※※

 氷柳ひりゅうを一目見た人間は、大抵の者がその美しさに目を奪われる。


 問答無用で魂を引き抜かれるような衝撃が過ぎ去ると、次に来るのは人知を超えた美貌と鉄壁の無表情に対する恐れであるらしい。


 滅多に聞くことのできない声音は表情や身にまとう空気以上に凍てついた低く厳しいもので、接した人間は氷柳を構成する全ての要素に畏怖するのだとか、何とか。


 まさに天上の神が心血を注ぎ込んで創り上げた氷の牡丹。


 あるいは氷柳当人こそが、天上から降り立った氷雪の神なのではないか。


 氷柳が泉仙省せんせんしょうに再出仕を始めてから、黄季おうきはその手の話を何度聞いたか分からない。


 ──言うほどそんなに怖い人じゃないんだけどな……


 むしろ最近は事あるごとに『案外素の氷柳さんって小動物系の可愛さがあるのでは』と考えることさえある黄季である。


 もっともそれは、弟子にして相方である黄季であるから見えている一面でもあるのだろうが。


 ──氷柳さんが意図して『氷の牡丹』みたいな印象を作り上げているなら、俺が作った飯食べて空気に小花を飛ばしたりしてないと思うんだよな。


 本日の夕飯は、何の変哲もない肉多めの野菜炒めと、その端材を煮込んだ汁物、白米、先日仕込んでおいた漬物、以上である。泉仙省を退出してから市に寄って食材の買い出しをしたせいで、あまり手の込んだ物は作れていない。


 しかしそんな素朴な夕飯であっても、食卓についた氷柳は今日も無表情のまま瞳を輝かせて箸を取った。


 丁寧に手を合わせ、『いただきます』と軽く頭を下げた氷柳は、迷いなく野菜炒めを口に運ぶとモグモグと咀嚼そしゃくしながらフワリと目元を和らげる。次いで汁物に口をつけた氷柳は、わずかに口角を上げていた。


 表情ではなく纏う空気で率直に喜びを表した氷柳は、たとえるならば周囲に花を散らしている状況だった。それも牡丹や薔薇といった人の手で育てられた大輪の花ではなく、そこら辺の道の傍らに咲いていそうな野草の素朴で可憐な花を。


 ──俺にとってはこっちの可愛い系の氷柳さんの方が、普段の氷柳さんよりも余程目にまぶしいんだけども。


 十も歳上の男性、しかも師匠である人物に対して『可愛い系』などとはどんな失礼な感想なのだと己でも分かっている。だがモキュモキュと無心で食べる氷柳が小動物に見えて仕方ないのも事実ならば、当人が無自覚の間に喜びを全力で表してくれていることが嬉しいのも事実だ。


 ──氷柳さんの素がこんな感じだって知ったら、みんな氷柳さんを怖がらなくなるのかな?


 氷柳が周囲と打ち解けてくれたら嬉しいなと思う反面、氷柳のこういった一面を他の人には知られたくないという気持ちも黄季は自覚している。氷柳が食事をしている時に常にこうなるわけではなく、黄季の手料理でのみこういう反応を示すと知っているから、余計に。


「? 黄季?」


 そんなことを思っていると、氷柳が視線を上げた。モキュモキュゴキュンとしっかり口の中の物を飲み込んでから、氷柳は微かに首を傾げる。


 その肩を、結い上げたままの黒髪がサラリと滑った。


「どうした? 食べないのか?」

「あ、いえ。食べますけども」

「今日もお前が作ってくれた飯は美味い」

「ありがとうございます。……えっと、氷柳さん、質問いいですか?」

「どうした」


 黄季の言葉に、氷柳は箸を止めたまま黄季に問いを促す。


 動きを止めてはいても、氷柳の右手は箸を、左手は白米が盛られた椀を持ったままだった。溢れ出る食欲を隠しきれていない氷柳に一瞬苦笑をこぼしてから、黄季は表情を引き締める。


