不穏な空気を、感じている。


「……」


 氷柳ひりゅうの斜め後ろに従い泉仙省せんせんしょうへ続く外回廊を歩いていた黄季おうきは、自分達に注がれる視線に気付いてソロリと視線だけで周囲をうかがった。見る前から『あまりよろしくない感情を向けられているんだろうな』ということは分かっていたのだが、案の定黄季達に視線を注いでいた一行は何とも言えない嫌な空気を纏っている。口元が袖や書類で隠されていても、表情に険があって口元に嘲笑が浮いていることは、チラリと顔を見ただけでも分かってしまうものだ。


 何となく黄季は前を行く氷柳との距離を詰めた。そんな氷柳は実に涼やかな顔をしているように見えて、瞳には分かりやすいくらい不機嫌がにじんでいる。


 周囲の人間には恐らく分からないだろうが、ここ数日の氷柳は実に分かりやすく現状に腹を立てているようだった。


 ──長官は俺に『耐えろ』って言ったけど、案外その言葉が必要だったのって氷柳さんの方だったのでは?


浄祐じょうゆうからばん黄季に対し、てい涼麗りょうれいの身代を懸けて翼位よくい簒奪さんだつを申し入れたいという発言があった』


 妖怪に操られたせい万里ばんりに刺された氷柳は、翌日の仕事を休み、療養に務めるように命じられた。それに合わせて黄季も公休となり、二人が泉仙省に揃って顔を出したのは事件が起きた二日後だった。


 その際、慈雲じうんは黄季達を長官室に揃えて呼び出し、改めて状況を説明した。


『俺はこの申し出を棄却した。だがその程度で魏浄祐が引き下がるとは思えん。簒奪を成立させるためにしつこくお前達に付き纏うはずだ。ヤツは根回しも上手い。周囲の感情を煽って、外堀から埋めようとしてくるはずだ』


 何を言われても、どんな感情を周囲から向けられても、絶対に『受ける』と言うな。


 現状の黄季では勝機はない。黄季か氷柳に『受ける』と言わせた時点で魏浄祐の勝利は確定だ。


『汀涼麗の相方は鷭黄季。現状、泉仙省でこれ以上に最適な組み合わせはないと俺も思っている。何が何でも崩させるな。どんな状況に置かれても耐え忍べ』


 ──問題は、耐えさえすれば解決するのかっていう所だよな。


 確かに仕組上、翼位簒奪は叩き付けられた側か長官が『受ける』と言わない限り成立はしない。だが逆に『いつまでに成立させなければならない』という決まりもない。つまり極論、相手が『受ける』と言うまでしつこく言い続けて押し切るという形が取れなくもないのだ。


 ──魏上官か……


 泉仙省には泉部と仙部、それぞれに長官がいる。その下に次官が一人いて、さらにその下が四人いる次官補だ。泉部で『上官』と呼び習わされる役職の人間はこの六人で、その三役を退いても泉仙省に籍を残して新たな三役の相談役となった者は老師、三役にはなくとも三役相当に実力と位階がある平退魔師は特別に尊師と呼ばれることが多い。


 くだんの魏浄祐は次官補の地位にある。黄季はあまり接点がなくて直接は知らないのだが、退魔の実力も泉部屈指という話だ。実力的に見ても地位の高低から見ても、確かに黄季では手も足も出ない相手だと言ってもいい。


 ちなみに完全な余談だが、氷柳は皆に『尊師』と呼ばれるのが実は嫌であるらしい。直接確かめたことはないのだが、漏れ聞こえてくる周囲の会話の中から『汀尊師』という言葉が聞こえてくると無表情のまま一瞬固まるから、確実に嫌がっているのだと思う。その証拠に慈雲は氷柳を煽りたい時だけあからさまに尊師呼びをしているようだ。


 ──とにかく、今の俺にできることは、氷柳さんと長官に余計な手間をかけさせないように言動に気をつけることだけ。


 具体的に魏浄祐を諦めさせる方策は、水面下で氷柳と慈雲が模索しているらしい。やれることがない黄季はひとまず、二人の邪魔にならないように息を潜め、敵意を以って手を伸ばしてくる輩から逃げ回ることしかなさそうだ。恐らく黄季にもできることが出てくれば具体的に教えてもらえるだろうから、その時まで英気を養うつもりでいるべきなのかもしれない。


