※※※※

 飛び出してしまえば、そこに言葉はいらない。


「っ!」


 飛びかかってくる漆黒の虎を迎え撃つ形で前へ飛び出した慈雲じうんは体のひねりと体重を全て勢いに変えて偃月刀えんげつとう振り被る。


 防御を一切考えていない動きは酷く無防備だ。だがあえて慈雲は意識の中から『防御』という言葉を切り捨てる。


 なぜならば今この場でを考えるのは慈雲の役目ではないからだ。


「『阻め』」


 その切り捨てた言葉を拾い上げるかのように、慈雲の腹に喰らいつこうとしていた虎の牙は瞬きよりも早く立ち上げられた淡紫色の結界に阻まれる。息をするよりも簡単に創られた結界だというのに、虎は牙も爪も立てることなく鞠のように弾かれた。


 その上に慈雲は容赦なく偃月刀を叩き落とす。


「おらよっ!!」


 結界ごと断ち斬られた妖怪は断末魔の悲鳴さえ上げられないまま黒い塵となって消えていく。漆黒の花弁にも似た妖怪の残滓とともに淡紫色の結界片が散る様は酷く幻想的だ。


 だがその景色にうつつを抜かしている暇はない。


 慈雲は偃月刀に乗った遠心力を殺さないまま背後に迫っていた虎を斬り捨てる。その間に別方向から迫ってきていた炎は再び形成された結界が阻んだ。偃月刀の軌跡の先にある地面が切っ先の動きに沿って割れ、結界の外を走る氷雪によって虎は動きを奪われる。その虎を再び翻った慈雲の偃月刀が斬り裂き、割れた地面の下から吹き荒れる瘴気は貴陽きようの浄拔呪によって根こそぎ祓われていく。


 慈雲が叩き、貴陽が阻む。


 本来後方からの援護を旨とする後翼が前線での攻撃を請け負う前翼と同じ場所に立ち並んでいながら、攻守は『常軌を逸している』と評されるくらいに捨て身の完全分業制。『攻』を担う慈雲が防御を捨てて全てを攻撃に振き切る代わりに、『守』を担う貴陽が何からも自分達の身を守る。


 両者が『猛華もうか』であり『破竹はちく』。


 文字通り背中を預けあって舞う『猛華』が通り過ぎた後には、妖怪の残滓はおろか建物も元の地形すらも残らない。


 その度が過ぎた猛々しさから殲滅戦ばかりを押し付けられていたのが、八年前までの慈雲と貴陽だ。


「ハッ! 俺らにお誂え向きの現場だったってことだ、なっ!!」


 えぐれた地面の向こうから飛びかかってくる虎を下から跳ね上げた偃月刀で叩き斬った慈雲は、その勢いと体の捻りを使って死角から足元に喰らいつこうとしていた虎の頭を叩き潰す。外からの攻撃は一切通さないくせに、貴陽の結界は慈雲が偃月刀を振り下ろすと面白いくらい簡単に砕けた。


「僕が一喝入れるまでしょぼくれてたくせに、随分調子がいいこと、でっ!」


 慈雲の攻撃の威力は落とさず、外界からの脅威は完全に祓うという実に器用な結界展開をこなしながら、貴陽はさらに浄拔呪を展開していく。完全に慈雲の手癖を把握した上で立ち回る貴陽は、背中を預ける位置に立っているはずなのに偃月刀を振るう慈雲の立ち回りは一切阻害しない。


 ──現役時代も思ってたけど、こいつ術か何かで空気にでもなってんじゃねぇのか?


「で、どうよ? 何割掌握できた?」

「五割ちょっとってとこかな」


 そんなことを頭の片隅で思った瞬間、反論するかのようにトンッと背中に何かが当たった。それが貴陽の背中であることは、声とともに伝わってくる振動で分かる。


「結構削ったはずなんだがな」

「元が大きすぎるからね。でも、効果はかなり出てる」


 貴陽の言葉に慈雲は周囲へ視線を巡らせる。


 うん老師を始めとした上位退魔師達が怪我人を纏めて引き連れて撤退してくれたのか、中庭の中に立っている退魔師は慈雲と貴陽だけになっていた。地面はいまだに赤熱した部分と凍結した部分がせめぎ合った状態が続いているが、瘴気がかなり薄くなったせいかさっきよりも楽に呼吸ができる。体を炙る熱も命の危機を覚えるほどには感じなかった。


