心地良い季節はあっという間に過ぎて、夏はジリジリと、だが確実にやってくる。


 日差しの下にいるだけでジワリと汗がにじむ、とある夏の初め。


 久しぶりに見る門を前にした黄季おうきは、数度深呼吸を繰り返してからそっと門の扉に手を置いた。硬い扉の感触を確かめてからグッと力を込めれば、扉は開かず黄季の腕の方がズブズブと門の中に沈む込んでいく。


「あ、……そういう感じ?」


『前の自分だったら多分、重心崩して中に転がり込んでたんだろうなぁ』と苦笑を浮かべながら、黄季は前へ踏み込んだ。


 水壁を通り抜けるような感触。目を閉じてその感触をやり過ごせば、たった一歩でスルリと壁は消える。空気の変化を感じながら瞼を開けば、目の前には桃源郷のごとく美しい景色が広がっていた。


「……ほう」


 どこまでも続く美しい庭。風雅なたたずまいの屋敷。たゆたう空気さえどこか光とかぐわしい香を帯びて輝いている。


 そんな何もかもが夢のように美しい庭の中で、一番美しくありながら唯一うつつの存在である貴仙は、以前の通りに軒先の寝椅子に体を預けて庭に踏み込んだ黄季を見ていた。


泉仙省せんせんしょうも、中々話が分かるではないか」


 氷柳ひりゅうは、以前のような怠惰な姿ではなく、戦場いくさばに姿を現した時に纏っていた白衣びゃくえの退魔装束を隙なく着付けていた。唯一異なる点は、その腰に翡翠と青輝石で作られた佩玉がないことだけだろうか。


 その姿で寝椅子の肘掛けに右肘を預け、ゆったりと足を組んで腰掛けた氷柳は、姿を現した黄季が纏う装束を見つめると満足そうに瞳を細める。


蘇芳六位後翼とはな」

「えと……落ち着かないん、ですけど……」

九位よりよほど似合う」


 氷柳の言葉を受けた黄季はポリポリと頬を掻く。そんな黄季が纏う袍は先日までの黒から新調され、蘇芳に変わっていた。


 先日の騒動が収まった後、慈雲から押し付けられた袍がこれだった。慈雲は『あの一件で一番の功労者は間違いなくお前だ。実力に見合った位階拝受だ、つべこべ言わずに受け取れ』と言っていたが、間違いなく黄季の推薦人が氷柳……『氷煉ひれん比翼』の片翼であるてい涼麗りょうれいであり、その相方に黄季が指名されているという事実が効いた結果だと黄季は思っている。そうでなければ元々翼編よくへん試験の受験さえ危うかった自分が八位赤銅七位後翼を飛ばして蘇芳六位後翼を下賜されるはずがない。


「お前は髪と瞳の色が明るいから、後翼こうよくの赤が似合うだろうと思っていたんだ」


 ちなみに泉仙省では、翼編試験に合格した直後の八位退魔師達は前翼ぜんよく、後翼を問わず紺の袍を纏い、そこから功績を上げて七位になるとようやく前翼は青銅、後翼は赤銅と袍の色が青と赤に分かれる。位階に上中下という区分ができるのも七位からだ。黄季の今の位階は六位の下ということらしい。


「そういえば今更ですけど、氷柳さんって前翼だったんですね」

「『虎』を略して『氷煉比翼』だ。並び順から言っても私が前翼だと考えるのが妥当だと思うが?」

「言われてみれば、そうなんですけど……。得物が飛び道具だったから、勝手に後翼かと」

「ああ……」


 黄季の言葉に氷柳は納得の声を上げた。同時に、少しだけ気まずそうに視線がらされる。


「……まあ、私自身は単騎でも前線に出られるように仕込まれたから、前翼、後翼、どちらでもできるのだが」


 青と赤に分かれた一対は、最上位まで位を上げると再び同じ色の衣を纏うことになる。


 それが白。死装束にも似た白衣びゃくえ


「組んでいた相手が、師の孫で、兄弟子で、主家の次期跡取り息子で、私の主でもあったからな。……前線にあまり置いておきたくなくて、仙泉省に入省していざ本当に組むとなった時に、私が前翼を志願したんだ。向こうは向こうで、私を後ろに置いておきたかったらしいがな」


