※※※

「我が全てを以って。……あんたはここで、俺が降す」


 黄季おうきがそう宣言した瞬間、驚きに掻き消されていた怒りが浄祐じょうゆうからユラリと立ち昇った。


「お前なんか、お前ごときが、……お、おおオオ前ナンカガァァアアアアッ!!」


 グワリと溢れた炎気が浄祐の手元に凝り、矛を形作る。ユラリ、ユラリと輪郭を崩しながらもまだ人の姿を保っている浄祐はその矛を下段に構えた。


「真っ先に獣たることをやめたらん家なんかに……っ!!」

「やめさせられたお前達家と、自らやめた我ら鸞家を同じにするな」


 だがもう黄季はそんな浄祐を待ってやらない。


 踏み込みの音はタンッと軽やかだった。たったそれだけの音で黄季は浄祐の懐に潜り込んでいる。ヒトの身をやめたのは浄祐の方であるはずなのに、浄祐は飛び込んできた黄季に無防備に視線を合わせることしかできていない。


 そんな浄祐に向かって黄季は容赦なく紫鸞しらんを振るった。抜き打ちの一太刀目で矛が両断され、返す刃で浄祐の右腕が飛ぶ。そのどちらもが紫鸞に両断された瞬間黒い炎となって形を崩した。


「ギッ……ヤァァアアアアアアアッ!!」

「お前達亀家の本領は盾術だろうが。その名の通り、甲羅のような鉄壁の守りで相手を疲弊させ、一撃で押し潰す」


 それだけで黄季の攻撃は止まらない。目にも止まらぬ速さで繰り出される刃は、確実に浄祐の体を削ぎ落としていく。


「そのもといさえ忘れてしまったお前達に、我ら鸞家をけなされる謂れはない」


 足場が悪い屋根のむねの上であることを意に介さない太刀捌きを見せつけた黄季は、首を刎ねようと紫鸞を突きの形に構える。そこでようやく我に返ったかのように浄祐は大きく後ろへ跳ねて下がった。ひたすら前へ攻め込み続けていた黄季も、背後に残した氷柳ひりゅうとの位置を考え、一旦後ろへ下がる。


 ──手足をいくら飛ばしても意に介さなかった魏上官が、首への攻撃だけ敏感に反応して距離を取った。


 黄季が見据える先で、浄祐の体を取り巻く黒炎が再び凝って浄祐の手足を作り出す。これではいくら攻撃してみた所でキリがない。


 ──避けたということは、まだそこが急所だということか? それとも、ヒトとしての感覚が残っているだけ?


「黄季」


 片膝をついた状態で着地した黄季は、油断なく紫鸞を構えたまま浄祐の出方を観察する。


 その瞬間、背後からヒソリと声が聞こえた。ピクリとその声に反応しながらも、黄季は浄祐に気取られないように前を見据えたまま密やかな声に応える。


「大丈夫ですか、氷柳さん」

「ああ。迷惑をかけた」

「無事ならそれでいいです。……で」


 氷柳の声は微かにしゃがれていた。完全に大丈夫とは言えないのだろうが、氷柳の全回復を呑気に待っていられるような状況ではないことは黄季も分かっている。


「どうしますか、あれ」


 今の交戦で分かった。


 黄季が本気で斬り掛かっても、今の浄祐は殺せない。深い怒りも、己の手で決着をつけたい気持ちも確かにあるが、確実に仕留めてこの場を落着させるためにはそれだけに捕らわれては駄目だということも、今の数合で黄季は理解できてしまった。


 感情とは別の場所で回るそういう判断を優先できるようになったのは、恐らく氷柳や慈雲じうんにそのように仕込まれたからだろう。


 ──感情に捕らわれるな。大局を見据え、常に退魔師として成すべきことを成せ。


 そのことをもう一度思い返し、胸の内で燻る怒りを深呼吸で収める。完全に収めきることは恐らくできないが、努力はしてみるべきだろう。


「あれはもはや浄祐ではない。魏浄祐の意思が残留した妖怪だ。討伐しなければならないモノ。それ以上でも以下でもない」


 構えを崩さないまま深呼吸を繰り返していると密やかな声が返ってきた。黄季ごしに浄祐を見据える氷柳が打開策を求めて考えを巡らせているのが分かる。


「この爆発的な力は、煉帝剣れんていけんの呪力と魏浄祐の霊力に加え、場の地脈が根こそぎ魏浄祐に引き抜かれていることから発生している。退魔師としての魏浄祐が、この局面に至ってもその技量を行使しているということだな」