「後はあいつら次第だな」


 慈雲は軽く偃月刀を振り抜きながら視線を頭上へ投げる。


 泉仙省せんせんしょうの屋根の上では漆黒の炎と白銀の閃光がしのぎを削っていた。細かい状況は一切分からないが、パッと見た勢いは五分五分といった所だろうか。


 ──一方的にやられてねぇなら『打つ手アリ』ってことで上等だろ。


「しょぼくれた涼麗りょうれいさんは知らないけど、僕の弟子はちゃんとやる時はやる子だから大丈夫だよ」


 慈雲の方を見ていなくても、慈雲が何を見て何を考えているかなんて貴陽には筒抜けなのだろう。パチリと一度呪扇を閉じた貴陽が笑みを潜めながら言葉を投げてくる。


「お前なぁ、涼麗の前であんまそういうこと言うなよ。あいつ案外独占欲強いぞ」

「意外だったよねぇ〜! まさか涼麗さんがあんな感じになるなんて!」

「さてはお前、楽しんでるな?」

「だって僕、涼麗さんに生存を伏せてた時点で鉄拳制裁不可避じゃん? どうせ殴られるなら煽るだけ煽ってから殴られたい」

「素直に殴られてやる気もねぇくせによく言うぜ」

「慈雲も同罪で飛刀不可避だと思うんだけど」

「俺は伏せてたわけじゃない。あいつの勘違いを訂正しなかっただけだ」

「はい、同罪」


 楽しそうに笑った貴陽がバッと広げた呪扇を振り抜く。その動きだけで召喚された結界が飛びかかってきた虎を片っ端から弾き飛ばした。結界に雷撃でも纏わせてあったのか、弾かれた虎達は絡みついた紫電に締め上げられそのままグズグズと形を失っていく。


「んじゃ精々涼麗に手加減してもらえるようにせっせと胡麻ごまりしときますかねっ!」


 慈雲は軽やかに偃月刀を振り抜きながら前を見据える。その視線に怯えたかのように、意思などないはずである妖怪がヨロリと後ろへ下がった。


「泉仙省の建物は残しといてあげなよ?」

「他はいいのかよ」

黄季おうき君と涼麗さんの足場を崩すのはマズいけど、他は壊しても最終的に長官である慈雲が責任取ればいいだけだし?」

「よし分かった。責任の所在がお前にある医局は積極的に壊しても良しとする」


 そんな死地に笑みを閃かせ、慈雲は地を蹴る足に力を込めた。




  ※  ※  ※




 ──すごい。


 はるか下で偃月刀が振り抜かれるたびに地面が揺れる。屋根の上にいても分かるその振動に態勢を崩さないように気をつけながら、黄季おうきは視界の端に映る慈雲じうん貴陽きようの立ち回りに舌を巻いていた。


 ──あれが、長官とこう師父の実力。


『海』での一件の時にも慈雲の立ち回りは目にしていたが、あれは決して慈雲の真価ではなかったのだと今なら分かる。それくらいに今の慈雲の立ち回りは鮮やかの一言だった。


 貴陽も貴陽で、黄季を相手にしていた時はあれで本当に手心を加えていたのだと分かるくらい、展開される結界は苛烈の一言に尽きた。結界が展開されている主目的は防御のためであるはずなのに、貴陽が展開する術は慈雲の偃月刀と同じくらい相対した妖怪を屠っていく。


 ──これが『氷煉ひれん比翼』と並び称される『猛華もうか比翼』の実力。


 そして自分が今、その伝説の中で語られる人の相方であるという事実を、黄季はもう一度噛みしめる。


「『広がり固めよ は玻璃のきざはし 其は薄氷うすらいの大地』」


 同時に、負けたくないと思った。


 今まではその名前に敬意と畏怖の念を抱くだけだったけれども。


「『空地くうち転変てんぺん』っ!!」


 翼位よくい簒奪さんだつを退け、己から氷柳ひりゅうに手を伸ばした今は、その名に尻込みするような自分ではいたくないと、強く強く思う。


 その意地を力に変えて黄季は呪歌を紡いだ。黄季の意志に応えた霊気は空に光を走らせ仮初めの足場を空中に作り出す。


「っ!」


 まるで真冬の湖に流氷が浮くかのように作り出された飛び地を足がかりに、氷柳が浄祐じょうゆうに斬りかかる。だがユラリと身から漆黒の炎を生み出した浄祐は氷柳の斬撃を腕の一振りで薙ぎ払った。その力の流れにあえて逆らわず、逆に利用して背後を取った氷柳は息をつく間もなく飛刀を繰り出すが、その飛刀も腕と一体化した炎の鞭に弾かれる。


