蒼波帝そうはていが御代八年。


 先帝から玉座を継いだ若き皇帝の下、沙那さなの都の復興は進み、人々はつつがなく日常生活を取り戻していた。


「……って、素直に言えれば良かったんだけどなぁぁぁぁあああああっ!!」


 そんな都の片隅を、黄季おうきは胸中の不満を力いっぱい叫びながら全力疾走していた。


 両側にはどこまでも続く築地塀。後ろにはよだれを垂らしながら全力で黄季を追いかけてくる化け物。絵に描いたように分かりやすい危機である。


「なんっでこんな大物の妖怪が出てくるかなぁっ!? なんっっっで先輩諸氏が一緒にいない時に限って出てくるかなぁぁぁっ!?」


 叫びながらチラリと後ろに視線を投げれば、牛の頭に鬼の体をした妖怪が相変わらず黄季を追いかけているのが見えた。黄季が退魔師の端くれでなかったら、四つ角でバッタリ出会った瞬間に食い殺されていた可能性が高い。外れとはいえちゃんと都の中なのに。太陽が中天に輝く真っ昼間だというのに。


 ──それだけ今の都の陰の気が酷いってことなんだろうけど……っ!!


 こごった陰の気は、人々の恐れや悲しみ、妄執や後悔といった負の感情を吸い込み妖怪を生む。


 先の戦でこの都は一度灰に還った。そういった場には陰の気も人々の負の感情も溜まりやすい。それらを適宜浄化し、妖怪の発生を未然に防ぐのも黄季達『宮廷退魔師』の重要な仕事である。何を隠そう今の黄季がその任務の真っ最中であった。


「いやでもこれは無理っ!! 俺みたいなペーペーの新人じゃ無理ぃぃぃっ!!」


 今日の任務は、泉仙省せんせんしょうの下っ端退魔師である黄季でも果たせる簡単な修祓任務であったはずだ。それなのにどうしてこんなことになっているのか。


 ──何か対策を取らないと……っ!! いつまでも追い掛けっこなんてしてらんねぇし……っ!!


 それにこんなことをしていたらいつ徒人ただびとが巻き込まれるかも分からない。一般人に被害を出すことは己の命と引き換えにしてでも防がなければならないことだ。


 ──いや、俺自身だって死にたいわけじゃないんだけども……っ!!


 そんなことを思う黄季の視界の先に、運がいいのか悪いのか通路のどん詰まりの光景が見えてきた。


 路地の突き当たりにあったのは、いかにも重たそうな石造りの門だった。道は真っ直ぐにその門に続いていて、他に入り込めそうな場所はどこにもない。


 ここまで一本道だったことから考えると、もしかしてこの道は両側に広がっている敷地の中に入るための玄関路だったのだろうか。別々の敷地だと思っていた両側は、実は同じ屋敷の敷地だったのか。都にこれほどの土地を持てるとはいったいどんなお貴族様が住んでいるのか。くうぅ、うらやましい。


「……って! そんなこと考えてる場合でもないっ……よなっ!!」


 良くも悪くも腹をくくるしかない状況に陥った黄季は、懐に隠し持っていた数珠を掴み出すと右手に絡めて持った。数珠玉が擦れてジャラリと鈍い音が響く。だが残念なことに背後の妖怪がその音にひるんでくれた気配はなかった。


 ──今、この状況で使えそうな呪具はこれだけ……!!


 奥歯を噛みしめて駆ける足に力を込める。少しだけ速度が上がった分、わずかに妖怪との間合いが開いた。


 ──これで……っ!!


 その隙に門の屋根の下に滑り込んだ黄季は、地面を滑りながら体を反転させ、両手に数珠を絡めながら妖怪と相対する。


 ──迎え撃つ……っ!!