「退魔術を使う要領で、自分の体に地脈から吸い上げた力を流し込んでいるってことですか?」

「ああ。妖怪ならばどれも少なからずやっていることだが、元が退魔師であるせいかは地脈から吸い上げる力の量が並外れている。地脈とあれの繋がりを断てないことには、無限に再生してくるぞ」

「そんな……っ!!」


 黄季は一瞬視線を中庭に向けた。


 浄祐と黄季が戦いの場を屋根の上に移しても、泉仙省せんせんしょうの中庭は相変わらず溶岩のように煮えたぎっていた。残された退魔師達が対処に動いているのは分かるが、いまだに効果は見られない。


 中庭が浄祐の力場となっているのは一目瞭然だ。浄祐と地脈の繋がりを断つためには、まずはあの中庭を何とかしなければならない。


 ──目の前にいる魏上官を何とかしながら、あれをどうにかするなんて……


 氷柳が万全の状態で、さらに黄季からの物理攻撃が浄祐に通れば何とかなったかもしれない。だが現状の氷柳は万全にはほど遠いし、黄季一人で今の浄祐を相手取るには限界がある。


「チッ! 慈雲と他の人間であれを封印するのは……!」


 同じことを考えていたのだろう。背後から聞こえる氷柳の言葉にも苦みが混じる。


 その瞬間、だった。


『大丈夫、僕に任せて』


 不意に、この場にはいない人間の声が響いた。


『下は僕が引き受ける。黄季君と涼麗りょうれいさんは目の前のに集中するんだ』

こう先生?」


 聞き知っているがこの場で決して聞こえるはずがない声に思わず顔を仰向かせると、黄季の頭上を小鳥が舞っていた。声の主を思わせる紫がかった光沢のある羽を備えた小鳥は、言葉を残すとパヒュンッという気の抜けた音を残して弾けて消える。


 その音に掻き消されそうなほど微かに、氷柳の声が聞こえた。


「……貴陽きよう?」

「え?」


 耳慣れない名前に思わず黄季は背後を振り返る。


 そこにいた氷柳は、目を見開いたまま凍り付いたかのように動きを止めていた。


「今の、声……」


 氷柳が何にそこまで驚いているのか分からず、黄季は思わず困惑を顔に浮かべる。


 だが次の瞬間、ふと今氷柳が口にした聞き慣れない名前を、以前にもこんな鉄火場で聞いたことを思い出した。


『俺っつーか、俺を引っ提げた貴陽がなっ!!』


 あれは、翼編試験の現場だった。


 為す術もなく壊滅を待つだけだった自分達の所に氷柳が現れ、慈雲を煽りに煽っていたあのやり取りの中で出てきた名前。


「……え?」


 慈雲は前翼ぜんよく退魔師で、そんな慈雲の相方とみなされる退魔師は今の泉仙省にいない。一方煌医官は現役時代後翼こうよく退魔師だったという。実力的に見ても、煌医官のあの腕前ならば慈雲の相方は十分務まることだろう。


 ──そういえば煌先生の下の名前、俺、聞いたことない、な?


「貴陽、って……」


 こんな問答をしている場合ではないと分かっていながらも、黄季は問わずにはいられなかった。


 そんな黄季に視線を据え直した氷柳は、驚きが抜けきらない表情を浮かべながらも黄季の問いに答えてくれる。


「煌貴陽は、慈雲の相方だった退魔師だ。『猛華もうか破竹はちく』と讃えられた一対の、後翼を担っていた人間だ」


 答えている間に氷柳の顔から驚きは消えていた。代わりに漆黒の瞳の奥に抜き身の刃を思わせる鋭い光が宿る。


「やつらに言ってやりたいことは山程あるが、まずはをどうにかしてからだな」


 同時に、氷柳の左腕が下から上へ振り抜かれた。その軌跡に鋭い光が走り、それぞれ違う軌跡を描いた飛刀は全て過たず浄祐の体に突き立てられる。


「貴陽が出張るなら下は大丈夫だ。私達は私達が成すべきことを成す」


 その閃光に呼ばれたかのように、黄季の視界の端で淡紫色の燐光が舞っていた。瞬きひとつの間に中庭に展開された結界を乗っ取った淡紫色の燐光は、たった一瞬で中庭を溶岩から凍土へ上書きする。


