まる方が早かった。
「っ、氷柳さ……」
「あっれぇ?
『マズい覚られた!?』と黄季は慌てて動きを止める。そんな黄季の向こう側から聞き慣れた声は聞こえてきた。思わず黄季は構えを解くよりも前に声の方へ顔を向ける。
「
そこにいたのは、聞こえてきた声の通りに気心知れた同期だった。気が抜けた声を上げた民銘の隣には、もう一人の同期である明顕もいる。民銘の肩には弓、明顕の腰には剣が下げられているのを見るに、二人ともどこかの現場を片付けてから顔を出したといった体だ。
「二人ともどうしたんだ? その装備、現場に出てたんじゃ」
「いや、上官指示で応援に派遣されてきたんだけども……」
黄季の問いを受けた明顕は困惑を浮かべながら隣の民銘に視線を向けた。そんな民銘も明顕と似たりよったりな顔をしている。
「来る途中から、もう現場は片付いてるって分かってたし……」
「おまけにその現場にいたのが黄季と汀尊師なわけじゃん? 応援なんて必要なかったよな?」
意味が分からない、と二人は首を傾げる。
そんな二人の言葉を聞いた氷柳がスッと瞳に険を載せた。多分黄季の目にも似たような感情が浮いていることだろう。
「誰からの命だ」
氷柳が鋭く二人に問う。その鋭さに驚いたのか、二人は揃って目を丸くすると氷柳を見上げた。
「ここへ向かうようにお前達に指示を出したのは誰だ」
「えっ、と」
「実は、誰からなのかは分かってなくて」
それでも今回の二人は、以前と違って氷柳を前にしても硬直することはなかった。
氷柳の剣幕に驚きながらも、二人は言葉を紡ぎながら顔を見合わせる。それから民銘が己の懐を漁り、一枚の紙を取り出した。
「式文が来たんです。差出人の名前はなかったけど、次官補の印が捺してあったから上官命令だと思って……」
その紙を黄季はひったくるように民銘の手から奪い取る。黄季の思わぬ行動に同期達が目を白黒させる中紙を広げると、確かにそこにはこの場所へ応援に向かうようにという文面と次官補を示す印が捺されていた。
「氷柳さん」
「書類仕事の中で見た。この嫌味な文字の整い方は間違いなく
肩越しに振り返ると後ろから文をのぞき込んでいた氷柳が頷いた。思わぬ所で氷柳の書類仕事が役に立った形だ。
「え? 魏上官?」
「俺達、接点ないんだけど、何でいきなり魏上官から式文が来るんだ?」
翼位簒奪の件は同期達も知っている話だが、魏浄祐にその他の疑いの目が向けられていることは氷柳達しか知らない話だ。浄祐が何か策略を巡らせていることを知らない民銘と明顕は突然のことに首を傾げている。
──民銘達をわざわざここに派遣してきたってことは、魏上官は何かを仕掛けようとしてるってことか?
