夏の日差しがジリジリと地面を焼く音が、室の中にいても聞こえるような心地がした。これでもまだ盛夏と呼べる季節の一歩手前だというのだから恐ろしい。


 ──でも今、それよりも恐ろしいのは……


 暑さ以外から来る汗をかいていると自覚しながら、黄季おうきはチラリと目の前に座っている人物を見遣った。


 黄季を卓の横に控えさせて書類仕事に励んでいるのは、我が目を疑うほど顔立ちが整った男だった。貴仙もかくあらんというほど涼やかな美貌を備えた男は、死装束にも似た白衣びゃくえに身を包み、艶やかに流れ落ちる黒髪を後ろで高く結い上げ、卓に置かれた書類にサラサラと筆を走らせている。そんな何でもない姿さえもが、十分一幅いっぷくの絵になる御仁だ。


 もっとも、今はその絶世の美貌も、眉間に深く刻まれたしわで台無しになっているのだが。


 ──いや、氷柳ひりゅうさんくらいの美人さんになると、こんな表情でさえ美しさが損なわれていないわけなんだけども。


 思わず黄季はそんなことを思う。ちなみにこれは、まぎれもなく現実逃避だ。


「……慈雲じうん


 そんな黄季の現実逃避の声が聞こえたかのように、黄季の目の前にいる美人……黄季の師にして相方である氷柳はカタリと筆を置いた。


 ──来る。


 この数日繰り返されている争いが今日も繰り広げられるであろう予感に黄季は思わず身構える。


 対して氷柳に呼びかけられた当人である泉仙省せんせんしょう泉部せんぶ長官であるおん慈雲は、自分の手元にある書類から顔も上げないまま、実に気のない声を上げた。


「おー?」

「今日の泉部に、現場仕事は発生していないのか?」

「んなわけねーだろ。泉部うちは万年人手不足だ。現場出てる人間は何件も現場兼任しててヒーヒー言ってるっつの」


 その言葉に氷柳の眉間の皺がさらに深くなる。真夏だというのに氷柳の周囲だけなぜか空気がひんやりとしているように感じるのは、決して黄季の気のせいではない。


「……ならばなぜ、私はこの部屋に留め置かれているんだ?」


 この数日、毎日どころか半日に一回は聞いている問いに黄季は思わずジリッと足を引いた。


 だが直接氷柳から刺さるような視線と氷のような殺気を向けられているにも関わらず、やはり慈雲は手元の書類から顔さえ上げない。


「理由は簡単」


 それどころか、慈雲はおどけるように一度反動をつけてからピッ! と空いている指先を氷柳に向けた。


「その書類の決裁は四位以上の人間しかできなくて、現状の泉部に四位以上の退魔師は俺とお前とうん老師しかいないからだ」


 そんな慈雲の挙動と言葉に、今度は氷柳の額に青筋が浮く。


 そこでようやく顔を上げた慈雲は、ニヤァッと、実にいやらしく笑った。


「現場は下っ端でもさばけるが、この書類は俺とお前にしか捌けない。ま、せっかく俺が頑張ってお前を三位の下で復職させてやったんだ。せいぜい頑張ってくれよ、


 その瞬間、黄季は隣から『プッツン』と何かが切れる音を確かに聞いた。


 同時に視界がブワリと白銀の燐光に染め上げられた瞬間、黄季は考えるよりも早く手にあった書類を放り出して後ろに飛び退すさっている。


「私はお前に代わって書類を決裁するために泉仙省に復帰したわけではないっ!! 現場に出させろっ!!」

「おーおーおー、伝説の『氷煉ひれん比翼』の片割れともあろうお方がこの程度の書類仕事で音を上げるかよ? なっさけねぇのぉ〜!」

「……慈雲、今日という今日はお前の首と胴体に別れを告げさせてやろう」

「おーおー、やンのか? やンのかよ、お?」


 白銀の燐光の後には互いに冷えた声が飛び交い、最終的には流葉りゅうよう飛刀ひとう偃月刀えんげつとうがかち合うことになる。


 ──氷柳さん、いくら書類仕事が嫌いだからって、毎回毎回そこまではやらなくてもいいのではっ!?