 かかとと背中が門の扉に当たって体が止まる。どこまでも続く築地塀に挟まれた路地を、醜い化け物がこちらに向かって真っすぐに駆けてくる。


「っ、『汝……」


 一瞬たじろいだ黄季の体が無意識の内に後ろに下がる。


 その瞬間、背中にあったはずである壁の感触がフッと消えた。


「へぁっ!?」


 支えを失った黄季はそのまま後ろへ倒れ込む。反射的に体を支えようと足が後ろに下がるが、なぜかその先には地面もなかった。


「ふぉっ!?」


 完全に体を支えきれなくなった黄季はなす術もなく後ろへ倒れ込んだ。バシャッという豪快な水音とともに視界と呼吸が奪われ、ようやく自分が池に落ちたのだと気付く。


「バッ!? ゲホッ……ゲホゲホッ!!」


 幸いなことに、池の水深はそこまで深くなかった。必死に池底を靴裏で確かめて立ち上がれば水面は黄季の腰辺りまで下がる。この水深だと逆に後ろ向きに頭から落ちたのに池底に頭をぶつけなかったことの方が幸運だったのかもしれない。


「ゴホッ……ゲホッ、コホッ……」


 ──……ここは?


 呼吸が整ってきた黄季は、周囲に視線を巡らせた。


 黄季が落ちたのは、広大な庭の中にしつらえられた池のようだった。どこまでも果てなく続く庭は美しく手入れがされていて、可憐な花々が咲き誇っている。妖怪の姿もなければ、黄季が背中を預けた門もなかった。築地塀も、細い路地も、存在を感じさせる要素がどこを見回しても見つからない。酷く静かで、酷く長閑のどかな光景だけが目の前に広がっている。


 ──術か何かで飛ばされた? でも、ここって……


「誰だ」


 不意に、声が響いた。


 人の気配などなかった場所からいきなり飛んできた声に、黄季は池の中に立ったまま身構え、声の方を振り返る。


 そしてそのまま、大きく目をみはった。


「私の庭に無断で立ち入った、お前は誰だ?」


 貴仙が、いた。


 男だ。長く艶やかな黒髪を結うこともなく背中に流した男。中性的な顔立ちが酷く美しく見えるのは、顔立ちが整っていること以上に表情が人形じみて見える所に原因があるのだろう。生気に欠けた死人じみた表情と生来の美しさが相まって、ヒトを超越した美しいに思えてしまう。


 庭に向かって床と屋根が張り出した、室内と地続きの東屋あずまやとでも言うべき場所に寝椅子を置き、ゆったりとそこに身を預けた男は、白い単衣と袴だけを着付け、手には煙管きせるをくゆらせていた。姿勢も、襟がはだけた服装もだらしがないはずなのに、それでも神々しいまでに清らかな雰囲気がはるか海の向こうに住むと言われる仙女や仙神を思わせる。仙人と呼ばれる存在の中でも、一際尊ばれ『貴仙』と称される存在であるかのような。


 涼やかに美しく、清らかで、……それでいて世界の全てにんでいるような、退廃的な瞳をした男。


 気配を全く感じなかったこと。声の主がちっとやそっとじゃお目にかかれない美人さんであったこと。その両方に黄季はパカリと口を開いたまま固まる。


 だが貴仙の方は、そんな黄季の心境は理解してくれなかったらしい。


「語る気がないならば、く失せよ」


 一切表情を変えることなく、男はついっと黄季に向かって手を伸ばした。その指先が、何か埃を摘み上げるかのように動き、フッとそのまま横へ振り抜かれる。


「……へ?」


 その一瞬でまた、黄季の視界に映る景色は変わっていた。


 耳に心地よい雑踏。太陽の光と人々の熱気で陽の気が活性化している。この土地の気が良い巡りをしている証拠だ。


 それもそのはずで、黄季が立っていたのは都最大の市が立つ西院大路さいいんおおじの一番大きな辻だった。静寂に包まれた庭も、醜悪な妖怪も、……貴仙の男も、どこにもいない。


「……俺、夢でも見てた?」


 だが夢というには妙に呼吸が苦しくて、何より纏った袍がグッショリと濡れたままで重かった。水滴を垂らしながら呆然と立ち尽くす黄季の姿を不審そうに眺めては通り過ぎていく通行人の視線が痛い。


 ──……まぁ、治安的にも気の巡り的にも絶対安全な場所を選んで飛ばしてくれたなら、……まだ親切な方、だよ、な……?