「氷柳さん」
黄季は再度氷柳へ視線を向ける。その視線にもう一度頷き返した氷柳は民銘と明顕に視線を向けると口を開いた。
「
「その判断は時期尚早なのではないですか? 汀尊師」
浄祐が何か意図を持って民銘達をここに呼び寄せたならば、一刻も早くこの現場から離れるべきだ。そう判断した氷柳が早口に帰還を促そうとする。
だが氷柳が全てを言い終わるよりも、慇懃無礼という言葉を体現したかのような声が飛んでくる方が早かった。思わず顔を
「私はこの土地の異変を察知しました。だからわざわざ、こうして手勢を集めて出向いてきたのですよ?」
「魏浄祐……!」
言葉通り数組の退魔師達を引き連れて姿を現したのは、魏浄祐泉部次官補だった。次官補という位にある人間が現場に出てくることなどそうそうないはずなのだが、浄祐は実に涼やかな顔で何でもない現場へ足を踏み入れてくる。
そんな浄祐に対して氷柳は苦味を通り越して明確に敵意がある声を上げた。反射的に舌打ちを返さなかっただけまだマシだろう。かくいう黄季も無意識のうちに舌打ちをしないようにとっさに奥歯に力を込めている。
「この現場はすでに私と黄季で始末をつけた。こんな人数を引き連れて次官補が出てくるような現場ではない」
怒りを噛み殺しながら、氷柳は黄季を庇うように一歩前へ出た。そんな氷柳を見た浄祐は外周を囲う塀の中に数歩足を踏み入れた所で足を止める。互いに声を張り上げなくてはならない距離感は言葉を交わすには距離がありすぎた。
まるで互いの間に何かが生じることを知っているかのような。間に何かを挟んで交戦することを前提としているかのような。
そんな距離の取り方だと感じた黄季は、氷柳の影に隠れながら手の中にそっと数珠を滑り込ませる。
「おや? 私の見解と異なりますね、尊師」
足を止めた浄祐の後ろから、散開するかのように三対の退魔師が左右へ散った。その中に相方を失った
「私の見立てでは、この土地の浄祓はいまだ完了していない様子」
浄祐は警戒を露わにする黄季達に構わずスッと優雅に片手を差し伸べた。その指先がクイッと何かを呼びつけるかのように動く。
その瞬間、ザッと血の気が下がるような悪寒が黄季の背を撫でた。
「こんな危険な兆候を見逃すだなんて、余程調子が悪いのでは?」
氷柳が飛刀を手にしながら前へ飛び出すのと、浄祐の慇懃無礼な笑みが漆黒の靄によって遮られたのはほぼ同時だった。ハッと黄季が我に返った時にはついさっき浄祓が完了したはずの土地が浄祓前よりも濃い闇に満たされている。
「お手伝い致しますよ? 汀尊師」
そんな中でも浄祐の声は不思議と黄季の耳に届いた。それは氷柳も同じだったのか、氷柳は苛立たしげな声とともに飛刀を放つ。
「結構だ」
形を成そうとしていた靄を裂いて飛刀は地面に突き刺さる。それと同時に氷柳は刀印を結んでいた。爆撃呪を展開するつもりなのだと読めた黄季は民銘達を連れて後ろへ下がる。
「信用できない者を近場に置いての捕物など……!」
「この場合、信用云々よりも実力を第一に考えるべきなのでは?」
だがなぜか氷柳が放った飛刀は術を発動させなかった。氷柳自身にも予想外だったのか、氷柳は刀印を組んだまま目を丸くしている。
代わりに翻ったのは、炎で形作られた鳥だった。靄を裂きながら飛んだ鳥は氷柳に襲いかかろうとした爪を焼き落とすと浄祐の元へ舞い戻る。いつの間に召喚していたのか、浄祐の周りには炎で形作られた鳥が無数に舞っていた。
「意地を張っていては、守れるものも守れませんよ?」
「氷柳さんっ!!」
クイッと、また浄祐の指先が動く。その左の人差し指が何かをえぐり取るかのように動いた瞬間、明らかに氷柳の顔が歪んだ。
まるでその指先が、氷柳の傷口をえぐったかのように。
「っ! 『汝は
黄季は反射的に氷柳を守るための結界を展開していた。
基点にするのは氷柳の腰に揺れる揃いの佩玉。氷柳と黄季の霊力が入り混じったその佩玉は、どんな気の乱流の中にいても氷柳の存在を伝えてくれる。
だというのになぜか、黄季が展開した結界はユラリと一瞬揺らめいただけで消えてしまった。まるで泡が誰かの指先で突かれてパチンッと弾けてしまったかのように、一瞬だけ現れた結界面は氷柳を守ることもなく無に帰ってしまう。
「っ、何でっ!!」
さっきまでは、できたのだ。この場所で今と同じように戦っていた時は、普段と変わりなく氷柳を守ることができたのに。
「おや。貴方の御自慢の相方は、貴方の危機にやはり何もできないようですね? 他の人間は皆、一人前にやれているというのに、あのヒヨッコだけが何もできていないではありませんか」
黄季の結界が結ばれない中、氷柳の身を守っているのは浄祐が操る鳥達だった。炎で形作られた鳥達は氷柳の周囲を飛び回っては
──何で、どうして……っ!!