 黄季は喉からこぼれかけた悲鳴を必死に飲み込むと、まだ飛び交っているのが言葉であるうちに体勢を低く保ったまま室の外に転がり出る。


 ここ数日の経験から分かる。このままここにいては、黄季の命が危ないと。


 幸いなことに、室の外に人気はなかった。避難誘導をしなくていいことにほっと胸を撫で下ろしながら、黄季は一応室の中に向かって声を張り上げる。


「俺、ちょっと医局に遣いに行ってきますっ!!」


 室の中まで届いたかどうかは定かではないし、そもそも届いていたとしても室の中で暴れている二人に黄季の言葉を聞く気はないだろう。だがとりあえず声を上げておけば、黄季がここから離脱することに一応言い訳は立つ。


 そんなことを考えながら身をひるがえした黄季は、全速力でその場から逃げ出しながら、なお背後で響き続けている乱闘の音に顔を引きらせた。




  ※  ※  ※




 ばん黄季おうきは、宮廷の退魔組織である泉仙省せんせんしょうの下っ端退魔師だ。昨年入省した新人で、夏の初め頃までは無位階を示す黒の袍を着ていた。今でこそ六位後翼こうよくを示す蘇芳の袍に身を包んでいるが、黄季の中身がペーペーの新人であることに変わりはない。


 そんな『ペーペーの新人』である黄季が、色々な物をすっ飛ばして二年次にしては異例の六位の下という位階を与えられているのには、話せばそれなりに長い訳がある。


氷柳ひりゅうさんが怒りたい気持ちも、まぁ分からなくはないんですよ。だって長官は氷柳さんのずば抜けた退魔の腕が欲しくて、色々あれこれして氷柳さんを引っ張り出してきたっていうここまでの経緯があるんですから」


『長い訳』を無理やり短くまとめてしまうなら、『黄季が氷柳の相方に選ばれたから』という一言に尽きる。


「だけど、毎っ回喧嘩しなくてもいいと思いません? 半日に一回の頻度で割とガチ目の命の取り合いに巻き込まれるこっちの身にもなってほしいというか」


 黄季の師であり、最近相方にもなった氷柳は、まことの名をてい涼麗りょうれいという。八年前、この沙那さなの都を灰燼かいじんに帰した大乱『天業てんごうの乱』を集結に導いた伝説の退魔師の片割れで、今でも都屈指の退魔の腕前を持つ御仁だ。


 そんな氷柳だが、つい最近までちまたでは死んだということになっていた。というのも、大乱で相方を亡くした氷柳は、世間の全てと関わりを断ち、己の屋敷を強力な結界で囲って隠遁生活を送っていたからだ。


 氷柳の年上の同期である慈雲は、行方をくらました氷柳をずっと探していた。大乱を生き残り泉仙省を預かる身となった慈雲は、大乱によって大きく戦力を削られた泉仙省を立て直すためには氷柳の力が必ず必要になると分かっていたらしい。