 ──そう、弾くように、なった。


 氷柳の足場を作り出すと同時に氷柳を守る結界を展開しながら、黄季は浄祐の変化に瞳をすがめる。


 壊器かいきした直後の浄祐は、氷柳が放った飛刀も退魔術も全てを己の中に取り込んでいた。術が成るよりも前に術の基点になる飛刀もそこに込められた霊力も浄祐の中に飲み込まれてしまっていたせいで黄季も氷柳も為す術がなかったわけだが、今の浄祐はその技を使ってこない。


 それは恐らく、今の浄祐にそれを為せるだけの圧倒的な力が巡っていないせいだ。


 ──つまり、今の上官になら……っ!


「『そのやいばは天の叫び』」


 不意に、凛と呪歌が響いた。


「『斬り裂け 風刃ふうじん烈爪れっそう』っ!!」


 黄季の結界を足場に宙に立つ氷柳が右腕を振り抜く。


 呪歌とともに放たれたのは飛刀ではなく不可視の風の刃だった。唐突に放たれた退魔術に浄祐は反応することができなかったのだろう。術で対抗することができなかった浄祐はとっさに腕を掲げて体を守る。そんな浄祐を鋭い風の刃は容赦なくなますに刻んでいった。だが一度体が漆黒の靄のように形を崩しただけで、やはり攻撃が効いているようには見えない。


 ──それでも、届くには届いた!


 退魔術が形を成すよりも早く浄祐に飲まれていた壊器直後に比べれば、まだ打つ手が生まれたということだ。その手応えは氷柳も感じたのだろう。瞳に鋭い光を忍ばせた氷柳が次の術を編むために腕を翻す。


 ──そういえば、何で魏上官は攻撃を受けても回復するのにとっさに防御の姿勢を取るんだ? 人としての本能がまだ残ってるから?


 黄季が観察を続ける先で、一度ボロリとこぼれた靄は再び浄祐の形に凝り固まる。その体を今度は氷のつぶてが貫いていくが、やはり浄祐の体は実体がない靄の塊であるかのように一度形を崩してはゆっくりと元の形に凝り固まっていった。


 一見すると、浄祐に対して有効打は入っていないように見える。だというのに浄祐は、毎度律儀に己の体を守ろうと腕をかざして防御の姿勢を取るのだ。頭を貫かれようとも、手足を飛ばされようとも、瞬きを数回繰り返した後には元の形に戻っているというのに。


 ──手足への攻撃には無頓着なのに、体の中心線への攻撃だけは避けてる?


 そのことに気付いた瞬間、黄季はさっきも似たような違和感を抱いたことを思い出した。


 ──そういえば、さっきも。


 黄季が怒りに任せて紫鸞しらんを振るった時も、浄祐は黄季が首への攻撃の意志を見せた瞬間大きく後ろへ下がった。


 ──突破口があるなら、ここか。


 黄季は結界展開を維持したまま冷静に浄祐と氷柳の立ち回りを観察する。


 氷柳が前へ出てから、黄季は結界展開と氷柳の補佐にのみ専念してきた。あれだけ黄季とやり合ったくせに氷柳が出てきた瞬間最大の敵は氷柳であると認識したのか、浄祐の意識は完全に氷柳に向けられていて黄季の存在は微塵も認識されていない。現に今も背後を取っていた氷柳と向き直るために浄祐は黄季に無防備に背中をさらしてしまっている。


 黄季は右手に握っていた紫鸞に力を巡らせながら、静かに呼吸を計る。そんな黄季の様子に気付いていたのか、氷柳の視線が一瞬黄季を捉えた。


 ──今っ!


「っ!」


 タンッという踏み込みの音が己の耳に響いた時には、すでに黄季の体は紫鸞を構えた姿勢で浄祐を間合いに引き込んでいる。一瞬浄祐の首の筋が動き出そうとしたかのように見えたが、その動きが結果を生むよりも早く黄季は紫鸞を浄祐の首筋に突き入れた。


 だがその瞬間、人体でも妖怪でも、ましてや靄でもないモノと刃がかち合い、黄季の腕の動きが止まる。


 ──!? この手応え……っ!!