焦りが心を焼く。空回る思考からはいい考えが何も出てこない。『どうして』『どうすれば』という言葉ばかりがグルグルと巡って先に進めない。
そんな風に硬直してしまった黄季のはるか先で、浄祐がウッソリとまた、蛇のように
「まぁ、正直に言ってしまうと、貴方がここまで耐えられたというのは意外でしたよ、汀
浄祐はその笑みを浮かべたまま、スッと左手を胸の高さまで掲げた。それに合わせて左の指は何かを握りつぶすかのようにゆっくりと閉じられていく。
その瞬間、ガクリと氷柳の膝が折れた。
「氷柳さんっ!!」
「いくら貴方が特殊な霊力回路を有していようとも、内側から喰らいつくされてはひとたまりもないでしょう?」
「……っ」
黄季がいる位置からは氷柳の横顔がわずかに見えるだけだ。だがそれだけでも氷柳が顔色を失って苦悶の表情を浮かべているのが分かる。
どんな戦場でも屋敷の廊下を歩くかのように涼やかであった氷柳が、まるで目の前の靄に……さらにはその先に立つ浄祐に
そんな氷柳の様を眺めて浄祐が
「さぁ、私に
その瞬間、黄季には分かってしまった。
──魏上官は、
あの襲撃を氷柳は『自分を物理的に害したかったからだ』と解釈していた。だが実際は違っていた。
あの瞬間、氷柳は呪剣を介して体の内に呪詛を送り込まれていた。
全ては汀涼麗を崩すため。難攻不落な最強退魔師に膝をつかせるために、魏浄祐は内側から氷柳の霊力回路を壊すという手段を取ったのだ。
いくら氷柳の退魔の腕前がずば抜けていようとも、霊力回路に異常をきたせば術をふるうことはできない。恐らく黄季の結界術がブレたのも、氷柳という基点そのものが異常をきたしていたからだ。
常人よりも妖怪に近い機構を持った氷柳にしてみれば、霊力回路は生命維持に直結するものだ。常人ならば退魔術が使えなくなる程度で済むかもしれないが、氷柳の場合は命に関わる。
──それを分かった上で仕込んだんだ。氷柳さんをジワジワ痛めつけて、要求を呑ませるために……!
「簒奪を受けると言え。そうすればその苦痛から救ってやる」
今や氷柳を蝕む痛みは全身に及んでいるのだろう。片膝をついて傷口がある左脇腹をきつく押さえ込んだ氷柳は、今にも倒れ込んでしまいそうだった。
それでも氷柳は、決して口を開こうとはしない。ギッと浄祐を睨み付ける氷柳の表情は、心の底からの拒絶を表している。全身を内側からえぐられるような痛みにさらされていても、氷柳の心は決して折れていない。恐らく氷柳は口が裂けても浄祐の言葉に是と返すことはないだろう。
そんな氷柳を見下ろした浄祐の瞳がスッと温度を下げた。
「……身の程知らずが」
その声を聞いた瞬間。
プツリ、と。何かが切れる音を、黄季は聞いた。
「よろしい。ここまで来ても分からないなら、徹底的に教え込んでやる」
浄祐の左腕が何かを呼びつけるかのように振り上げられる。
その瞬間、黄季は考えるよりも早く民銘に駆け寄ると民銘が手にしていた弓を引ったくっていた。さらに民銘の腰に下げられた矢筒から二本矢を抜き、二本とも纏めてつがえる。そのまま黄季は矢尻を浄祐に向けると限界まで弓を引き絞った。
「黄季!? 二本掛けとか、いくら黄季でも……!!」
「俺の矢は、外れない」
黄季の視線の先では、靄が形を作りつつあった。しなやかな体躯と鋭い爪を備えた虎の形を取り始めた靄は、明確に氷柳に殺意を向けている。
スルリと己の喉から漏れ出た声が、どこか遠く聞こえた。
