※※※

黄季おうきっ‼ 生きてるかっ!?」

「縁起でもっ、ないことっ、質問っ、すんなっ‼」


 一言ごとに叫ぶように答えながら、地面を踏みしめて結界基点を刻む。


 最後の一歩を踏みしめた瞬間光を放ち始めた大地を見た黄季は、民銘みんめい達の方へ飛び退ると印を組んだ。


「『起動 白蓮華はくれんげ』っ‼」


 短縮した呪歌によって形作られたのは伏せられた椀のような形で展開される結界だった。大人数人がしゃがみ込んでやっと入れる程度の小規模な結界だが、それでも中に入れさえすれば瘴気と砂塵の嵐から身を守ることができる。


「……っはー、ぶっつけ本番だったけど、短縮起動、きちんとできて良かった……」

「来てくれて助かったわ、黄季」

「こっちも、転送された現場の近くに二人がいてくれて助かったよ……」


 ほっと一息ついた民銘の腕の中に視線を落とした黄季は、そこにいる明顕めいけんの様子に眉を潜めた。


 意識を失ってグッタリとしている明顕は、多少かすり傷を負っているが大きな怪我をしているようには見えない。黄季が泉仙省せんせんしょうから転送陣で送られてきた時、すでに明顕はこの状態だった。意識がない明顕を腕の中に庇って必死に結界を展開していた民銘の近くに黄季が降り立ち、二人を助けるために術を編み始めたはいいもののその瞬間から妖怪の攻撃の威力が増し、何とかいなしながら結界を張ったというのが今の状況だ。


「何が起きた?」

「分からない。翼編よくへん試験は問題なく進んでいたはずなんだけど、気付いたらこの砂嵐で、妖気が炸裂してて……」


 細かく体を震わせながらも、民銘はなるべく冷静に言葉を紡ごうとしてくれていた。恐怖に耐えるためなのか、キュッと明顕を抱きしめる腕に力がこもる。


「一瞬で視界を奪われて、他のやつらも、試験官の上役達も、どこにいるのか分からなくなった。……俺は、明顕が初撃から庇ってくれたから……。でも、明顕だけじゃ砂嵐の向こうから来る攻撃を捌ききれなくて、……俺も、援護しきれなくて、それで……」


 民銘の体がガタガタと大きく震える。地面を見つめていた瞳からボロボロと涙がこぼれて、つかの間の平穏を得ていた地面に落ちていった。


 それが恐怖だけから来るものではないと、黄季は知っている。


「っ、悔しい……っ‼ 俺、悔しいよ、黄季……っ‼」


 傷ついて倒れた明顕を抱えて泣く民銘は、己の無力に震えていた。


「明顕に庇われて、こうなってからはなんとかしのぐのに手一杯で……っ‼ 俺、何もできてない……っ‼ 俺だって、翼編試験に臨んだ退魔師なのに……っ‼」


 その悔しさが、黄季には分かる。大乱で何もできないまま家族を亡くした時、黄季は同じ悔しさを何度も何度も噛み締めたから。


 だから今ここでどんな言葉を民銘に向けたって、意味がないと分かっている。


「……でも、民銘がいなかったら、明顕はきっと今、息をしてない」


 それでも、黄季は思ったことを素直に言葉に出していた。


「民銘はちゃんと、明顕を守ったと、俺は思うよ」


 そんな黄季の言葉は、少なからず民銘の心に何かを落としたのだろう。ハッと顔を上げた民銘が目を丸くしたまま黄季を見つめ、やがてクシャリと表情を崩す。


「……って、そんなことをのんびり考えるのは、この場を切り抜けてからにしなくちゃな」


 そんな民銘に小さく笑みを向けた黄季は民銘から視線を外すと結界の外を見遣った。自分の両頬を叩いて気合を入れ直した民銘も涙を払って黄季の視線の先を追う。


 結界の外は相変わらず砂の嵐だった。時折その中に走る黒炎は強すぎる瘴気の具現だろう。妖怪の本体はおろか、同じ現場に立つ同朋達の姿さえ把握できない状態だ。


「妖怪の全容を民銘は把握できてないんだよな? 何体いるとか、どんなやつだったとか」

「悪い、まったく分からん。ただ、俺の勘で言っていいなら、メッチャ強いやつが一体だけだ」

「どうして?」

「土煙が上がった瞬間の妖気の爆発の仕方っつーか、地脈の乱れ方っつーか……悪い、やっぱり最後は勘」

「信じる」


 民銘とは祓師寮ふっしりょう時代からの付き合いだが、民銘の読みはいつだって正確だった。本人は自信がないようだが、民銘の勘ならば信じるべきだと黄季は思う。


「妖怪が現れる前、上官達はどんな感じで配置されてた? 連携さえ取れれば囲い込めそうか?」

「この忌地いみちを囲うように配置されてたと思う。そもそもこの忌地には最初から外に影響が出ないように結界が張られてて、上官達はその結界の展開補助のためにそこにいたんだ。だから最初から囲い込み自体はできてるし、現状で効力は発揮してないけど、結界自体は今も生きてるはずなんだ」


 次いで得た情報に黄季はこの忌地の地形と位置を頭の中に思い起こす。


 都を囲む外周の城壁から少し離れた外側に位置するこの忌地は、徒人ただびとが一見しただけではただ荒野が広がっているだけに見えるらしい。だが実際は都を巡った陰の気が最終的に流れ着いて澱む海のような場所で、都がここに置かれた直後から泉仙省が代々丁重に管理してきた年季の入った忌地だ。


 ただその性情は穏やかなもので、適切な管理を続けていれば無暗に妖怪を呼び込むこともなく、ヒトとも共存していける土地であるらしい。


 黄季が書物で読んだ所によると、ここに集まった陰の気は穏やかに大地に吸収されて地脈と合流し、陰でも陽でもない純粋な『気』となって再び大地を巡っていくのだという。本物の海が最終的に全ての水を受け止めて大地に清水を返していくように、この土地も気を浄化する役割を持っているのだ。忌地としての厄介さ加減から言えば、気を浄化するわけでもなくただひたすら陰を濃くして妖怪を呼び込む氷柳ひりゅうの屋敷の忌地の方が凶暴だと言える。


 逆に言えばそういう穏やかな性情の土地であるからこそ、翼編試験の会場に使われているということだ。そもそも翼編試験そのものもこの忌地の気の調整の一端を担っているらしい。年に一度、この地の陰の気を使って妖怪を呼び込み討伐することで、大地が浄化できる以上に陰の気が溜まることを防ぐ目的があるんだとか。


 ──民銘は、翼編試験は順調に進んでたって言った。


 忌地の気の溜まり方に問題があったのか。何者かによって細工がされていたのか。試験官達の中に良からぬことを企む人間が混ざっていたのか。強大な妖怪が偶々近場にいて、運悪くそれを呼び込んでしまったのか。


