※※※

「それでは、どうぞ」


 大きく扉を開け放ち、先に道場に入った黄季おうきは後ろに続いた氷柳ひりゅうを中へ招いた。扉の前で一度足を止めた氷柳は、一度奥へ向かってペコリと頭を下げてから敷居をまたぐ。


「えっと、立ち合いということでしたけど、具体的にはどんな感じがいいですか?」

「……退魔術は使わず、武具は互いに普段使いの物を」


 道場の中に踏み込んだ氷柳は、一度足を止めるとカツンッとかかとを床に叩き付けた。たったそれだけでフワリと空間に白銀の燐光が舞い、視界はまばたきひとつの間に昼の日差しの下にいるかのように明るくなる。


「私は飛刀と匕首、両方を使わせてもらう。お前も紫鸞しらんを使え」

「分かりました。……えっと」

「……お前に本気で打ち掛かられたら瞬殺されることはさすがに分かっている。私が仕掛けるから、お前が受けろ」

「はい」


『あ、やっぱり?』と内心だけでこぼしながら、黄季はポリポリと頬かいた。


 氷柳に褒められたのがこそばゆいような、『いや、でも多分瞬殺できるほど実力差はないんじゃないですかね?』と言いたくなるような、何とも座りが悪い気分だった。どんな心持ちで立ち合いに臨めばいいのか、いまだに理解がおよんでいないというのも、その座りの悪さに拍車をかけているのかもしれない。


 ──何せこれ、多分本題じゃないだろうし。


 あの後も氷柳の様子は観察していたが、夕飯を終えた後の氷柳はどこか心ここにあらず、といった雰囲気だった。何かに悩んでいるのか、あるいは思いを馳せているのか、そんな空気が今も氷柳を取り巻いている。その原因は黄季には不明だが、とにかく普段通りの氷柳ではないというのは確かだ。


 ──でも、こうやって立ち合いを所望したってことは、これが氷柳さんのお悩み解決の役に立つってことなんだろうし。


 たずねた時に拒否や沈黙で返されなかったということは、今回の氷柳は悩み事を黄季に隠すつもりはないということだろう。氷柳は己の内心を言葉にするのが苦手な性質たちだから、もしかしたら今、氷柳の心の内ではその『悩み』が必死に言語化されている最中なのかもしれない。


 ──それがどうなって『一手御指南』って発想になったのかは分からないけども。


 氷柳が御所望ならば、自分は全力で応えるまでだ。


「氷柳さん、元々この道場、飛び道具の稽古にも使われてたんで、遠慮容赦斟酌その他一切無用です」


 黄季は高座に歩み寄ると、肘掛けに預けてあった紫鸞を手にした。スラリと鞘を払えば、白銀の燐光を反射した紫鸞の刃は清廉な輝きを見せる。


 抜き身の紫鸞を片手に、黄季は氷柳と対峙する位置に立った。紫鸞を手にした瞬間引き締まった黄季の空気を感じたのか、何かに迷ってぼやけていた氷柳の表情もスッと静かに引き締まる。


「それでは」


 黄季は刀印を結んだ左手を前に、紫鸞を握った右手を背に隠すように後ろに構えた。その構えを見た氷柳は肩から力を抜いて自然体で立つと両手を袂の中にそっと潜り込ませる。


「一手御指南、お願いします!」


 黄季の声が場の空気を叩く。


 その衝撃を裂くかのように氷柳の両袖が翻った。両手はいまだ袖に隠されていて動きは見えないが、袂の中からなげうたれた飛刀は白銀の燐光を弾きながら鋭く黄季に迫る。


 ──緩い。


 幾重にも放たれる飛刀を黄季はその場から動くことなく全て払い落とした。金属同士がかち合う鋭い音に耳を澄ましながら、黄季の視線は飛刀ではなく氷柳の動きを追っている。


 ──氷柳さんの本来の腕前なら、もっと鋭くも打てるはず。


 黄季は油断なく氷柳を見据えながらも、己からは踏み込まない。あくまで受けるだけの姿勢を示す黄季に対し、氷柳は再び舞うかのように袂を翻す。放たれる飛刀は二本の腕のみによって放たれているとは思えない複雑な軌道を描くが、黄季はその全てを危なげなく払い落とした。


