※※

 邪魔な監視にちょっかいを出さずに大人しく中庭に入った瞬間、自分にその場の視線が集中したのが分かった。同時に空気がザワリと揺れ、後にはヒソヒソと音にならない囁き声が続くのも、昔からのお決まりだ。


 それが鬱陶しくないかと問われれば、正直鬱陶しい。苛立たしいと思う時さえある。


 ただ今だけはそれらが取るに足らない些末なことだと思えるのは、他のことに気を取られているせいなのだろう。


「おっせぇぞ、クソ尊師」


 役職と今回立たされた立場の関係で早くからこの場で待機していたのであろう慈雲じうんの隣に並べば、ここぞとばかりに機嫌が悪そうな声が飛んできた。チラリと視線を投げれば、慈雲は常と変わらない平静そのものの顔で前だけを向いている。この状態であんな声を出せるとは、さすが泉部せんぶ長官は腹芸も達者だな、と涼麗りょうれいは場違いな感想を胸の内だけで転がした。


「……どうだった?」


 そんな涼麗に向かって、慈雲が密やかに問いかける。


 今の自分達は、ある意味見せしめを見せつけられるために並ばされた虜囚のようなものだ。涼麗に関しては勝者への報奨のために並べられた賭け金、とも言い換えられる。


 自分達の一挙手一投足は浄祐じょうゆう側に監視されている。そうでなければ長官や老師、三位の下という高位退魔師である自分達の傍に下級の退魔師達が無遠慮に割って並ぶというこんな配置が許されるはずがない。


 ──本来であれば、翼位よくい簒奪さんだつに並ぶ両者は対等。その関係者も同じく。……場の支配権を魏浄祐が握っていること自体がおかしい。


 数日前の自分ならば、この状況に分かりやすく不機嫌を顔に出したことだろう。


 だが、今は。


「……」


 涼麗は無言のまま浅く顎を引いた。それを気配で察した慈雲が一瞬だけ表情を緩め、次の瞬間には元の表情に戻る。言葉がないまま終わった会話を、監視の有象無象どもは察することができなかったはずだ。


 ──あれならば、大丈夫。


 涼麗は静かに瞼を閉じた。盛夏の真昼の日差しは瞼を閉じたどころで遮られるものではない。瞼を閉じても視界には明るさが残っている。


 そんな薄闇の中で、涼麗は己の感覚を研ぎ澄ました。場の地脈に己の感覚を同期させ、中庭を巡る霊力をつぶさに観察する。


 しばらくそうしていた涼麗は、新たな霊力が場に立ち入った瞬間、瞼を押し上げて腐れ縁の同期の名前を呼んでいた。


「……慈雲」


 低い呼び声に慈雲は答えない。慈雲の視線は場に現れた黄季おうきに注がれている。涼麗もそれは同じだ。


手筈てはず通りに」


 ただその言葉に、慈雲は一瞬口元に笑みを閃かせた。


 その笑みが、涼麗に応えるものだったのか、場に現れた黄季の面構えを見たものだったのかは分からない。


 ──案外、両方かもしれないしな。


 場の中心に進み出た己の弟子に視線を置いた涼麗は、そのまま弟子の姿を眺めた。


 接触を禁止されてから七日間。その間に急に体格が成長することもなければ、顔付きが変わるということもあるはずがない。


 だからパッと見て何かが変わったと感じたならば、恐らく変わったのは内面なのだろう。


 ──前から度胸は据わっていたが。


 先程回廊で顔を合わせた瞬間、一瞬泣き出しそうな顔をした黄季にはまだどこか脆さが見えた。


 だが今は、それも見えない。魏浄祐からの安い挑発を叩き返す黄季には、抜き身の刃のような鋭さがある。それでいて、以前の呪具暴走の折に呪剣を握っていた時のような、見ているこちらがゾクリとするような、何かを諦めた冷たさも感じない。


 ──いい面構えになった。


 頼りになる相方がより頼りがいを得て戻ってきた。


 ならば涼麗も、それに見合う働きをしてみせなければならないだろう。


「双方構え」


 泉部の人間全員が見つめる中、老師の声が場に響く。


「始めっ!!」


 先に仕掛けたのは浄祐の方だった。手にしていた矛に呪力を通すことで炎術を纏わせた浄祐は、己の身にも焔を纏わせながら黄季に突っ込んでいく。


 対する黄季は武術に物を言わせて対抗するのかと思いきや、冷静に印を組んで呪歌を刻んでいた。何を展開するのかと注視した瞬間、黄季の姿は煙の中に消える。


 ──煙による目眩まし? ……いや、これは、あの霧の……


 簒奪が成立するより前に、黄季が涼麗を支援するために習得した水術のひとつだ。


 黄季を中心にして発生した濃霧はあっという間に涼麗の視界を奪った。それは監視のために傍らにいた新米達も同じだったのか、分かりやすい動揺がいくつも周囲から伝わってくる。