「書物で、この忌地の四隅には忌地の管理と結界展開補助を兼ねた呪石が埋められているって読んだけど、それ本当か?」


 原因はいくらでも考えられるし、その答えによって適切な対応も変わってくる。


 だが今そこを考えても現状打破には繋がらない。どれが原因であってもどのみち黄季達の手には余る。


 ──『己の力で実行できる最善の手を考え、確実にそれを成せ』って、氷柳さんも言ってた。


 直接妖怪を討伐するには明らかに黄季達の実力が足りない。だがただ現状を耐え忍んでいればいつか誰かが事態を好転させてくれるのかと問われれば、それも否と言わざるを得ないのが今の状況だろう。


 今の黄季達にできること。


 それは何とか自分達より格上の退魔師達に繋ぎを取り、彼らの連携を支えて討伐の助力をすることではないか。


「え……あ、あぁ。四隅と言わず、もっとあった。土地の境界を示す四つ角と、各辺の間にひとつずつ。何か試験の役に立つかと思って、試験前に存在を探った時に俺が見つけた呪石は全部で八つ。それぞれの呪石の所に試験官達が立っていたから、多分あれが試験前に張られてた結界の基点だ。もしかしたらもっとあるのかも」

おん長官もそのうちのどこかにいたのか?」

「いや、長官は結界展開とは関係ない場所で俺達の動きを見てた。結界の内側にいたことにはいたけども」


 黄季の質問の意図は読めなかったものの、何か必ず意味はあると考えてくれたのだろう。戸惑いを浮かべながらも民銘は詳しい状況を黄季に教えてくれた。


「結界を展開してた上役達、無事だと思うか?」


 だが続く問いには一瞬、民銘の瞳が揺らいだ。


「……初手の土煙が上がる前、何人か吹っ飛ばされたのが、感覚で分かった」


 黄季の質問に否で答えることは、顔見知りである人間の死を暗に肯定することだから。


「……そうか」

「でも、結界と呪石は生きてる」


 だが民銘はその感傷を一度きつく瞼を閉じることで振り払った。再び開かれた目は力強い光とともに黄季を見据える。


「この乱流の中でも、呪石の感覚と結界の術式、把握したまま手放してない?」

「手放したら本気で終わると思って、死に物狂いでしがみついてる」

「そこに力を通して、みんなに合図を送ることってできそうか?」

「っ……むっずかしいこと言うねぇ、お前」


 ここまできてようやく民銘は黄季が何を狙っているのか気付いたらしい。民銘の口元に無理やり浮かべられた笑みが引きっている。


「土地の広さに加えて、忌地でこの嵐だ。いくら基盤がもうあるっつっても」

「それでも」

「……俺には無理。力が足りない」


 その表情が掻き消えた。頼りなく伏せられた瞳にあるのは、きっと悔しさだろう。


「今無茶をしたら、多分、必死に掴んでる感覚がすり抜けてくと思う」

「分かった。じゃあお前が今掴んでる感覚を貸してくれ」

「は?」


 だが民銘のそんな感情は、黄季の一言で消し飛ばされた。


「民銘の感覚を借りて、俺が力を通す。だから結界展開代わってくれ。白蓮華の展開と今掴んでる感覚を維持するくらいなら並行してできるだろ? てかできるって言え」

「は? おま……」


 一瞬ポカンと間抜けな表情をさらした民銘は次の瞬間血の気が引いた顔で身を乗り出した。


 だが黄季はそんな民銘を片手で制する。


「やらなきゃ、全員まとめて死ぬだけだ」


 基盤がすでにある結界の力を引き出して強め、まずこの妖怪が起こす瘴気と砂の嵐を止める。嵐が止まれば視覚が確保できる。視覚さえ取り戻せれば上役の退魔師達が退魔に乗り出せるはずだ。結界の効力が急に上がり、その引き金に黄季の霊力が使われたことに皆が気付いてくれれば、きっと彼らも黄季の意図に気付いて後押しをしてくれる。


 討伐そのものは上役達に任せ、自分はそのきっかけになる部分を作り出す。それが黄季がこの場で負うべきと判断した己の役割だ。


 だがそのきっかけを作るにしても、黄季の力が足りるかどうかは分からない。


「民銘」


 だけどそれ以上に『力が足りないから』という理由だけで、できるかもしれないことから逃げてうずくまり続けるような存在ではありたくなかった。


 強く同朋の名を呼ぶ。その声の強さに民銘がギリッと奥歯を噛み締めたのが分かった。


 一度そのままうつむいた民銘は、ギュッともう一度明顕の体を強く抱きしめてから明顕を地に下ろす。


「……倒れたら、承知しねぇんだからな」


 低い呟きは、パンッという鋭い柏手の音に掻き消された。力強い音は、ただ響いただけで周囲の空気を軽くする。


「お前ら二人ともまとめて面倒見ることになったら、俺、泣いちゃうんだからなっ!!」


 そんな空気の中に情けない絶叫を響かせた民銘は、片手で懐から引き抜いた符を構え、もう片方の手を黄季へ差し伸べる。


「『地には蓮華 天には光明 ここは楽土の水鏡みずかがみ』っ!!」


 その手に右手を預けた黄季は左手を地面に降ろした。そのまま瞳を閉じて左のたなごころに集中すれば、フルリとほどけた感覚が地脈に乗って大地に広がっていく。


「『咲き誇れ その美しき花弁を以って楽土安寧を導かん 白蓮華』っ!! ……オラ、行ってこいっ!!」


 背中を蹴り飛ばすような民銘の声と共に黄季の意識が地脈の中に飛び込む。民銘の霊力の軌跡をたどるように意識を伸ばせば呪石へはすぐにたどり着けた。民銘が言う通り、呪石と呪石を繋げるように走る結界の術式と、結界の起動を支える霊力はいまだに生きている。次いでその術式に意識を這わせれば、忌地を囲む呪石と結界の全容は思っていたよりも簡単に把握することができた。


 ──後は、この結界に通う力を上乗せできれば……


『以前にも指摘したが、お前は霊力の巡らせ方に難がある』


 ふと、こんな時なのに、あの涼やかな声で紡がれた言葉を思い出した。


『退魔術を己の身の内にある霊力だけで行使しようとしていないか?』

『え? そ、それ以外にどうやって行使しろって言うんですか?』

『退魔術は、己が身の内にある霊力を呼び水として使い、大地に流れる地脈の力を引き出して行使するものだ』


 あの屋敷に通うようになって、すぐに教えられたことだった。思えばこれが氷柳から初めて受けた指導だったかもしれない。


『つまり、消費される力はほぼ地脈から引き出された力。己の霊力は、引き出した地脈に色を付ける程度に混ぜればいい』


 地脈を川、退魔術をおけに例えた氷柳は、退魔師の霊力と器はそれらを繋ぐといのような物だと語った。


 自分の力を使うのは、大地から力を引き出す呼び水として周囲に撒く時と、引き出した力に呪歌を織り込む瞬間だけ。全てを己が身の霊力だけでまかなおうとしたらどんな退魔師だって霊力が足りずに倒れてしまう。退魔師個人が持っている霊力の強弱は確かに技量を左右するが、それよりも『いかに効率的に地脈から多くの力を引き出して利用できるか』が退魔師にとっては肝なのだというのが氷柳の持論だった。