「っ! 黄季っ!!」


 氷柳の叫びに我に返った瞬間、目の前で火炎が爆発していた。展開していた結界のおかげで焼死は免れたが、衝撃に黄季の体は後ろへ跳ね飛ばされる。


「っ、ぅっ!」


 尾を引く漆黒の炎のせいで視界が効かない中、何とか屋根のむねの感触を捉え、靴裏と屋根の摩擦で勢いを殺す。さらに紫鸞を屋根に突き立てて体を止めると、ギリギリ止まった踵の一寸後ろをパラパラと屋根の破片が落ちていく音が聞こえた。


「黄季っ!!」

「大丈夫です氷柳さんっ!! それよりもっ!」


 黄季は屋根に突き立てた紫鸞を介して周囲に浄拔呪を展開させながら声を張り上げた。ブワリと強く吹き荒んだ風に乗って炎が払われ、視線の先に黄季を睨みつけた浄祐が姿を現す。


「狙うなら首ですっ! 多分、魏上官の体の中心線を貫く形で煉帝剣れんていけんが形を得ていますっ! 首の付け根辺りに柄元が来てるはずですっ!!」


 浄祐を挟んで反対側に立った氷柳が息を呑む。


 そんな氷柳に向かって黄季は必死に叫んだ。


「魏上官の霊力と混ざって実体を失っていた煉帝剣が、魏上官と地脈の力を吸い尽くして自分から実体を得ようとしているんです! 魏上官はその煉帝剣を守るために、煉帝剣が貫いている中心線への攻撃だけはかわそうとしていたっ!」


 先程浄祐の首を刎ねようとした瞬間手に伝わってきたのは、硬い鋼の感触だった。


 それもただの鋼ではない。並の剣ならばそのまま折り飛ばす黄季の一撃を止めたのだ。それだけで浄祐の中で実体を得ようとしている剣が名工によって鍛え抜かれた大剣であると黄季には分かる。


「煉帝剣を破壊するなら、今しかありませんっ!!」


 そんな厄介な代物が、己の意志を以って力を吸い上げ、封じがない状態でこの世界に顕現しようとしている。


 浄祐という鞘を喰い破って現れれば最後、今の浄祐を相手にするよりも厄介なことになるということは、黄季にも先の一撃で嫌でも理解できてしまった。破壊するならばまだ浄祐という鞘に収まっている今しかない。


 その意を込めて黄季は氷柳を見据える。一瞬何か躊躇いのような物を瞳ににじませた氷柳は、それでも瞬きひとつの間にその感情を綺麗に掻き消した。匕首ひしゅを逆手に構えた氷柳の瞳には怜悧な光が宿っている。


「来いよ」


 それを確かめてから、黄季はひたりと浄祐に視線を据えた。挑発するように紫鸞に力を込めれば、ポウッと内から滲み出るかのように琥珀の燐光が紫鸞の刃を染め上げる。


「決着、つけてやる」

『─────っ!!』


 黄季の言葉に誘い出されたかのように浄祐は黄季に向かって屋根を蹴った。真っ直ぐに憎悪を黄季にぶつける浄祐の意識から、今度は氷柳の姿が消える。


 その無防備な背中に、氷柳の匕首が突き立てられた。


「『これは天の声 天の怒り 天の裁き』」

『ア?』


 匕首を握ったまま低く紡がれる呪歌に、浄祐の首が震えながら背後を振り返る。浄祐の意識がまだ微かにでも残っていたならば、浄祐は氷柳が操る匕首よりも鋭い光を氷柳の瞳の中に見たはずだ。