 ──動くならば、今か。


 予想外のことではあったが、これを活かさない手はない。


 涼麗は気配を殺してスッと動揺の元に近付くと有無を言わさず相手の首筋に手刀を落とした。体術にあまり自信はない涼麗だが、相手が混乱していた上にまったくこちらを警戒していなかったせいか、涼麗の見張りにつけられていた新米退魔師は実にあっけなく地面にくずおれる。念のために確認してみると、しっかり意識は刈り取られており、しばらく目を覚ましそうな気配はなかった。


 ──これでひとまず、当面の自由は確保できた。


 涼麗はそのまま静かに霧の向こうの気配を探る。恐らく慈雲も動いているはずだと信じて待っていると、案の定慈雲はすぐに姿を現した。


『何人始末した?』と身振りで問いかければ、慈雲は二本指を伸ばす。あと一人いたはずだが、と眉をひそめると、さらに『最後の一人は老師が片した』と慈雲の指が動いた。


 それを受けた涼麗は伸ばした親指の先を振って霧の向こうを示す。


 ──煉帝剣れんていけんは今、間違いなく魏浄祐が保有している。


 屋敷の結界を探索用に組み換え、都中の力の流れに向き合うこと数日。


 涼麗に分かったことは、煉帝剣らしき霊気を帯びた呪具は今、都のどこにもないということだった。


 煉帝剣は、炎術大家であったかく家の重宝だ。何代にも渡って優れた炎術家に使役され続けてきた煉帝剣は、剣自体が莫大な炎の気を帯びている。ただ置かれているだけで周囲に影響が出るような代物だ。どれだけ厳重に封印されていようとも、涼麗が都中の地脈と感覚を同期させて探索をかければ隠し通せるものではない。


 それが見つからないとなると、相当強力な結界の中に収められているという可能性も出てくるが、そんな結界が展開されていれば、その結界の存在そのものが涼麗の探知に引っかかる。だが涼麗の探索陣は不審な結界の存在も探し出せなかった。


 わざわざ手間をかけて盗み出しておいて、意味もなく破壊して遺棄したとも考えにくい。


 ならば残る可能性はただひとつ。


 誰かが己という肉体と霊力を鞘として、己の中に煉帝剣を封印し、持ち歩いているという線だ。


 ──魏浄祐が元々得意としていたのも炎術。煉帝剣との相性は良かったはずだ。


 呪具を己の中に封印して持ち歩いている退魔師自体は珍しくない。涼麗に身近な人間で言えば慈雲がそれだ。


 己の器と霊力で御せる物であるならば、体内への封印は手間を取らずどこにでも呪具を持ち歩けるという大きな利点を持つ。常に己の霊力と同期させておくことで、実際に現場で振るった時に己の感覚とのズレを極限まで減らせるという利点もあるらしい。


 さらに言えば、体内に封印された呪具が帯びた霊力は封印主の霊力と完全に同化してしまうため、探索陣では探索できなくなる、というのも今回においては利点となりうるだろう。


 ただそれは『己の器と霊力で完璧に御せる程度の呪具』である場合に限る。退魔師に対して呪具の力が強すぎると、人体への封印は弊害しか生まない。


 その最たる物が、呪具の暴走だ。


 肉体の内に呪具がある間、呪具が帯びた力と退魔師の霊力の器を満たす霊力は同化している。つまり器を満たしていた本来の霊力に加えて呪具が帯びている力が追加で器に注がれるということだ。


 その人がどれだけの霊力を身に溜めておけるかという器の大きさは、生まれついた資質で決まっている。修行を積めば多少は大きくできるかもしれないが、それも微々たるものだ。


 大きさが決まっている器にそれ以上の水を注げば溢れてしまう。それと同じように、退魔師の力量に対して力が強すぎる呪具を身に収めようとすると、退魔師側がその力を押さえきれず、呪具ともども呪力を暴走させることになる。呪具だけではなく退魔師の力までもが上乗せされるこの暴走……『壊器かいき』は、大きな災厄の元となりかねない代物だ。