 考え込んでいたって仕方がない。退魔師なんて仕事をしている以上、不思議な体験のひとつやふたつはあるものだ。『あれだけの妖怪から逃げおおせられて、ついでに綺麗なモノを見れたんだから運が良かった』と割り切って流した方が賢いだろう。


 そう考えた黄季は、術で簡単に衣服の水を乾かすと、本来の任務地に向かうべく足を進め始めた。


 


 ……その時は、それでこの不思議な縁も終わると思っていたのだ。


 その時は。


 


「……」

「えっと……」

「…………」

「あの」

「………………」

ばん黄季って言います! 泉仙省所属の退魔師です!!」

「……それは昨日も聞いた」


 ──デスヨネッ!?


 ついに五日連続で池に落ちることになった黄季は、怖いほどに整った顔にジットリとした視線を向けられたまま顔を引きらせた。美人さんのジト目は常人のジト目より数倍痛い。問答無用で摘み出されなくなっただけまだマシなのかもしれないが。


 ──っていうか、五日目にしてようやく成立した初回の会話がこれって……


「あの……ほんと連日すみません。俺も、池にはまりたくて嵌りに来てるわけじゃないんですけども……」


 黄季はおずおずと両手を胸の高さまで上げると説明をこころみた。


 三日目までは初日同様に問答無用で庭から放り出されていたのだが、黄季の方が事態に慣れてしまったせいか、一昨日は放り出されるまでの間に何とか名前を名乗ることに成功し、昨日は泉仙省所属の退魔師であることを口にできた。それが功を奏したのか、単純に男の方が連日現れる黄季を摘み出すことに疲れたのか、今日は今のところ問答無用で摘み出されそうな気配はない。


「えっと……修祓任務の現場に向かおうとすると、なぜか毎回妖怪に遭遇してしまって、逃げていると必ずここに落ちてしまうと言いますか……」


 黄季の言葉を寝椅子に体を預けたまま聞いていた男は、無言のまま不審そうに眉をひそめたようだった。黄季も男と同じ立場だったら同じ表情を浮かべたと思う。


 ──いや、でもだってさ、そういう風にしか言えねぇんだもん……


 万年人手不足である泉仙省では下っ端の黄季でも毎日現場仕事が回ってくる。その現場に向かうべく都の中を歩いていると、どこへ向かっていても必ず現場に着く前に妖怪に遭遇し、逃げ回っている間にいつの間にかあの路地に迷い込んでいて、毎回閉じているはずの門をすり抜けて池に落ちるハメになる。


 毎回現れる妖怪の姿は違うのだが、嫌なことに黄季では太刀打ちできないような大物ばかりということは共通していた。


 ならば腕の立つ先輩と一緒に行動すればいいではないかという話になるのだが、残念なことに万年人手不足な泉仙省には下っ端退魔師の護衛に付ける人員的余裕なんぞどこにもない。駄目元で上司に相談はしてみたのだが、案の定『むしろお前がキッチリ原因を断ってこい』と笑顔で一蹴されてしまった。


 ──それができたらそもそも困ってないっつの!!


「……心当たりはないのか」


 記憶の中の上司に半ば八つ当たりを噛ましていたら、涼やかな声が降ってきた。パチクリと目をしばたたかせてみても、人らしき姿は寝椅子に体を預けた男以外に見当たらない。


「こうなるようになったきっかけに覚えはないのか、と訊ねている」


 男は人形じみた顔に不機嫌そうな色を乗せて黄季のことを見下ろしていた。意外なことに、状況を打破する知恵を貸してくれるらしい。


「勘違いするな。私はお前にこの平穏を邪魔されたくないだけだ。何度摘み出しても変わらぬなら、根本を断つしかないだろう」

「あ、そゆこと……」

「何かをもらった。どこかへ行った。いつもと違う行動をした。……何か思い当たることはないのか」

「何かって言われても……」


 黄季だって退魔師の端くれだ。こんなことになっているのには何か原因があるはずだと考えなかったわけではない。


 ──というか、この人、考え方がすごく退魔師っぽいな……


 考えを巡らせながら黄季は男を盗み見る。男は不機嫌そうな表情を向けながらも黄季の言葉を律儀に待ってくれているらしい。手に握られた煙管から、男に吸われるはずだった紫煙が緩く立ち上っていく。