「
キュインッと、風が
仰角で放たれた矢は、一本が浄祐、一本が虎を的確に捉える。矢が到達するよりも一瞬早く攻撃に気付いた浄祐は大きく下がって矢を避けたが、矢に注意を向けていなかった虎は降ってきた矢に瞳を射抜かれた。
『───────ッ!!』
虎の怒号が天を衝く。その瞬間、氷柳がハッと顔を上げた。浄祐の意識が氷柳から逸れて呪詛がもたらす痛みがやわらいだのかもしれない。
だが痛めつけられた体はすぐには自由を取り戻せないようだった。その証拠に痛みに暴れる虎が爪を振り上げているにもかかわらず、氷柳は逃げることも退魔術を
「借りる」
「えっ!? 黄季っ!!」
黄季は考えるよりも早く明顕の剣を奪い取ると前へ出ていた。
そんな黄季の頭の中で、懐かしい声が騒ぐ。
『黄季』
『お前は』
──ごめん。
その声を、黄季は今だけ頭の中から締め出した。
同時に、氷柳と虎の間に割り込むように滑り込み、氷柳を庇うように前へ出る。虎の爪をいなすように剣を前にかざしたが、かわしきれなかった爪が黄季の肩を裂いた。しぶく鮮血と鈍い衝撃に一瞬体が後ろに下がるが、その反動を逆に利用して返す刀で虎の前足を斬り捨てる。
その時になってようやく我に返ったのか、悲鳴のような声が背後で上がった。
「黄季っ!!」
「『呪い落とせ』」
痛みは何も感じなかった。さらに剣に乗った勢いを利用して反対側の前足も斬り飛ばした黄季は、平服するように頭を下げた虎の額に己の血で濡れた剣を叩き落とす。
「『
低く底冷えするような声で紡がれた呪歌は、供物として捧げられた黄季の血と地脈の力を存分に吸い上げると爆発した。ドンッと衝撃派を伴いながら剣を中心にして爆発した呪は、地面をえぐりながら周囲に漂う瘴気の全てを無に帰していく。
「……黄季」
氷柳が呆然と呟いた時、周囲の土地からは何もかもが消されていた。土地を囲んでいた築地塀にまで被害が出てしまったのか、本来壊れなくても良かった物まで所々壊れている。
血華爆呪。本来ならば黄季ごときに扱える代物ではない。その凄まじさに場にいる退魔師達が皆硬直したまま黄季に視線を注いでいる。
そんな中、黄季は抜き身の剣を右手に携えたままユラリと前へ足を踏み出した。ツカツカと歩を進める先には、表情をかき消した浄祐が立っている。
「あんた」
そんな黄季の様子を見た釉がとっさに黄季の前に立ち塞がろうとする。だが黄季はそれさえ許さなかった。
「氷柳さんに、何をした?」
駆け寄ってこようとする釉の足元に手にしていた剣を投げつけて足留めした黄季は、そのまま浄祐と距離を詰めると浄祐の胸倉を締め上げた。右手一本で襟元を握り込み、自分の方へ容赦なく引き寄せる。
「氷柳さんを痛めつけられて、満足か?」
「満足なわけ、ないでしょう?」
浄祐は氷柳や慈雲よりも背が高い。黄季に襟を引き寄せられるがままヒョロリと長い体を曲げた浄祐は、黄季のすぐ目の前でニマニマと嗤っていた。
「私の目的は、汀涼麗を手に入れること。あくまでこれは言うことを聞かせるための下準備……まぁ、調教にすぎません」
「解呪しろ」
黄季の腕に力がこもる。黄季の突然の暴挙に周囲がざわめいているのが分かるが、誰も手を出してこないのは黄季の怒気に全員の体が
「あんたなんだろ、氷柳さんの体内に呪詛突っ込んだ犯人。氷柳さんを苦しめてる術式、今すぐ解呪しろ。さもなくば」