 慈雲は長官という身分を使い、部下達に覚られないように氷柳の霊力を探知する術式を仕込んだ佩玉はいぎょくを与えて、長年地道に氷柳の行方をさぐっていた。


 そんな部下の内、偶々たまたま氷柳の屋敷に迷い込み、世界の全てにんでいた氷柳とえにしを紡いだのが、黄季だった。


「せめて俺がいない所でやってほしいっていうか……なんっでただの書類仕事なのに俺をそばに置いてるのかっていうか……」

「おや?」


 ここまでの諸々もろもろを思い返しながらつらつらと文句を口にしていた黄季は、ここに来て初めて口を開いた人物に視線を投げた。


「今まで僕は愚痴を聞かされていたのだと思ったけれど、もしかして惚気のろけの間違いだった?」

「へっ!? の、惚気っ!?」

「だって黄季君、そんなことを言いつつも『傍に置いてくれて嬉しい』って顔してるよ?」

「えっ!?」


 黄季が腰を降ろした寝台に並んで腰を降ろし、冷茶が入った湯呑を両手で大切そうに支えたこう医官は、まぶたをゆったり閉じたまま黄季に顔を向けていた。微かに首が動いたせいか、左耳の下辺りでゆるくひとつに束ねられた髪が微かに揺れる。光に当たると紫がかって見える独特の髪色をした盲目の医官は、いつもと変わらない穏やかな笑み浮かべたまま優雅な所作で冷茶をすすった。


 退魔省からほど近い建物に居を構える、医局の簡易休憩室だった。他の医官は仕事に出ていて急患もいないのか、簡易休憩室にいるのは煌医官と黄季の二人だけである。


「こ、煌先生は、俺の顔は見れないじゃないですかっ!」


 泉仙省……特に現場に出張って妖怪を狩ることが使命である泉部せんぶの退魔師は、仕事柄怪我を負うことが多い。直接的な怪我だけではなく、妖怪や土地の気にあてられたり、霊力が枯渇したり、目に見えない特殊傷病で命に関わる損傷を負うこともある。そういった傷病は医学と呪術を両方修めた特殊な医官……呪術医官と呼ばれる者にしか対処ができない。


 煌医官は、宮廷の中にあって数少ない呪術医官だ。普通の医官よりも数が少なく、また四方八方から重宝される呪術医官は何かと理由をつけられては御典医として引き抜かれがちなのだが、この青年医官は引き抜きを全部断って医局に残ってくれている聖人のような御方であるという話だ。泉仙省の人間は皆、この青年に頭が上がらないんだとか。


「声の響きと、雰囲気で分かるよ。色々言っていても、汀尊師が傍に置いてくれることそのものは嬉しいんでしょ?」


 そんな縁があって、泉部からは定期的に煌医官の手伝い要員が派遣される。日頃の礼を労働で返すということ以外に『煌医官と顔馴染みになっておけ』という上層部の意図もあってのことらしい。いざ命に関わる怪我を負い、煌医官が治療するということになった時、多少なりとも為人ひととなりが分かった方が治療がしやすいという話だ。


 大乱の折に負った怪我が元で視力を失った煌医官の方も、手伝いの手があるのは何かとありがたいそうで、今の泉部と煌医官の間ではもちつもたれつの関係が構築されている。


 黄季も、そんな手伝い要員の経験を経て煌医官と知り合いになった人間の一人だ。同期達が言う『人間関係の距離感切り込み隊長』っぷりをここでも発揮していたのか、今では煌医官側から手伝いを要請してくる時は何かと黄季を指名してくれることが多い。何でも『黄季君は素直だから、感情の波が読みやすくて気心が知れる』ということだ。褒められているような気はしないが煌医官が心を許してくれているのは確かだから、黄季もその距離感に甘えて時々、こうして煌医官の元に息抜きに来ていたりする。


「そ、それはっ! あ、あんなことがあったわけだし……っ!!」


 煌医官の言葉に黄季は思わず自分の顔に手を当てた。指先で表情を探ってみれば、確かに口の端がわずかに笑み崩れているような気がする。


 そんな黄季の反応さえもが手に取るように分かるのか、煌医官は湯呑を持つ手を膝に降ろすと穏やかに笑みを深めた。


「良かったね、黄季君」


 その言葉に、黄季は思わず素直に頷いた。


「……はい」


 ひょんなことから氷柳の屋敷に迷い込み、流れで氷柳に退魔師として鍛えてもらえることになった黄季だが、ここまでずっと師弟関係が順風満帆だったわけではない。様々なしがらみから、氷柳と事実上絶縁になった期間もあった。