 ──ただ、壊器一歩手前で踏み留まれれば、取り込んだ呪具の力を利用し、一足飛びに己の力量以上の力を手に入れることも可能ということ。


 魏浄祐は技量にこそ優れていたものの、ここまで莫大な炎気を保有してはいなかった。


 魏浄祐が周囲に見せつけるかのような炎術を使い始めた時期は、呪具保管庫から煉帝剣が消えた時期と一致する。その証拠は慈雲と薀老師が確保しているし、各所からの証言は明顕めいけんふう民銘みんめいが集めてきた。それらを盾にひとまず魏浄祐を詮議にかけることはできるはずだ。


 ──さらに言えば、今のこの戦いでヤツがボロを出す可能性も高い。


 涼麗は仕草で黄季と魏浄祐が交戦している先を示すと懐から匕首ひしゅを抜いた。頷いた慈雲も左の手のひらに右の拳を添え、何もない空間から偃月刀を引き抜く。


 ──何にしろ、黄季が勝利した瞬間に魏浄祐を確保。


 黄季が負けるなんてことは、最初から考えていない。涼麗の片翼を担うあの雛鳥が、あの程度の小物に負けるはずがないのだから。


 だからその瞬間を信じて、涼麗は呼吸を整える。


 その瞬間、だった。


 スッと目の前をうねる霧が引き、視界が戻ってくる。その引きが早いのは、この霧が自然発生したものではなく退魔術によって生み出された代物だからだろう。


 晴れた視界の先に、霧の中で戦っていた両者の姿がようやく飛び込んでくる。


 その姿が万人の目にさらされた時、中庭には大きなどよめきが広がった。




  ※  ※  ※




『実は僕も攻撃呪って苦手でさぁ』


 こう師父が何気なくそう呟いた瞬間、黄季おうきは内心で『嘘だぁっ!?』と叫んでいた。実際に声に出して叫ばなかったのは、単純に叫んでいられる余力がなかったせいである。


『結界術ってさ、固定された場所に呪力を通せば発動するじゃない? 術式だって固形物に展開させればいいんだし。『よし、退魔師になるぞ!』って決心するまで退魔術に接してこなかった僕でも、力の動かし方が想像しやすかったんだよね』


 身を裂こうとする風の刃を呪力を通した紫鸞しらんで断ち切り、体にぶつかりそうな術は身に纏わせるように展開した防護の結界でしのぐ。


 その方法は煌師父に言葉で説明された物ではなく、ズタボロに叩きのめされる中で己で考え出した方策だった。


『攻撃呪ってさ、それに比べると不定形だし、基本的に飛び道具みたいな物じゃない? どうやって形を保たせればいいのか、よく分からなくてさ』


 避けてばかりでは埒が明かないと気付いたのは、指導が始まった翌日のことだった。


 黄季は紫鸞を振るいながら、隙を見て水弾や石礫を撃ち出したりもしていた。だがその全てはことごとく煌師父の細い杖に弾かれる。結界内で展開されていた暴風やら鎌鼬やら雷撃やらでも十分撃ち落とせただろうにあえて己の元まで貫通させていたのは、呪力を通した杖で軽々と黄季の攻撃を撃ち落とす様を見せつけるためだったのだろう。できればそれは指導の一環であって、煌師父の嗜虐心から来る所業ではなかったと信じたい黄季である。


『だから僕、考えたんだよね。って』


 それが『呪力を通した武器で直接相手に殴りかかる』という方法であったらしい。


 本来、退魔師同士が退魔術を以って交戦する時、主武器となるのは攻撃呪だ。武具の形をした呪具は、あくまで術を繰る補佐的道具という認識がされている。


 攻撃呪で相手を叩き、結界術で相手の攻撃を防ぐ。


 退魔術に優れた者同士の立ち合いだと、双方一歩もその場を動くことなく決着が着くこともあるのだという。


 煌師父が考え出した方法は、その『常識』とも言える立ち合いを根底から引っくり返す代物だった。


 曰く。


『だって退魔師って、普段から退魔用の武具を現場で振るってるわけじゃない? それを本気のぶつかり合いで使わないって、むしろ相手に失礼じゃない?』


 強力な結界術は、硬い。硬い盾で相手を殴れば、それは立派な攻撃と言える。


 鋭利な盾を以って相手の攻撃を両断し、強固な盾を以って相手を押し潰す。


 それが現役時代の煌師父の戦い方であったらしい。


 ちなみに煌師父は後翼こうよく退魔師であったらしいが、相方の前翼ぜんよく退魔師よりよほど前線を立ち回っていたという話だ。相方だった退魔師は大変な気苦労を抱えていたのだろうな、というのが黄季の正直な感想である。まだ元相方が泉仙省せんせんしょうに所属しているならば全力で労ってあげたい黄季だ。