 ──にいるくらいだし、ヒトじゃないか、同業者だろうなとは思ってたけど……


 なんてことを考えながら盗み見していたら、思いっきり視線がバッチリ合ってしまった。向こうの眉間の皺が深くなったことから察するに、どうやら黄季が真剣に考えていないことを見抜かれてしまったらしい。


 ──これはマズい。


「こ、ここ最近はずっと現場・職場と職場・家との往復ばっかだったし、誰かに何かをもらったとか、ヘンな行動をしたとか覚えはないです! 誰かに何かを仕込まれたとか、呪いを負ったとかしたらさすがに俺だって分かるはずだしっ!」


 呆れられたらまた摘み出されるかもしれない。それはもう勘弁してほしい。


 その一心から黄季は慌てて口を開く。


「そもそも自分の呪具だってまともに……」

「呪具?」


 そんな黄季の言葉に男が反応を示した。


「呪具と言えばお前、その腰の佩玉はいぎょくは……」


 だが言葉は途中で途切れた。


 男がハッと顔を上げる。この瞬間、男が『不快』以外の感情を露わにしたところを黄季は初めて見た。


 貴仙のごとき顔に浮かんだ感情は『驚愕』。


 その表情の意味に、黄季は数秒遅れて気付く。


「なっ……!?」


 ゾクリと背筋を粟立たせる冷気。


 妖気、それも強大な。


 反射的に黄季は池の外に飛び出ながら背後を振り返る。


 その視線の先で、空が割れていた。


「っ!?」


  長閑のどかで静かな庭が広がっていた空間が鏡を割るかのようにひび割れていた。その向こうからぬっと太い腕が入り込んできてさらにヒビを大きくしていく。


 大きく割り砕かれた向こう側から姿を現したのは、初めてこの庭に落ちた時に黄季を追い回していた牛の頭に鬼の体をした妖怪だった。黄季を見つけた妖怪は常に半開きになっている口からボタボタとよだれを垂らしながら歓喜の雄叫おたけびを上げる。


 その光景にサァッと黄季の血の気が引いた。


 ──まさか、俺が連れてきちゃったのか……!?


 物と人、人と人、モノとヒトの間には無数に縁が絡んでいる。一度妖怪に襲われた人が他の人間と比べて以降も妖怪に襲われやすくなるのは、妖怪と出会ってしまった時にと縁を結んでしまうからだ。


 黄季はここ数日、毎日のように妖怪に襲われていた。そして毎回この庭に落ちてもいた。つまり黄季は妖怪ともこの庭とも縁が結ばれている。もし黄季を媒介にしてこの世界との縁を無理やり掴むことができれば、外側から力尽くでこの空間に押し入ることだってできないわけではないのだ。


「っ……えっと、あー……とにかく、そこの貴方!!」


 体中が震えている。あんなのに勝てっこない。勝てっこないと分かっていたから、黄季はずっと逃げ続けていた。


 でも、もう引けない。


 だってここにはがいる。


 ──名前、訊いときゃ良かったな。


「危ないから、屋敷の中まで下がっていてください。俺じゃ祓うことはできないかもしれないけど、このお屋敷だけは守りますっ!!」


 今更になって、呼び掛ける名前さえ知らないことに気付いた。多分相手も黄季の名前と、泉仙省所属の退魔師ということしか知らないのだろうけれど。


 ……そう、お互いに、まだそれだけのことしか知らない。


 だけど。


「……戦うのか? お前が?」


 男を背に庇って妖怪の視線から隠すように立った黄季に、男が呆気あっけにとられたような声を上げる。


「お前も、退魔師の端くれなら分かっているのだろう? 私は……」

「分かってます」


 その声にどんな感情が乗っていて、彼が今どんな表情をしているのか、彼に背中を向けている黄季には分からない。


「こんな強力な幻術結界を巡らせた屋敷で、その結界を維持しながらたった独りで暮らしている貴方は、きっとただのヒトじゃない。きっと貴方は、戦おうと思えば俺よりもずっと強い」