 ──ここは忌地だ。陰か陽か別として、力ある気だけは馬鹿みたいにある。


 黄季は意識を集中させると己の霊力を振るう。自分の力を直接結界の術式に流し込むのではなく、ぬかるんだ沼地をジワリと踏んで水を出させるような感覚。自分という樋を経由させて引き出した地脈の力を術式に流し込む。その流れを、強く意識する。


 大地から流れ込む力を受けて、体中がぽうっと熱を帯びたような気がした。


 ──大丈夫。今の俺ならやれる。だって、氷柳さんが教えてくれた。


 ジワリ、ジワリと少しずつ満ちてくる力を、焦ることなくゆっくりと術式に流し込んでいく。トクトクトクと、目の前に置いた桶にゆっくりと水を満たしていく感覚で。


 ──大丈夫。規模が大きいだけで、そこまで複雑な結界じゃない。術式の基礎は、俺だって知ってるやつだ。


『基本を押さえれば、規模が大きくなっても同じだ。規模が大きい分展開維持に力を使うが、地脈と己と術式の繋がりが安定さえすればどうってことはない。実際に現場で使われている結界術の大半は、力の循環さえうまくやりくりできれば今のお前でも十分に扱えるものだ』


 ──そうですよね? 氷柳さん……っ!!


 徐々に結界が力を取り戻していくのが分かる。新たに聞こえてきた低い耳鳴りは、決して黄季達を害するものではない。


「黄季……っ!!」


 力が、満ちる。


 それを感覚として掴んだ瞬間、ぽぅっと視界が明るくなった。瞼を開けて周囲を見遣れば、黄季を基点として力を取り戻した結界が大地に光の線を走らせているのが見える。


 ──やれるっ!!


「『汝はかなめ 汝は光 汝は汝にあらず 界を隔てる地の要』」


 己の直感に従って口ずさんだ呪歌は、基本も基本の結界呪だった。それでも結界は黄季の声に応えるかのように輝きを増す。


「『界断絶 乖壁かいへき展開』っ!!」


 術式に満ちた力が天に向かって立ち上る。今まで砂嵐に掻き消されかけていた不可視の壁が、もう一度力を取り戻し、黒炎とともに吹き荒れていた砂嵐を壁の中に閉じ込める。


「やった……っ!?」

「まだだ」


 立ち上がる結界を見上げた民銘が歓喜の声を上げる。


 だが黄季はそこで手を緩めることはなかった。右手を民銘に、左手を大地に預けたまま続く呪歌を紡ぐ。


「『この穢れを祓え これは神の息吹 ここは常橘とこたちばなの咲きける所』っ!!」


 結界の術式に力を注いでいる時、各呪石を必死に守ろうとしている退魔師達の気配も掴んだ。欠けている所もあるが、半数近くは粘ってくれていた。


 彼らなら、今の結界の反応で黄季の意図が分かったはずだ。そして分かってくれたなら、次に来る術式だって予想してくれているはず。何せこの連携技を黄季に仕込んでくれたのは、氷柳ではなく泉仙省の先輩諸氏だったのだから。


 ──どうか届いて……っ!!


「『ここを浄華じょうかと成せ 浄祓じょうばつ』っ!!」


 そんな願いを乗せ、黄季は結界に新たな術式を送り込んだ。既存の結界に上乗せされた修祓呪が結界に流れる力に従って大地を巡る。呪石を経由するごとに勢いを増していく修祓呪には確かに黄季以外の霊力の色があった。勢いを増した修祓呪は結界面から噴き出るように広がり、黒炎を纏う砂嵐を優しく、だが容赦なく祓い清めていく。


 そんな風に下から押し上げられるように、足元から視界が晴れた。


「やっ……」


 黄季の口から思わず歓喜の声が漏れる。


 だがその声はたった一瞬で喉の奥でもつれて止まった。


 結界の中心。砂塵が祓われた先。この嵐を、そこに在るだけで引き起こした原因。


 と、黄季の視線がかち合う。


 ──ヤバイ


 それが何であるのか理解するよりも前に警鐘が鳴り響いた。そして警鐘が鳴っていると理解した時には目の前に真っ黒なあぎとが迫っている。クワッと広げられた口腔は大きい上にズラリと牙が並んでいて、黄季なんて簡単に殺せてしまう構造をしていた。


 ──あ、これ、死……


「黄季……っ!!」


 民銘の絶叫が響く。だが意識がまだ地脈と繋がっている黄季は迎撃することも逃げ出すこともできない。


 ただ、迫りくる死を見つめていた。


 その瞬間、だった。


「『げき』っ!!」


 バツンッと空間そのものが捩じ切れるかのようなすさまじい衝撃が目の前を通過した。その衝撃に押されて妖怪が吹っ飛ばされていく。遅まきながら瞼を閉じた黄季の耳にザッと地面を踏み締める足音が響いた。


「お前ら無事かっ!?」

「おっ……恩長官っ!!」


 民銘の涙声がその人の名を叫ぶ。その声を聞いてから、黄季は怖々瞼を開いた。


 術の余韻に翻る見慣れた薄青色の衣。いつもはその腰に翡翠の佩玉はいぎょくが下げられているのに、今日は青と赤、二つの見慣れない佩玉が揺れている。さらにそこから顔を上げれば、この場で一番頼りになる人が安堵の息をいた所だった。


「……長官」

「よく持ちこたえてくれた」


 珍しく焦りを顔に浮かべて登場した慈雲じうんだったが、黄季達を背後に庇って振り返った時には口元に笑みが浮いていた。緊張を帯びつつも常の飄々とした雰囲気を残した笑みに黄季の涙腺が勝手に緩んでくるのが分かる。


「お前が展開してくれた結界と修祓呪のおかげで連携を取り戻せそうだ。ばん黄季、お前は結界を維持しつつ退避に移行。ふう民銘とともに明顕を始めとした怪我人の対応を……」