 もう二月ふたつき程前になるか。


 慈雲に屋敷の場所を割り出された氷柳は、世間から身を隠すために黄季とのえにしを断ち切った。


 その時の衝撃を、黄季はいまだに忘れていない。


「確かに、嬉しくはあるんです。氷柳さんが、傍にいてくれるのって。……あれは、夢じゃ、なかったんだって」


 そんな氷柳が、なぜ自主的にあの屋敷を出て自ら戦場に舞い戻ったのか。……結局の所、黄季は理由を分かっていない。


 ただ、氷柳は自らの意志で戦場に戻ることを決め、そんな自分のかたわらに黄季を置くことを泉仙省復帰の条件とした。同期の中でも落ちこぼれ気味であった黄季が全てをすっ飛ばして六位後翼にじょせられた理由がこれだ。


「ただ……だからこそというか、その……。ここまでベッタリなのも、どうなのかなって」


 その絶縁を越えて相方となったのがつい半月程前だ。いまだに現実味が湧かないことも多々あるから、氷柳が常に視界の中にいてくれるのはある意味ありがたい。


 ──それだけ視界に入れてるはずなのに、なぜか氷柳さんがキッチリした格好でキッチリ卓に向き合ってる姿がいまだに見慣れないんだよなぁ……


 黄季としては、この違和感に早く慣れたい所である。怠惰な姿で寝椅子に寝転んでいた氷柳もそれはそれで退廃的で美しかったのだが、泉仙省に復帰した氷柳は凜とした空気がそこに加わってもはや『美の暴力』と言って良い体裁をしているので。


「氷柳さん、色々心労が降り積もってるんじゃないかなって思うんですよね。ほら、八年も独りきりだったわけじゃないですか? そんな状態からいきなり泉仙省に引っ張り出されたわけだから、色々気疲れしてるんじゃないかなって」

「そんなに繊細な人だっけ? 汀尊師って」

「そこはよく分かりませんけども……。誰だって、いきなり環境が変わって、慣れない仕事を押し付けられたらイライラすると思うんですよね……って」


 そこまで答えてから、黄季はハタと我に返った。改めて煌医官を見遣れば、視線を感じたのか煌医官は軽く小首をかしげる。


「煌医官、もう氷柳さ……えっと、汀師父と会ったんですか?」

「『氷柳さん』で大丈夫だよ。汀尊師が昔そうやって呼ばれていたことは知ってるから」


 氷柳は復帰してからずっと日がな一日泉仙省の長官室で慈雲とともに書類仕事に明け暮れていたはずだ。物珍しそうに視線を送ってくる周囲の人間が煩わしいのか、あれだけ書類仕事を嫌がっていながらどこかへ逃げ出そうとする気配もない。


 ──そんな周りの距離感というか、そういう空気感にもイライラしてるんだろうなぁって分かっちゃうんだよなぁ……。そこも何とか解決できたらなぁって思うんだけどなぁ……


 そんな黄季の内心は置いといて、とにかく氷柳は泉仙省に復帰した後も泉仙省では長官室、帰宅後は屋敷に引きこもっていて他に出掛けていた気配はない。屋敷と王宮の往来時には黄季が付き添っているし、王宮内を歩く時も『再建されたせいで地理が分からん』という氷柳の案内人として黄季が常に同行している。


 つまり氷柳の外出そとでには常に黄季が付き従っている状態だ。そして黄季の記憶に氷柳と煌医官が顔を合わせた場面はない。前々から『氷柳さん』に関する話は聞いてもらってきたが、氷柳の性格に言及できるほど煌医官と氷柳の接点はないはずだ。


 ──まぁ、そう言う俺だって、氷柳さんの何を知っているって話でもないんだけども。


「彼は、有名人だからね。大乱の前に見かけたことがあるんだ。その頃はまだ、僕の目もじゃなかったからね。多少は知ってるよ」

「そうなんですか……」


 変わることなく穏やかな口調で紡がれた言葉に黄季は言葉少なく頷いた。


 煌医官が視力を失った経緯を黄季は知らない。泉仙省の先輩諸氏の中には黄季よりずっと煌医官と親しい人間も、大乱当時を知る人間もいるが、煌医官の経歴については不思議と耳にすることがなかった。それだけ繊細な話なのだろうと黄季は捉えている。