 話している間にも黄季の視界に映る景色は変わっていた。


 どこまでも広がっていた優美な庭は、崩れかけた築地塀に囲まれた枯れたわびしい庭に。睡蓮が咲く中を鯉が泳いでいた池は、淀んで緑に濁った溜め池に。


 結界が解けて現実に還った世界にあったのは、荒れ果てた小さなあばら屋だった。貴仙の男が暮らしていたのは桃源郷のような大邸宅ではなく、強力な幻術と空間断絶の効果を持った結界で囲われた小さな世界の中だったのだ。


 黄季だって退魔師の端くれだ。最初に池に落ちた時からこの世界のカラクリは分かっていた。


 同時に、思ったのだ。こんなに世界に独りでいる彼には、きっとそうしていなければならない深い事情があるのだろうと。


「でも貴方だって、俺が守るべき存在だ」


 泉仙省の退魔師は、己の霊力と術を以って民を闇から守る者。


 たとえ仮に彼が黄季よりも強大な力を持っている存在だったとしても、自らの意志で戦う道を選ばなかったのであれば、黄季が守るべき民であることに変わりはない。少なくとも黄季はそう考える。


「俺、戦いたくない人は戦わなくてもいい世界を、創りたいんです」


 黄季は一瞬だけ男の方を振り返って、笑ってみせた。もしかしたらその笑顔は引きっていて、綺麗に笑えてはいなかったかもしれない。


 それでも、彼に笑顔を向けたかった。


「先の大乱の時に、俺、そう思ったんです。だから俺、ヘッポコでも頑張ってます。……それに、今回のあいつ、何か俺がここに呼び込んじゃったみたいだし」


 そんな黄季を見た男はゆっくりと目を丸くした。死人のような雰囲気も人形のような硬さも消えた男の顔は、今まで見てきた中で一番幼く見える。


 ──あ、俺、今の顔が一番好きかも。


「勝手な印象ですけど、貴方はもう何もかもと戦いたくないから、ここにいるんですよね? 戦わなくてもいいこの世界から連れ出されたくなかったから、俺と関わりたくなかったんですよね? だったら」


 体が震える。正直言って怖い。勝てる目算なんてない。もしかしたら殺されてしまうかもしれない。


 だけど、引けない。


「だったら、貴方が戦わなくてもいいように、俺が戦います」


 黄季が退魔師として日々戦っている理由が、ここにあるから。


「だから貴方は下がっててっ!!」


 黄季が叫ぶのと同時に妖怪の咆哮が響く。ビリビリと震える空気に負けることなく黄季は柏手を打ち鳴らした。最初は妖怪の咆哮にかき消されていた柏手は数を重ねると次第に強く響き渡るようになる。瘴気が祓われている証拠だ。


「『この息吹は天の息吹 常世とこよの闇祓う日の息吹』っ!!」


 次いで呪歌を紡ぎながら懐に入れていた石を取り出し、次々と池の向こうに向かって投げ打つ。全て印を刻み、一度黄季の力を通した呪石だ。力を通されたことで黄季の霊力の欠片を宿した呪石はそれぞれを繋ぐように光を発しながら黄季が狙った地面にのめり込む。


「『息吹渡る大地に穢れなし この地を穢れは渡ることなかれ 浄壁じょうへき』っ!!」


 呪石と池の縁を使って編まれた結界は即座に光の壁を築き上げた。地を蹴った妖怪がこちらに向かって突進してくるが、結界に角が当たった瞬間壁に阻まれたかのように妖怪の足が止まる。


「……っ!!」


 ──でも、これでできるのは足止めだけ……っ!!