 一帯を巡っていた呪力の流れが、変わる。


「行くぞ、黄季!」

「はいっ!」


 その中に白銀の閃光が炸裂し、琥珀の燐光が舞った。




  ※  ※  ※




 どうかあいつには勘付かれませんように。勘付かれてもここに出張ってきませんように。


 そう願う時に限って自分の願いは無碍に棄却されることを、慈雲じうんは嫌になるほど知っている。


「結界強度を上げろっ! このままだとあいつらがいる建物が崩れるっ!!」

「これ以上は無理です長官っ!!」

「身を守るのに必死で、とてもじゃないですけど外壁防護までは……っ!!」


 部下達の悲鳴を聞いた慈雲は低く舌打ちを放ちながら上を見上げた。慈雲の視線の先には屋根の上で浄祐じょうゆうと相対した黄季おうき、さらにその後ろに庇われた涼麗りょうれいの姿がある。そして三人が立ち回っている建物の基礎は今にも溶岩の海の中に溶け落ちそうになっていた。


 ──元々ここの外周に展開されていた結界は、こんな強烈な術式を阻めるような代物じゃねぇ。せいぜい破れないように維持し続けるので限界か……っ!!


 結界展開を得意とする後翼こうよく退魔師達でさえ、己と周囲の人間の身を守るので手一杯だ。何より今、場の地脈のほとんどがこの場に残された退魔師達に応えていない。何か強力な存在に吸い取られている力をかすめ取って己の身を守る結界を維持するだけで手一杯だ。


 ──土地の力を枯渇させる勢いで力を吸い上げるなんて、余程の大妖だってやらねぇ所業だぞっ!!


 そもそも結界を維持し続けた所で、さっさとこの溶岩の海を何とかしなければ慈雲達の命はない。何とか今は溶岩の海の上に立っている慈雲達だが、足元から立ち昇ってくる熱気は確実に慈雲達の体力を削っている。集中力が切れた人間からこの熱に消し炭にされるのも時間の問題だ。


 ──何とかしたくても、地脈が応えなきゃ手立てもねぇし……!!


 焦りにジリジリと思考が焼かれる。そんな慈雲の腰元で、色違いの一対の佩玉がぶつかりあって微かな音を立てた。一瞬すがるように落としてしまった視線の先で、鳥兜トリカブトと三日月の意匠が揺れている。


 ──あいつなら


 慈雲のかつての相方ならば、こんな状況でも何か策を打てたのだろうか。腐れ縁の同期達と同じく天才の名を欲しいがままにしていた、あの破天荒な相方ならば。


 ──……気付くんじゃねぇぞ、馬鹿。


 一瞬だけ弱気になってしまった自分を叱咤して、慈雲は再び顔を上げる。


 ──絶対出てくんな。もうここは、お前の居場所じゃねぇんだから。


 かつての慈雲は、自らの意志で相方と比翼を解消した。それどころか、泉仙省せんせんしょうからも無理やり締め出し、二度と退魔師として現場に立つことがないようにあらゆる手段を講じた。本当はなりたくもなかった泉部せんぶ長官の椅子に座ったのだって、突き詰めてしまえば相方を二度と退魔師として復職させないためだ。


 そのせいで一年近く元相方は口をきいてくれなかったし、その一年行方をくらまされた間になぜか相方は医官として王宮に復職していた。それからも何やかんやと引き離そうと努力したのに、相手の方が常に一枚上手でいつの間にか引き離せない位置に喰い付かれてしまっていた。


 それくらい泣いてすがって足掻いてくれた相方を斬り捨てたのは、自分自身。


 だからこんな場面で、心の中だけとはいえ慈雲が相方にすがるなんて、身勝手にも程がある。


「……っ!」


 ──考えろ。己に何ができるのか。打開策と、そこに至るまでの道を。


「ねぇ」


 そう、考えたはずであるのに。


 慈雲の決意は、次の瞬間木っ端微塵に消し飛ばされていた。


「いつまでウダウダ悩んでるつもりなの? 