『黄季君の武芸は、人目に触れなければ振るっても問題ないわけでしょう? この方法ならば、純粋な呪術技量勝負ではなく、呪術と武力の総力戦に持ち込める。おまけに『呪術』の範囲には攻撃呪ではなく結界術が転用可能だ。それだけで黄季君の利は格段に上がったんじゃないかな?』


『まぁ、その方法の具体的な所は自分で考えてね? 僕じゃよく分からないし。さてじゃあもう一段階威力を上げようか』と続けられた辺りで、この時の黄季の記憶は途切れている。次に目を覚ました時にいたのは、中庭の土の上だったか、医局の寝台の上だったか、それさえも覚えていない。


 ただ、その時の教えは、しっかりと黄季の中に残った。


「『氷柱茨ひょうちゅうし』っ!!」


 濃霧で視界が効かなくても浄祐の動きは気配で追えている。


 一旦距離を取って炎術を練ろうとする浄祐に黄季は氷の刃を叩き付ける。幾重にも放たれた氷の小刀達は浄祐の炎術を蹴散らすとさらに浄祐を後ろに退けた。炎術にあぶられて蒸発した氷が霧となり、さらに黄季と浄祐の間の霧を濃くする。


 その霧を払おうとするかのように、霧の向こうから不意に火柱が上がった。さらに周囲を舐めるように炎の大蛇があぎとを剥いて黄季に襲いかかるが、黄季は退くことなく逆に大蛇の顎の中に突っ込んでいく。琥珀の煌めきを宿した紫鸞が翻り、大蛇は顎先から火の粉となって霧の中へ消えていく。


「……っ、なぜだっ!!」


 さらにその先へ紫鸞とともに突っ込めば、苦さを隠しきれていない呻き声とともに手元に手応えが走った。両腕に力を込めて押し込めば、すぐ目の前に怒りに歪んだ浄祐の顔が見える。


「なぜお前ごとき雛鳥が……っ!!」

「雛は雛でも、ちょっと曰くのある雛なんで」


 紫鸞を止めていた矛の柄を、黄季は手首の返しで払う。さらにそのまま突きの構えを取ったが、浄祐もそう簡単に首を取らせてはくれない。反動を利用して素早く後ろに下がった浄祐は、黄季の間合いから抜け出すと矛の切っ先を黄季に据え直す。


 そんな浄祐を、黄季は深追いしなかった。冷静に紫鸞を構え直し、浄祐の出方を窺う。


 ──このままの流れを維持できれば、しのぎ切ることはできる。


 現状、浄祐の攻撃呪は黄季に有効打を入れられていない。結界術だけならば黄季でも浄祐に張り合うことはできそうだ。


 対して黄季からの攻撃は、単純な攻撃呪そのものは効いていないが、紫鸞による物理攻撃はきちんと届いている。浄祐の矛も確かに実戦で鍛えられた腕前ではあるが、黄季の脅威になるほどのものではない。


 ──魏上官の武術の腕前は、今までの撃ち合いで大体分かった。


 この戦いは時間をかければかけるほど黄季に不利だ。今の浄祐は黄季の『未知数』な部分に圧倒されて戸惑っている節があるが、その未知数は時間をかければいずれ解明されてしまう。攻撃呪の直接的な撃ち合いではなく、呪力を通した武具を使った実質斬り合いであることも、黄季の剣の型も、両方ともだ。


 ──多分、ある程度まで本気になっても、死にはしない技量はある。


 ならば戸惑っていてくれている間に片を付けてしまうべきだ。


 黄季はスッと息を吸い込むとダンッと前へ踏み込んだ。そんな黄季の動きを向こうも把握しているのか、視界を赤い閃光が焼き、今までにも増して苛烈な火柱が立ち上がる。


「……っ!」


 構えた紫鸞が一際強く光を発した。防護の結界の強度を上げながら、黄季はそのまま浄祐に突っ込むと、さらに一重、浄祐の身を包み込み炎術を押し潰す形で封じの結界を発動させる。