 結界を壊そうと暴れる妖怪の様子を観察していた黄季はその勢いに奥歯を噛み締めた。流れ落ちる冷や汗が止まらない。妖怪はただ闇雲に突進を繰り返しているだけなのに、それだけで結界面が揺らいでいるのが分かる。やはり黄季の技量には余る存在なのだ。


 結界を壊される前に何か攻撃の手を用意しなければならない。それは分かっているのだが、あの勢いに勝てるしゅを自分が編めるのかという迷いが黄季の喉を詰まらせる。


 ──でも、やるっきゃない……っ!!


 覚悟を決めて、懐にしまっていた数珠を両手に絡ませる。ここ数日、黄季だって無策でふらついていたわけではない。扱えるかどうかは自信がないが、一応攻撃用の呪具だって……


 そんなことを思う黄季の視線の先で、一瞬、妖怪の動きが止まった。遅れて黄季の頬のすぐ横を通り過ぎた風が髪を揺らす。


「……え?」


 黄季のほうけた声は妖怪の絶叫にかき消された。よく見れば妖怪の眉間には小さな刃物のような物が深々と突き立てられている。先程までは確実になかったものだ。妖怪の巨体に比べたらあまりに小さすぎる武器なのに、妖怪はまるで致命傷を負ったかのように悶え苦しんでいる。


「こうなったのは、別にお前のせいではない」


 突然の援護に驚く黄季の背後で、コツリ、コツリと静かな足音が響いた。涼やかな声が、今までよりもずっと近い場所から聞こえてくる。


「確かに、お前が結界をすり抜けられたのは、お前が知らずに持たされていた呪具が原因だろうが」

「え?」

「お前の佩玉はいぎょく、細工がされている」


 振り返ると、すぐ後ろに男が立っていた。立ち姿を初めて見たが、黄季より頭ひとつ分近く背が高い。スラリとしていて、思っていたよりも線は細くなかった。現場に立つ退魔師達のような実戦的な筋肉がついているのが気品のある立ち居振る舞いだけで分かる。


「え? 細工?」


 スルリと伸ばされた男の手が黄季の腰に吊るされた飾りに触れる。袍の帯に吊るすように下げられた赤瑪瑙の佩玉は、泉仙省泉部せんぶ所属の下級退魔師を示す物だ。泉仙省に配属された時に泉部のおさから下賜される物で、素材の違いはあれども宮廷退魔師ならば誰でも常に腰に下げている。特に変わった物でもなければ、最近手にしたものでもない。


「……なるほど」


 黄季の頭上には疑問符がいくつも飛んだが、男には佩玉に触れた数秒で何もかもが理解できたらしい。小さく呟いて手を引いた男はうっすらと眉間に皺を寄せている。


「ばら撒いた、ということか。随分と探されたものだ」

「え?」

「波長が合ったのが、こいつだったと」

「へ?」

「……まぁ、いい。結界に穴を開けたのはお前だが、あの妖怪は恐らくそもそも私を狙っていたやからだ。いくらでも湧いてくる割にこの場所が特定できず、都の中を彷徨さまよい続けている内に陰の気を吸って雪だるま式にここまで育ってしまったといったところだな」


 ──さてはこの人、説明苦手だな?


 こちらに分かるように説明する気配がないことを察した黄季は、思わず何とも言えない目で男を見上げた。


 ──でも、俺のせいじゃないって、言ってくれた。


「お前の心意気に免じて、援護してやる」

「えっ!? でも」

「お前は大口を叩いた割に実力が足りん。……ただ、その大口の内容は気に入った」


 男は黄季の隣に並ぶと妖怪にひたと視線を据えた。ただそれだけでゾクリと背筋を震わせるような冷涼な空気が場に張り詰める。


「……戦わなくていい、と」


 ふと、男が呟いた。吐息に混ぜるように紡がれた声は、あるいは音に乗せている自覚さえなく零れた独白だったのかもしれない。


「そう言われるだけで、ここまで心が救われるとは」


 ──……この人、


 そこに込められた色が分からない感情に、黄季は思わず男の横顔を見つめる。


 だが黄季が何かを口にするよりも男がスッと瞳をすがめる方が早かった。男の左腕が鋭く振り抜かれ、放たれた刃が次々と妖怪に突き刺さっていく。


「私はゆえあって直接術を振るえない」


 男が打ち出しているのは柳葉りゅうよう飛刀ひとうと呼ばれる小刀だった。柄の先端に呪符を結んで呪具にする退魔師もいると聞いたことはあったが、打つのが難しくて使いこなせる人間はあまり多くないという話だ。黄季も実戦で使っている人は初めて見る。