 そんな黄季達に慈雲はテキパキと指示を出す。


 だがその声が途中で凍り付いたように止まった。バッと顔を振り向かせた慈雲の背中が後ろから見ても分かるくらいに強張っている。


「……おいおいおいおい、嘘だろ……?」


 慈雲の声が上ずっていた。


 そんな慈雲の後ろから慈雲が見つめる先を追った黄季は、そこにある光景を見つけてヒュッと息を呑む。


 姿を現した妖怪は、巨大な虎のような姿をしていた。慈雲の術に叩かれて地面を跳ねるように吹き飛んだ妖怪は、しばらく地面でもがいてからムクリと立ち上がる。


 そしてブルルッと体を震わせ、分裂した。


 まるで猫が毛皮の水を振るい落とすかのような仕草。普通の猫と違うのは、撒き散らされる物が水ではなく瘴気で、そのひとつひとつが地面に落ちるたびに新たな妖怪が生まれてくること。


 頭の先から尾の先まで震わせた妖怪は、後ろ足で首筋を掻きむしり、ひとつ伸びをしてから天を見上げて咆哮を上げる。


『──────────っ!!』


 天をつんざく音の暴力に追従するかのように、生まれ落ちたモノ達も叫ぶ、跳ねる、騒ぐ。


「……効いてない所の話じゃねぇ」


 慈雲の声が、乾いてひび割れた。


 絶望した人間の声だった。


「どうしろってんだよ、こんな……一体一体撃滅するにしたって、こっちの手数が……」


 目の前には、呼吸数回分の間に広がった漆黒の軍勢。対する泉仙省は疲弊し、頭数を減らしている。


 ──恩長官で無理なら、俺達だって……


 ささやくように落とされた絶望の声を聞いてしまった黄季の心も揺れる。


 その動揺が瘴気を核とする妖怪には巡る気を介して伝わるのだろうか。


 虎の妖怪がピシリと尾を振る。その瞬間、妖怪の視線が全て黄季に向いた。


「っ!!」


 ──こいつら、俺が結界展開の核だって気付いて……っ!!


 現状、妖怪を忌地の中に封じ込めている結界を支えているのは黄季だ。黄季が倒れればこの結界はもはや存在を維持していられない。妖怪達にとってこの場で最も目障りな存在は黄季なのだ。


 ──こいつら総出で襲ってきたら、恩長官だって捌き切れない。結界で阻んだって持久戦に持ち込まれたら負ける。


 氷で貫かれるような衝撃を受けているのに、思考だけは妙に冷静だった。何かが振り切れてしまったのか心は妙に静かで、普段よりもよく回る頭が冷静に状況を分析している。


 ──結界でとりあえず足止めをして、他の場所から応援が来るのを待つ? ……多分、その応援がもう来ない。じゃあ、俺だけ別行動して囮になる?


 だが何をどう分析してみても有効な一手が見つからない。何をどう考えても『泉仙省の全滅』以外の未来を導き出せない。


 凍り付く黄季の視線の先で、スッと天を仰いだ虎が天を落とす勢いでえた。


 それを合図に漆黒の軍勢が雪崩となって動き出す。


「っ……『汝の足は汝にあらず 汝の腕は汝にあらず 汝の四肢は汝にあらず 汝 いかにして地を這うことあたわんや』っ!!」


 我に返った慈雲が数珠を手に絡めながら印を切る。


「『阻め 不動結界呪』っ!!」


 慈雲が築いた結界が新たな壁を立ち上げる。慈雲が選んだのは持久戦だった。


「お前らっ!! 俺が足止めしてる間に動ける人間全員纏めて撤退しろっ!!」

「!? 長官はどうするつもりですかっ!?」

「こいつらを完全に消し飛ばすには土地ごと吹っ飛ばすしかもう手がない。引き付けるだけ引き付けたら派手にかち上げる」

「っ!? 長官を一人残して撤退しろって言うんですかっ!?」

「それしかないだろ」


 言い合う間にも妖怪の波は距離を詰めている。もう時間はない。慈雲が築いた結界と前線がかち合うまでに残された時間はあと数十秒といったところか。


 ──何か手は……っ!!


 慈雲はこの土地と己の命ごと全てを消し飛ばすつもりだ。確かにそれしか手はないのかもしれない。間違いなくこの場で一番強い退魔師である慈雲がその手を選んだならば、そうするより他ないのかもしれない。


 ──でもそんな、長官を見捨てるような真似……っ!!


「さっさと行けっ!!」


 何か、何か手はないのか。


 そこで思考が凍り付いた黄季に叱咤の声が飛ぶ。


「黄季っ!!」


 我に返るのは民銘の方が早かった。左腕で明顕の体を抱えた民銘が右手で黄季の腕を掴む。


 それでも黄季は、諦めきれなかった。


 ──こんな時、どうしたら……っ!!


 悔しさに思わずきつく瞼を閉じる。


 そんな黄季の脳裏に浮かぶのは、疑問をぶつければいつだって一緒に考えてくれた佳人の姿で。


「氷柳さん……っ!!」


 気付いた時には、すがるような声が漏れていた。


 そんな黄季の声に応えるかのように、瘴気に澱んだ空を裂く鋭い風切り音が聞こえたような気がした。


「『咲け』」


 一瞬、彼を望みすぎた自分が幻聴を聞いたのかと思った。


「『爆華ばっか乱連らんれん』」


 凛とした声が、全ての音を掻き消して、一瞬の静寂が生まれる。


 その静寂に導かれるかのように瞼を開いた黄季は、慈雲が築いた結界と漆黒の波のちょうど真ん中を取るように大地に突き立てられた柳葉りゅうよう飛刀ひとうを確かに見た。


 どこからともなく現れた飛刀は限界まで縮められた呪歌に応じて地脈を吸い上げ、白銀の閃光とともに爆発する。


「な……っ!?」


 爆発はその一回だけでは収まらなかった。基点となった飛刀を中心とするように爆発は左右に広がっていく。


 まるで漆黒の大地に白銀の花が乱れ咲くような景色。閃光は断末魔さえ許さず妖怪の身を焼き、黒い花弁のように舞う瘴気の残滓さえ飲み込んで消し飛ばしていく。


「『爆華乱連』……そんな、……仕込と、長文詠唱が必須な上位爆撃呪じゃ……」


 突然巻き起こされた爆撃に民銘が呆然と呟く声が聞こえた。


 だが黄季はその声を聞いていない。


「これが今の泉仙省の総力か。随分と貧弱になったものだ。情けないにも程がある」


 涼やかな声とともに、大地を踏み締める足音が聞こえる。


「先日、お前に言われた言葉をそのまま返そう」


 振り返る。


 この全てが、幻でありませんようにと切に願いながら。


「お前は随分としょぼくれたな、慈雲」


 黄季達の後ろに、その人はいつの間にか立っていた。


 頭の後ろの高い位置でひとつに結わえられた髪は、冠に納まりきらずに毛先が背中で揺れている。きっちりと着付けられた袍の色は白。帯と袴は銀鼠ぎんねずで、腰には白みが強い翡翠と鮮やかな青輝石で作られた佩玉が揺れていた。当人の涼やかな美貌と相まって、白衣に身を包んだ氷柳はその呼び名の通り氷の貴仙のごとく黄季の目に映る。