「っ、ラァァアアアアアッ!」


 黄季が何をしようとしているのか察した浄祐が炎の向こうで目を見開く。それを真正面から見据えたまま、黄季は裂帛の気合とともに浄祐の手から矛を弾き飛ばす。


「──────っ!!」


 浄祐から迸った怒号は言葉の形を成していなかった。その怒号ごと浄祐を基点に展開された隔離結界を閉じた黄季は、さらに結界範囲を縮小していく。


 黄季に向かって放たれたはずである炎術は全て結界に弾かれ、浄祐の身を押し包む。とっさに術の行使を止めても、それまでに形を得ていた焔は小さく閉じられた世界の中で浄祐自身の身を焼いているはずだ。


「これでっ!!」


 地脈から吸い上げた霊力をこれでもかと言わんばかりに注ぎ込んだ結界は、浄祐にも破れなかったらしい。


 浄祐はとっさに炎術の行使を止めると、己に向かって跳ね返った炎術を相殺すべく水術を練り始める。


 そんな浄祐に向かって黄季は紫鸞の切っ先を突き立てた。


「終わりっ!!」


 術を防ぐだけで手一杯な浄祐は正面から加えられた物理攻撃に為す術もなく後ろへ倒れ込んだ。紫鸞の切っ先が結界を破り、炎も水も形を成していなかった霊力も全てが弾け飛ぶ。


 その渦が周囲の霧を薙ぎ払っていく中、黄季は振り上げた右足で浄祐の胸元を踏み付けると、浄祐の体に突き刺さる直前で寸止した紫鸞の刃を改めて浄祐の喉元に突き付けた。長い房飾りを右手に巻きつけるように纏めて柄のギリギリまで袂の中に突っ込んで隠してしまえば、目の前にいる浄祐ですら黄季が手にした刃の正体は分からない。


 もっとも、己が召喚したはずである炎に手酷く捲かれた浄祐に、そんなことを気にしていられる余裕などないはずだが。


「俺の勝ちです、魏上官」


 黄季が静かに言い放った瞬間、中庭を囲っていた退魔師達の声にならないどよめきが空気を揺らした。


 濃霧に撒かれていた彼らには、黄季と浄祐の間でどんな戦いが繰り広げられたかは分からないはずだ。


 ただ、今、浄祐が地に伏していて、その上から黄季が剣の切っ先を浄祐の喉元に据えている。完全に浄祐は反撃の手段を封じられ、黄季に生殺与奪の権を握られている。


 この状況を見れば、どちらが勝者であるかは誰の目にも明白だ。


氷柳ひりゅうさんの相方は、この俺です。誰にも文句なんて言わせない」


 黄季の言葉に、浄祐の瞳がようやく黄季に焦点を結んだ。ギリッと浄祐の歯が軋むが、結果はもう変わらない。


 それを示すように、うん老師の声が鋭く響いた。


「勝者、ばん黄季っ!! この結果を以って、てい涼麗りょうれいは鷭黄季の相方とするっ!!」


 その宣誓にわっと歓声が上がった。同期や近しい先輩が黄季のどんでん返しに快哉を叫んでいるのが顔を上げなくても分かる。


 本来ならば、黄季はその声に応えるべきなのかもしれない。


 だが。


 ──……何だろう、この胸騒ぎ。


 退魔師としての勘というよりも、武術家としての勘、なのかもしれない。


 妙な胸騒ぎを覚えた黄季は、手にした紫鸞にキリッと力を込めながら踏みつけた浄祐に意識を集中させた。切っ先の位置は動かさないまま、動きを封じるために載せた右足に力を込める。


 その瞬間、うっすらと開いた浄祐の唇から低く呪詛めいた声がこぼれた。


「……なぜ」


 黄季にしか聞こえていないであろう声に黄季は警戒を強める。そんな黄季の気配に気付いたのか、匕首ひしゅを抜いた氷柳と偃月刀を構えた慈雲じうんがこちらに向かって足を踏み出したのが気配で分かった。


 その気配を上書きする勢いで、ザワリと周囲の空気が揺れる。


「なぜ、お前ごときにこの私が……っ!!」

「っ!!」


 その揺れが先程までの比ではない熱を帯びていることに気付いた黄季は、反射的に跳ねるように後ろへ下がっていた。その後を追うかのように浄祐を中心に熱波が走る。ゴッと耳鳴りを伴いながら広がった熱波は、黄季が見ている前で強烈な陽炎かげろうを生み、あっという間に地面を溶かした。