 ──それをあんなに正確に、暴れる妖怪に打ち込めるなんて……っ!!


「どんな攻撃でも、必ずお前の術がヤツに通るように道を作ってやる。だからお前が仕留めろ」


 最初に額に入った刃は、次いで四肢に打ち込まれ、最後には胸、鳩尾みぞおち、下腹に正確に打ち込まれた。まるで曲芸を見ているかのような鮮やかさだ。


「お前は、お前が知っている攻撃呪の中で一番強いものを打て。必ず成るように、必ずあれに通るように、支えてやる」


 ──っ、呆けてばっかじゃいられないっ!!


 黄季は足を肩幅に広げて構え直すとパンッと両手を打ち鳴らした。一度広がった音が自分の所にもう一度集うのを確かめながら、腹の底から声を張る。


「『これは天の声 天の怒り 天の裁き』」


 黄季が紡ぎだしたのは雷撃呪の中でも上位に喰い込む呪歌だった。黄季の技量と霊力では到底成せない代物だ。


 退魔師が己の技量を上回る呪歌を紡いでも、世界のことわりは応えてくれない。むしろ応えてくれないのはいい方で、下手に術者の実力が足りていないのに世界が術師に応えてしまうと、最悪の場合足りない霊力を補うために己の命や魂を削られることになる。


 だけど、今は。


「『天土あまつち貫く天剣てんけんの刃を我に下賜し給え』」


 黄季の言葉を笑うことなく受け止めてくれたこの人の、その心に、心意気に、応えたい。


「『轟来天吼ごうらいてんこう 雷帝召喚』っ!!」


 黄季の絶叫とともに男の指先が舞う。ブワリと空間に満ちた霊力が黄季の呪歌に乗って天に昇る。天と妖怪と地を真っ直ぐに貫く回路が巡る。


 それが分かった瞬間、黄季の五感は目の前で炸裂した白い閃光と轟音に叩かれて焼き尽くされていた。


 ……その瞬間から、一体どれだけが経った後だったか。


「……ここで『轟来天吼』を選ぶ辺り、お前の度胸の良さを感じるな」


 黄季の五感を呼び覚ましたのは、変わらず涼やかな男の声だった。ハッと我に返って目をしばたたかせれば、妖怪の姿はすでになく、池の向こうには焦げた大地が広がっていた。ただでさえ崩れかけだった築地塀がさらに崩れていて、もはや塀の役割を果たしていない。


「……倒せた?」


 ──自分が? あんな大物の妖怪を?


 信じられない気持ちで男を見上げると、変わらず黄季の隣に立っていた男は無表情に若干呆れを乗せた顔で黄季に視線をくれた。


「あれで倒れない妖怪だったら、最初からもっと問題になっていると思うが?」


 つまり、討伐完了、ということだろう。


 黄季は相変わらず信じられない気持ちで己の両手を見つめた。普段の己では決して扱いきれない量の霊力が通った両手は、今まで感じたことがない心地良い熱に包まれている。


「すっげ……」

「お前、度胸はいいが、霊力の巡らせ方に難がある」


 涼やかな声と緩やかな足音に振り返れば、男が寝椅子に帰っていくところだった。黄季が最初に張った結界が功を奏したのか、あれだけの雷撃が落ちたのに屋敷に被害はなかったらしい。あばら屋に似つかない優美な寝椅子に体を預けた男は、再び煙管を手に取る。