 菫の花を連想させる淡紫色の燐光がフワリと視界の端に舞った瞬間、溶岩の海は一瞬で凍土に姿を変えていた。急激な温度変化に風が生まれ、一瞬慈雲の喉が引きつる。


「何でこんな状況になってるのに、素直に僕を呼ばないのさ? 僕、前々から言ってるよね?」


 思わず咳き込む慈雲の耳に、シャラリと小鈴が擦り合う音が届いた。コツ、コツ、という足音に混じってカツ、カツ、という杖の音が聞こえるのは、足元を確かめるために杖の先が地面を這うせいだ。


「君を傷付けるモノは、たとえ君自身であっても許さないって」


 左肩から胸元に垂らして肩口でひとつに括った髪は、日の光を受けて紫の艶を見せていた。慈雲よりも頭半分ほど低く造りも華奢な体を包んだ衣の色は萌黄。腕の中には目の代わりを果たす細く長い杖が抱え込まれている。常に笑みを湛えている顔に今、表情らしき表情はない。


 視力を失ってから瞼が閉じられていることの方が多くなった目が、真っ直ぐに慈雲を見上げていた。紫水晶に似た瞳は視力を失っているはずなのに、まるで射るかのようにひたと慈雲に据えられている。


 こう貴陽きよう


 本来ならば医局に詰めていなければならない呪術医官は、今、慈雲の元相方としてこの場に立っている。


「……貴陽、お前」


 浄祐に支配されていたはずである場を一瞬で乗っ取ってみせた貴陽は、己が凍てつかせた地面を踏みしめて慈雲の元まで足を進めてきた。実は見えているのではないかと疑いたくなるくらいしっかりした足取りで慈雲の前までやってきた貴陽は、そのまま勢いを殺すことなく慈雲の懐に入り込むと両手で慈雲の襟を締め上げる。


「甘ったれんな」


 カランッシャリンッと、支えを失った杖が地面を転がる。


 騒々しいはずであるその音が一切耳に入ってこなかったのは、地の底から響くような低い声がすぐ目の前から聞こえたからだ。


「あんた、この国を守るために全部なげうってここまでやってきたんだろうが。部下を利用して、八年間も傷心抱えてきた涼麗さんを無理やり表に引っ張り出して! 大事な同期にそんな仕打ちをしてまであんた、二度とあんな大乱こと起こさないためにここまでやってきたんだろっ!?」


 避けれたはずである貴陽の手を避けなかったのは、己に否があると分かっていたからだ。


「だったらその目的のためにさっさと切り札を使えよっ! 自力じゃどうにもならないって分かってただろ、こんな状況っ!! 何こんな呑気なこと……っ!!」

「っ、そんなこと……っ!!」


 分かっている、と、言いたかった。


 貴陽の言う通りだ。今日まで慈雲は、あの大乱が再び勃発することを防ぐために立ち回ってきた。都の気の流れに異変を感じ始めた当初から手を打ち続け、その一環として長年涼麗の行方を探していた。


 泉仙省で確固たる地位を築いたのも。各所に繋ぎを作ったのも。本当は執着もない長官の椅子を権謀術数の中で守り抜いてきたのも。


 全ては全て、慈雲からたくさんの物を奪っていったあの悪夢の再来を防ぐため。


 だから今だって慈雲は、その目的を果たすために手段を選んでいる場合ではなかった。何よりも目的を遂行するために、一番有効である手札を切るべきだった。慈雲はそうあるべきだと、貴陽自身も肯定している。