「『天土あまつち貫く天剣てんけんの刃を我に下賜し給え』」

「『阻め 不動結界呪』っ!!」


 朗々と響く呪歌に合わせて黄季は浄祐の足をその場に縛り付ける足止めの陣を展開する。同時に意識の全てを集中させ、氷柳を守る結界の強度を限界まで上げた。


 浄祐の心臓を背後から貫く匕首を握りしめたまま、氷柳は腹の底から声を張る。


「『轟来天吼ごうらいてんこう 雷帝召喚』っ!!」


 天から、全てを無に帰す刃が突き立てられる。


 その衝撃に、世界の全てが白銀に染まった。




  ※  ※  ※




 その庭は、いつだって美しい。


 たった一輪の氷の牡丹を咲かせるためだけに全霊を注いで創り出した桃源郷だった。自分が創り上げた結界術の中で最高峰の出来だったと言ってもいい。


 だというのに今、その庭に肝心の牡丹がない。


「……」


 実に八年ぶりに我が家の庭に立ったその人物は、がらんとした庭に視線を巡らせると不満を滲ませた溜め息をこぼす。


 ついでにパチンッと、指を鳴らした。たったそれだけでどこまでも美しく続いていた庭は姿を消す。


 広大で優美な庭園は、崩れかけた築地塀に囲まれた枯れたわびしい庭に。睡蓮が咲く中を鯉が泳いでいた池は、淀んで緑に濁った溜め池に。典雅な屋敷は荒れた粗末な小さな家に。


 ただ前庭へ張り出すように軒が伸びた下に置かれた優雅な寝椅子と、その足元に置かれた煙草盆、そこを渡すように置かれた虎に柳の意匠の煙管きせるだけが変わることなくそこにある。


「……俺がいない間に、鼠が入るのを許したな?」


 カツ、カツ、と静かに足を進めながら、その人は小さく呟いた。


「いや、これは……『鼠』ではなく『ひよこ』か?」


 記憶にあるよりも崩れた築地塀。修復の手が入った家。目的が書き換えられた結界。


 何よりここには、この家に本来あるはずがない『生活感』が漂っている。


 彼が愛で、咲かせた花には、それは作り出すことができないものだ。できないようにあえて、徹底的に彼はあの花が自分に依存するように仕込んだのだから。


「浮気だなぁ、?」


 カツリ、と寝椅子の傍で足を止めたその人は、白衣びゃくえの袖から腕を伸ばすと煙管を手に取った。主がいなくても結界が展開し続けられるように術式が刻まれた煙管は、吸口に口をつける人間がいなくてもひとりでに紫煙をたなびかせている。


 その吸口から一口紫煙を吸い込み、彼はゆったりと口元に笑みを浮かべた。


 腰に下げた白翡翠と赤輝石の佩玉が、その動きに合わせてチリリと微かに揺れる。


「浮気者には、罰を与えなければ」


 紫煙を細く吐き出すのと同時に、彼は左手を宙へかざす。その指先に漆黒の炎が凝り、やがてその炎は長大な剣を形作った。


「使い捨ての駒ではあったが、そこそこに良い働きはしたみたいだな」


 久し振りに触れた己の愛剣を手に握り込み、彼は口元に禍々しく笑みを浮かべる。


 笑みに細められた瞳が見ているのは、今頃王宮でこの剣の残りカスを相手取っているのであろう、彼の唯一無二の花の姿だった。


「あぁ、やっとお前に逢いに行ける」


 その笑みとともに、彼は手の中にある愛剣、煉帝剣を振り抜いた。


「なぁ? ?」




  ※  ※  ※




 視界が機能を取り戻した時、黄季おうきの前には匕首ひしゅを手にした氷柳ひりゅうだけが立っていた。浄祐の姿は気配さえそこにはなく、ただ黒くえぐられた屋根だけが氷柳の目の前にポッカリと口を開けている。『海』で繰り出された時以上の威力を伴った『轟来天吼ごうらいてんこう』が落ちたというのに被害がこれだけで済んだのは、恐らく黄季が全ての力を結界展開に注いだおかげだろう。


「やっ……た……?」


 黄季は紫鸞しらんにすがる形で膝をついたまま呆然と呟いた。気力も体力も全てを振り絞ったせいで、少しでも気を抜いたら倒れ込んでしまいそうだ。


 ──この場所でそんなことしたら、確実に地面に叩き付けられて死ぬだろうけども。


「……氷柳さん?」


 だがそれ以上に黄季が気を緩められなかったのは、視線の先に立つ氷柳の表情が明らかに硬かったせいだ。


「どうしましたか? 何か……」


 じっと匕首を握り込んだ己の手に視線を注ぐ氷柳の表情はいまだに張り詰めたままだった。まるでまだ倒すべき敵を前にしているかのように。


 ──でも、もうこの場所に、直接的な脅威は何もないはず。


 妖怪が退けられた証拠に、周囲の空気は澄んでいて軽やかだった。瘴気を打ち祓う以上の祓いがなされたせいなのか、周囲を満たす空気は清々しい以上に神々しい。


 中庭に視線落とすと、熱気と冷気がせめぎ合っていた中庭も今はごくごく普通の大地に戻っていた。地面が激しく抉られ、一部建物に被害が出たようだが、あの惨状を思えばこれはまだ『無事に済んで良かった』と口にしても良い範囲だろう。中庭に立っていた慈雲じうん貴陽きようが黄季の視線に気付いて大きく手を振っている。どうやら二人ともあれだけの立ち回りをしておいてピンピンしているらしい。