「何か悩み事でもありますか?」


 その一言に、スッと氷柳が纏う空気を引き締めた。その変化だけで、黄季は問いに対する答えを覚る。


 ──やっぱり何か、悩んでたんだ。


 食卓についた氷柳は、出仕着に身を包んだままだった。


 ばん家に身を寄せてから、氷柳は帰宅して即刻、出仕着から普段着へ着替えるというのがお決まりの流れになっていた。着の身着のままで放り出された氷柳へ黄季が提供した父や兄達のお古が気に入っているというわけではなく、恐らく氷柳は元来キッチリした服装が苦手なのだろう。思い返せば自邸が爆破される前も、屋敷に帰投するなり髪を解き、襟をくつろがせる氷柳の姿を黄季は度々目撃していた。


 とにかくここ最近の氷柳は、鷭家にいる間は白以外の装束に袖を通し、髪も無造作に下ろしているのが常だった。白一色の出仕着は汚すと洗濯が大変そうだから、食卓に私服で来てもらえるのは黄季としても助かっていたところである。


 そんな氷柳が、今日は今をっても隙なく装束を着込み、キッチリと髪を上げていた。まるで夕食を終えたらその足で現場にでも出るのかといった雰囲気だ。


 ──でも、俺の現場解禁はまだ先のはず。氷柳さんが俺を置いて現場に出るとも思えないし、理由があってもう一度泉仙省に出仕する予定があるならば、それだってあらかじめ俺に心づもりをするようにって話をしてくれたはず。


 ならば残った可能性は『常の行動を忘れるくらいに何かに悩んでいる』という線だろう。そう考えての問いかけだったのだが、氷柳の反応を見るにあながち間違いではなかったらしい。


「……黄季」


『あ、でも箸を置かない所から察するに、そこまで深刻な話でもないのかも?』と思った瞬間、氷柳はユルリと唇を開いた。


 わずかに伏せられた視線は野菜炒めに置かれている。それがたまたま視線を伏せたらそうなっただけなのか、あるいは氷柳の意識が食欲に押し負けただけなのか、黄季には判断することができなかった。


「あとで一本、立ち合ってほしい」


 一瞬、そんな些細な疑問に意識を持っていかれたせいで、黄季はとっさに氷柳に何を願われたのか理解できなかった。


「立ち合い、ですか?」

「……お前の武術の腕前は知っているが、私が直接立ち合ったことはなかっただろう」


『立ち合い』が『一手御指南いただきたい』という意味だと理解できたのは、氷柳が言葉を継ぎ足してからだった。その言葉に黄季が目を丸くした時には、氷柳の箸は再び野菜炒めに伸ばされている。


「お前が今後その武術の腕前をどう活かしていくつもりなのか、私は知らない。お前の中でもまだ、答えは出ていないことなのだろう」


 氷柳の指摘に黄季はとっさに言葉を返せなかった。


 黄季は後翼退魔師だ。前翼退魔師とは違い、直接妖怪に向かって刃を振るう機会は少ない。卓抜した武術の腕を退魔術の中に組み込んでみても、振るい方を考えなければその利は活かすことができないのだ。


 ならば前翼に転身するかと問われたら、黄季はキッパリその問いに否と答えるだろう。


 黄季は氷柳の対であることを誓った。氷柳を守り抜ける対でありたいと願った。それを叶えることができないならば、いくら退魔師として技量を上げても意味がない。少なくとも今の黄季はそう思っている。


「だがどんな形でお前が力を振るうにしろ、その実力は相方として知っておきたい」


 だから、一度直接体感してみたい、という話なのだろう。


 確かに一理ある、と判断した黄季は、しっかり頷いてから口を開いた。


「分かりました。場所は道場でいいですか?」

「あぁ。よろしく頼む」


 言葉少なく答えた氷柳は、モキュモキュと食事に戻っていった。再び周囲に小花を飛ばす氷柳は、もはや一瞬前のやり取りすら忘れ、完全に食事を没頭しているのが分かる。


 ──多分、悩んでるのって、その部分ではないような気もするけども。


 しかしこれ以上、氷柳の楽しみを邪魔するのも野暮だろう。答えはきっと、必要ならば後から教えてもらえる。


 そう割り切った黄季は、自分も『いただきます』と手を合わせてから、自作の野菜炒めに箸を伸ばしたのだった。

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