「っ!? 黄季っ!!」


 近い場所から氷柳と慈雲の声が重なって響く。


 その声を聞いた黄季はさらに後ろへ跳ねながら手にしたままだった紫鸞を地面に向かって一閃した。


「下がってっ!!」


 紫鸞が引いた線を基点に結界が立ち上がった瞬間、押し寄せようとしていた熱波が結界面で弾かれる。本来空気には形も色もないはずなのに、熱された空気が光を曲げているのか、結界面を境に向こう側の空間は空気が赤みを帯びて見えた。


「チッ! 壊器かいきしやがったか……っ!!」


 結界を立ち上げてからさらに数歩後ろへ下がった黄季の隣に慈雲が並ぶ。その反対側には氷柳が並んだ。


 そんな二人が険しい顔をしていることに気付いた黄季は、結界の向こう側にいる浄祐に視線を据えたまま声を上げる。


「壊器って、魏上官がですかっ!? こんなんになるなんて、一体何を……っ!」

「魏浄祐は、煉帝剣を体内に入れていた疑惑があった」


 黄季の声に答えたのは氷柳だった。黄季を庇うように一歩前に立ち、匕首を構えた氷柳は、溶けた大地の上に立つ浄祐にひたと視線を据えている。


「お前の勝利宣言とともに私と慈雲で確保するつもりだったが……一歩遅かったようだな」

「一歩どころか二歩も三歩も遅かったな」


 そんな氷柳の隣に慈雲が並ぶ。右腕一本で長大な偃月刀を肩に担ぎ上げた慈雲の横顔には焦りが垣間見えた。


「さっさと取り押さえねぇと、王宮が溶岩の海に沈むぞ」

「分かっている」


 短く答える氷柳の横顔に表情らしき表情はない。だが氷柳をしてもこの惨状は容易く解決できるものではないのか、前を見据えた瞳には微かに苦い感情が浮いていた。


「こうなったら封印よりも破壊を目的とした方がいい。煉帝剣に魏浄祐の霊力と思惑が乗って暴走したのだとしたら、煉帝剣そのものを相手にするよりも厄介だ。下手に手心を加えていればこちらが喰われる」

「ごもっとも?」


 慈雲は苦味や焦りを吐き出すかのようにあえて茶化すような言葉で答えた。その言葉を受けた氷柳は、逆にその苦味を吸い込んだかのように瞳に浮いていた感情をかき消す。


 そんな二人に向かって黄季が叫んだ。


「結界が限界ですっ!! 破れますっ!!」

「んじゃ、各々我が身を守ることを最優先に、煉帝剣と同化した魏浄祐の撃破を狙うということで」


 慈雲の自棄やけっぱちとも言える気軽な声とともに黄季が引いた結界は破れた。同時に黄季は自分達三人を個別に守る防護の結界を展開する。そんな黄季に慈雲の視線が一瞬向いたが、慈雲はそのまま何も言わずに浄祐に向き直った。氷柳に至っては黄季の行動は当然のものとして一瞥たりとも黄季に向けはしない。


「『爆華ばっか』」


 その一瞬の間に氷柳は左腕を振りかぶって柳葉りゅうよう飛刀ひとうを繰り出していた。飛刀を打つと同時に呪歌を口ずさんだ氷柳の求めに応じ、宙にある内から互いを燐光で結びあった飛刀は、浄祐を間合いに引き込んだ瞬間白銀の燐光を炸裂させる。


「『乱連らんれん』っ!!」


 だがその閃光は炸裂するよりも早くユラリと蠢いた熱波に飲まれた。氷柳が編んだ退魔術が、形になるよりも早く熱源に飲まれて霊力ごと揉み消される。


「……っ!!」


 それを見た慈雲が偃月刀を構えて浄祐の元に飛び込む。


 だが慈雲の刃が浄祐に届くよりも、ヒトとしての形を失いつつある浄祐がユラリと宙を見上げて叫びを上げる方が早かった。


『──────っ!!』

「……っ、ぅ……っ!!」


 元より熱が空気を歪めていて、もはや浄祐の姿はまともに黄季達に見えてはいない。それでも最初は人型に見えていた影が徐々に徐々に姿を崩していることは分かる。


 その影が天に向かって上げた咆哮は、熱と衝撃波を伴った『災害』だった。


 聴覚と言わず、触覚と言わず、その音で周囲の存在全てを焼き払おうとするその波から自分達を守るために、黄季は全ての力を展開した結界に注ぐ。さしもの氷柳と慈雲もそれは同じだったのか、二人の意識も攻から守へと切り替わった。