 ──そもそも、大乱当時から煌医官が医局の呪術医官だったかどうかも分からないし。


 あの大乱をきっかけに人生がガラッと変わってしまった人間は多い。むしろ変わらなかった人間の方が稀だ。黄季だって、氷柳だって、あの大乱がなければきっと今、違う人生を歩んでいる。そのことについて触れられたくない人間は、きっと黄季が思っている以上に多いはずだ。


「まぁ、今の汀尊師は、黄季君に甘えているんだろうね。そしておん長官は多分、汀尊師が帰ってきてくれたことに浮かれてるんだと思うよ」


 黄季が言葉を躊躇ためらわせた理由に、恐らく煌医官は気付いたのだろう。穏やかに笑みを深めた煌医官は、ゆっくり立ち上がると傍らに置かれていた卓の上に手にしていた湯呑を載せる。


 そんな煌医官の言葉に黄季は裏返った声を上げていた。


「甘えてる? 氷柳さんが?」

「『甘えてる』がお気に召さないなら、『どころにしてる』でもいいよ」


 実は見えているのではないかと疑いたくなるくらいなめらかな挙措で卓上の盆に湯呑を返した煌医官は、返す手で卓に立てかけられていた杖を手に取った。煌医官が歩く時に自分の目の代わりとしている杖は、先を地面に置いて肩にもたれさせるように持つと反対の先が煌医官の背丈とほぼ同じ高さまで上がる。その先に結わえ付けられた小鈴の束がシャリンッと微かな音を立てた。


「今の汀尊師にとって、自分の味方だと心の底から信じられる人間は黄季君しかいないから。汀尊師からしてみたら、黄季君が傍にいてくれることは、厳重に結界を張り巡らせたお屋敷に引き籠もっている状態に近いくらいの安心材料なんじゃない?」

「へぁ!? さすがにそれは……」

「心を預けられる存在が傍にいてくれるって、それくらい心強いことだと思うんだよね」


 買いかぶりすぎなんじゃ、という言葉は、煌医官の穏やかな声にかき消された。煌医官の声は常に穏やかさと静けさに満ちているのに、なぜか不思議とよく通る。どんな雑踏の中に放り込まれても呪歌を貫き通せる、退魔師に向いた声だ。


「まぁ、この状況を黄季君が良いと思うか否かは別としてね」


 そんな静かな力が満ちた声で言葉を紡ぎながら、煌医官は声と同じくらい静かに笑った。


 その笑みと言葉で、黄季はまたもや内心を見抜かれていたことを覚る。


「……良くはないと、思うんです」


 そんな煌医官に甘えて、黄季はおずおずと口を開いた。


 当事者である氷柳や、氷柳と立ち位置が近すぎる慈雲には話せない、最近黄季が思い悩んでいることを聞いてもらうために。


「だって氷柳さんは今、泉仙省に属しているわけで。泉仙省の、人間の一人でいるわけで。……うまくは言えないけれど、……今の氷柳さんは、もっと、人の輪の中にいなくちゃいけないと、思うんです」


 黄季が出会った時、氷柳は独りだった。全てをまぼろしで固めた美しいだけの庭で、独り無聊ぶりょうをかこっていた。


 そんな氷柳の在り方を、黄季は寂しいと思った。


 あの庭に転がり込んで、氷柳と言葉を交わすようになって、多少なりとも氷柳の為人ひととなりを知って。一度絶縁された後は、氷柳をあの寂しい庭に独りきりで置いていきたくないと願うようになった。