 ──一本一本の威力は強くない。氷柳さんの飛刀の真骨頂は、その複雑な軌道と速さ。


 一本一本の飛刀に込められた力はそこまで強くない。元々柳葉飛刀は暗殺を主目的として考案された飛び道具だ。薄く伸ばされた刃は力を込めるには適していない。氷柳はその短所を投擲の鋭さで補填している。


 だが黄季はその速さにも対処することができる。実際の捕物現場では退魔術による後押しもあるのだろうが、こうして純粋な武術勝負になれば黄季の目には十分飛刀の動きが見えている。唯一手を焼く軌道の複雑さも、目で追うことなく耳で音を聞けば惑わされることはない。


 ──でも確かに、こうやって氷柳さんの飛刀を我が身で実感するのはためになるかも。


 氷柳の後ろから標的に向かって擲たれる飛刀を観察するのと、実際にこうして飛刀を受けるのとではやはり感じ方が違う。この差異は実戦で大きく出るはずだ。後翼である黄季がその差異を埋めることができれば、より効果的に氷柳を援護することができるだろう。


 そんなことを、考えた瞬間だった。


「っ!」


 飛刀を放ち際、グッと体を深く沈めた氷柳がタンッと強く床を蹴る。


 今までフワリ、フワリと舞うように動くばかりだった氷柳の突然の踏み込みは鮮烈だった。紫鸞を飛刀の対処に回していた黄季は、突如繰り出されてきた匕首を体をさばくことで避ける。


 さらにその動きを読んでいたのか、氷柳は流れるように黄季の背後を取ると、後ろからスルリと首に腕を伸ばした。氷柳が手にした匕首が黄季の首の下で鈍い光を見せる。


「っ!!」


 黄季は紫鸞を引き戻して匕首を弾くと、背後を振り返りながら深く身を沈めた。同時に足払いを仕掛けるが、その時にはすでに氷柳は後ろへ下がっている。


 さらに下がり際に投げ付けられた飛刀に、黄季はとっさにその場から飛び退すさった。そんな黄季の軌道を先読みするかのように次々と飛刀が擲たれる。


 相変わらず氷柳の動きは舞を舞うかのように優美で、感情が見えない双眸は翻る袂に隠されて視線の動きが見えづらい。相対する位置にいなければ見惚れていそうな動き方だった。


 そう思いながらも、氷柳が納めた武術の根底を覚った黄季は警戒を強める。


 ──やっぱり、この運び方は。


 前々から薄々察してはいたが、氷柳が身に付けているのは暗殺術だ。


 人対人の、正面からの立ち合いを想定した動きではない。対妖怪、もしくは対刺客を想定した『どんな手を使ってでも必ずその場で標的を仕留めて逃さない』ということを第一とした動き方だ。黄季の身内で言うと暗器を得意としていた五兄の動きに近い。


 ──萌兄ほうにいよりも容赦ないというか、……実戦経験のある動き方だけども。


 まだ氷柳が永膳えいぜんともどもかく家で生活していた頃、氷柳の立場は永膳の小姓であったという。永膳自身は氷柳が表に出ることをいとっていたらしいが、氷柳に諸々を仕込んだ周囲はいざという時には氷柳が永膳を護衛することも想定していたのだろう。そんなことを思わせる動き方だった。


 そんな他事を考えたせいなのか。あるいは氷柳は黄季の隙を引き出すためにあえてそう動いていたのか。


 考察を転がした一瞬。それまでに増して複雑に放たれた飛刀に黄季の意識がれた瞬間、黄季の視界から氷柳の姿が消えた。


「っ!?」


 耳につくのは飛刀と紫鸞が立てる音ばかりで、一瞬黄季の認識から氷柳の姿が完全にかき消える。


 その隙を、氷柳は決して見逃さない。


「っ……!」


 鈍い煌めきは下から襲ってきた。視界の外、さらに下から回り込むように迫ってきた刃に、黄季の体は考えるよりも早く動く。


 一歩後ろへ体を引くと同時に紫鸞は首の前へ。刃と刃がかち合った瞬間、手首の動きを使って氷柳の手から匕首を弾き飛ばす。


 その力にあらがいきれなかった氷柳の手から匕首が離れて宙を舞った瞬間、黄季の左肘は氷柳の鳩尾に突き刺さっていた。


 さらに踏み込んだ足が氷柳の足元を払い、紫鸞を手放した右手は氷柳の右腕を取る。


 そのまま氷柳の背後を取るように身を流した黄季は、氷柳の肩と肘の関節をめたまま氷柳の背中に体重をかけた。たまらず床に倒れ込んだ氷柳の腰裏にさらに片膝を乗せ、完全に動きを封じる。