 氷柳が揃いの装束を着た相方といた時代を、黄季は知らない。懐かしそうに瞳を細める氷柳が、一体どんな光景を脳裏に蘇らせているのかも。


 そんな氷柳の隣に並ぶのが自分なんかでいいのかとも、戦いの場に立つ自分の隣に氷柳を置いていいのかも分からない。


 ──でも。


 黄季は真っ直ぐに顔を上げると、己の意志で足を前に進めた。池を迂回し、屋敷の軒先まで歩を進めた黄季を見た氷柳は柔らかな笑みを顔に広げる。


「さて。泉仙省側の答えは分かった」


 常と変わらず静かな声で言葉を紡いだ氷柳は、スッと優雅に立ち上がった。数段分の階段を降りる氷柳に従って、フワリ、フワリと白衣が羽衣のように揺れる。


「次はお前からの宣誓を聴こうか」


 自ら黄季との最後の距離を詰めた氷柳は、黄季の目の前に両手を差し出す。


 そんな氷柳に黄季は目を丸くした。


「え、比翼宣誓って、申し入れた側の人が言うものなんじゃ……」

「私は一度相方を失った、いわば未亡人だからな。そんな人間から宣誓を交わすのは縁起が悪い」

「未亡人って」

「実際問題、間違っていないだろう?」


 氷柳は牡丹のようにあでやかで柔和な笑みを惜しげもなく広げて言い切る。『いやそれ普通、夫を亡くした女性を指す言葉なんじゃ』という言葉が喉まで出かかったが、そんな言葉がどうでも良くなってしまうような破壊力満点の極上な笑みだ。


 ──この人、自分の笑顔の効力分かって使ってんのかな……


『分かって使ってんなら、もう犯罪級だろ、これ……』と思いつつも、すでに自分が氷柳の笑みに魅せられている自覚がある黄季は全てを諦めて氷柳の手を取った。まさか『比翼宣誓なんて一生に一度しか口にすることも聴くこともないだろうし、もしも自分が口にできるならこう言えたらいいな』なんてことを淡く考えていた思考を見透かされた結果だとは、何となく思いたくない黄季である。


 差し出された氷柳の両手を下から支えるように取り、そっと深呼吸をする。


 比翼宣誓。


 相方を持たない退魔師が、己の相方になってほしい相手にそのむねを申し込むこと。


 その文言に特に決まりはないとされているが、古い有名な詩歌になぞらえて『天に在りては比翼の鳥 地に在りては連理の枝 汝と共に一葉いちように命をあずついとならんことを欲す』と誓うことが多いという話だ。名を馳せる一対のことを『比翼』と呼ぶのも、この宣誓の文言から来ている。


 瞳を閉じて呼吸を整えた黄季は、瞼を押し上げて真っ直ぐに氷柳を見上げてから、心に抱いた大切な言葉を音に乗せた。


「我ら共に天をける比翼とならんとも、連理たるを望まず」


 ──背中を預け合うことはあっても、頼りきりになることはなく。


「汝と共に一葉に命を預くとも、決して泥には沈まず」


 ──たとえ対の片割れが倒れようとも、共に倒れることはなく。


「対に在れども各々両の翼を広げ、共に蒼天に在らんことを欲す」


 ──互いに身を寄せ合って飛ぶのではなく、互いに両の翼を広げ合って、互いにそれぞれの力で自由に空を飛ぶ、そんな一対でありたい。


 黄季はそんな思いを込めて、ギュッと氷柳の手を取る指先に力を込める。


 黄季の宣誓に言葉を失くしたかのように目を丸くする氷柳を、今度は自分が引っ張っていけるように。


 誰もいない、ただ美しいだけの虚ろな庭の中に、今度こそ独り取り残していかなくていいように。


「……比翼に在れども連理を望まず、……か」


 氷柳の唇から再び言葉がこぼれるまでに、一体どれだけ時間が必要だったのだろうか。


 緊張とともに氷柳を見上げていた黄季の前で、ふっと氷柳が瞳をなごませた。


「奇遇だな。私も、同じことを願っていた」

「え?」


 氷柳の言葉に黄季は目をしばたたかせる。


 そんな黄季の手を、今度は氷柳が強く握りしめた。


「宣誓、お受けいたしましょう」


 静かで、いつだって黄季の心に深く染み入る声が、凜と、黄季に応える言葉を紡ぐ。


「我ら共に蒼天を舞う鳳凰たらんことを」


 呪術師の宣誓は、絶対だ。言葉の力を借りて呪歌を紡ぐ呪術師の言葉は、呪術師達にとっては何よりも、……場合によっては命よりも重い。


 そんな宣誓の言葉を惜しむことなく、氷柳は黄季に返してくれた。


 ジワリと、体温が上がる。黄季と繋がった氷柳の指先も、今まで触れた中で一番熱がこもっているような気がした。


 だというのに氷柳は、実にあっさりと黄季から手を放してしまう。


しくも、宣誓に揃える形になったな」

「はい?」


 そんなつれない氷柳の手は、氷柳の懐に入れられると何かを掴んで帰ってきた。『何だろう?』と首を傾げていると、氷柳は取り出した品を黄季の手に載せる。


 自分に託された品に視線を落とした黄季は、それが何であるかを理解した瞬間、思わず息を詰めた。


「本来は、泉仙省が台となる石を用意して、比翼宣誓を交わした当人達で意匠を決めて刻むものなのだが。慈雲に用意させて、また何か勝手に術式を刻まれるのも嫌だったからな」