「……氷柳さん」


 小さく名を呼ぶと、氷柳の瞳が黄季を捉えた。その瞬間、氷柳の瞳がわずかに揺れる。


 ──今の俺、すっごく情けないカッコしてんだろうな。


 砂嵐に揉まれて衣も顔も汚れているだろうし、着付けもへったくれもないくらい全身ヨレヨレになっていることだろう。おまけに今の自分はほうけた顔をさらしていて、若干涙目になっている自覚がある。


「氷柳さん、どうして……」


 そんな場違いなことを思いながらも、口から零れていたのは別の問いだった。


 氷柳は、戦いの場に引き出されることをいとって、全てを捨ててあの屋敷に閉じこもる道を選んだ。氷柳の屋敷で初めて退魔に臨んだあの時『ゆえあって直接退魔術を振るえない』と言っていたのは、霊力の余波から己の存在を割り出されたくなかったからだろう。表舞台に戻って来いと言う慈雲を退けるために黄季とのえにしを断ったのも、屋敷の場所さえ把握させないように全てを遮断したのも、全ては己という存在をひた隠すため。


 それなのに。


「こんな風に、出てきたら……っ!!」


 全て、無駄になってしまうのに。


 また、戦いの場に、引き戻されてしまうのに。


「……涼麗りょうれい、お前……」


 氷柳の登場は慈雲にとっても想定外のことだったのだろう。呆然と呟く慈雲は今まで見たことがないほど呆気あっけに取られた顔をしている。


 そんな慈雲の声に、氷柳の視線が慈雲に向け直された。慈雲の腰に二つの佩玉が揺れる様を見た氷柳は、一瞬だけ痛みをこらえるような表情を浮かべる。


「お前、何を悠長にチマチマと立ち回っている。それでも『猛華もうか破竹はちく』と讃えられた比翼の片割れか?」


 だがその表情は、本当に一瞬だけで消えてしまった。


「情けない。しょぼくれるにも程がある。お前のかつての後翼が今のお前を見たら何というか」

「……は?」

「さぞかし嘆くだろうなぁ? もしくは『調教』という名の折檻行きか?」


 真っ直ぐに慈雲に向け直された顔に浮かんでいたのは、呆れや憐憫といった感情を含んだ嘲笑だった。冷笑、と言ってもいいかもしれない。元々の顔立ちが涼やかに整っている分、氷柳はそんな表情が実に様になる。


「以前のお前なら、これの二倍や三倍過酷な現場に放り込まれても、鼻歌混じりで片付けられただろうに。書類仕事というぬるま湯に浸かりすぎて現場を忘れたか?」


 ──……え? これってもしかして、この間の意趣返し?


 黄季は思わず状況も忘れて目をしばたたかせた。状況に置いていかれすぎた民銘はポカーンと口を開いたまま固まっている。


「あー、情けない、情けない。泉仙省泉部せんぶ長官が聞いて呆れる」


 そんな一行を前になぜか氷柳は絶好調だった。軽く肩をすくめた氷柳はハンッと軽く鼻先でも笑う。


 その瞬間、黄季は傍らからブチッと何かが千切れる音を確かに聞いた。


「お……ん、前はよぉ……っ!! 黙って聞いてりゃ……っ!!」


 黄季は動きがぎこちない首を動かして傍らを見上げる。


 その瞬間、ブワッと怒りの色を乗せた霊力が立ち上った。


「八年も自分勝手に引き籠っていやがったテメェにやいのやいの言われたかねぇわっ!! しょぼくれただぁっ!? 『立場をわきまえて行動できるようになった』って言えやっ!! 長官が昔みたいに無鉄砲に前線出てって倒れでもしてみろっ!! 誰が現場仕切ンだよっ⁉ 俺だって歯痒かったわっ!!」

「ほぅ? 昔の自分が無鉄砲だった自覚はあるのか」

「俺っつーか、俺を引っ提げた貴陽きようがなっ!!」

「後輩の後翼に引きずられて前線に投げ込まれる前翼……。確かにあれは見物みものだった。あの尻に敷かれた感じは」

「敷かれてねぇっ!!」

「そもそも今歯痒さを感じているなら、歯痒くならない方法を考えて現場を仕切ればいいだろう。まあ、この状況では指揮系統も何もあったものではないが」

「うるっっっっせぇわっ!! 今の俺には後翼がいねぇんだよっ!! そんな簡単に無茶できるかっ!!」


 二人の言い合いにただ圧倒されていた黄季はその言葉にハッと目をみはった。後ろにいた民銘も恐らく同じ反応をしていただろう。


 青い衣や青い佩玉は前翼の位階を持つ退魔師である証だ。慈雲が前翼の位階持ちなのだろうということは前から分かっていたが、今までそんな慈雲の対とみなされる退魔師には出会ったことがない。


 つまり慈雲は今、片翼を失った状態なのだ。


 ──もしかして、今長官の腰にある二つの佩玉って……


 鳥兜とりかぶとの群れの中から昇る三日月の意匠。他に見ないその意匠は、恐らく持ち主達にちなんで刻まれた物なのだろう。


 そんな色違いの佩玉が二つとも、慈雲の腰で揺れている。


 ──赤い後翼用の佩玉は、かつての相方の人の遺品なんじゃ……


「あーもう分かった! やってやんよっ!! 引き籠って真実しょぼくれたテメェに八年体張ってきた俺が目にモノ見せてやんよっ!!」


 不意にそんな空気を慈雲のやけっぱちな声が引き裂いた。


 パンッと慈雲の右の拳が左の手のひらに打ち付けられる。右の親指の付け根を左のたなごころに添えるように拳をひねった慈雲はそのままゆっくりと右手を横へ引き抜いた。


 その手に左の手のひらからこぼれ落ちた光が刃を形作る。


「後で『申し訳ありませんでした慈雲様』って泣いて詫びやがれっ!!」


 重い風切り音とともに振り抜かれた慈雲の右手には、刃先から柄までの長さが慈雲の足先から肩くらいまでありそうな長大な刀が握られていた。身幅が広く、厚さと反りもある偃月刀えんげつとうだ。初めて目にしたが、これが前翼として現場を舞う慈雲の呪具なのだろう。


「涼麗、お前、そんな大口叩いたなら、このまま何もしないで『はい、さよーなら』なんて無様をさらすつもりはねぇだろうな?」


 いかにも重そうな刃を片腕で肩に担ぎ上げた慈雲は鋭い目で氷柳を見据える。その言葉に氷柳の瞳が揺らいだのを、黄季は確かに見た。


 色の薄い唇が、ゆっくりと開く。


「まっ、待ってくださいっ!!」


 その瞬間、黄季は思わず叫んでいた。不意を突かれたような顔で氷柳と慈雲、二人ともが黄季を振り返る。何を訴えたいのか分からないまま二人の間に割り込んだ黄季は、そんな二人を前に思わずたじろいだ。