「っ、ぅ……!!」


 弾かれた匕首と手放された紫鸞が床に落ちて甲高い音を響かせた時には、反撃を完全に封じられた氷柳が床に転がされていた。


 その状況に黄季が我に返ったのは、ハタハタと数度目をしばたたかせた後である。


「ふぇ……っ! す、すみません! 反撃するなって言われてたのに……!!」

「いや。『受けろ』とは言ったが『反撃するな』とは言っていない」


 シュバッと黄季が氷柳から距離を取ると、氷柳はゆっくりとその場に座り直した。胡座あぐらを緩く崩す形で床に座った氷柳は、極められていた右肩に左手を添えると動きを確かめるようにグルグルと回す。


 そのまましばらく様子を確かめていた氷柳は、不意に何かに気付いたかのようにピタリと動きを止めた。感情が見えない瞳を黄季に向けた氷柳は、無言のままジッと黄季を見上げる。


「あの……?」

「痛くない。完全に極まっていたのに」

「え? はい。筋や関節を痛めるような極め方はしていないはずなので……」

「……やはり名手は違うな」


 小さく呟きながら己の右肩に視線を落とした氷柳は、何かをしみじみと思い出しているようだった。もしかしたら過去に誰かに同じように制圧されて体を痛めた思い出でもあるのかもしれない。


「えっと……?」

「もう随分前に、貴陽きようが言っていた。『慈雲じうんは自分に甘い』と」

「え?」


『ここからどうすればいいものか』『氷柳の悩みはこれで晴れたのか』と思い悩んでいた黄季は、氷柳がポツリとこぼした言葉に小さく声を上げていた。そんな黄季の声に答えないまま、氷柳はポツリ、ポツリと独白を続ける。


「あの二人は互いに言いたいことを言いたいように言い合う仲だったから、喧嘩も多かった。大体口が達者な貴陽の方が勝つんだ。手が出るのも貴陽の方が早くて、さらに容赦もないものだから、大体いつも慈雲の方がしてやられていた。……私はそれが、いつも不思議だった」

「不思議?」

「慈雲と貴陽の腕前は知っていた。口喧嘩ならばいざ知らず、慈雲が腕っぷし勝負の喧嘩にそうそう負けるはずがない」


 確かに、と黄季は氷柳の言葉に小さく頷く。


 貴陽は確かに頭も回れば口も回るが、体つきは華奢で膂力りょりょくも並だ。対して慈雲は上背も筋力もある上に武芸の腕も立つ。『武芸勝負』ではなく純粋な『喧嘩』になったら、黄季でも慈雲に勝てるかどうかは分からない。


 並以上に武芸の腕がある黄季でそうなのだ。いくら貴陽が慈雲を知り尽くしていると言っても、貴陽には慈雲に勝てる要素がない。


 いくら先手が取れようが、前哨戦とも言える口喧嘩で優位に立っていようが、純粋な腕力と思い切りが物を言う物理喧嘩ならば慈雲がいくらでも不利を引っくり返せる。


 氷柳は昔からずっとそう思っていたという。


「貴陽は当初、あまりにもいつも自分が勝てるから、そのことを疑問にも思っていなかったらしい」

こう先生、さすがにそれは甘すぎなんじゃ……」

「そう。甘かったんだ」


 ある日氷柳が泉仙省せんせんしょうに出仕すると、何となく落ち込んでいるというか、神妙というか、とにかく普段と雰囲気が違う貴陽と行きあった。何となく気になって無言のまま貴陽の隣に座ってみると、貴陽は氷柳の方を見ないままポツリと言ったらしい。