 それでも。


 それでも慈雲が貴陽という懐刀を抜かなかったのは。


「そんなことして、またお前を目の前で見殺しにしろって言うのかよっ!?」


 気付いた時には、慈雲は空いていた左手で貴陽の襟を締め上げ返していた。それでも貴陽の顔に怯みは見えない。


「お前、一回死にかけた自覚あんのかっ!? 現役時代よりもお前の霊力の総量は格段に落ちてんだぞっ!? そんなお前をホイホイ気軽に現場に呼べるかよっ!!」

「現に今は大丈夫だっただろっ!? 自分の限界くらい僕が一番よく分かってるっ!!」

「今はだろうがっ!! それに、一回加減を間違えたからお前はこんなことになってんだろうがよっ!!」


 キリッと、貴陽を締め上げる自分の手に力が籠もったのが分かった。それでもなお貴陽は引く気配を見せない。


 ──いっそここで怯えてくれた方がマシだった。


 怯えもしない。引きもしない。そんなタマではないことは、誰よりも慈雲が一番よく知っている。


「事が叶ってもテメェが死んだら意味ねぇんだよっ!!」


 だからこそ、この一線だけは引けないと思ってきた。


「引き際も分かってねぇ死にたがりは二度と現場に立つんじゃねぇっ!!」


 あの大乱の末期。


 貴陽は、一度死にかけた。ほぼ死んでいたと言ってもいい。


 その最たる理由は、己の技量以上の大技を連続使用し続けたせいだ。己の霊力を使い切り、命まで削って戦い続けたせいだ。


 死地に立たされた慈雲を助けるために、力を振るい続けたせいだ。


 結果、貴陽は命こそ助かったものの、視力を失い、身の内に保有できる霊力量も大幅に少なくなった。寿命もいくらか削れているはずだが、貴陽はその詳細に関して頑なに口を閉ざし続けている。


 退魔師としての貴陽は、あの時に死んだ。慈雲があらゆる手段を行使して現場から引き離していなければ、いずれ遅かれ早かれ貴陽は現場で本当に死んでいただろう。


 貴陽は、慈雲のためならば、平気で死ねる。


 だが目の前でそんな覚悟を見せつけられてしまった慈雲はたまったものではない。


「死にたがりはどっちだよ」


 怒りと虚勢を込めて、慈雲は貴陽を突き飛ばす。だが貴陽はそんな慈雲の動きさえ読めていたかのように軽やかに後ろへ下がった。


「敵ばっかな世界で一人で戦い続けて。新しく相方を迎え入れることもなく現場に一人で立ち続けて。あげくこんな窮地でも全部一人で背負い込んでっ! まるで慈雲の方が死に場所探してるみたいじゃないかっ!!」

「あぁっ!?」

「最初に言っただろ? 『甘ったれんな』って」


 貴陽が己の右手を顔の前に掲げる。その手にはいつの間にか赤輝石が輝く鳥兜と三日月の佩玉が握られていた。ハッと我に返って腰元を探れば、いつの間にか一対で下げられていたはずの佩玉は青だけになっている。


「テメッ! いつの間にって……!!」

「死なせるのが怖いなら、死なないように見張ってなよ」


 慈雲の腰から摺り取った佩玉を貴陽はさっさと己の腰に吊るしてしまった。元の所有者の腰に戻った佩玉は誇らしそうに一際眩しく輝く。


「僕は慈雲が死なないように見張ってるから」

「お前、そういう話じゃ……っ!!」

「あのね。僕がこの八年間、慈雲にされた仕打ちを嘆くだけだったと思ってるの?」


 慈雲の言葉を途中で断ち切った貴陽は、複雑に印を切るとトンッと指先を己の額に置いた。フワリと淡紫色の燐光が舞い、貴陽の髪を巻き上げるように風が沸き立つ。


「視力を失ったことと、保有霊力の低下。それが慈雲が僕を解雇した理由だったよね?」


 その風が消えてから、貴陽はゆっくりと瞼を開いた。紫水晶のような瞳の奥に燐光が舞い、やがて焦点が慈雲に結ばれる。


 その意味が理解できた瞬間、慈雲は思わず息を呑んだ。対して貴陽はクスリと、後宮の美姫も思わず見惚れてしまいそうな毒花の笑みを浮かべる。


「その二点が解消されれば、僕が再度相方を務めることに、慈雲は不満はないわけだ?」

「お前、見えて……」

「想像よりも老けたね、慈雲」

「なっ!?」

「僕は医術の二極にきょく、煌家本家の嫡男だよ? 慈雲に出会っていなければ、今頃この歳で医局大夫だって夢じゃなかった天才なんだから。まぁ退魔師としての僕も、『氷煉ひれん比翼』に負けないくらいには天才だったわけですがぁ?」