「ひ、氷柳さんは……っ!!」


 戦いたくない。これは間違いなく氷柳の本心だろう。


 だが氷柳は己の意志でこの場に出てきた。状況的にも氷柳に頼らずこの場を切り抜けることはもはや不可能だろう。


 氷柳に戦ってもらうしかない。


 それでも心の奥底には納得できない自分がいる。


『……戦わなくていい、と。……そう言われるだけで、ここまで心が救われるとは』


 あんなことを言っていた氷柳を、戦場に引き戻していいはずがないのだから。


「……鷭黄季」


 氷柳を見上げたまま言葉を失った黄季から、氷柳は一体何を読み取ったのだろうか。


 ふと、涼やかな声が黄季の名を呼んだ。


 初めて、この声に名を呼ばれた。


「お前に、訊ねたいことがある」


 無防備に氷柳を見上げ続ける黄季に氷柳が向き直る。


 今は黄季が地面にへたり込んでいて、氷柳の方が立っている。こんな風に氷柳を見上げるのは、そういえば珍しいことなのかもしれない。


「お前の家族は、『戦いたくない』と泣きながら戦場に旅立っていって、皆亡くなったと聞いたが」


 そんな黄季を静かに見据えて、視線と同じく静かな声で言葉を紡ぎながらも、氷柳はユラユラと瞳を揺らしていた。


「もしもお前の家族が『戦いたい』と言って自らの意志で戦場に旅立っていたのだとしたら、お前は家族を笑顔で見送ったのか?」


 その揺れが何から来るものなのかは、黄季には分からない。だがその問いが氷柳にとって酷く重要であるということだけは分かった。


 だから、一度しっかりと己の心を見つめて、無意識にでも偽りを紡いでいないかを確かめて、コクリと空唾を呑んでから、唇を開く。


「笑顔で、っていうのは、多分、無理です。家族が、己の意志であっても戦場に出るってなったら……多分俺は、泣いてました」


 黄季が必死に紡ぐ言葉を、氷柳は屋敷で黄季と向き合っていた時と同じように静かに聴いてくれる。瞳を揺らめかせながらも、真っ直ぐに黄季に視線を据えて。


 だから黄季も、同じように真っ直ぐに氷柳を見つめて、ありのままを口にする。


「でもきっと、泣きながらも、『気を付けてね、絶対に帰ってきてね』って、送り出すことはできたと、思います」


 そんな黄季の言葉を受け止めた氷柳が、何かを思うように静かに瞼を閉じた。


「……そうか」


 一瞬、世界の全てが止まってしまったかのような静寂が訪れる。


 そんな世界に染み込ませるかのように、ポツリと氷柳の声は落ちた。


「ならばそれがきっと、私にとっての答えなのだろう」

「……え?」


 氷柳の瞼が静かに上がる。再び現れた瞳はもう揺れていなかった。


 水鏡のように凪いだ瞳に意志の光を宿した氷柳は、振り向きざまに左腕を振り抜いた。その手から放たれた飛刀が追撃を掛けようとする漆黒の波に突き刺さり、新たな爆風を生む。


「場にいる退魔師を全員下げろ」


 鋭く敵陣を見据えた氷柳は懐からヒ首ひしゅを抜いた。


 結局氷柳は慈雲の問いに是とも否とも答えていない。だがその行動と物言いは完全に氷柳が戦うことを選んだと物語っている。


「怪我人は優先的に泉仙省へ転送。動ける人間を結界展開補助へ回し、鷭黄季から結界展開を移動させろ」


 付き合いが長い慈雲にはそれだけで返答として十分だったのだろう。慈雲の顔に喜色を乗せた好戦的な笑みが翻る。


 だが氷柳が続けた言葉にその笑みが凍り付く。


「あぶれた人手は全員お前の後翼にくれてやる」

「は? お前、単騎で前線に出るつもりか?」

「誰がそんなことを言った」


 慈雲が肩に偃月刀を担いだまま驚愕とも疑念ともつかない表情で氷柳を見遣る。


 そんな慈雲に対して涼やかに笑んだ氷柳はそのまま視線を黄季に流した。


「私の後翼はが務める。だから他の有象無象どもはお前にくれてやると言っているんだ」

「はぁっ!?」


 叫んだのは慈雲だけだった。指名された当人である黄季は、突然のことに驚きすぎて叫ぶことさえできずに氷柳を見上げる。


 ──え?


「正気か涼麗っ!?」

「正気も何も。今の私に合わせられる退魔師はこれしかいまい」


 やっとのこと内心で呟いた言葉が『え?』だけだったというのに、氷柳はそんな黄季を待ってはくれない。詰め寄る慈雲を軽くいなした氷柳は、いつもと変わらず、……いや、常よりも自信にあふれた涼やかな笑みで黄季を流し見る。


「そうだな? 