そう、黄季は今、怒っている。
「あんたのその首、今ここで斬り落としてやってもいいんだぞ」
あの何かが千切れるような音は、黄季の中から響いた音だ。周囲からあの音を聞くことはあっても、自分の中からその音が響く所を、黄季は今まで聞いたことがなかった。
今までその音を聞いてこなかったのは、かつて家族に教え込まれたからだ。
怒るな。武器を取るな。取った瞬間自分達は、素性を知られて舞台に上げられてしまうのだから。
何をされても耐えて、逃げて。目立つことなく、実力を覚られず、常に控えめで、それでいて前向きであれ。
黄季にそう教え込んだ家族は、その教えを守れなくなった人間から散っていったから。
──ごめん。
どこか遠い場所で、呟く声が聞こえたような気がした。
──俺も、守れない。
「今すぐ解呪しろっ!!」
守れないと分かっていても、それ以上に守りたいと思う存在が、できてしまったから。
「雛鳥風情が随分と吠える」
殺意さえ載せられた声を叩き付けられても浄祐はウッソリと笑ったままだった。
襟元を締め上げる黄季の手に浄祐はスッと己の手を添えた。たったそれだけで黄季の体はフワリと投げ飛ばされる。反射的に黄季は着地と迎撃を試みるが、振り上げられた浄祐の足が虎の爪にえぐられた黄季の右肩を蹴り飛ばす方が早かった。突き抜けるような痛みが体を貫いた瞬間、黄季の体は地面に叩き付けられている。
「っ!!」
「黄季っ!!」
「お前ごときでは知らないかもしれないから教えて差し上げましょう。我が魏家は大乱の折りまで『
浄祐の足はそのまま容赦なく黄季の体に振り下ろされた。喉から肩にかけてを踏みつけられた黄季は痛みと苦しみに呻くことしかできない。ジワリと体の下で血が染みていくのが分かる。
そんな黄季に向かって身をかがめて、浄祐はいっそ優しげに言葉を口にした。
「お前も、町道場の家の育ちだそうですね? 退魔術で敵わないなら武術で、とでも思ったのですか? ……浅はかにもほどがある」
そうでありながら浄祐は、黄季を踏みつける足に容赦なく体重を乗せた。
「お前ごときじゃ退魔術でも武術でも、私に勝てる見込みなど一寸もないんですよ」
「……っ、解呪、を……っ!!」
それでも黄季は唇を開いた。痛みと息苦しさに喉が詰まる中ではかすれた声しか出ないが、それでも浄祐に聞こえていることは浄祐の表情が一瞬ピクリと揺れたことで分かった。
「呪詛を、解け……っ!! このままじゃ、死ぬぞ……っ!!」
微かな声は恐らく氷柳にも届いていたのだろう。引きつるように氷柳が息を飲んだ音が、こんなに距離があるのに黄季には分かった。
その声に背を押されるように、黄季はありったけの力を込めて左腕を上げると己を踏みしめる浄祐の足に手をかけた。
「氷柳さんを、殺したく、ないなら……っ!!」
そんな黄季を観察していた浄祐はチラリと氷柳に視線を投げた。それにつられて黄季の視線も一瞬氷柳に流れる。
「黄季……っ!!」
氷柳はいまだに立ち上がることさえできないようだった。匕首にすがって膝を上げようとして、何度も失敗したのだろう。力が入らない腕では飛刀を打つことさえできないらしい。それくらい呪詛は氷柳の身を削っていて、今の一撃は氷柳を損傷させた。
──氷柳さんの馬鹿。
なぜそんな風になるまで我慢していたのかと、罵りたいくらいだった。
同時に、氷柳がそこまでの不調を隠していたことに気付けなかった自分に、何より腹が立った。