 ──まぁ、あとは万が一のことがあっても大丈夫なように、一刻も早く実力をつけることと……


 考えを転がす黄季は、ふと周囲の空気が変わったことを察して顔を上げた。その瞬間、苛立ちを表すかのように踵を打ち鳴らしながら氷柳が足を止める。


 反射的に黄季は足を止めながら体重を後ろにかけて氷柳にぶつかる前に体を流した。スレスレで氷柳の体を避けながら氷柳の視線の先を追えば、氷柳の足を止めたが目に飛び込んでくる。


 その瞬間、黄季は思わずヒュッと鋭く息を吸い込んでいた。


「おや、今日も弟子とお出掛けでしたか、汀尊師」


 間合いにして五歩。氷柳の行く手を遮るかのように、回廊に人が立っていた。


 泉部の高位後翼こうよく退魔師であることを示す、目が覚めるような緋色の袍。その腰には赤翡翠の佩玉が誇らしげに揺れている。


 それらを嫌味なくらいにきっちり着込み、慈雲よりいくらか年嵩に見える顔に慇懃な笑みを浮かべて氷柳だけを見据えていたのは、事を荒げている張本人である魏浄祐泉部次官補だった。


「仲がよろしいことで」


 ニコリと、浄祐は愛想良く氷柳に笑いかける。口調も柔らかで、傍から見ていたらとてもじゃないが翼位簒奪を目論む者と目論まれている人間が相対しているようには見えないだろう。


「しかし弟子が可愛いからと言って、ベッタリ貼り付く弟子を放置しておくのも、いささか外聞が悪いと思われませんか?」


 だがその口から紡がれているのは、明らかに毒だった。


 その毒気にピクリと氷柳が反応を示す。氷柳の左手が袂の中で微かに動く気配を察知した黄季は、そっと影から氷柳の袂を引いた。


「氷柳さん」


 吐息に溶かすように呼びかければ氷柳が視線だけで黄季を流し見る。そんな氷柳に黄季は小さく首を横へ振った。


「……」


 しばらくそんな黄季を見つめた氷柳は、視線の先を浄祐に戻すと袂で隠した手の中に滑り込ませていた飛刀を片付ける。その小さな動きを見た黄季は思わずホッと息をついた。


『黄季、お前、ほんっっっとーによく涼麗のこと見張っとけよ』


 今の黄季にできることのうち、慈雲から『多分お前にしかできない最重要事項』と言い渡されたこと。


『あいつ、普段はあらゆることに興味関心がないせいで全てをシラーッと受け流してるけど、本質はあのお綺麗なナリに似合わずメッチャクチャ喧嘩っ早いからな?』


 プッツン切れた氷柳がうっかり実力行使で魏浄祐を排除しないように見張ること。『気持ちはよく分かるが、さすがに堂々と暗殺されたら庇いきれない』とは慈雲の言だ。


 ──聞かされた時は『まっさか〜』とも『堂々と暗殺って暗殺って言えないのでは?』とも思ってたんだけど……


 黄季はそっと氷柳の表情を盗み見る。


 今日も変わらず貴仙のごとく涼やかに整った顔に今、表情らしき表情は見えない。だがその瞳に明確な敵意……いや、殺意と言っても良いものを見た黄季はヒクリと頬を引きらせる。


 ──割と早い段階で堂々と暗殺仕掛けようとしましたよね氷柳さん……!