「『慈雲にぶん投げられた』と、泣き出しそうな声で言ったんだ」


 氷柳が無言のままその場にいると、貴陽はポツポツと言葉を続けた。


 曰く、昨日の現場で言い争いになった。原因は貴陽のちょっとした不注意だったという。その不注意のせいで貴陽は負傷した。


 と言っても、軽い擦り傷程度だ。それくらいの怪我は日々現場を渡り歩いていればいくらでも負う。さらに言えば慈雲のことは完璧に守りきったから、慈雲にはかすり傷ひとつ負わせなかった。


 だというのに慈雲は『そんなことでどうする』と声を荒げたという。そのことにムッとした貴陽が『大したことなかったし、不注意の分は最終的にちゃんと修正したからいいでしょ』と喰ってかかった。


 そこから先はいつも通り、互いに言いたい放題の言い争いになった。


 いつもと違ったのは、気が治まらなくなった貴陽が慈雲に殴りかかった瞬間。


 いつもならば外れない貴陽の一発が簡単にいなされ、さらにあっけないくらい簡単にぶん投げられたあげく、完璧に極め技を極められた貴陽は信じられないくらいあっけなく慈雲との喧嘩に負けた。


『いつも無自覚に慈雲は僕に手加減してた。だから僕はいつも慈雲に勝ったつもりでいた。慈雲が引いてくれてるんだって気付かないまま』


 そのことが、喧嘩に勝てなかったこと以上に悔しい。そんな単純なことに気付けなかった自分が悔しい。


 極められた肩が今でも痛い。いつも喧嘩しても翌日まで響いたことないのに。そこでも慈雲が自分に気を遣っていたのだということが分かってしまって悔しい。


 さらに言えば慈雲がブチ切れた理由が、完璧にこっちが悪くて、こっちが反省していなくて、さらにこっちを心配していたからだと分かるから余計に悔しい。普段はどんな理不尽な言いがかりをつけてもここまで怒らないくせに、何でこんな時だけ本気で怒るんだ、ムカつく。


 とにかく悔しくて腹が立つから、しばらく慈雲の顔は見たくない。


 そう言って、単純に『悔しい』だけでは片付けられなさそうな複雑な顔で、貴陽は涙ぐんでいたのだという。


「今になって思うんだが、あれはもしかして『惚気のろけ』というやつだったんだろうか?」

「えっと?」

「そんなことを言っておきながら、結局半日もしたらいつも通り慈雲にじゃれついていたような気もする」

「あ、はい」

「痴話喧嘩に私を巻き込むのはやめてほしい」


 何と言葉を返していいのか分からない締め方に黄季は口を閉ざした。下手にツッコんだ言葉を氷柳が記憶して、後々慈雲と貴陽の前で暴露されてしまったら、何だかとっても面倒くさいことになりそうな気がする。


 ──んーっと? 何でこんな話になってるんだ?


「とにかく、慈雲は昔から貴陽には甘い。いや、貴陽が相手だからこそ厳しくなる部分もあるんだが。……甘くて厳しい? 相方だからこそ、甘くなる部分はとことん甘いというか、無自覚の……何というか」


 氷柳としては、何かを言い表すためにこの話をしたらしい。だが結局言葉がうまくまとまらず、氷柳自身も顔に疑問符を浮かべている。


「とにかく、あいつは無自覚で貴陽に甘いんだ」


 言葉は纏まらないものの、黄季が混乱していることは分かったのだろう。纏まらないまま無理やり断言した氷柳に、黄季もひとまず頷く。とりあえずここで強引にでも納得しておかなければいつまで経っても話は進まない。


「今日、慈雲が地盤の話をしただろう」

「はい」


 黄季の賛同を得た氷柳が次の言葉を紡いだ時には、話題はガラリと変わっていた。繋がりはイマイチ見えていないが、話があったことは事実なのでこちらの話題にも黄季は素直に首を縦に振る。