「……砕いた、という感触が、なかった」


 氷柳の小さな呟きが黄季の耳に届いたのは、そんな二人に手を振り返すべく黄季がソロリと左手を上げた瞬間だった。


「え? それって、どういう……」

「言葉のままだ。……あの瞬間、私の手には煉帝剣れんていけんが消える感触が伝わってこなかった」


 思わず黄季は氷柳を振り仰ぐ。対する氷柳は変わることなく匕首を握る手に視線を向けていた。まるでそこに、己の疑問に対する答えが握り込まれていると信じているかのように。


「まるでどこかにすり抜けてしまったかのような。……まるで時空の狭間から、誰かに掠め取られてしまったかのような」

「そっ、……そんなこと、が?」


『そんなことあるわけないじゃないですか!』と笑い飛ばしてしまいたかった。だが氷柳の表情にはそんな冗談半分の言葉を間違っても口には出せない重みがある。


 ──氷柳さんの元相方の人の遺品……だったっけ?


 氷柳にとってそこにどれだけの重みがあったのか、黄季には想像することもできない。


 そもそも黄季は氷柳のことも、氷柳と元相方であったかく永膳えいぜんのことも知らなさすぎる。想像しようにもその基盤となる部分さえ知らない状態なのだ。


 ──ん?


 そんなことを思った瞬間、胸の奥にモヤッとしたものが生まれた。その靄は目の前の脅威が去って緩んだはずである心の内をモヤモヤと不快に占拠していく。


 ──何かこの靄、前にも感じたことがあったような……?


「あ、あの。気になるなら、探索してみたらどうですか?」


 その靄を一旦胸から締め出し、黄季は膝を上げながら氷柳に声をかけた。黄季がそんなことを言い出すとは思っていなかったのか、氷柳は弾かれたように顔を上げると黄季を見つめて一瞬瞳を揺らす。


「あの『轟来天吼』を使役していたのは、氷柳さんです。その行使者である氷柳さんが違和感を覚えたなら、探ってみる価値はあるんじゃないですか?」


 紫鸞を腰の鞘に納めた黄季は屋根に開いた穴を飛び越えて氷柳の傍らに着地する。


 元から良くない足場がさらに危うくなっても、黄季にとっては特に危険を感じるほどのものではない。軽やかに危なげもなく氷柳の傍らに立った黄季は、氷柳を見上げると真剣な表情を見せた。


「『術が成ったからと言って気を抜くな。狩り残しがないか、全てを完膚なきまでに潰せたか常に確認しろ』……ですよね?」


 そんな黄季に一瞬氷柳の目が丸くなる。次いで瞳を細めた氷柳は、匕首を懐に納めると静かに瞼を閉じた。感覚を研ぎ澄まして地脈に意識を同期させているのだと気付いた黄季はなるべく気配を消して氷柳の様子をうかがう。黄季達の異変に気付いたのか、中庭にいる慈雲と貴陽までもが息を潜めたような気がした。


 吹き渡る風が、艶やかな氷柳の黒髪を揺らす。


「────っ!?」


 その瞬間、ハッと弾かれたかのように氷柳が顔を跳ね上げた。予想外に早かった反応に黄季も反射的に息を詰める。


「氷柳さん?」


 振り返った氷柳の瞳は、現実にある何かを見つめていた。その視線の先を黄季も追うが、ただ遠くに都の街並みが見えるだけで特に目を引くものがそこにあるわけではない。


 ──あれ? この方向って、氷柳さんのお屋敷がある方?