 確かに、黄季にも浄祐に対する怒りの感情はある。


 いくら黄季の実力が足りていなかろうが、浄祐が仕掛けてきたことは許されることではないし、許すつもりもない。周囲の目がなければ直接文句を言ってやりたいし、ついでに張り手の一発でも叩き込んでやりたい。


 だがさすがに『腹立たしいからとっとと暗殺してしまえ』という思い切った心境にまでは至れないものである。


 ──氷柳さんの場合、下手に霊力も武芸の腕もあるから、余計に厄介なんだよなぁ。


「……黄季は確かに私の弟子だが、同時に私の相方でもある。現場仕事から帰ってきた後だ。同行していて当然だろう」


 黄季に実力行使を止められた氷柳は代わりに口を開いた。感情が極限まで削られた声は真夏の熱気さえ凍り付かせるほど冷え冷えとしている。


 だがその冷気にさらされても浄祐の笑みは消えなかった。


「本日は朝から現場回りだったようですね? 随分お時間がかかったのでは?」

「積まれた現場の数が多かったからな。どっかの誰かさん達が書類と遊んでばかりいるせいだろう」

「おや? 貴方の相方の実力が足りていないせいではなく?」


 ピクリ、と。


 その言葉に再び氷柳の眉が撥ねた。


「お聞きしましたよ? 貴方は本来、単騎出撃が可能な実力者であると。そんな貴方がたかだか数件の現場でこんなに手間取るものなのですか?」


 浄祐の言葉に氷柳がスッと瞳をすがめる。


 そんな氷柳に対し、浄祐ははっきりと笑みに毒をにじませた。


「実力不足な相方を庇いながらの現場は、さぞお辛いことでしょう。いっそ単騎出撃した方が早く片付くのでは?」


 泉部の退魔師は、現場に出る際、必ず一対で行動するようにと義務付けられている。それだけ現場は危険で、退魔師の命を守るための最低限の保険が『相方との連携』なのだ。


 だが時折、その最低限の保険が必要ないくらい個人の実力が抜きん出ており、かつ周囲に人がいない方がその実力を発揮できるという特性を持った退魔師が現れることがある。


 そんなごく一握りの実力者にのみ許されるのが『単騎出撃』……相方や補助の者を伴わず現場に躍り込む、ある意味捨て身の特攻だ。『近場に攻撃してはならない存在がいた方が不都合』という状況は一対多の殲滅戦で展開されることが多く、そんな危機に単騎を許される人間は単身で国をひっくり返せるような実力者ばかりであると聞いている。


「実は私も単騎を許されている人間なんですよ」


 黄季が知っている限り、現状の泉仙省で単騎出撃を許されているのは慈雲だけだ。慈雲の退魔術は周囲を巻き込む大技が多いらしく、比翼であったかつての相方でなければとてもじゃないが合わせきれない戦い方をするらしい。ゆえに慈雲は相方を失ってから現場に出る時はほぼ単騎であったという噂だ。


 慈雲で単騎が許されているならば、それを上回る実力を持つ氷柳にも単騎は許されるだろう。以前氷柳はチラリと『単騎でも出撃できるように師に仕込まれた』と言っていたから、大乱前には実際に単騎での出撃経験もあるのかもしれない。


 そして浄祐は己もそんな実力者なのだと氷柳に笑いかける。


「どうです? 試しに一度、私と組んでみませんか? 貴方は現役時代はかく永膳えいぜんと、復職してからはその雛鳥としか組んだことがないという話ではないですか」


 スルリと、うやうやしく浄祐は片手を氷柳へ差し伸べる。恭しくはありながらも、己の手は取られて当然であるという傲慢さを込めて。


「貴方は知らないだけだ。相方が変われば、現場での快適さが格段に変わるということを」


 氷柳はその手を無表情に見つめていた。先程のように何かに反応することもなければ、殺意を動かすこともない。ただただ冷たく整った顔にあるのは『無』だけだ。


「体験してみれば分かります。そんな雛鳥に固執する意味などなかったのだと」


 そんな氷柳を浄祐はどう捉えたのだろうか。氷柳に片手を差し出したまま、浄祐はウッソリと蛇のような笑みを深める。


「貴方には、私のような強き翼こそふさわしい」

「……強き翼、か」


 氷柳は小さく呟いた。その低い呟きの中に微かな笑みが含まれているのを聞き取った黄季は思わず氷柳を見上げる。


 その瞬間、不意打ちで氷柳の右腕が翻った。


「ならば私の相方は、この上なく私にふさわしいということだ」


 鋭く宙を裂いた光は浄祐の頬をかすめるように飛ぶとカッと鋭い音とともに回廊を支える柱に突き刺さった。石を組み上げて作られた柱に深々と突き立てられた飛刀は、恐らくもう柱そのものを取り壊さないことには回収できないだろう。


 ──てか氷柳さん、右で飛刀打てたのっ!? いつも左で打ってなかったっ!?