「そこを改善すれば、伸びしろはまだあるだろうな」


 ──あれ、これって……


 どう聞いても助言にしか聞こえない言葉に黄季は目を瞬かせる。そんな黄季に気付いていながら、男は黄季を摘み出そうとしない。


「っ……あのっ!!」


 そんな男に向かって、黄季は期待とともに口を開いた。


「こ、こんなに迷惑かけた上で、こんなこと言うのもあれなんですけど……っ!!」


 男の氷のように涼やかで、優美で、凛とした瞳が黄季を流し見る。その瞳はまだ退廃的で、感情の色は薄いけれど、黄季を拒絶する空気はなかった。


「俺、またここに来てもいいですかっ!? 今度は自分の意志で……っ!! あ、その、それでっ! ご、ご迷惑でなければでいいんですけど……っ!!」


 ──退魔師として助言なんかしてくれないでしょうか……っ!?


「……また、この屋敷に来れたら、な」


 最後まで言葉を続けることはできなかった。


 途中で言葉を差し込まれたから、というのもあったけれども。


「まぁ、お前とは、この先、嫌でも縁が続いていきそうな気はするが」


 フワリ、と。


 氷で造られた大輪の牡丹のような佳人が、柔らかな笑みを浮かべたから。


「……っ、名前っ!! 名前教えてくださいっ!!」


 男が軽く煙管の先を振る。本日の強制退場の合図を見た黄季は慌てて口を開いた。急に立ち込めたもやの向こうで、男が虚を衝かれたかのように口元を躊躇わせたのがかろうじて視界に映る。


「……氷柳ひりゅう


 あ、弾き出される方が早いかも、と諦めかけた瞬間、ポツリと声が聞こえた。


「昔、私をそう呼ぶ人もいた」


 声が、消える。その時には黄季はいつも通り繁華な通りに放り出されていた。今日は王城にほど近い大通りの角だ。『討伐完了の報告に行ってこい』という彼なりの気遣いなのかもしれない。


 ──『そう呼ぶ人もいた』ってことは……本名じゃなくて、愛称とか、二つ名とか、そんな感じなのかな?


 それでも『彼』を呼ぶ名前を知った。


 モノを縛り、定義する、一番基本の呪。退魔師は『名前』が持つ力をよく知っているからこそ、気に入らない人間相手にはたとえ簡単な呼び名であっても名乗ることはない。


「氷柳さん……氷柳さん、かぁ……」


 黄季の夢を受け入れてくれた人が、名を呼びたいという黄季の求めを拒絶しなかった。


 そのことが、この上なく嬉しい。


「今度も会ってもらえるように、ちゃんと修行しなきゃな!」


 声に出して呟いて、ひとつ大きく伸びをする。


 それから気合を入れるために両頬を軽く叩いて、黄季は報告に向かうべく王城の方へ駆けだした。




  ※  ※  ※




 ふと、空気が震えるのを感じた男は、筆の動きを止めた。


 筆を筆置きに戻して空気の鳴動に気を研ぎ澄ます。男の意識に引っかかった鳴動は小さく、すぐに消えていったが、一度欠片を掴んでしまえばその行方を追うこともたやすい。


「……そうか、黄季が見つけてくれたか」


 伏せていた瞳を上げた男は、小さく溜め息をついた。その唇の端には苦みを含んだ笑みが微かに浮かんでいる。


「あの日から八年、俺が泉部を預かるようになってから五年……ったく、随分骨を折らせてくれたもんだぜ」


 誰もいない部屋に、男の独白だけが響く。


 その余韻にしばらく耳を澄ませた男は、静かに部屋の隅に視線を流した。窓際に置かれた卓の上には、碁盤が乗せられている。対局の途中のまま放置された碁盤の上には、白と黒の石が無数に置かれていた。


「……見つけたからには、逃がさない」


 呟いた唇が、両端を吊り上げる。


「嫌でも舞台に上がってもらぜ」


 満足の笑みを浮かべた泉部長官は、あふれんばかりの感情を込めて、求め人の名前を言の葉に乗せた。


「なぁ、涼麗りょうれい……?」


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