 黄季の手に載せられていたのは、円環状の銀の台座の下で赤い輝石がきらめく佩玉はいぎょくだった。なぜかその佩玉から氷柳と黄季、それぞれの霊力の余波を感じ取った黄季は、佩玉に使われた素材の素に思い至ってハッと顔を上げる。


「氷柳さん、もしかしてこの銀……」

「丁度良くあの手鏡が返ってきたからな。呪具屋に頼んで、二つ分の佩玉に加工してもらった」

「二つ分……」


 その言葉に黄季は氷柳の腰に視線を落とす。


 白衣の袍の腰元。先程までは衣に隠れて見えていなかった場所に、黄季の手の中にある物と揃い意匠の、青輝石が輝く佩玉が下げられていた。


 銀と青、涼やかな煌めきを見せる氷柳の佩玉をまじまじと眺めた黄季は、今度は恐る恐る自分の手の中にある佩玉に視線を落とす。


 銀の台座部分に、大空を悠々と舞う一対の鳳凰が彫られた佩玉に。


 ──鳳と凰は、一対とされているけれど、それぞれに翼があって、片方だけでも空を飛んでいける。


 比翼は、一対が揃わなければ空を飛べない。黄季は氷柳にそんな不自由な存在にはなってほしくなかった。


 願わくば、空を悠々と舞うおおとりのごとく。互いにそうでありながら、それでも寄り添う鳳凰のように。


 そんな願いを氷柳も持っていてくれたということが、こんなにも、……こんなにも、心を熱くしてくれる。


「……っ」


 黄季は勝手ににじんできた涙を腕でこすって誤魔化すと、受け取った佩玉を腰に吊るした。蘇芳の袍に映える銀と赤の佩玉は、黄季の腰に納まると誇らしげに煌めきを放つ。


 その様を確かめてから顔を上げれば、柔らかく笑んだ氷柳と視線がかち合った。


「あの、氷柳さん」


 自然と言葉が口を突く。だが続く言葉が見つからない。


 本当に発作的に呼びかけてしまった黄季に氷柳は柔らかく笑んだまま小首を傾げる。出会った当初は、こんな風に穏やかに言葉を待ってもらえる関係になれるとは思ってもいなかった。


「えっと、あの」


 だというのに、肝心の言葉が見つからない。本当に、見つからない。


 何と続けるべきなのか。


 空回る思考で必死に考えた末、飛び出してきたのは実に間抜けな質問だった。


「お、俺が作った料理の中で、何が一番美味しかったですかっ!?」


 黄季の問いに、氷柳は面食らったように目を丸くした。そんな氷柳を見た黄季は硬直したまま内心だけで頭を抱えて悶絶する。


 ──ぬぁぁぁぁっ⁉ 何でっ!? 何でよりにもよってそれなんだよ俺ぇぇぇぇっ!!


 もっと言うべき言葉があったはずだ。もっと、こう、空気を読んだもっとまじめで重要な言葉が。


 ──確かに気になってたけど、それ今一番どうでもいいことぉぉぉぉっ!!


「どれも美味かったが、強いて言うならば共に夕餉を囲んだ時の水餃子だな」


 そんな風に悶絶していたから、一瞬、氷柳の言葉を聞き逃しかけた。


 黄季は目を瞬かせると改めて氷柳を見上げる。少し呆れたような、それでいてどこか面白がっているような、……『牡丹が咲いたような』と表現するには少し気が抜けた、実に人間らしい笑い方で氷柳は笑いかけてくれていた。


「あれは、実に美味かった」


 ──あ、俺、


「できればまた、作ってほしい」


 ──今の笑い方が、一番好きかも。


「……はい」


 そんな心を笑みに載せて、黄季はそっと頷いた。


 きっと今の自分は、氷柳以上に柔らかく笑み崩れていることだろう。


「……っはい!」


 そんな黄季にもうひとつ笑みを落として氷柳は身を翻した。そんな氷柳の背中に黄季は声を掛ける。


「今日は何をしましょうか? ここひと月来れてなかったわけですし、ひとまず掃除でもしましょうか?」

「……何でお前は家事をする気満々なんだ」

「いや、だってこれからお世話になるわけですし! まずは感謝の気持ちを勤労で表すべきかと思って」

「……勤労で表す前に、退魔師として鍛錬に励んでほしいわけだが」


 寝椅子に戻った氷柳は以前と変わらない、わずかに苦みを溶かした無表情でフイッと顔を逸らす。どうやら氷柳は家事能力がないだけではなく、誰かに家事をこなされることもあまり好きではないらしい。


 そんな氷柳の内心が分かってしまった黄季は、氷柳には分からないようにひっそりと満足の笑みを浮かべたのだった。

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