「慈雲の策に対して手応えが変わった原因として、慈雲はふたつの推測を口にしていた」

「確か……地盤の表示がズレているか、長官の読みが外れているか、でしたっけ?」

「ああ。しかし実際には、もうひとつ可能性がある」


 スッと腕を上げた氷柳は、黄季に向かって指を三本伸ばした。その瞬間、氷柳の纏う空気がわずかに温度を下げる。


「『こちら側に向こうの密偵が潜り込んでおり、こちらの手の内が向こうに筒抜けになっている』という可能だ」

「えっ!?」


 思わず漏れ出た黄季の声は引っくり返っていた。


 確かに浄祐じょうゆうの件を思えば、郭永膳にくみする人間が泉仙省に潜んでいること自体はおかしくないのかもしれない。


 だが前回と今回では勝手が違う。


 なぜなら今回は『こちら側』と言い表せる人間がごく限られた人数しかいないのだから。


「だっ……そ、そんな話になったら……!?」

「私とお前、慈雲にその可能性はない。老師が永膳に与するとは思えないし、明顕めいけんふう民銘みんめいは立ち位置が遠い」


 そもそも黄季の同期達では、情報を抜こうにしても知識も技量も足りなくて役に立たないだろう、と氷柳は静かに続ける。


 その言葉と今までの話の流れから氷柳が言いたいことを覚った黄季は、混乱のまま口を開いた。


「で、でも! 煌先生がおん長官を裏切って郭永膳と繋がってるかもしれないって……! おまけに長官がそれを見て見ぬ振りをしてるかもしれないって、氷柳さんは言いたいんですかっ!?」

「さすがにそこまでは私も思っていない」


 対する氷柳の言葉はどこまでも静かだった。一度スッと瞳をすがめた氷柳は、どことも言えない宙に視線を向けながら、纏まりきらない言葉をホロリホロリとこぼしていく。


「ただ、あの場で慈雲がその可能性を指摘しなかったことが、気になった」


 発した言葉に根拠がないせいか、こぼれ落ちた言葉には常の氷柳の言葉に見える芯がなかった。氷柳らしからぬふにゃりと溶けて消えていきそうな頼りない声音に、黄季は思わず首を傾げる。


「単純に、気付いていなかったっていう可能性もあるんじゃ……」

「いや、あの表情は気付いている」


 だが黄季の言葉を否定した瞬間だけ、氷柳の言葉は常の語調を取り戻した。つまり今の発言には、氷柳の中で何らかの確信があるということだろう。


「慈雲は、どうしようもなく嫌なことに向き合う時に、笑うんだ」

「笑う……」

「『現実を嘲笑あざわらわなければやっていられない』とばかりに。……大乱の間、あいつはずっとそんな顔ばかりしていた」


 その呟きに、黄季はハッと息を呑んだ。


 ──言われてみれば、あの時……


『お前の力と感覚を、貴陽に貸してやってくれ』


 氷柳にそう願った時、慈雲はずっと酷薄な笑みを顔に刷いていた。そんな表情を慈雲が氷柳に向ける意味が分からなくて、黄季は内心で首を傾げていたのだった。


「その『嫌なことに』が、煌先生の裏切りかもしれないって、氷柳さんは思ったんですか?」

「……貴陽は慈雲の懐刀だ。貴陽が籍を医局に移した今も……いや、貴陽が泉仙省の外の人間になった今だからこそ、慈雲は貴陽を切り札にしている」


 上手くは言えないがそう感じているのだと、氷柳は口にした。


 だからこそ、慈雲があんな指示を出してきたのがに落ちないのだと。


「普段の慈雲ならば、今回の案件は秘密裏に貴陽に任せたはずだ。私達にだって伝えてきたかどうか怪しい。……本当に貴陽の呪力総量の不足を案じているならば、逆に貴陽を解析の場に呼んだりはしない」


 現職を退いた今でも、貴陽は退魔師としての矜持を忘れていない。現職当時と変わらない高い矜持に傷を付けるような真似を、恐らく慈雲は望まないだろう。さらに言えば、本当に呪力総量の不足を心配しているならば、中途半端に解析に関わらせるのはむしろ危険であるはずだ。あの場での慈雲の指示は、何もかもが中途半端だった。


「慈雲らしくない」


 床に座り込んだままどことなくムスッとした雰囲気をかもす氷柳は、まるで幼子がねているかのようだった。恐らく慈雲の対応に不満があるというよりも、様子がおかしい慈雲のことを氷柳なりに心底案じているのだろう。


 そんな氷柳を眺めながら、黄季は氷柳が口にした言葉と今までの流れを整理していく。


 ──えっと、普段ならば現状に対して万全の備えと的確な対応を怠らない長官が、あからさまにひとつの可能性を見てみない振りをした。長官にそんなことをさせる原因は煌先生しかないだろうと氷柳さんはアタリをつけた。