「……っ!!」


 戦いたくないと言っていた氷柳が、なぜこの時に戦場に舞い戻ったのか、黄季の答えにこぼした言葉の真意はどこにあったのか、黄季には少しも理解ができていない。


 それでも。


 それでも、そんな氷柳が己の意志で戦場に立つというならば。共に戦えと言ってくれるなら。


 吊り合いも何もかもをすっ飛ばして、そんな氷柳は自分が守りたいと、強く思った。


 だから黄季は躊躇いの声を全て呑み込んで、力を込めて腹の底から叫ぶ。


「はいっ!!」


 そんな黄季に、一瞬だけ氷柳が牡丹のような笑みをこぼす。


 だがそんな華やかな笑みは敵陣に視線が戻された瞬間掻き消えた。


「頭を潰さんことにはどうにもならん。小物は適当に蹴散らして虎を落とす」

「あいよ」

「各後翼は前翼の援護。結界展開組は妖怪に新たな瘴気を供給させないように修祓を続けるように」


 氷柳の声に応えた慈雲が懐から引き抜いた信号弾を幾つも打ち上げる。視界が晴れた今ならばこの信号弾で皆と連携が取れるはずだ。


「氷柳さん」


 慈雲が信号弾を上げている間になんとか立ち上がった黄季は、懐に片手を突っ込みながら氷柳に駆け寄った。そんな黄季にもう一度氷柳が顔を向けてくれる。


「これ、持ってってください」


 黄季が懐から取り出したのは『遠見とおみ水鏡みずかがみ』の術が掛けられた手鏡だった。ひと月振りに返却されてきた呪具に視線を落とした氷柳は問うように黄季を見遣る。


「……これは」

「目印にしたいんです。今度こそ、氷柳さんを見失わないように」


 空いている氷柳の左手を無理やり取って手鏡を押し付けた黄季は、そのまま氷柳の手と手鏡を己の手で包み込むように握りしめた。


「このひと月、ずっと持ち歩いてたから。この手鏡には今、俺の力が通ってます」


 以前触れた時よりも、氷柳の手は温かかった。


 綺麗なのに武骨さもある氷柳の手をそっと握りしめ、黄季は祈るように目を閉じる。


「今度こそ、氷柳さんの足を引っ張らないと誓います」


 そんな黄季に氷柳が言葉もなく目をみはったのが分かった。


 ──恩長官が氷柳さんの屋敷に押しかけてきた時みたいな、あんな風に氷柳さんに全面的に頼りきりで、全てを負わせて事件を解決させるような事態には、もう絶対にさせない。


 今の自分がひ弱な雛鳥であることは分かっている。


 だけど今、それを理由に背後に庇われっぱなしではいたくない。氷柳に直接後翼に指名された、今は。


 その決意とともに、瞳を開く。


 まっすぐに氷柳を見上げた自分は、きちんと力強く笑えているだろうか。


「貴方が飛ぶ空は、穏やかです。御武運を」


 宣誓と祈りの言葉とともに氷柳から手を離す。


 そんな黄季を目を丸くしたまま見つめていた氷柳が、ゆるゆると笑みを浮かべた。


「……貴君の瞳に蒼天が掛からんことを」


 応えの言葉に黄季は力強く頷くと一歩後ろに身を引いた。それと同時に懐から取り出した数珠を両手に絡めれば、氷柳は黄季から受け取った手鏡を懐にしまいながら慈雲を振り返る。そんな氷柳にニッと慈雲が笑いかけた。


「んじゃ一丁、行きますか、ねっ!!」


 慈雲と氷柳の間に打ち合わせの言葉はなかった。


 それでも計ったかのように同時に二人は前へ踏み込む。踏み込みと同時に放たれた氷柳の飛刀が新たに前線をえぐった瞬間、二人の体は慈雲が展開していた結界よりも前へ出ていた。


 ──っ、早いっ!!


 前翼二人は手元の刃で妖怪をほふりながらひたすら前へ駆けていた。黄季を狙っていた妖怪の波は結界より前に飛び出してきた二人を餌と認識したのか、攻撃の矛先が二人へ切り替わる。


 ──させるかっ!!


「『月影 幻 春霞 汝に触れることあたわず 玉響タマユラ』っ!!」


 黄季は氷柳の懐にある己の霊力の欠片に集中すると、欠片を基点として円を描くように防護の結界を展開する。黄季の結界に弾かれた妖怪達は氷柳に手を掛けることができずに地に落ちていく。これで氷柳は目の前だけに集中できるはずだ。


「『爆華ばっか』『爆葉ばくよう』『爆幹ばっかん』!」


 慈雲が腹の底から呪歌を叫ぶ声が戦場に轟く。その横で黄季の結界に守られた氷柳が新たに飛刀を放った。次の瞬間、強く大地を蹴って跳ねた慈雲が偃月刀を大きく振りかぶる。


「『薙ぎ払え 斬月落陽ざんげつらくよう』っ!!」


 霊力を受けた偃月刀がまばゆい光を放ちながら刃の軌道の先まで斬撃を放つ。ドガッというすさまじい衝撃とともに大地が割れ、慈雲の前に一筋の道が開いた。その道をさらにこじ開けるかのように氷柳が放った飛刀が爆ぜる。


「涼麗っ!!」


 着地と同時に偃月刀の切っ先を地面に突き立てた慈雲が叫ぶ。こじ開けられた道に氷柳が飛び込むと同時に慈雲は偃月刀を通じて大地に術式を撃ち込んだのか、慈雲を中心に円を描くかのように光が炸裂し、大地ごと妖怪が消し飛ばされた。


「『打ち祓え 打ち消えよ は光 其は清浄なる光の刃』っ!!」


 外周を囲む結界の力が上がっているのか、結界内の瘴気は格段に薄くなっている。討たれた妖怪が再生せずに消えていく一方なのがその証拠だ。


 押せば勝てる。


 その希望を胸に黄季は氷柳を中心に修祓呪を展開する。この軍勢の頭である虎の妖怪に向かって真っすぐに突き進む氷柳の周囲からわずかに瘴気が薄れた。


 その瞬間、ついに氷柳が虎の前に躍り出る。


『────────っ!!』


 虎も目の前に飛び出してきた退魔師が己の身を削っている諸悪の根源だと理解しているのだろう。出会い頭に氷柳が打った飛刀を遠吠えと振り抜いた尾で叩き落とした虎が氷柳に飛びかかる。


 その攻撃を見越していた黄季は数珠を引きながら印を切った。


「『打ち祓え 神呪しんじゅ雷爆撃らいばくげき』っ!!」


 氷柳の身を守るように展開されていた結界面を伝って雷撃が走る。雷撃に弾かれた虎がひるんだように一瞬氷柳と距離を取った。


 その瞬間を、氷柳は決して逃さない。


「『これは天の声 天の怒り 天の裁き』」


 ヒ首を鞘に戻した氷柳の両手から幾重にも飛刀が放たれる。乱れ討たれた飛刀は虎を囲うように地面に突き立てられた。


「『天土あまつち貫く天剣てんけんの刃を我に下賜し給え』」


 氷柳の指が複雑に印を切る。涼やかな声に呼応するかように飛刀に白銀の光が宿り、やがてその光は虎を囲い込むかのように互いを基点として線を結ぶ。さらにそれを援護するかのように泉仙省が展開する結界と氷柳のために展開された黄季の結界も輝きを増した。


 その全てを従えて、氷柳が組んだ印を叩き落す。


「『轟来天吼ごうらいてんこう 雷帝召喚』っ!!」


 一瞬の静寂。


 その後に天から叩き付けられた光の刃は轟音とともにすべてを白く焼き尽くした。


「……っ!!」


 黄季は思わず息を詰めると両腕で顔を庇った。視界を焼く閃光と耳をろうする爆音が駆け抜けた後には、全力で踏ん張っていないと吹き飛ばされてしまいそうな爆風までもが襲ってくる。それくらい、最高位にある退魔師が行使した『轟来天吼』はすさまじかった。


「……っ」


 袖をはためかせていた風がゆっくりと凪いでいく。同時に、黄季達を守ってくれていた慈雲の不動結界と民銘の白蓮華がホロホロと崩れて消えていくのが分かった。


 そっと、腕を退かして、先を見つめる。


 そこに広がっていたのは、荒野だった。雷帝に討たれて焼けた地面の上を渡る風が空に還っていく。その中に舞う黒い残滓は花弁はなびらのようで、荒野の中心に立つ佳人がただ一人、徐々に黒が消えていく蒼天を見上げていた。