 それは一瞬だけ生じた、確かな隙だった。


 その瞬間を狙っていたかのように、熱の中心にいた影が弾ける。一条の黒い閃光と化した影は、ジグザグと進路を変えながら慈雲の傍らを通り過ぎ、氷柳に襲いかかった。


「っ!?」

「っ、氷柳さんっ!!」


 ヒト一人丸ごと飲み込む大きさの影が目にも止まらぬ速さから繰り出した体当たりに氷柳は為す術もなく跳ね飛ばされる。影はさらに氷柳に追いすがると、氷柳を顎に引っ掛けるように掬い上げた。そのまま氷柳をぶら下げた影はさらに動きを速め、地面や壁の間を弾かれているかのように移動していく。


 その間に影は、一匹の獣に姿を変えた。


「っ、虎……っ!!」


 溶岩の海と化した中庭を飛び回り、周囲の壁をも自在に駆け巡り、最終的に泉仙省の屋根の上に着地した影は、煉獄の炎を従えた漆黒の虎の姿を得ていた。


 そのあぎとに、氷柳が捕らわれている。黄季の防護結界がきちんと機能していたのか怪我こそないようだが、氷柳の動きは完璧に虎に押さえられていた。


「氷柳さんっ!!」


 黄季が絶叫する先で、虎が姿を崩す。


 影が虎から浄祐へ姿を変えていく過程で伸びた腕が氷柳の喉にかかり、氷柳の体はユラリと宙吊りにされた。氷柳は抵抗しているようだが、虎の突撃で受けた衝撃と、その後顎に囚われたまま宙を振り回された負荷は氷柳の脳を揺らし、体の自由を奪っているらしい。氷柳の右手から匕首が滑り落ち、首を掴む手に抗うために掛けられた左手からは徐々に力が抜けていく。


 その光景が見えているはずなのに、浄祐は氷柳の喉を締め上げる右手の力を緩めなかった。それどころか逆に右腕の高く掲げ、かろうじて爪先がついていた氷柳の体を右腕一本で完全に宙に吊り上げる。もはや人間の膂力でできることではない。


「お前さえ、手に入れば……っ!!」


 ヒトであることをやめた浄祐は、怨嗟の声を上げていた。


 遠く離れた場所にいるのに、その声が黄季にまで届いた。


「お前さえ手に入れば、あの方がっ!! お前さえっ!! お前さえお前さえあの方が私をっ!! 私がっ!! 私をぉぉぉおおおっ!! ああああああああああっ!!」


 ──何でもいい。とにかく氷柳さんを助けないと……っ!!


 浄祐の叫びはもはや意味を成していないし、黄季にとってそんなことはどうでも良かった。


 このままでは氷柳の命が危ない。そのことだけしか今の黄季には考えられない。


 ──飛び乗ろうにも高さがありすぎるっ!! 攻撃呪で狙うには的が遠すぎるし……っ!!


「黄季っ!!」


 焦りと怒りに思考が焼ける。


 その瞬間、聞き慣れた声とともにフッと頭上に影が差した。反射的に顔を上げれば、黄季の頭上に弓と矢筒が舞っている。


「使ってっ!!」


 溶岩の海の向こうから黄季に向かって民銘みんめいが己の呪具である弓矢を投げて寄越していた。


 黄季は考えるよりも早く紫鸞を鞘に納めると弓に手を伸ばしていた。左手に弓が収まった瞬間、右手はいまだ宙を舞っている矢筒から矢を引き抜き、弦に番えている。


「黄季お前、この距離から頭上の的を狙うつもりかっ!?」


 目一杯引き絞った弦がキリキリと悲鳴を上げていた。それに構わず黄季はさらに弦を起こし、やじりの先を屋根の上に向ける。


 その段階になってようやく黄季が何をしようとしているのかが理解できたのか、慈雲が裏返った声を上げた。


「的が遠いし小さすぎるっ! 少しでもずれたら涼麗りょうれいに当たる可能性だってあるんだぞっ!? いくらお前でも……っ!!」

「外しません」


 スルリと喉からこぼれ落ちた声は、いっそ場違いなくらいに静かだった。こんなに冷静な声が出たのは、ここまで生きてきた中で初めてかもしれない。


が巻き起こす風は、絶対です」


 しん、と凪いだ心が感じるがまま、黄季は的を見据えた。その瞬間、うっすらと開いた氷柳の目が黄季を捉える。


 こんなにも距離があるのに、確かに視線が合った。


 その瞬間、祈りにも似た宣誓の声はスルリと黄季の喉から滑り落ちる。


らんの風に従わざる物、この世にぞなき」


 キュインッと、鳥の鳴き声にも似た弦音が、その言葉を蹴散らす。


 その音に誘い出されるかのように、黄季は矢の行方を見守ることなく前へ踏み出していた。溶岩の海の上に橋のように結界を渡し、ただ我武者羅に前へ突っ走る。


「黄季っ!!」


 そんな黄季の動きを読んでいたかのように、黄季が目指す先に明顕めいけんが滑り混んできた。黄季に向き合う形で壁際に立った明顕は、組んだ両手を腹の前で構えると腰を落とす。