「私は、鷭黄季以上に強き翼を知らない。強き翼こそが私にふさわしいと言うならば、これ以上に私にふさわしい翼はないだろう。何せ」


 奥の手を出してきた氷柳に『あわわわわっ』と慌てる黄季の前で、氷柳はこの上なく美しくわらってみせた。


 傲慢でありながら高貴で、苛烈でありながら涼やかな。それでいて神々しいとさえ言える、氷柳でなければ浮かべられない挑発的な表情で。


「もはや二度と空を舞うこともないとしょぼくれていた私を、もう一度大空へと押し上げた翼だ。殻付きの雛鳥でありながら、それを成した翼だ」


 凛と、一切の躊躇いもなく、天地に聞かせるかのように氷柳は言い切った。そんな氷柳の声に浄祐のみならず事態を見物していた周囲の人間までもが息を飲む。


「お前の方が私にふさわしいだと? ふざけるな」


 苛烈に響く氷柳の声に、黄季までもが息を飲んだ。


「私の翼を見くびるな。私と比翼ではなく鳳凰たることを誓ったこれを、お前ごときが見くびるな」


 その苛烈さは、氷柳の屋敷で慈雲が永膳の名前を出した時に見せた激情に迫るものだった。静かでありながらも氷柳の霊力が載せられた声は、呪歌の形を成していなくても聞く者の耳を鋭く叩き、威圧する。


「私の相方は鷭黄季。私はそれ以外を認めない」


 キッパリと言い切った氷柳は凍り付いたかのように静まり返った周囲を一瞥するとフンッと息をく。その吐息の中に怒り以外にも微かな満足があることを察知できたのは、恐らくこの場で黄季だけだろう。


 ──氷柳さん……


 認めてくれていることは、知っていた。そうでなければ氷柳は黄季を相方に置いたりはしない。退魔においてだけは情けをかけない。それが氷柳の在り方だ。


 だけど。


 ──そこまで言ってくれるくらいに、俺のこと買ってくれてたんだ……


『汀涼麗が他の人間の実力を知らないだけ』

『汀涼麗にふさわしい人間は、他にもいるはず』


 そんなこと、他人に言われるまでもなく、黄季自身が一番分かっていたことだった。そのことに不安になったこともあれば、焦燥にかられたことだってある。


 だというのに、当の氷柳が言うのだ。繰り返し、繰り返し、重要な選択を迫られる場面では、必ず。


 自分の相方は、鷭黄季だけだと。


「……つまらないことに時間を取られたな」


 ツンッと鼻の奥が痛んで、視界がウルッと緩んだ。だが氷柳は黄季に涙ぐむ暇さえ与えてくれない。


「行くぞ、黄季」


 サラリと艶やかな黒髪を翻しながら氷柳は前へ踏み出す。そんな氷柳が迷いなく黄季を呼ぶから、黄季は強い声で答えるしかない。


「はいっ!」


 グッと涙を飲み込んで、黄季は力強く氷柳の後に続く。歩みを進める氷柳の視界には、もはや立ちふさがる浄祐さえ入っていないらしい。


「後悔しますよ」


 だが浄祐は実際には消えていない。氷柳のことを諦めてもいない。


 その証拠に氷柳が真横を通り抜ける瞬間、浄祐は低く囁いた。


「今の宣言を、貴方は必ず後悔する」


 そんな浄祐に氷柳は足を止めなかった。一瞥さえくれずに浄祐の横を通り抜けた氷柳は、呪詛にも似た声さえ聞こえていないかのように迷いなく足を前へ進め続ける。


「貴方は必ず私の手を取る。忘れるな、汀涼麗……!」


 その声に振り返りたくなる衝動をグッと噛み殺し、黄季は浄祐の視線から氷柳を庇うように後ろへ続く。


 そんな二人を嘲笑う浄祐の低い声だけが、外回路には響いていた。

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