「……やっ、た……」


 カクリと膝から力が抜けた黄季は今度こそ地面にへたり込んだ。荒野を見渡せば同じようにへたり込んだ上役達が何人もいる。


 ──生きてる。


 視線を落とした自分の両手が震えていた。重く体にのしかかる疲労感も、体の震えも、生きていなかったら今頃感じられなかったものだ。


「……お疲れさん」


 そんな当たり前を今更噛み締めていた黄季の上からポンッと言葉が降ってきた。ハッと顔を上げれば、いつの間にか歩み寄っていた慈雲が土埃に汚れた顔で疲労が混じった笑みを浮かべている。


「よく頑張ったな」


 その短いねぎらいの言葉には、短さにそぐわないたくさんの感情が込められているような気がした。


「長官……」


 思わず黄季の涙腺が緩む。


 そんな黄季にひとつ笑みをこぼしてから、慈雲は背後を振り返った。


「お前も、ありがとな」


 そこには、こちらに歩み寄ってくる氷柳がいた。その歩みは相変わらず優雅で、白衣にはやはり汚れのひとつも見当たらない。先程までの戦闘を見ていなかったら、今現場に到着したばかりだと言われても信じてしまいそうなたたずまいだ。


「来てくれてなかったら、俺ら全滅してたわ」

「……お前が私を泉仙省に復帰させようとしていたのは、こういう事態を見越していたからか?」


 不意に、氷柳が問いを口にした。その問いに慈雲が表情を引き締める。


「……そうだと言ったら、戻ってきてくれるのか?」


 問いに問いで返されたのを聞いた氷柳は、慈雲と数歩の間合いを残して足を止めた。慈雲の傍らに黄季もいるから、黄季とも同じ間合いで向き合っていることになる。


 真っ直ぐに慈雲を見据える氷柳の瞳は、もう揺れていなかった。深く清水を湛えた湖のように凪いだ瞳をした氷柳は、静かに唇を開くと慈雲への答えを口にする。


「条件がある」


 深く染み入るような声は、凜と荒野に響いた。


「私の後翼は鷭黄季で固定。……この条件を泉仙省が呑めるというならば、復帰してやってもいい」

「……え?」


 だがその内容は、耳を疑うような代物だった。


 聞き間違いようなどない。だがどう考えても聞き間違いでしかない内容に黄季は思わず慈雲に視線を流す。だが慈雲が聞き取った内容もどうやら同じであったらしい。ポカンと口を開けて固まっていた慈雲は、ノロノロと上げた指を氷柳に突き付けてやっとのことで言葉を口にする。


「固定、って……それ、お前から、黄季に比翼宣誓を申し入れるってことか……?」

「そうだが?」

「おまっ……正気かっ!? こいつはまだ位階拝受どころか翼編試験さえ受けてない黒服ド新人だぞっ!?」

「関係ないだろう。私に合わせきれる退魔師は現状これだけだ。成果は先程十分に示した。それに」


 慌てふためく慈雲に涼麗は涼やかに笑みを向けた。冷笑というか、何か悪だくみを隠しているような、そんな温度の笑みを。


「無位階であることが問題であるならば、翼編試験を経ずともすぐに位階を得られる方法があるはずだ」

「はぁっ!?」

「『前翼及び後翼の位階は、翼編試験の合格者並びに退』……何せ、私自身が後者で位階を得た身だからな。おかげで私は入省当時から白衣で青輝石の佩玉持ちだったわけだが」


 確かに、氷柳が言っていることは正しい。


 ほとんどの人間が翼編試験を経て位階を得ることになるが、稀にずば抜けた実力と有力な後見人を持った者が入省すると翼編試験という過程をすっ飛ばして位階を得ることもあると聞いたことがある。有名呪家の長や祓師寮学長、その他有力者の推薦があれば、と聞いていたのだが、それが『四位以上の位階を持つ退魔師』という条件なのだろう。


 ──え? でも何で今その話が?


 いまいち話についていけていない黄季はポカンとしたまま二人を見上げ続ける。


 そんな黄季の前で、氷柳が華のようにあでやかな笑みを広げた。


「さて。私の記憶が正しければ、泉仙省に属していた当時の私の位階は三位の下……ああ、確か乱を平定した功績で、永膳えいぜんともども三位の上まで格上げになったんだったかな?」


 常ならば魂を抜かれるほどに見とれるその笑みに、今はなぜか危機感を覚えるのは、一体どういうことなのだろうか。


「そんな私を泉仙省に呼び戻すにあたって、まさか四位以下の位階に置くなんてことはあるまいな? なぁ、?」


 簡単に国くらい傾けられそうな毒花の笑みを浮かべたまま、氷柳はわずかに小首を傾げた。そんな氷柳に顔を引きらせた慈雲がパクパクと口を動かすが、肝心の言葉が出ていない。そして黄季はもはや呼吸さえ忘れて氷柳を見上げていた。


 ──え……え? ……つまり、俺は、氷柳さん……というより『汀涼麗』の推薦で、翼編試験を受けてないのに位階拝受しちゃうってこと? 氷柳さんと組むために? それが氷柳さんが復帰するにあたっての条件? ……っていうか、氷柳さん、それが通らないなら泉仙省には復帰しないってこと? そんな無茶苦茶が通るわけ?


「まあ、返事を急かすつもりはない。私は屋敷でゆるりと返事を待つとしよう」


 最後まで綺麗に笑って言い切った氷柳はチラリと黄季に視線を流した。ほけらっ、と実に気が抜けた表情をさらす黄季を見た氷柳は、その瞬間だけ毒気のない、あの牡丹が咲き誇るような華やかな笑みを浮かべる。


「返事はこれに持たせろ。これにだけ屋敷の場所が分かるように結界を組み替えておいてやる」


 そう言うと、氷柳は黄季達の傍らをすり抜けて去っていった。ハッと我に返った黄季が振り返った時にはもう姿がなかったから、転送陣でも使ったのだろう。本来転送陣は移動する場所と移動したい場所、それぞれにあらかじめ転送陣を仕込んで固定してからでしか使えない代物なのだが、氷柳ほどの術者になるとどうにでもなるらしい。


「……『返事はこれに持たせろ』って、……それってつまり、『返事は「応」しか受け付けていないからな』ってことじゃねぇか……」


 残された慈雲が頭を抱えてうめくように呟く。それでもいまいち事の重大性が飲み込めていない……というよりも、事が大きすぎて理解を放棄してしまった黄季は、何も考えられないまま空を見上げた。


 氷柳が取り戻してくれた空は、あんなことがあった後だというのに、抜けるように青かった。


「蒼天……」


 こんな空を飛ぶ鳥は、きっと、さぞかし気持ちが良いことだろう。


 へたり込んだまま空を見上げた黄季は、そんなことを思うと口元に笑みを浮かべていた。

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