「簒奪を受けると言え」
不意に、浄祐が声を張った。この土地にいる全員に声が届くくらい、はっきりと。
「汀涼麗の相方には、私の方がふさわしい」
その言葉に黄季はギッと浄祐を睨み付ける。そんな黄季に視線を戻した浄祐は、蛇のような笑みを深めた。
まるで己の絶対の勝利を確信したかのように。
「汀涼麗に死なれては、確かに元も子もない。……お前が簒奪を受けると言うならば、この呪詛、解呪してやろう」
「受けるな、黄季っ!!」
最後の言葉だけは黄季にだけ密やかに落とされた。だが二人の会話に耳をそばだてていた氷柳には最後の言葉まできちんと聞こえていたのだろう。悲鳴のような声が氷柳から上がる。
「私のことは、私自身で、っ……!!」
だがその声は中途半端な位置で切れた。ハッと氷柳を見やれば、氷柳は完全に地面にくずおれている。痛みに呻く声が、ここまで聞こえてくるような気がした。
そんな氷柳の姿に、また耳の奥で何かが切れる音がこだまする。
「今すぐ解け」
ガッと、黄季の左手が浄祐の足にかかった。キリッと力を込めれば、浄祐が浮かべる笑みは深くなる。
「受けてやる」
自分の喉から出ているとは思えないほど低い声は、周囲の空気を凍てつかせながら響いた。
「あんたからの翼位簒奪、受けてやるっ!!」
「約定成就。証人は、ここにいた退魔師四対」
浄祐は懐から手の平よりも小さな水晶玉を取り出すと地面に向かって投げ落とした。その瞬間、フッと氷柳の身を包んでいた違和感が消える。ハッと顔を上げた氷柳の様子を見るに、今の水晶玉の破壊を以って呪詛は解除されたのだろう。
「日は七日後の正午。場所は形式に
それでも浄祐は黄季の上から足を退けなかった。徹底的に痛めつけてやる、という意志を示すかのように、浄祐はギリギリと黄季の傷口を踏み付ける力を上げていく。
「それまで精々、最後に残された蜜月を謳歌するんだな」
「あんたこそ」
だがもう、痛みは感じなかった。
スイッと、左腕を振り抜く。響いたのはパンッという軽い音だったのに、黄季を踏みつけていた浄祐の足は面白いくらい簡単に横へ滑った。
浄祐の体が一瞬宙へ浮く。その瞬間に跳ね起きた黄季は全身のバネを使って浄祐の喉元へ腕を伸ばした。だが寸前で体勢を立て直した浄祐は黄季と交錯するよりも早く後ろへ飛び退る。
「……チッ!!」
腰を落として体勢を立て直した浄祐が片手で己の喉元をさする。その瞬間ベタリと手に触れた物と喉に残された感触で、浄祐は一瞬の間に己の身に起こったことを察したのだろう。一連の事件が始まってから初めて分かりやすく顔に憎悪を浮かべた浄祐は、黄季を睨み付けると低く舌打ちを放った。
「最期の七日間を楽しめよ」
喉をさすった浄祐の右手は、ベッタリと血で汚れていた。血に塗れた黄季の指が、一瞬浄祐の頸動脈に触れた瞬間付着したものだ。
浄祐の認識よりも一瞬早く、黄季は浄祐の急所に達していた。
武官の家の出で、その意味が分からない者はいない。
屈辱に打ち震える浄祐に向かって、黄季は己の血で濡れた指を突きつけた。
「首と胴が繋がっている最期の七日間を、精々今のうちに楽しんどけ、このクズ野郎」
怒りと霊力が載った声に大気が震える。
そんな景色の中で、常に凪いでいる氷柳の瞳が、かつてないほどに揺れていた。
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