「跳べっ!!」

「っ!!」


 黄季は勢いを殺すことなく明顕の元に突っ込むと、勢いのまま明顕の手に足を載せてグッと全身を縮めた。黄季の踏み込みに見事に息を合わせてみせた明顕は、黄季が全身のバネを使って跳び上がる瞬間に黄季の体を宙へ跳ね上げる。


 フワリと鳥のように舞い上がった黄季は、まずひさしの部分に足をかけた。さらにそこから縦の回転を利用して上へ跳躍、二階の屋根の部分に手をかけ、さらに壁を蹴った勢いを利用して屋根の上まで跳ね上がる。


「キ、サマ……ァッ!!」


 ダンッ、と重い着地音とともに顔を上げれば、屋根のむねの上に浄祐と氷柳はいた。


 黄季が射た矢は氷柳の喉を締め上げていた浄祐の腕に突き刺さったらしい。深々と矢に射抜かれた腕を震える左手で庇うように抱いた浄祐は、怒りに燃える瞳で黄季を睨み付けている。


「っ!!」


 その足元にくずおれたまま咳き込んでいる氷柳の姿を見つけた黄季は、背に負った紫鸞を抜くと無音の気合とともに浄祐に斬りかかる。最早呪力を通しているような心の余裕はなかった。完全に武術頼みの攻撃を浄祐は後ろに下がることで避ける。


「……俺が『鷭』でいられる間に、あんたは諦めとくべきだったんだ」


 空いた空間に割って入った黄季は、氷柳を背に庇うように立つと背に負った布包みから紫鸞の鞘を抜いた。改めてその鞘を帯の間に差し込み、鬱陶しい布包みを剥ぎ取って吹き荒れる風に任せるように宙へ投げ捨てる。


「俺が何もかもを投げ打って、総力戦であんたを亡き者にしたくなる前に、投降しておくべきだったんだ」


 同じ風に、柄を彩る紫藍色の房と水晶の飾りが揺れる。空が近くなった分強くなった光に、鞘を彩る極彩色の鳥が誇らしく輝いていた。


 その彩色を目に止めた浄祐が、凍りついたように動きを止める。


「お前、その剣は……っ!!」


 一瞬、怒りさえ忘れたかのように浄祐が震える声を上げた。


 そんな浄祐の前で、黄季は己に継承された愛剣を構える。


「あんたの家にもあったはずだ。五獣たる証、『萬亀』を刻んだ証の剣が。……それとも家は、獣たることをやめた時に剣も折ったか?」


 黄季の挑発の言葉に、背後から息を呑む声が聞こえたような気がした。


 それでも黄季はもう止まれない。止まりたくない。


「父の名を紫鳳しほう、祖父はかつて五大将軍筆頭を努めたらん紫彩しさい。本来継ぐべきはずであった名は『紫藍しらん』」


 ユルリと構えた剣の手元で、霊獣たる鸞の羽を思わせる飾りが揺れる。


 その類を見ない美しい体で空を舞えば、他の霊獣さえも見惚れずにはいられなかったという伝説の神獣。


 その名を冠する最後の人間として、黄季は初めて名乗りを上げる。


「かつての五獣筆頭・鸞家が末裔、最後の黒雛くろひな、麒麟児と呼ばれた鸞の寵児」


 本来それは、黄季が墓に入るまで秘めておかなければならなかった名乗りだ。家族の誰もが黄季がこの名乗りを口にしないまま生涯を終えることを望んでいた。 


 それを知っていながら黄季があえてこの名乗りを口にしたのは、絶対に引けない意地があったからだ。


 同じ五獣の生き残りとして。同じ退魔師として。


 大切な存在ヒトを、踏みにじられた者として。


 絶対にを許せないと思ってしまったからだ。


 その決意を以って、黄季は紫鸞の切っ先を魏浄祐だったモノに向けた。


「我が全てを以って。……あんたはここで、俺が降す」

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