「氷柳さ……」


 何を問おうとしたのか、自分でもよく分からないまま口を開いていた。


 だがその続きを黄季自身が知るよりも、大地を突き抜けた衝撃が意識を揺らす方がわずかに早い。


「っ!?」


 確かに揺れたはずなのに、建物はまったく揺れていなかった。人々の悲鳴も聞こえてこない。だが隣に立った氷柳は顔色をなくしているし、中庭に立つ慈雲と貴陽も震源を探しているかのように顔を廻らせている。


「この、感じ……まさかっ!?」


 同じだ。『海』に大妖が現れた時と。


 ──でも、違う。妖怪じゃない。


 黄季は思わず身構える。だが背筋を氷塊で撫で上げられるような悪寒はしばらく経っても襲ってこなかった。地脈が揺れたことで感覚を揺さぶられたはずなのに、その原因が分からない。


「……っ!! 『道を開け』」


 その得体の知れなさに黄季は無意識のうちに紫鸞の柄に片手をかけていた。


 だが足元に白銀の燐光が舞った瞬間、黄季はそのことさえ忘れて氷柳の方へ顔を跳ね上げる。


「氷柳さんっ!?」

「『転送』っ!!」


 一切の説明もないまま展開された転送陣に巻き込まれた瞬間、黄季の視界は白銀の燐光によって焼き払われていた。空気が変わったことで自分が氷柳とともにどこか別の場所へ飛ばされたことは分かったが、どこへ飛ばされたのかも、なぜ急に飛ばされたのかも分からない。


「ちょっ、氷柳さん! 一体何が……っ!」


 必死に目をしばたたかせ、視界を埋め尽くす燐光を蹴散らす。


 その努力が実って視界が戻ってきた黄季は、見慣れた景色に思わず気が抜けた声を上げていた。


「え、ここ、氷柳さんのお屋し……」


 ──違う。


 だがその声は、最後まで形を成す前に消えてしまう。


 ──同じ場所だけど、違う。


 崩れかけた築地塀に囲まれた、小さな敷地。緑に濁った小さな池がある、鄙びた庭。


 そこまでは同じだった。


「……誰が、こんなこと」


 その先にある……いや、あったはずである家が、瓦礫の山と化していた。まるでそこだけ結界が張られていたかのように、氷柳が常駐していた寝椅子と、その足元に置かれた煙草盆だけが無傷のままそこに鎮座している。


 ──それだけじゃ、ない。


 今のこの屋敷には、結界の類がひとつも見つからなかった。そうでありながら今、この土地には力の流れを感じない。あれだけ複雑にこの屋敷を覆い隠していた強力な結界の残滓もなければ、強烈な忌地いみちであったこの場所が抱えた陰の気の流れも感じない。


 今のこの場所は、他の都の土地と何らかわりのない、ただの土地だった。


 崩れ落ちたあばら家があるだけの、ただの空き地だった。


 ──氷柳さんでさえ浄拔できなかった忌地が、根本から浄化された? 家主である氷柳さんが留守にしている間に……!?


「……」


 意味が分からず混乱する黄季の前で、氷柳は無言のまま歩を進めると、寝椅子の足元に置かれた煙草盆に視線を注ぐ。その横顔に険が走ると同時に、冷えた瞳が一瞬揺らいだのを黄季は確かに見た。


「煉帝剣の気配は、先程までここにあった」


 煙草盆に視線を注いだまま、ポツリと氷柳は言葉を紡いだ。その言葉に黄季は我知らず息を詰める。


浄祐じょうゆうを使って呪具保管庫から煉帝剣を持ち出した人間が、あの瞬間、魏浄祐の中から煉帝剣を擦り抜き、この土地を根こそぎ浄化していったんだろう」

「そんなの……一体、誰が……」


 問いを口にしていながら、そんなことができる人間は一人しかいないと、黄季はどこかで分かっていた。


 煉帝剣にゆかりがあり、氷柳が全力で行使した退魔術の間隙を衝ける技量を持つ退魔師。氷柳が本気を出して組み直したというこの屋敷の結界をすり抜けて無断でこの屋敷に立ち入ることも、強力な忌地であったこの土地を浄化することも、相手が十分可能であっただろう。


「そんなの、決まっている」


 それでもその人物は、八年前に死んでいるはずだ。


 失踪していた氷柳とは違い、その人物は必ず。そうでなかったとしたら、この国の八年分の歴史が根本から引っくり返ることになる。


「郭永膳」


 そのことを誰よりも知っているはずなのに、氷柳は迷いなくその名前を口にした。


「こんなことができる人間が、郭永膳以外にいてたまるものか」


 その名前に、黄季の胸が不穏にざわめく。


 胸の奥を塞ぐ靄は、祓い清められた風に体を撫でられても消え去ることはなかった。





※次回更新は12/9(金)を予定しています。

 遅延する場合はTwitterにて告知させていただきます。

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