 密偵が貴陽であるならば話の筋が立ち、相方に甘い慈雲はそんな貴陽を庇うこともあるかもしれないと氷柳は考えた。そんな状況で貴陽を地盤解析に関わらせていいものか、あの指示は受けて良いものか、……さらに言うならば真正面からそれを問いただすべきではないのか、ということにも、氷柳は思い悩んでいるのだろう。


 ──あくまで最後は俺の推測だけども。


「……昔、慈雲に言われたことがある。『お前らが互い以外を視界から締め出しすぎて、いつか破滅するんじゃないかって思うと怖い』と」


 またポツリと、氷柳から言葉がこぼれ落ちる。視線を氷柳に向け直すと、氷柳はいつの間にか床に視線を落としていた。


「言われた当時は、よく意味が分からなかった。……だけど今なら、当時の慈雲の気持ちがよく分かる」

「氷柳さん……」

「あいつらが互いのことだけを見つめたまま地獄に飛び込む様は、見たくない」


 常と変わらず淡々としているようで、聞く者が聞けば複雑な感情に揺れていると分かる、そんな声だった。


 乾いているはずなのに湿気しけていて、凪いでいるはずなのに震えているその言葉に、黄季は思わず口をつぐむ。


 ──氷柳さんにとって、長官っていうのは……


 兄に近い存在、なのかもしれない。


 氷柳達がまだ新人と目されていた頃、泉仙省の規模は今よりも大きくて、同期生の数も多かったという。それでも氷煉ひれん比翼が心を許し、交流を結んだ同期は慈雲だけだった。貴陽が入省して慈雲の対になるまで、氷煉に慈雲を加えた三人一組で行動していたという話も聞いている。


 氷柳にとって、周囲を行き交う人間は背景のようなものだ。今もその傾向はあるが、郭永膳が隣にいた時の方がその傾向は強かったらしい。郭永膳だけが絶対で、他はどうなってもいい有象無象というのがかつての氷柳の認識だったのだろう。


 そんな中で、唯一例外だったのが慈雲で、さらにその後に加わったのが貴陽だ。


 氷柳の中での慈雲という存在は、きっと当人達が意識しているよりもずっと重い。きっと当時から『絶対』は郭永膳であっても、氷柳にとって慈雲は失えない存在であったはずだ。


 ──だって氷柳さん、長官の前でしか見せない素というか、表情というか、何かあるんだもんなぁー。


 当人達は、これも自覚していないらしいのだが。


 そんな所も、この二人に関しては『二人らしい』と言えばらしいのかもしれない。


 ──にしても、長官と煌先生かぁ……


「俺も、上手くは言えないんですけども」


 無自覚に悩んでいるらしい氷柳を眺めながら考えを転がした黄季は、纏まりきらない言葉を躊躇ためらいながら口にした。


「その辺りは大丈夫なんじゃないかなって、俺は思います」


 黄季の言葉に氷柳は顔を上げた。もしかしたら『よくも知らないくせに』と怒りをかうかもしれないとも思ったが、存外氷柳は冷静な表情で黄季を見つめている。


 その視線を『纏まってなくてもいいから説明を』という意味に解釈した黄季は、適切な言葉を求めて視線を彷徨さまよわせながら言葉を続けた。


「えーっと、何っていうか……うーん……長官って、常識人じゃないですか? で、煌先生って、メチャクチャ欲張りだと思うんです。長官のことが大好きだからこそ、長官が大切にしているモノ、全部ひっくるめて全部守りたいと思っていそうというか……うーん、やっぱ違うな……えーっと……」


 何か違うが、その違和感の壁を越える言葉が見つからない。


 そのもどかしさにうなった瞬間、パッと閃いた言葉があった。


「あ。愛されるよりも愛したい?」

「は?」

「『自分だけを見てほしい』とか『もっと僕に依存して』みたいなことを言いつつ、多分煌先生の本懐って違うと思うんですよね。自分が傍にいられて、長官が長官の望む道を行けるならば、最悪長官が自分を見てくれてなくても、それが一番幸せ、みたいな」