 驚きに声が出ない慈雲の前で、貴陽はパンッと両手を合わせた。そのまま右手を拳の形に変え、何もない場所から何かを引き抜こうとするかのように右手を動かす。


「そんな僕が本気になって方法を模索すれば、一時的に視力を回復させる術式だって組めるわけだよ。霊力の枯渇は、時間をかけて鍛錬すれば、最盛期並とは言わないものの、ある程度までは回復させることもできるしね」


 慈雲が偃月刀を引き出す時と同じ動きで腕を動かした貴陽は、己の左手のひらから扇を引き抜いた。親骨の長さが指先から肘先までありそうな大きな呪扇を取り出した貴陽は、扇の先を顎下に当てながらフワリと笑みを浮かべてみせる。


「はい、じゃあ問題です、先輩。今のこの状況を切り抜けるための最適解は何でしょう?」


 貴陽がそう問いかけた瞬間、凍土を突き破って火柱が上がった。ハッと慈雲が視線を巡らせた瞬間、噴き上がった炎は虎の形を得て凍土の上に舞い降りる。虎の足元から地面が再び煮え立ち、シュウシュウと嫌な臭いの煙が立ち昇った。


「!? 封じたんじゃなかったのかよ!?」

「残念ながら、完封まではできなかったんだよね。僕にできたのは、表面をひとまず凍結させて、この場にいる人間の安全を確保すること」


 慈雲は反射的に偃月刀を構えていた。そんな慈雲の右隣に立つように貴陽は足を進める。


「氷の下ではまだ溶岩が煮えたぎってるし、場の主導権はいまだに魏浄祐が優勢だね。ま、三割くらいは僕の手元に置いたけども。根本を黄季おうき君と涼麗さんが何とかしてくれないと、完封までは無理だと思う」

「俺達にできることは、チマチマこいつらを潰すことでジワジワと主導権を削ってあいつらを援護すること、ってか?」

「その『俺達』の中にちゃんと僕も入れてくれてる?」


 八年前と同じように、何ら疑うことなく慈雲の隣に並んでおきながら、貴陽はそんな問いを口にした。思わずチラリと視線を投げれば、いつになく緊張した貴陽と視線がかち合う。


「今だけでいいから。……もう一度、慈雲の隣を舞わせて」


 整った顔に甘く笑みを浮かべて囁くことも、底冷えする怒りを載せて押し切ることも、やろうと思えば貴陽にはできたはずだ。


 だというのに貴陽は昔から、そんな籠絡の手段を慈雲にだけは使ってこない。慈雲と貴陽の駆け引きは、いつだって真正面からの、駆け引きとも言えないぶつかり合いばかりで。


 ──お前も変なトコで不器用だよな。


 ……だからこそ、貴陽の請うような言葉を、慈雲は無碍にすることができない。


「……出遅れんじゃねぇぞ」


 慈雲は貴陽に背中を預ける形で半身に構えると右手に握った偃月刀を真っ直ぐに前へ向けた。その先には今にも飛び掛かろうと低く構えた漆黒の虎の姿がある。


「久々の祭だからよ」

「……誰に対して物言ってんの」


 今の慈雲は貴陽に背中を預ける形になっているから、貴陽がどんな表情を浮かべているのかは分からない。


 ただトンッと背中に温もりが添えられ、偃月刀の隣に扇を握った貴陽の左腕が伸びたことは分かった。


「そっちこそ出遅れないでくださいよね、?」


 貴陽の言葉を引き金にしたかのように相手取った虎が地面を蹴る。


 それを迎え討つ形で、慈雲と貴陽は揃って前へ飛び出した。

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