 今、氷柳はその庭から、自分の足で外に出てきた。一度は捨てた世界へ、自分の意志で戻ってきた。


 でも、それだけでいいというわけではないと、現状を見ていて黄季は思う。まだまだ氷柳と氷柳を取り囲む世界には、深い深いみぞがある。


 その溝が、いつか氷柳の心を喰い付くしそうな気がして。


 それが今の黄季には怖くて、同時に、心がモヤモヤする。


「どれだけ人が嫌になっても。……人は、人と関わって、生きていかなきゃいけないと思うんです。俺だけが傍にいても、他の人が関われなきゃ……あの庭にいた時と、あんまり変わらないじゃないかって」


 ──……本当は、多分、それだけじゃないんだろうけれど……


 言葉にすればするほどモヤモヤする内心を押さえつけたくて、黄季は袍の胸元を握りしめた。そんなことをした所でこのモヤモヤは消えないと分かっていても、そうせずにはいられなかった。


 ──こんなにも……こんなにも、心を言葉にできないなんて。


「だから……今の状況を、何とか変えたいんですけど……」

「……そっか」


 不意に、ポンッと頭に重さが加わった。予期していなかった重さと温もりに頭を跳ね上げれば、煌医官がよしよしと黄季の頭を撫でている。


「こ、煌先生?」

「黄季君は、本当に良い子だね」

「え?」


 幼子を褒めるかのようにワシワシと煌医官は黄季の頭を撫で回す。『そう言えば最近、似たようなことがあったな』と記憶をたどってみたら、慈雲に頭を撫でられたことを思い出した。慈雲の方がもっと豪快だったが、頭を撫でる手に込められた優しさは不思議とよく似ている。


「僕だったら逆に、他の誰にも目を向けられないように、もっと依存させちゃうけども」

「え?」

「黄季君はそれを望まないんだね。汀尊師にはもったいないくらい、出来た優しい子だよねぇ」


 何やら不穏な言葉をサラリと紡いだ煌医官は、黄季の頭から手を引くとどこかへ顔を向ける。思わず頭を押さえながらほうけた声を上げると、煌医官はささやくような声音で言葉を付け足した。


「その選択を、後々後悔しないようにね」

「え?」


 その言葉の意味が分からなかった黄季は真意を問おうと唇を開く。


 だが今回も煌医官の言葉が黄季の声を呑み込んだ。


「何やらお迎えが来たみたいだよ? 黄季君」

「迎え?」


 迎えが来るような用事はないはず、と思いながらも、黄季は素直に煌医官の視線の先を追う。


 そんな黄季の耳にバタバタと、こちらに近付いてくる騒がしい足音が届いた。誰かがこの部屋に向かってきているのだと分かった時には、すでに戸口に足音の主の姿が見えている。


「黄季っ!! やっと見つけたっ!!」

明顕めいけん?」


 まだ真新しい紺色の袍を翻しながら飛び込んできたのは、黄季の同期である明顕だった。息を切らして飛び込んできた明顕の顔からは血の気が引いている。


「どうしたんだよ? そんな慌てて……」

「緊急事態だ! すぐに泉仙省に戻ってきてくれっ!!」

「緊急事態? だから、何があったって……」

「呪具庫に保管してあった呪具が暴走してるんだっ!!」

「はぁっ!?」


 明顕の叫びに黄季の声が引っくり返る。黄季に駆け寄ってきた明顕はそんな黄季の腕をグイッと引いた。


「とりあえず民銘みんめいを現場に置いてきた。でも、押さえてられんのも今のうちだ」


 泉仙省には退魔師達が己の武器として振るう呪具の他にも、封印を依頼されて成り行きから預かってしまった曰く付きで凶悪な呪具も保管されている。保管庫には上級退魔師が編んだ結界が展開されているはずだが、万が一あの結界に穴が開いてしまったことで封印が解けたというならば厄介だ。早急に手を打たなければ泉仙省から王宮が滅びる。


「とにかく行くぞ、黄季!!」

「お、おうっ!!」


 ようやく理解が追いついた黄季は慌てて腰を上げる。


 そんな黄季達の背後で、煌医官がこれから発生するであろう怪我人に備えるために薬棚を開けていた。

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