 やっと言いたいことをズバッと言葉にできた黄季は、もやが晴れた喜びに顔を輝かせながら氷柳を見やる。対する氷柳は予想外の言葉に胡乱うろんげな声を上げていた。何なら表情も声同様に何とも言い難い雰囲気のまま固まっている。


「で、長官は、あくまで常識人なので」

「それはさっきも聞いた」

「だから、『世界が滅びようがお前が傍にいてくれれば俺は幸せ』みたいな、振り切った考え方はできないと思うんですよ。多分自分の不注意で世界が滅んだら、生き残った先で延々ウジウジ悩んで精神を病む人だと思うんですよね」

「精神を、病む……」


『国を焼き払っておいてか?』と疑問に思ったのか、あるいは焼け野原の中、頭を抱える慈雲を傍らから貴陽がポムポムと肩でも叩いてなぐさめている光景が浮かんだのか、氷柳はさらに複雑な内心を雰囲気に醸した。あくまで顔に浮いている表情が薄い辺りに、氷柳の混乱ぶりが表れていると黄季は思う。


「だからあの二人が目指すなら『敵を完全撃破して世界を救い、自分達の大切なモノを全部守りきった上で、二人でバッチリ生き残る』っていう未来しかないと、俺は思うんですよ」


 だがそんな氷柳の表情は、続けられた黄季の言葉にかき消えた。ハッと驚きとともに目を見開いた氷柳に、黄季はニパッと笑いかける。


「長官が何か策略を描いてるなら、きっとそれは泉仙省側が不利になるようなものではないと思うんです。向こうの裏の裏を突くような、そんな策を動かそうとしてるんじゃないですかね?」


 黄季が言葉を結んだ後も、氷柳はしばらく黄季を見つめていた。氷柳からの視線に、黄季も視線を逸らさないまま無言で応え続ける。


 そんな沈黙が、呼吸数回分続いた。


「……そうか」


 微かな呟きがこぼれた瞬間、氷柳の肩からはほっと力が抜けた。顔から完全に表情がかき消えた代わりに、氷柳を取り巻く空気に安堵が漂う。


「言われてみれば……そうかもな」

「はい。きっと、そうです」


 本当は、二人のことを詳しく知らない黄季がこんなことを言うべきではなかったのかもしれない。ひょっとしたら氷柳の危惧の方が正しかったのかもしれない。


 それでも黄季は、自分の勘を……自分が今まで見てきた二人を、信じたいと思う。


 そんな思いを込めて氷柳に笑みかけると、氷柳もわずかに口元に笑みを刷いた。それからようやく氷柳は床から腰を上げる。


「お前に話して、良かった。これで迷わずに済む」

「俺も、話してもらえて良かったです」


 パンパンッと衣をはたいた氷柳は、軽く周囲を見回すと足元に落ちていた飛刀を拾い上げるべく上体をかがめた。


 黄季が紫鸞で弾いたことにより、今の道場の床には無数に飛刀が散らばっている。きちんと片付けておかないと、次に使う時に……より具体的に言うならば、明日の朝、黄季が自主鍛錬をする時に危ないだろう。


 ──こうやって見ると、ものすっごい数投げられてたんだなぁ……


「……そういえば」


『前々から疑問だったけど、一体どこにこんなに仕込んでるんだろう?』と疑問を転がしていると、不意に氷柳が呟いた。


「慈雲が言っていた言葉の意味も理解できたが、貴陽が言っていた言葉も、はからずも理解できたな」

「え?」


 黄季が腰を伸ばして氷柳の方を見やると、氷柳は拾い上げた飛刀の検分をしている所だった。


 歪みや刃こぼれを確かめながら、氷柳はサラリと言葉を続ける。


「『たまにあえて対極に立ってみると、相方の意外な一面が見れて楽しい』」

「……え?」

「楽しい、というよりも、新鮮だった」


 飛刀を袂の中に片付けた氷柳は、そこでようやく黄季を振り返った。白衣びゃくえの麗人は、黄季と視線が合うとフワリと楽しそうに微笑む。


「今度は憂いのない状況で、立ち合ってみたいものだな」


 ──……えっと?


 何と答えたらいいのか分からない言葉と、それ以上に言葉を奪う麗しい微笑みに、黄季は言葉を失ったままパクパクと口を動かしたのだった。

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